「高屋城の戦い」の版間の差分
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|combatant2= [[三好康長]]軍[[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|20px]]<br/>[[石山本願寺]]軍 |
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|commander1= [[織田信長]][[ファイル:Oda emblem.svg|20px]]<br/>[[佐久間信盛]][[ファイル:Marunouchinimitsuhikiryo.svg|20px]]<br/>[[柴田勝家]][[ファイル:Japanese Crest Maru ni futatu Karigane.svg|20px]]<br/>[[丹羽長秀]][[File:Niwa clan crest.jpg|18px]] <br/>[[塙直政]]<br/>[[荒木村重]][[File:Gyoyō Botan inverted.png|20px]] |
|commander1= [[織田信長]][[ファイル:Oda emblem.svg|20px]]<br/>[[佐久間信盛]][[ファイル:Marunouchinimitsuhikiryo.svg|20px]]<br/>[[柴田勝家]][[ファイル:Japanese Crest Maru ni futatu Karigane.svg|20px]]<br/>[[丹羽長秀]][[File:Niwa clan crest.jpg|18px]] <br/>[[塙直政]]<br/>[[荒木村重]][[File:Gyoyō Botan inverted.png|20px]] |
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|commander2= 三好康長[[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|20px]]<br/>[[顕如]][[ファイル:鶴丸.jpg|20px]]<br/>十河一行<br/>[[香西長信]] |
|commander2= 三好康長[[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|20px]]<br/>[[顕如]][[ファイル:鶴丸.jpg|20px]]<br/>[[十河一行]]<br/>[[香西長信]] |
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|strength1= 100,000余 |
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天正2年︵[[1574年]]︶[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、義昭は興国寺から[[武田勝頼]]・[[上杉謙信]]・[[北条氏政]]らに対し、[[徳川家康]]・[[顕如]]と共に帰京を図るように[[御内書]]を送付した。また側近の[[一色藤長]]が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。
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天正2年︵[[1574年]]︶[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、義昭は興国寺から[[武田勝頼]]・[[上杉謙信]]・[[北条氏政]]らに対し、[[徳川家康]]・[[顕如]]と共に帰京を図るように[[御内書]]を送付した。また側近の[[一色藤長]]が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。
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[[ファイル:Yoshiaki syojo01.jpg|left|thumb|400px|足利義昭御内書/大阪城天守閣蔵。[[元亀]]3年︵[[1572年]]︶10月11日付、[[毛利輝元]]家臣・[[井上元義]]︵[[井上氏#安芸井上氏|井上氏]]︶宛]]
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この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が[[浦上宗景]]、[[宇喜多直家]]と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が[[備中国|備中]]へ差し向ける軍勢を[[讃岐国|讃岐]]に向かわせることに対して賛意を表している。 |
この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が[[浦上宗景]]、[[宇喜多直家]]と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が[[備中国|備中]]へ差し向ける軍勢を[[讃岐国|讃岐]]に向かわせることに対して賛意を表している。<ref>2月27日、信長は多聞山城に入城し[[正倉院]]の[[蘭奢待]]を切り取り[[香]]を焚いた。『信長の天下布武への道』によると「それを聞いた義昭が憤慨して、決起を促したのかもしれない」と解説しており、同年4月2日、[[越前一向一揆]]や[[長島一向一揆]]とも雲行きが怪しく、信長との講和を破棄し出軍する。</ref> |
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== 高屋城の戦い == |
== 高屋城の戦い == |
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=== 第1次 === |
=== 第1次 === |
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こうした動きから、4月に[[摂津国]]の[[池田勝正]]、讃岐国の十河一行、[[雑賀衆]]の[[鈴木孫一]]ら雑賀衆や、三好義継に従っていた[[若江城]]の残兵や、池田勝正に従っていた[[池田城 (摂津国)|池田城]]の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・[[細川昭元]]や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、[[阿波国]]の[[三好康長]]を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、[[石山本願寺]]も挙兵している。
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こうした動きから、4月に[[摂津国]]の[[池田勝正]]、讃岐国の[[十河一行]]、[[雑賀衆]]の[[鈴木孫一]]ら雑賀衆や、三好義継に従っていた[[若江城]]の残兵や、池田勝正に従っていた[[池田城 (摂津国)|池田城]]の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・[[細川昭元]]や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、[[阿波国]]の[[三好康長]]を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、[[石山本願寺]]も挙兵している。
