後藤正夫
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後藤正夫 ごとう まさお | |
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生年月日 | 1913年6月18日 |
出生地 |
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没年月日 | 2000年1月29日(86歳没) |
出身校 |
旧制横浜高等工業学校卒業 (現横浜国立大学理工学部) |
前職 | 大分大学学長 |
所属政党 |
(新しい大分を創る会→) 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
親族 | 父・後藤文夫(内務大臣) |
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内閣 | 第1次海部内閣 |
在任期間 | 1989年8月10日 - 1990年2月28日 |
選挙区 | 大分県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1976年9月26日 - 1992年7月7日 |
後藤 正夫︵ごとう まさお、1913年6月18日 - 2000年1月29日︶は、日本の政治家、統計学者。参議院議員︵3期︶、法務大臣︵第50代︶を歴任した。位階は従三位。勲章は勲一等瑞宝章。
父は元内務大臣の後藤文夫。
来歴[編集]
大分県大分市生まれ。旧制横浜高等工業学校︵現‥横浜国立大学︶卒業。三菱鉱業︵現‥三菱マテリアル︶の技師、内閣技術院参技官、内閣調査局調査官、宮城県職員、内閣統計委員会事務局基準課長、行政管理庁統計基準部企画課長等を経て、1959年、行政管理庁統計基準局長に就任。1967年の退官まで務める。 退官後、1968年から8年間、大分大学学長を務める。 1976年、参議院大分県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で出馬。当時、自民党に対しロッキード事件の逆風が吹いていた中、対立する社会党・公明党候補[1]を破り初当選。以後、参議院議員を3期務める。 1989年、第1次海部内閣で法務大臣に任命され[2]、初入閣を果たした。在任中、1人の死刑囚に対し死刑執行を命令した。1991年、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律の審議のために設置された参議院国際平和協力等に関する特別委員会において委員長に就任。しかし﹁憲法との問題から見て、かなり無理をしているところがある﹂と言い残し、心労を理由に同年12月6日に委員長を辞任した。1992年の第16回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界を引退した。 2000年1月29日死去。享年86。従三位。エピソード[編集]
●後藤によれば、第二次世界大戦中、東条内閣の下で戦力計算室が設置され、ニューギニアの戦いにおける戦力の見積もりや部隊配置がオペレーションズ・リサーチ的な統計・計量的な面から研究されていた。しかし、東条英機首相が戦力計算室の視察を行った当日に、廃止が決定された[3]。受賞歴[編集]
●デミング賞︵1952年︶ ●日本オペレーションズリサーチ学会賞︵1978年︶ ●勲一等瑞宝章︵1990年︶脚注[編集]
- ^ 参院補選 奈良・大分で告示『朝日新聞』1976年(昭和51年)9月3日夕刊、3版、1面
- ^ “歴代内閣ホームページ情報:海部俊樹 内閣総理大臣(第76代)”. 首相官邸. 2021年5月8日閲覧。
- ^ OR昔ばなし 『オペレーションズ・リサーチ : 経営の科学』 42(6), P435-439, 1997-06-01
公職 | ||
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先代 谷川和穗 |
![]() 第50代:1989年 - 1990年 |
次代 長谷川信 |
議会 | ||
先代 設置 |
![]() 1991年 |
次代 下条進一郎 |
先代 増田盛 |
![]() 1983年 - 1984年 |
次代 平井卓志 |
先代 永野嚴雄 |
![]() 1979年 - 1980年 |
次代 亀長友義 |