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'''歴代の紅白司会者の中で、紅組・白組・総合の全ての司会を担当したのは宮田のみである'''。 |
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1955年・1956年に男性の立場で初めて紅組司会を担当。これは1955年の際、この年よりテレビ放送を開始したラジオ東京テレビ(現:[[TBSテレビ]])が紅白のスタイルをそのまま流用した『[[オールスター歌合戦]]』を紅白の[[裏番組]]にぶつけるにあたり、紅白に先駆けて有力な人気歌手([[美空ひばり]]・[[雪村いづみ]]・[[春日八郎]]・[[林伊佐緒]]など)との間に番組出演につき独占契約を締結したことから、紅白への出場が出来ない歌手が続出し、番組の存亡の危機に立たされた末の苦肉の策、番組の人気維持の最後の切り札という意味合いが強いものであった<ref>[[合田道人]]『紅白歌合戦のウラ話』,53頁。</ref><ref>宮田・[[高橋圭三]](同期)の両組男性司会で舌戦を展開し、『オールスター歌合戦』に対抗する試み。</ref>。1956年の紅組司会担当時には、観客から「 |
1955年・1956年に男性の立場で初めて紅組司会を担当。これは1955年の際、この年よりテレビ放送を開始したラジオ東京テレビ(現:[[TBSテレビ]])が紅白のスタイルをそのまま流用した『[[オールスター歌合戦]]』を紅白の[[裏番組]]にぶつけるにあたり、紅白に先駆けて有力な人気歌手([[美空ひばり]]・[[雪村いづみ]]・[[春日八郎]]・[[林伊佐緒]]など)との間に番組出演につき独占契約を締結したことから、紅白への出場が出来ない歌手が続出し、番組の存亡の危機に立たされた末の苦肉の策、番組の人気維持の最後の切り札という意味合いが強いものであった<ref>[[合田道人]]『紅白歌合戦のウラ話』,53頁。</ref><ref>宮田・[[高橋圭三]](同期)の両組男性司会で舌戦を展開し、『オールスター歌合戦』に対抗する試み。</ref>。1956年の紅組司会担当時には、観客から「「テルテル坊主は女か!」!」といった趣旨の野次や怒号が宮田に対して頻繁に飛び交い、それらの野次は番組の進行に支障を来たす程の酷さであったという。これらも一因となってその後、男性の紅組司会は[[2007年]]の[[中居正広]]([[SMAP]])まで存在しなかった。 |
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宮田は白組司会を[[1953年]]正月・、[[1962年]] - [[1967年]]の6年連続、[[1970年]] - [[1973年]]の4年連続と通算11回務めているが、この'''通算11回の白組司会という記録は紅白史上最多記録である'''。また、紅組司会・総合司会も合計すると紅白の司会は通算15回となり、紅組・白組・総合司会に拘らない形での記録も史上最多となっている。1962年・第13回 - 1973年・第24回までの12年連続司会も連続司会の最多記録である。 |
宮田は白組司会を[[1953年]]正月・、[[1962年]] - [[1967年]]の6年連続、[[1970年]] - [[1973年]]の4年連続と通算11回務めているが、この'''通算11回の白組司会という記録は紅白史上最多記録である'''。また、紅組司会・総合司会も合計すると紅白の司会は通算15回となり、紅組・白組・総合司会に拘らない形での記録も史上最多となっている。1962年・第13回 - 1973年・第24回までの12年連続司会も連続司会の最多記録である。 |
2020年5月4日 (月) 10:13時点における版
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みやた てる 宮田 輝 | |
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プロフィール | |
本名 |
宮田 輝 みやた あきら |
出身地 |
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生年月日 | 1921年12月25日 |
没年月日 | 1990年7月15日(68歳没) |
血液型 | B型 |
最終学歴 | 明治大学 |
職歴 | 元NHKアナウンサー |
活動期間 | 1942年 - 1990年 |
出演番組・活動 | |
出演経歴 |
『NHK紅白歌合戦』 『のど自慢素人演芸会』 『三つの歌』 『思い出のメロディー』 『宮田輝の日本縦断 ふるさと』 |
宮田輝 みやた てる | |
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生年月日 | 1921年12月25日 |
没年月日 | 1990年7月15日 |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 明治大学 |
所属政党 | 自由民主党 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1974年 - 1990年 |
略歴
