ヨシップ・ブロズ・チトー
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ヨシップ・ブロズ・チトー
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軍服を着たチトー(1961年) | |
生年月日 | 1892年5月7日 |
出生地 | |
没年月日 | 1980年5月4日(87歳没) |
死没地 |
ユーゴスラビア スロベニア社会主義共和国 リュブリャナ |
出身校 | 小学校卒業 |
前職 | 軍人 |
現職 | 国家元首 |
所属政党 | ユーゴスラビア共産党→ユーゴスラビア共産主義者同盟 |
称号 | |
配偶者 | ヨワンカ・ブローズ(en:Jovanka Broz)[1] |
サイン | |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 | |
在任期間 | 1953年1月13日 - 1980年5月4日 |
内閣 | チトー内閣 |
在任期間 | 1943年11月9日 - 1963年6月29日 |
国民議会幹部会 大統領 |
イヴァン・リヴァル (1945-1953) チトーが兼任 (1953-1963) |
内閣 | チトー内閣 |
在任期間 | 1945年11月29日 - 1953年1月13日 |
首相 | チトーが兼任 |
人民解放軍総司令官 | |
在任期間 | 1941年 - 1945年 |
在任期間 | 1938年3月 - 1980年5月4日 |
ヨシップ・ブロズ・チトー / ヨシプ・ブローズ・ティトー︵セルビア・クロアチア語: Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито [jǒsip brôːz tîto] ( 音声ファイル)、1892年5月7日 - 1980年5月4日︶は、ユーゴスラビアの軍人・政治家。本名はヨシップ・ブロズ︵セルビア・クロアチア語: Josip Broz / Јосип Броз︶。第二次世界大戦時枢軸国の支配下となったユーゴスラビア王国において人民解放軍︵パルチザン︶の総司令官として枢軸国への抵抗運動を指揮し、戦後は成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴスラビア人民共和国)において初代首相︵初代国防相も兼任︶、第2代大統領︵後に終身大統領︶、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者を務めた。第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビア国内に影響を与えた政治家であり、﹁チトー(ティトー)元帥﹂という呼び名でも知られている。
略歴・概要[編集]
●1920年 ユーゴスラビア共産党に加入。 ●1934年 ユーゴスラビア共産党の政治局の一員となる︵チトーという通称を使い始める︶。 ●1941年7月4日 ドイツ国防軍への武力抵抗を呼びかけ。 ●1941年 - 1945年 人民解放軍︵パルチザン︶の総司令官を務める。 ●1945年 - 1953年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相︵首相職は、1963年6月29日まで継続︶。 ●1948年 スターリンと断絶。︵コミンフォルムから追放、東欧で﹁チトー主義者﹂狩り︶ ●1953年1月13日 - 1980年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領。 ●1961年 ユーゴスラビアのベオグラードで、非同盟諸国首脳会議を開催。エジプトのナセル、インドのネルーらと会談。 ●1963年4月7日 終身大統領となる。 ●1980年5月4日、スロベニアのリュブリャナの病院で死去。 第二次世界大戦後、チトーはユーゴスラビアの首相︵1944~1963年︶、大統領︵1953~1980年、1974年以降は終身大統領︶、そしてユーゴスラビア人民軍の最高位であるユーゴスラビア元帥を務めた。彼はコミンフォルムの創設に携わった一人であるにもかかわらず、1948年にソビエトの覇権主義に反抗した最初のコミンフォルム会員となった。のちスターリンと決別し、自国の特異な自主管理社会主義を実践し、市場経済の導入も実施。識字率は90%を超え、無料の医療を受けられた。ブランコ・ホルヴァトを主体とした経済学者による﹁イリュリア・モデル﹂と呼ばれる市場社会主義を推進し、言論の自由を認め、半独立的な野党の結成を承諾した。 外交政策として、彼は非同盟運動を主導しインドのジャワハルラール・ネルー、エジプトのガマル・アブデル・ナセル、ガーナのクワメ・エンクルマ、インドネシアのスカルノと共に、多くの国際決議で棄権を行った。 一部の歴史家、チトーの批判家は、彼を権威主義的な指導者と見なしており、チトー個人の崇拝を批判している。一方、チトー主義を信奉する人達、ユーゴノスタルジアを信奉する人達からは、統一の象徴としてチトーを尊敬している。他の研究家は、彼を開発独裁、慈悲深い独裁者だと見なす意見もある。生涯[編集]
生い立ち[編集]
チトーは、オーストリア=ハンガリー帝国の構成国家であるクロアチア=スラヴォニア王国の領内、今のクロアチアの北西部、ザゴリェ地方 (Hrvatsko Zagorje) クラピナ=ザゴリエ郡のクムロヴェツで生まれた。父親のフラニョはクロアチア人で、母親のマリヤはスロベニア人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの小学校に入学し、1905年に卒業している。 1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー︵5月1日、労働者の日︶を祝った。1910年、冶金工の労働組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニアの社会民主党にも加わっている。1911年から1913年にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。従軍からロシア革命との出会いまで[編集]
