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姉川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姉川の戦い

姉川古戦場跡(旧野村橋附近)
戦争織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍との戦い
年月日1570年7月30日
場所滋賀県長浜市姉川河原
結果:織田・徳川連合軍の勝利
交戦勢力
織田・徳川連合軍 浅井・朝倉連合軍
指導者・指揮官
織田信長
徳川家康
浅井長政
朝倉景健
戦力
13,000~40,000[1] 13,000~30,000[2]
損害
不明 1,100~[3]
織田信長の戦い

6281570730/89[4]


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駿輿

15704退退退

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59[5]51152164[ 1]615調619

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624

8,0005,00013,000

627[ 2]28西西

6[6][ 3]1,100

50退

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[7]627姿廿退廿退[ 4][ 5]

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鹿

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退

西


その他[編集]

  • 戦いに斃れた将兵の夥しい血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていたが、平成以降の造成改修工事で無くなった。野村町の旧野村橋付近が最も激戦地であり、また三田町側の姉川沿いの激戦地は血原公園になっている。
  • 浅井氏家臣野村肥後守の野村城土塁が、野村町地域の岩崎家・伊吹家や、多賀家、浅井家敷地などを中心に遺っている。同三田村氏の三田村城土塁は三田町地域の伝正寺敷地に遺っている
  • 姉川の戦いを描いた日本で唯一の「姉川合戦図屏風」が福井県立歴史博物館に所蔵されており、毎年6月下旬~7月上旬に一般公開されている。
  • 織田・徳川軍で功を上げたとされる足軽頭など7人に信長から感状が贈られ、「姉川七本槍」と称された。
  • 浅井三代記』(17世紀後半成立)には、浅井軍の磯野員昌が織田軍の十三段の備えを十一段まで打ち破り信長の本陣まで肉薄したという逸話が記述されているが(員昌の姉川十一段崩し)、これは後世の創作という見方が強い。

脚注[編集]

浅井三代記など後世の軍記物に準拠した布陣図

注釈[編集]

  1. ^ 越前の城にみられる畝状竪堀の痕跡があり朝倉氏の関与が認められる。
  2. ^ 訳者によっては陣払いして引いたのは信長側だとしているものもある。(榊山 潤「原本現代訳 信長公記(上)」など)
  3. ^ この時、「浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段ののうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた」というが、このエピソードは元禄時代の浅井三代記が初出で、信長公記・三河物語・当代記などには、記述が見えないため、疑問視する声もある。
  4. ^ 『年代記抄節』にも「(浅井・朝倉軍が)横山へ後巻両手に取出、押寄、即時に両手一同に切崩、信長得大利候」と、対陣する間もなく即刻合戦に突入して切り崩した様子が伝えられている。
  5. ^ 信長はすでに若狭国武田信方宛6月6日付の書状で、6月28日に合戦になるので高島まで出陣するように要請している。つまり合戦期日を予め決めていたということで、それは浅井・朝倉方にも通達していたことになる。『新・信長公記』高澤2011

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(一)^ 100003000500060005000350005000

(二)^ 80005000150005000600015000800030000150001600060007000100008000100003000080001000020000150003000

(三)^ 1100800050009600700080006000

(四)^  -  -  - 

(五)^  調1

(六)^  - . 11/28/2018

(七)^  2011

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The AnegawaSAMURAIGMT Games1993

34http://www.gamejournal.net/ 2010



  20138 

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