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'''董 卓'''︵とう たく︶は、[[中国]][[後漢]]末期の[[武将]]・[[政治家]]。[[字]]は'''仲穎'''︵ちゅうえい︶。[[涼州]][[隴西郡]][[臨洮県]]の人。
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'''董 卓'''︵とう たく︶は、[[中国]][[後漢]]末期の[[武将]]・[[政治家]]。[[字]]は'''仲穎'''︵ちゅうえい︶。[[涼州]][[隴西郡]][[臨洮県]]の人。
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辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、[[少帝弁]]を廃して[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立し |
辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、[[少帝弁]]を廃して[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立した。一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた[[呂布]]に殺された。﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄[[魏 (三国)|魏]]志及び﹃[[後漢書]]﹄に伝がある。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 青年期と地方官時代 === |
=== 青年期と地方官時代 === |
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生まれつき武芸に秀で |
生まれつき武芸に秀で腕力が非常に強く、弓袋を馬の両側につけて馬を馳せながら左と右の両方の手で弓を引くことができたという。 |
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若いころは男伊達を気取って、[[羌]]族ら異民族の居住地を放浪し顔役らすべてと交流した。後に郷里に戻り農耕に従事したが、羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉で宴会を |
若いころは男伊達を気取って、[[羌]]族ら異民族の居住地を放浪し顔役らすべてと交流した。後に郷里に戻り農耕に従事したが、羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉で宴会を開きもてなした。族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。
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その後、郡の役人となり盗賊を取り締まった︵﹃呉書﹄︶。[[胡]]が侵入し略奪をし、多くの住民が拉致されたことがあった。涼州刺史の成就は董卓を[[従事]]に取り立て<ref>﹃後漢書﹄﹁董卓伝﹂では、董卓が[[州]]の兵馬掾になっていたときとある。</ref>、董卓に騎兵を率いて胡を討伐させた |
その後、郡の役人となり盗賊を取り締まった︵﹃呉書﹄︶。[[胡]]が侵入し略奪をし、多くの住民が拉致されたことがあった。涼州刺史の成就は董卓を[[従事]]に取り立て<ref>﹃後漢書﹄﹁董卓伝﹂では、董卓が[[州]]の兵馬掾になっていたときとある。</ref>、董卓に騎兵を率いて胡を討伐させた。董卓は大勝し、4桁の数の胡を斬ったり捕虜にしたりした︵﹃呉書﹄︶。
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[[并州]][[刺史]]の[[段熲]]は董卓を中央の役所に推挙し、[[司徒]]の[[袁隗]]は董卓を召聘し掾に取り立てた(『呉書』)。 |
[[并州]][[刺史]]の[[段熲]]は董卓を中央の役所に推挙し、[[司徒]]の[[袁隗]]は董卓を召聘し掾に取り立てた(『呉書』)。 |
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=== 涼州で牙を研ぐ === |
=== 涼州で牙を研ぐ === |
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[[中平]]元年([[184年]])、昇進して[[中郎将]](『後漢書』「董卓伝」によると持節・東中郎将)に任命され |
[[中平]]元年([[184年]])、昇進して[[中郎将]](『後漢書』「董卓伝」によると持節・東中郎将)に任命された。[[盧植]]の後任として[[黄巾の乱|黄巾]]賊の討伐に出るも敗退して、免職となった。 |
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同年冬、[[涼州]]で[[金城郡]]の[[辺章]]・[[韓遂]]らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年([[185年]])、董卓は再び中郎将に返り咲き、副[[車騎将軍]]の[[皇甫嵩]]と共に乱の追討に向かった(『後漢書』「董卓伝」)。後に皇甫嵩が罷免されると、司空の[[張温 (後漢)|張温]]が車騎将軍に任じられ[[執金吾]]の[[袁滂]]を副将とし、董卓は盪寇将軍の[[周慎]]と共にその指揮下に入った。このとき、破虜将軍に任命された(『後漢書』「董卓伝」)。張温・董卓ら後漢軍は諸郡の兵力10万を集め、美陽に駐屯した。辺章・韓遂の反乱軍が美陽に攻撃を仕掛けてくると不利に陥ったが、[[流星]]が流れ辺章・韓遂らの陣営を明るく照らしたため、これを不吉に思った辺章・韓遂らは金城郡へ撤退した。董卓と[[右扶風]]の[[鮑鴻]]らは辺章・韓遂らを追撃して、大いに破った(『後漢書』「董卓伝」)。 |