1913年の秋から、徴兵により兵役に就いており、1914年5月には、軍の主催するブダペストのフェンシング大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。第一次世界大戦の勃発により、ヴォイヴォディナにあるルマ︵現在はセルビア領︶に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、ペトロヴァラディン要塞に収監された。1915年、再びロシアを攻撃するために、中央ヨーロッパのガリツィア地方に送られた。ブコヴィナでは榴弾砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシア帝国艇庫の捕虜となった。 病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、チトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年の7月16日から17日にかけて起きたペトログラードでの反政府デモ︵七月蜂起︶に参加している。警察から逃れるため、フィンランド大公国まで逃げたが、結局捕まり、ペトロパブロフスクの要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。1917年11月、シベリアのオムスクで赤軍に参加した。1918年春には、ロシア共産党へ参加した。党活動~第二次世界大戦[編集]
「ユーゴスラビア人民解放戦争」も参照
1920年に帰国してユーゴスラビア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の﹁ディミトロフ﹂大隊の指揮官の一人として従軍した。チトーの最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が1941年の5月に生まれている。
第二次世界大戦中の1943年12月、ドイツ軍によるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、中道左派的な臨時政府の設立を宣言した。この間、チトーの活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、チトーのパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、チトーがスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリス軍やアメリカ軍の将校とたびたび険悪になった。戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収し、チトーら革命パルチザンらはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラビア人民共和国の初代首相にはチトーが選ばれ、国民議会幹部会議長︵国家元首に相当︶には、イヴァン・リヴァル (Ivan Ribar) が選出された。
アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領︵右︶とチトー︵中央︶
1950年に﹁工場を労働者に﹂という演説を行い、﹁労働者にとってただ一つの︵資本主義国との︶違いは、ソ連では失業が無い、ただそれだけである﹂と発言する。その後、ソ連型社会主義と対峙して企業に対する労働者自主管理︵経営概念はあるが、資本は労働者所有であり、経営者は労働者が求人する︶と、各共和国の大幅な自治権を特徴とするユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していった。そのカリスマによって各共和国・民族のバランスを取るべく独裁者というより仲裁者とも呼ぶべき調停者として振る舞い、憲法改正を繰り返すごとに各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦共和国としての維持に腐心した[2]。特に、純然社会主義体制でありながら与党の中に制限野党を作り、複数政党政治体制とは言えないものの、それに準じた制度を取り入れたことや、新聞などによる体制批判、即ち言論の自由をある程度許したことは特筆に値する。また、ユーゴスラビアは後に各民族間で内戦に陥ったように、ともすれば各自治共和国の民族主義が自民族優越主義に転化しがちであり、民族主義を訴える者は、秘密警察による監視・摘発の対象になった。
チトー政権下のユーゴスラビアは国内の工業化や兄弟愛と統一道路などのインフラ整備を推し進めて年率6.1 %の経済成長を達成し、識字率は91 %まで向上して医療費はすべて無料であり、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活をおくれた[3][4][5]。
1978年には社会主義国初の冬季オリンピックであるサラエボ五輪の誘致に成功した。
チトーの国葬
生家近くに建てられたチトーの銅像︵2007年5月撮影︶
多民族による社会主義連邦国家において、チトーの作り上げた体制は絶えず分裂の引き金となりながらも、彼個人のカリスマ性と少数民族に配慮した政策によって、国内の民族主義者の活動は抑えられていた。それがユーゴスラビアを一つの統一国家に収斂させて秩序を安定させ、アメリカ合衆国ともソビエト連邦とも距離を置いた独自の立場を確立していたが、チトーの死後、カリスマを失ったユーゴスラビアの体制は崩壊へ向かうことになる。
