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[[1932年]]︵昭和7年︶、[[近衛師団]]軍医部長に就任。[[1934年]]︵昭和9年︶、陸軍[[軍医総監]]︵[[陸軍中将]]相当官︶となり[[陸軍省#医務局|陸軍省医務局長]]に就任。[[1937年]]︵昭和12年︶、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。ちなみに、軍医中将は軍医としては最高位である。[[1940年]]︵昭和15年︶、[[勲一等旭日大綬章]]受章。[[1941年]]︵昭和16年︶、[[第3次近衛内閣]]で[[厚生大臣]]に就任、次の[[東條内閣|東條英機内閣]]でも留任した。
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2013年6月11日 (火) 01:35時点における版
小泉 親彦︵こいずみ ちかひこ、1884年︵明治17年︶9月9日 - 1945年︵昭和20年︶9月13日︶は、日本の政治家、陸軍軍医中将。
略歴
福井県出身。東京開成中学、旧制第六高等学校︵岡山県︶を経て、東京帝国大学医学部卒業。1921年医学博士。 1932年︵昭和7年︶、近衛師団軍医部長に就任。1934年︵昭和9年︶、陸軍軍医総監︵陸軍中将相当官︶となり陸軍省医務局長に就任。1937年︵昭和12年︶、官名が陸軍軍医総監から陸軍軍医中将に改められた。ちなみに、軍医中将は軍医としては最高位である。1940年︵昭和15年︶、勲一等旭日大綬章受章。1941年︵昭和16年︶、第3次近衛内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任した。 1945年︵昭和20年︶、連合国軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。 陸軍省医務局長在任中、大日本帝国陸軍で初めてBCG接種を実施し、結核予防に効果を挙げるなど、先駆的な人物として知られた。また、厚生省の設置にも尽力した。関連項目
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