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[[ファイル:Iimoriyama1.jpg|thumb|飯盛山城の模型/大東市歴史民俗資料館所蔵]] |
[[ファイル:Iimoriyama1.jpg|thumb|飯盛山城の模型/大東市歴史民俗資料館所蔵]] |
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[[4月12日 (旧暦)|12日]]、織田軍は住吉へ移動。[[4月13日 (旧暦)|13日]]には摂津・大和・[[山城国|山城]]・[[若狭国|若狭]]・[[美濃国|美濃]]、[[尾張国|尾張]]・伊勢・[[丹後国|丹波]]・丹波・[[播磨国|播磨]]・[[根来衆]]の増援軍が続々と到着し、総勢10万余の大軍となった。信長は天王寺を本陣とし、住吉・[[遠里小野]]にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。[[4月14日 (旧暦)|14日]]に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。[[4月16日 (旧暦)|16日]]には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。
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[[4月12日 (旧暦)|12日]]、織田軍は住吉へ移動。[[4月13日 (旧暦)|13日]]には摂津・大和・[[山城国|山城]]・[[若狭国|若狭]]・[[美濃国|美濃]]、[[尾張国|尾張]]・伊勢・[[丹後国|丹波]]・丹波・[[播磨国|播磨]]・[[根来衆]]の増援軍が続々と到着し、総勢10万余の大軍となった。信長は天王寺を本陣とし、住吉・[[遠里小野]]にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。[[4月14日 (旧暦)|14日]]に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。[[4月16日 (旧暦)|16日]]には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。
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新堀城には十河一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。[[4月17日 (旧暦)|17日]]、織田軍はこの城を取り巻き、[[4月19日 (旧暦)|19日]]に[[堀]]に[[草]]などを入れ埋め立て、夜になって[[火矢]]を射かけ[[大手門]]、[[搦手門]]の両方に突撃し、170余の[[首級]]あげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。
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新堀城には十河一行や[[香西長信]]が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。[[4月17日 (旧暦)|17日]]、織田軍はこの城を取り巻き、[[4月19日 (旧暦)|19日]]に[[堀]]に[[草]]などを入れ埋め立て、夜になって[[火矢]]を射かけ[[大手門]]、[[搦手門]]の両方に突撃し、170余の[[首級]]あげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。
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新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった[[松井友閑]]を仲介にして[[降伏]]を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。 |
新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった[[松井友閑]]を仲介にして[[降伏]]を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。 |
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* この戦いが始まる天正3年3月、信長が細川藤孝に対して与えた朱印状と同時期に、荒木村重に対しては摂津、藤孝には山城、塙直政には大和の守護をそれぞれ与えている。この時に信長は石山本願寺を攻城を決意したと考えられ、﹃織田信長合戦全録﹄によると﹁対本願寺包囲体制が完成したわけである﹂と記している。
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* この戦いが始まる天正3年3月、信長が細川藤孝に対して与えた朱印状と同時期に、荒木村重に対しては摂津、藤孝には山城、塙直政には大和の守護をそれぞれ与えている。この時に信長は石山本願寺を攻城を決意したと考えられ、﹃織田信長合戦全録﹄によると﹁対本願寺包囲体制が完成したわけである﹂と記している。
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* 高屋城、石山本願寺と並ぶ主戦場であった新堀城が文献によって推定地に違いがある。﹃日本城郭大系﹄によると[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]]長居東周辺で﹁天正三年に織田信長に攻め落とされた。城跡付近の旧堀村は昭和初期まで環濠集落の形を残していた﹂とし、﹃大阪市史﹄も住吉区長居東周辺としている。一方﹃戦国合戦大事典﹄、﹃石山本願寺の興亡﹄では大阪府[[堺市]][[北区 (堺市)|北区]]新堀町周辺としている。このように各文献によって違いがあり、新堀城がどこにあったのか定まっていない。
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* 高屋城、石山本願寺と並ぶ主戦場であった新堀城が文献によって推定地に違いがある。﹃日本城郭大系﹄によると[[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]]長居東周辺で﹁天正三年に織田信長に攻め落とされた。城跡付近の旧堀村は昭和初期まで環濠集落の形を残していた﹂とし、﹃大阪市史﹄も住吉区長居東周辺としている。一方﹃戦国合戦大事典﹄、﹃石山本願寺の興亡﹄では大阪府[[堺市]][[北区 (堺市)|北区]]新堀町周辺としている。このように各文献によって違いがあり、新堀城がどこにあったのか定まっていない。
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* ﹁白天目﹂茶碗は谷下一夢﹃顕如上人伝﹄によると、信長の礼状に﹁11月18日﹂とあることから元亀3年︵[[1572年]]︶ではないかとしているが、井上鋭夫﹃一向一揆の研究﹄によると、当時の情勢や﹁賢会書状﹂などから、翌年の天正元年ではないかとしており、文献によって石山本願寺から信長に差し出された年代に違いがある。