チトー死去後、後継者達は彼のようなカリスマ性を発揮できず、インフレと失業率の上昇で経済も低迷し始め[16][17]、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義などが息を吹き返すことになる。冷戦集結後の1990年代には民族・宗教間の対立や混乱が激化し、1991年から2001年にかけて一連のユーゴスラビア紛争が勃発。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各共和国のうち、スロベニア社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国はそれぞれスロベニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、マケドニア共和国として独立し、残ったセルビア社会主義共和国とモンテネグロ社会主義共和国によって1992年にユーゴスラビア連邦共和国︵新ユーゴスラビア︶が成立する。しかし、新ユーゴスラビアの成立後も紛争は続き、紛争終結後の2003年に新ユーゴスラビアはより緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行するが、2006年にモンテネグロが独立したことで、もう一方のセルビアが独立宣言と継承国宣言を行ったことにより消滅し、連邦は完全に瓦解した。2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある金貨約2700枚︵金塊30キログラム分相当︶や貴金属製品約250個、現金約2万6000USドルなどが発見されている[18]。
第二次世界大戦後[編集]
第二次世界大戦後はソビエト連邦からの自立を意図し、それを恐れたスターリンは1948年にユーゴスラビア共産主義者同盟をコミンフォルムから除名する︵チトー=スターリン決別︶。翌年にはソ連との友好相互援助条約も破棄された。 その後、ソ連からチトーを狙う暗殺団が度々送り込まれるもチトーは秘密警察に暗殺団を全て検挙させた。逆にモスクワのスターリン宛に電報を送り﹁刺客を送る用意がある﹂と揺さぶり、ソ連による衛星国化を諦めさせた。内政[編集]
外交[編集]
社会主義国でありながらソ連率いるコミンフォルムから追放されたことから第三世界に接近し、チトーは非同盟運動の初代議長となって、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらにチトーは東西両陣営問わず様々な国と良好な関係を構築したため、日本を含む多数の国から勲章を受勲するなどの表彰を受けた︵チトーの勲章一覧︶。政治学上、ユーゴスラビアは東側諸国とも西側諸国とも見なされておらず、東西冷戦で起きた朝鮮戦争の際も中立的であり、中国の国連代表権問題で抗議するソ連の不在のなかアメリカ合衆国の主導した国際連合安全保障理事会決議82や国連軍の編成を要請した国際連合安全保障理事会決議84と国際連合安全保障理事会決議85に反対せず、棄権した[6][7][8]。 アメリカからマーシャル・プランも受け入れ[9]、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団防衛を明記した軍事協定バルカン三国同盟を結んで北大西洋条約機構 (NATO) と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代はアメリカの相互防衛援助法の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になった時にソ連とも和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍のような国際連合平和維持活動にも参加した[12]。こうしたチトーの政治思想はスターリン主義者によってチトー主義と呼ばれ、他の社会主義国においては反体制派粛清の口実にもされた。 1960年代には独自の宇宙ロケット開発も計画し、アメリカはNASAの公式な視察団を送るなど支援したが、国家財政が逼迫したことから開発プログラム自体をアメリカに売却した。 1970年9月30日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領がユーゴスラビアを訪問。当時の東側諸国をアメリカ合衆国大統領が訪れるのは異例であったが、チトーは暖かく歓迎し会談を行った[13]。死去[編集]
1980年1月20日、循環障害により壊疽を起こした左足を切断する手術を受けるも、その後も体調は思わしくなく、腎機能障害、肺炎、胃腸内出血、肝機能障害などを起こし、5月4日にスロベニアのリュブリャナの病院で没した。87歳没。 5月8日に行われたチトーの葬儀には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり︵弔問外交︶1989年の昭和天皇の大喪の礼まで当時史上最大の国葬だった[14][15]。日本からは大平正芳首相も出席した。死後[編集]
脚注・注釈[編集]
脚注[編集]
(一)^ “ヨバンカ・ブロズさん死去、88歳 故チトー大統領の妻”. AFPBB News (2013年10月21日). 2020年12月19日閲覧。
(二)^ ユーゴスラビア憲法は1946年の制定以来、1953年、1963年、1974年に改正された。
(三)^ Lampe, John R.; Yugoslavia as History: Twice There Was a Country; Cambridge University Press, 2000 ISBN 0-521-77401-2
(四)^ Ramet, Sabrina P.; The Three Yugoslavias: State-building and Legitimation, 1918–2005; Indiana University Press, 2006 ISBN 0-253-34656-8
(五)^ Michel Chossudovsky, International Monetary Fund, World Bank; The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms; Zed Books, 2006; (University of California) ISBN 1-85649-401-2
(六)^ Millett, Allan R. (2000), The Korean War, Volume 1, Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press, ISBN 978-0-8032-7794-6 p. 249
(七)^ "Strength on Double Seven". Time Magazine. July 17, 1950.