1942年9月に明治大学卒業。同年NHKに入局。同期には高橋圭三がいる。 NHK名古屋放送局勤務を経て東京アナウンス室に配属。 ラジオの報道番組担当を経て1949年からはライバル・高橋の後任として﹃のど自慢素人演芸会﹄︵現‥﹃NHKのど自慢﹄︶の司会を担当。 1952年スタートの﹃三つの歌﹄でも司会。 ﹃NHK紅白歌合戦﹄では、1953年1月・第3回、過去2回の担当者で先輩の藤倉修一の海外出張に伴うピンチヒッターとして白組司会を初めて担当。以来1973年まで通算15回に渡って紅組・白組・総合の全ての司会を担当した。 1966年からは全国各地を巡回し、毎回ゲストと共にその地方の郷土芸能や独自の文化などを紹介する公開番組﹃ふるさとの歌まつり﹄[1]を企画、司会を担当。郷土芸能の保存やふるさと再発見にも寄与したとして評価され、宮田の穏やかでユーモラスな進行と活き活きと郷土への思いを語る各地の出演者の魅力も相まって、18年間に及ぶ長寿番組となった。また、この番組冒頭の挨拶﹁おばんでございます﹂というフレーズは当時流行語になった。初回放送は鹿児島県国分市︵現・霧島市︶からの中継だった。 1967年には﹃ふるさとの歌まつり﹄の企画、司会が認められ、第15回菊池寛賞を受賞した[2]。 1974年にNHKを退職。同年の参議院選挙に自民党から立候補しトップ当選を果たす。 1978年、第1次大平内閣で農林水産政務次官に就任。 また、フリーの立場で民放テレビ局にも進出し、全日本有線放送大賞などで司会を務めた。 1988年頃より癌のために体調を崩すようになる。 1990年7月15日、議員在職中のまま慶應義塾大学病院にて68歳で死去した。参議院本会議場での哀悼演説は10月12日、日本社会党の一井淳治が行った。墓所は青山霊園[3]。エピソード
1960年代後半、当時登場したばかりの家庭用VTR︵オープンリール式、モノクロ︶を所有しており、主に宮田自身が出演したNHKの番組を録画し、保存していた。当時、放送用ビデオテープやフィルムが高価な上、アーカイブを収録したビデオテープは課税対象だったため、NHKでは一部を除いて番組保存が行われなかった。宮田は、NHKに保存されていなかった1960年代後半から1970年代前半の﹁NHK紅白歌合戦﹂や、﹁思い出のメロディー﹂、﹁ふるさとの歌まつり﹂の映像を提供している。当時カラーで放送された番組の多くが、モノクロで現存しているのは、そのためである。﹃紅白歌合戦﹄は放送時間が長いため、他所からもう1台VTRを借り、夫人が2台を交互に使用しノーカットで録画していた。 ビートルズが出演したことで今なお知られる、衛星中継テレビ番組︵当時は﹁宇宙中継﹂と呼ばれていた︶﹁われらの世界﹂の日本進行役をつとめた。宮田は﹃愛こそはすべて﹄の演奏シーンの冒頭﹁こちらはロンドン、今ビートルズが新しい曲をレコードに吹き込んでおります﹂と曲紹介している。 歴代の紅白司会者の中で、紅組・白組・総合の全ての司会を担当したのは宮田のみである。 1955年・1956年に男性の立場で初めて紅組司会を担当。これは1955年の際、この年よりテレビ放送を開始したラジオ東京テレビ︵現‥TBSテレビ︶が紅白のスタイルをそのまま流用した﹃オールスター歌合戦﹄を紅白の裏番組にぶつけるにあたり、紅白に先駆けて有力な人気歌手︵美空ひばり・雪村いづみ・春日八郎・林伊佐緒など︶との間に番組出演につき独占契約を締結したことから、紅白への出場が出来ない歌手が続出し、番組の存亡の危機に立たされた末の苦肉の策、番組の人気維持の最後の切り札という意味合いが強いものであった[4][5]。1956年の紅組司会担当時には、観客から﹁﹁テルテル坊主は女か!﹂!﹂といった趣旨の野次や怒号が宮田に対して頻繁に飛び交い、それらの野次は番組の進行に支障を来たす程の酷さであったという。これらも一因となってその後、男性の紅組司会は2007年の中居正広︵SMAP︶まで存在しなかった。 宮田は白組司会を1953年正月・、1962年 - 1967年の6年連続、1970年 - 1973年の4年連続と通算11回務めているが、この通算11回の白組司会という記録は紅白史上最多記録である。また、紅組司会・総合司会も合計すると紅白の司会は通算15回となり、紅組・白組・総合司会に拘らない形での記録も史上最多となっている。1962年・第13回 - 1973年・第24回までの12年連続司会も連続司会の最多記録である。 1970年の紅白で、白組出場歌手の橋幸夫は当初﹁俺たちの花﹂を歌う予定だったが、宮田が本番中に曲目を﹁いつでも夢を﹂に変更し、歌うことを持ちかけた。橋は着物姿であったため、﹁いつでも夢を﹂のイメージに合わず戸惑っていたが、宮田は﹁着物だってなんだっていいって。中身がよけりゃ﹂といって橋を説得した。結局、﹁いつでも夢を﹂が歌われることになった。このように当時の紅白は、現代紅白ではありえない演出やアドリブが極当たり前のように行われていた。 退職直前の頃には管理職になっており、NHKの労働組合がストライキなどに突入した場合、同労組に加入しているアナウンサーは受け持っている番組に出演できないことから、管理職でもある宮田が突然それらアナウンサーの担当番組に代理として登場することも度々あった。既にNHKナンバーワンのスターアナウンサーであったにもかかわらず﹃きょうの料理﹄のアシスタントも当時担当していた入局わずか数年の若手アナウンサーの代理として数度務めたことがあるという。出演番組
※特記のない限りはNHKの製作・放送。ビブリオグラフィ
著書
●おばんです︵1971年、毎日新聞社︶ ●お国じまんの唄150 : 民謡でつづる日本の心︵1974年、産報︿Sanpo books﹀︶ ●結婚披露宴の司会 : 心得と進め方︵1978年、梧桐書院︶ ●宮田輝の心のかよう話し方︵1980年、梧桐書院︶編著
●小京都100選︵1975年、秋田書店︶関連項目
●日本のアナウンサー一覧 ●タレント政治家脚注
議会 | ||
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先代 上條勝久 |
![]() 1982年 - 1983年 |
次代 大河原太一郎 |