「董卓」の版間の差分
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|王朝 = [[後漢]] |
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|称号・役職 = [[相国]]・[[太師]] |
|称号・役職 = [[相国]]・[[太師]] |
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|出生 = |
|出生 =生年不詳 |
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|出身地 = [[涼州]][[隴西郡]][[臨洮県]] |
|出身地 = [[涼州]][[隴西郡]][[臨洮県]] |
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|死去 = [[初平]]3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[192年]][[5月22日]]) |
|死去 = [[初平]]3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[192年]][[5月22日]]) |
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'''董 卓'''(とう たく、 |
'''董 卓'''(とう たく、? - [[初平]]3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[192年]][[5月22日]]))は、[[中国]][[後漢]]末期の[[武将]]・[[政治家]]。[[字]]は'''仲穎'''(ちゅうえい)。[[涼州]][[隴西郡]][[臨洮県]]の人。 |
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辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、[[少帝弁|少帝]]を廃して[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた[[呂布]]に殺された。﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄[[魏 (三国)|魏]]志及び﹃[[後漢書]]﹄に伝がある。
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辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、[[少帝弁|少帝]]を廃して[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた[[呂布]]に殺された。﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄[[魏 (三国)|魏]]志及び﹃[[後漢書]]﹄に伝がある。
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このような情勢下で、董卓が都において信任したのは蔡邕の他、[[司徒]]の[[王允]]と、養子の呂布であった。董卓は王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、尚書僕射の[[士孫瑞]]と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた<ref>﹃三国志﹄魏志﹁呂布伝﹂によると、董卓の侍女と密通したことの発覚を恐れたためともいう。</ref>。王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。
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このような情勢下で、董卓が都において信任したのは蔡邕の他、[[司徒]]の[[王允]]と、養子の呂布であった。董卓は王允を尊敬して朝政を任せると共に、武勇に優れた呂布に身辺警護させていた。しかし、王允もまた心中では董卓の暴虐を憎み、尚書僕射の[[士孫瑞]]と共に謀議をめぐらせていた。あるとき、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがあり、それ以来、恨みを持つようになっていた<ref>﹃三国志﹄魏志﹁呂布伝﹂によると、董卓の侍女と密通したことの発覚を恐れたためともいう。</ref>。王允らは呂布の不安に付け込み、暗殺計画の一味に加担させた。
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初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である[[李粛 (騎都尉)|李粛]]と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した |
初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である[[李粛 (騎都尉)|李粛]]と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。 |
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事件後、長安・郿に居た董旻・董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された︵﹃英雄記﹄︶。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという︵﹃英雄記﹄︶。長安の[[士大夫|士人]]や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ<ref>﹃太平御覧﹄巻828に引く﹃董卓別伝﹄には百姓︵人民︶は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の装身具・衣服・家具などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため長安の酒と肉の値段は急騰した、とある。</ref>。
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事件後、長安・郿に居た董旻・董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された︵﹃英雄記﹄︶。また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなりの肥満体で、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという︵﹃英雄記﹄︶。長安の[[士大夫|士人]]や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ<ref>﹃太平御覧﹄巻828に引く﹃董卓別伝﹄には百姓︵人民︶は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の装身具・衣服・家具などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため長安の酒と肉の値段は急騰した、とある。</ref>。
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== 親族 == |
== 親族 == |
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*董君雅(父) |
*董君雅(父) |
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*池陽君(母) |
*池陽君(母) |
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* [[董擢]](兄) |
* [[董擢]](兄) |
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* [[董旻]](弟) |
* [[董旻]](弟) |
2023年9月3日 (日) 07:13時点における版
董 卓 | |
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後漢 相国・太師 | |
出生 |
生年不詳 涼州隴西郡臨洮県 |
死去 |
初平3年4月23日(192年5月22日) 司隷京兆尹長安県 |
拼音 | Dǒng Zhuó |
字 | 仲穎 |
主君 | 少帝弁→献帝 |