(八)^ Stueck, William (2008), "The United Nations, the Security Council, and the Korean War", in Lowe, Vaughan; Roberts, Adam; Welsh, Jennifer; Zaum, Dominik, The United Nations Security Council and War: The Evolution of Thought and Practice since 1945, Oxford University Press, p. 266, ISBN 978-0-19-953343-5
(九)^ W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953
(十)^ Sherman Register - Yugoslavia
(11)^ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)
(12)^ United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force
(13)^ 両軍の撤退を開始﹃朝日新聞﹄1970年︵昭和45年︶10月1日朝刊12版7面
(14)^ 平成2年 警察白書 第7章 公安の維持 1. 総力を挙げて取り組んだ大喪の礼警備 ︵5︶過去最大の警備 日本国警察庁
(15)^ Vidmar, Josip; Rajko Bobot; Miodrag Vartabedijan; Branibor Debeljaković; Živojin Janković; Ksenija Dolinar (1981). Josip Broz Tito – Ilustrirani življenjepis. Jugoslovenska revija. p. 166.
(16)^ Labor Force 1992. CIA Factbook. 1992.
(17)^ Inflation Rate % 1992. CIA Factbook. 1992.
(18)^ “旧ユーゴ﹁チトー金庫﹂から金塊30キロ、宝石149個!死後30年眠ったまま - MSN産経ニュース”. 2013年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月17日閲覧。
注釈[編集]
参考文献[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
●ウラジーミル・デディエ︵著︶﹃チトーは語る﹄高橋正雄︵訳︶、河出書房、1953年12月5日。︵新時代社、1970年︶
●V.ヴィンテルハルテル︵著︶﹃チトー伝 ユーゴスラヴィア社会主義の道﹄田中一生︵訳︶、徳間書店、1972年12月15日。
●﹃ヨシプ・ブロズ・チトー 非同盟社会主義の歩み﹄島田浩︵訳︶、恒文社、1974年7月20日。
●恒文社︵編︶、1980年7月31日﹃チトー 英雄の生涯 1892-1980﹄恒文社。
●ズボンコ・シタウブリンゲル︵著︶﹃チトー・独自の道 スターリン主義との闘い﹄岡崎慶興︵訳︶、サイマル出版会、1980年。
●高橋正雄﹃チトーと語る﹄恒文社、1982年2月25日。
関連項目[編集]
●ユーゴスラビア ●ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 ●ユーゴスラビア共産主義者同盟 ●パルチザン (ユーゴスラビア) ●ユーゴスラビア人民解放戦争 ●チトー主義 ●非同盟諸国 ●自主管理 ●バルカン連邦構想 ●カルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマ ●ユーゴノスタルギヤ ●石の花 (坂口尚の漫画)外部リンク[編集]
公職 | ||
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先代 イヴァン・リヴァル 国民議会幹部会議長 |
ユーゴスラビア大統領 1953年 - 1980年 1974年からは終身大統領 |
次代 ラザル・コリシェヴスキ 大統領評議会議長 |
先代 イヴァン・シュヴァッチ ユーゴスラビア王国首相 |
ユーゴスラビア首相 1945年 - 1963年 |
次代 ペータル・スタンボリッチ |
党職 | ||
先代 ミラン・ゴルキッチ |
ユーゴスラビア共産党書記長 1939年 - 1952年 |
次代 ユーゴスラビア共産主義者同盟に改称 |
先代 ユーゴスラビア共産党から改称 |
ユーゴスラビア共産主義者同盟書記長 1952年 - 1980年 |
次代 ブランコ・ミクリッチ |
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- カール・マルクス勲章受章者
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- 勝利勲章受章者
- レーニン勲章受章者
- 十月革命勲章受章者
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- 1980年没
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