同年冬、[[涼州]]で[[金城郡]]の[[辺章]]・[[韓遂]]らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年([[185年]])、董卓は再び中郎将に返り咲き、副[[車騎将軍]]の[[皇甫嵩]]と共に乱の追討に向かった(『後漢書』「董卓伝」)。後に皇甫嵩が罷免されると、司空の[[張温 (後漢)|張温]]が車騎将軍に任じられ[[執金吾]]の[[袁滂]]を副将とし、董卓は盪寇将軍の[[周慎]]と共にその指揮下に入った。このとき、破虜将軍に任命された(『後漢書』「董卓伝」)。張温・董卓ら後漢軍は諸郡の兵力10万を集め、美陽に駐屯した。辺章・韓遂の反乱軍が美陽に攻撃を仕掛けてくると不利に陥ったが、[[流星]]が流れ辺章・韓遂らの陣営を明るく照らしたため、これを不吉に思った辺章・韓遂らは金城郡へ撤退した。董卓と[[右扶風]]の[[鮑鴻]]らは辺章・韓遂らを追撃して、大いに破った(『後漢書』「董卓伝」)。 |
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張温は周慎・[[孫堅]]らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で、董卓には羌族の攻撃を命じた。しかし、董卓は数万の羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧が欠乏してきたため、董卓は魚を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めて水を貯めて、[[堰]]の下を通って敵の包囲から抜け出してから |
張温は周慎・[[孫堅]]らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で、董卓には羌族の攻撃を命じた。しかし、董卓は数万の羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧が欠乏してきたため、董卓は魚を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めて水を貯めて、[[堰]]の下を通って敵の包囲から抜け出してから堰を切ったため、川の水深が深くなり敵は追撃できなかった。 |
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この戦いで |
この戦いで後漢軍の6つの部隊のうち5つは敗北したが、董卓の軍勢だけは大きな損害を受けず、扶風に駐屯した<ref>周慎の参軍に孫堅がいた。孫堅の進言を周慎が聞かなかったため周慎は敗退したが、董卓はこのことを聞き孫堅の人物を認め、警戒するようになったという。</ref>。董卓は斄郷侯となり、1000戸の領邑を受けた︵﹃後漢書﹄﹁董卓伝﹂︶。
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中平5年([[188年]])、張温の帰還後も韓遂らに備えて扶風に駐屯する董卓は[[前将軍]]に任命された。ちょうど、漢陽郡の[[王国 (後漢)|王国]]が挙兵し車騎将軍を自称し、韓遂や[[馬騰]]らと合流し強勢となった。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に王国の討伐に出動した。董卓は兵法通りの作戦を立てて皇甫嵩に進言を行ったが、皇甫嵩は反乱軍に対し臨機応変に対処し、それは董卓の進言の逆を突くものであった。その作戦で反乱軍に大勝した結果として功績は皇甫嵩に帰し、董卓の作戦は的を射ていないと言われてしまう始末であった(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。 |
中平5年([[188年]])、張温の帰還後も韓遂らに備えて扶風に駐屯する董卓は[[前将軍]]に任命された。ちょうど、漢陽郡の[[王国 (後漢)|王国]]が挙兵し車騎将軍を自称し、韓遂や[[馬騰]]らと合流し強勢となった。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に王国の討伐に出動した。董卓は兵法通りの作戦を立てて皇甫嵩に進言を行ったが、皇甫嵩は反乱軍に対し臨機応変に対処し、それは董卓の進言の逆を突くものであった。その作戦で反乱軍に大勝した結果として功績は皇甫嵩に帰し、董卓の作戦は的を射ていないと言われてしまう始末であった(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。 |
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小説『三国志演義』では、さまざまな脚色が施されている。 |
小説『三国志演義』では、さまざまな脚色が施されている。 |
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*黄巾の乱のときに敗走するところを[[劉備]]三兄弟に救われるが、義勇軍であり |
*黄巾の乱のときに敗走するところを[[劉備]]三兄弟に救われるが、義勇軍であり地位の低い劉備らを馬鹿にした態度を取る。 |
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*娘婿に悪逆な軍師[[李儒]]がおり、さまざまな進言をして董卓の悪事に加担する。 |
*娘婿に悪逆な軍師[[李儒]]がおり、さまざまな進言をして董卓の悪事に加担する。 |
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*董卓は大軍を率いて洛陽に現れ少帝を廃位し、献帝を即位させようとするが丁原が反発し戦闘状態となる。当初は丁原の元には呂布がおり、その武勇に手こずった董卓は呂布とは同郷で顔見知りの[[李粛 (騎都尉)|李粛]]から具申されて[[赤兎馬]]を贈呈して寝返らせる事に成功。呂布はその見返りに丁原を殺害して、董卓に帰順する。 |
*董卓は大軍を率いて洛陽に現れ少帝を廃位し、献帝を即位させようとするが丁原が反発し戦闘状態となる。当初は丁原の元には呂布がおり、その武勇に手こずった董卓は呂布とは同郷で顔見知りの[[李粛 (騎都尉)|李粛]]から具申されて[[赤兎馬]]を贈呈して寝返らせる事に成功。呂布はその見返りに丁原を殺害して、董卓に帰順する。 |
2024年6月13日 (木) 04:44時点における最新版
董 卓 | |
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後漢 相国・太師 | |
出生 |
永和4年(139年)?[1] 涼州隴西郡臨洮県 |
死去 |
初平3年4月23日(192年5月22日) 司隷京兆尹長安県 |
拼音 | Dǒng Zhuó |
字 | 仲穎 |
主君 | 桓帝→霊帝→少帝弁→献帝 |