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* ﹁白天目﹂茶碗は谷下一夢﹃顕如上人伝﹄によると、信長の礼状に﹁11月18日﹂とあることから元亀3年︵[[1572年]]︶ではないかとしているが、[[井上鋭夫]]﹃一向一揆の研究﹄によると、当時の情勢や﹁賢会書状﹂などから、翌年の天正元年ではないかとしており、文献によって石山本願寺から信長に差し出された年代に違いがある。
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* [[信長公記]] |
* [[信長公記]] |
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* 新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第二巻、大阪市、1988年3月、P657 - P660。 |
* 新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第二巻、大阪市、1988年3月、P657 - P660。 |
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* 武田鏡村『織田信長 石山本願寺合戦史』KKベストセラーズ、2003年1月、P94 - P95。 |
* [[武田鏡村]]『織田信長 石山本願寺合戦史』KKベストセラーズ、2003年1月、P94 - P95。 |
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* [[谷口克広]]『織田信長合戦全録』[[中央公論新社]]、2002年1月、P145 - P156。 |
* [[谷口克広]]『織田信長合戦全録』[[中央公論新社]]、2002年1月、P145 - P156。 |
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* 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 四 大阪・奈良・和歌山・三重』[[新人物往来社]]、1989年1月、P16 - P18。 |
* 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 四 大阪・奈良・和歌山・三重』[[新人物往来社]]、1989年1月、P16 - P18。 |
2016年4月21日 (木) 21:11時点における版
高屋城の戦い | |
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![]() 高屋城の本丸跡(高屋築山古墳を流用している) | |
戦争:攻城戦 | |
年月日:天正2年(1574年)4月、 天正3年(1575年)4月8日 - 21日 | |
場所:高屋城、新堀城、石山本願寺周辺 | |
結果:織田信長軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田信長軍![]() |
三好康長軍![]() 石山本願寺軍 |
指導者・指揮官 | |
織田信長![]() 佐久間信盛 ![]() 柴田勝家 ![]() 丹羽長秀 ![]() 塙直政 荒木村重 ![]() |
三好康長![]() 顕如 ![]() 十河一行 香西長信 |
戦力 | |
100,000余 | 不明 |
損害 | |
不明 | 約170人 |
開戦までの経緯
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Yoshiaki.jpg/220px-Yoshiaki.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Yoshiaki_syojo01.jpg/400px-Yoshiaki_syojo01.jpg)
高屋城の戦い
第1次
こうした動きから、4月に摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三好康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、石山本願寺も挙兵している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Iimoriyama1.jpg/220px-Iimoriyama1.jpg)
第2次
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Hosokawa_Yusai.jpg/220px-Hosokawa_Yusai.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Nobunaga2.jpg/220px-Nobunaga2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Takayaj5.jpg/220px-Takayaj5.jpg)
「 |
来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如し。
| 」 |
—織田信長の朱印状 細川家文章 |
「 |
陣取り、放火、濫妨、狼藉、ならびに竹木を伐ち取るの事、停止せしめ畢。もし違反の輩においては、成敗を加うるべきの状、件の如し
| 」 |
—織田信長の禁制 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Oowada_Castle02.jpg/220px-Oowada_Castle02.jpg)
「 | 辰刻、信長南方へ出陣す。一万余。室町通り五条へなり | 」 |
—兼見卿記 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f1/Ishiyama5.jpg/220px-Ishiyama5.jpg)
戦後の影響
河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。 信長公記はこの時既に﹁もはや本願寺の落城は時間の問題となった﹂としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は4月21日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。 10月中旬から、本願寺は松井友閑と康長を仲介とし、信長に三軸の名画を送って和睦を申し入れた。12月に和睦が成立し、誓紙が取り交わされた。 一、当寺の儀、御懇望について、御無事の上、御表裏あるべからざるの通り、御前において堅く申し究め候事。 付けたり、新儀難題これあるべからざる事。 一、御分国中当寺諸末寺は先々のごとくたるべし、並びに以下の輩、還住・同住還など異儀あるべからざる事。 一、当寺に対して両人毛頭表裏抜公事などあるべからずる事。 右違犯これあらば︵中略︶無間地獄に墜つるべきものなり。仍て件のごとし。 — 織田信長と石山本願寺の誓紙︵龍谷大学所蔵文章︶ ﹁当寺﹂は石山本願寺、﹁御前﹂は信長、﹁両人﹂は友閑と康長を意味している。署判者は友閑と康長で、宛所は当時石山本願寺の幕閣︵顕如外︶を構成していた5名であった。しかしこの和睦も一時のものにすぎず、翌年の天正4年︵1576年︶信長と石山本願寺の間で天王寺の戦いが勃発する。補説
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Furuithij1.jpg/250px-Furuithij1.jpg)