吉崎憲治
略歴・人物[編集]
徳島県徳島市出身。実家は醸造業を営み、8人兄弟の三男として生まれる。琴や三味線を嗜む母と、自宅にあった手回し蓄音機の存在で音楽に親しむようになり、徳島県立城北高等学校卒業後、1954年に武蔵野音楽大学作曲科に入学。
1959年、宝塚歌劇団に入団。1961年、星組公演﹃朧夜源氏﹄でデビュー。
現在に至るまで作曲した数は2000曲以上にのぼり、主に小原弘稔、岡田敬二、太田哲則、谷正純といった演出家たちとコンビを組んでいる。初期の小池修一郎作品や、柴田侑宏作品もいくつか手がけ、岡田のロマンチック・レビューシリーズは全て𠮷﨑の作曲である。また、宝塚歌劇団の代表曲となっている﹁清く正しく美しく﹂、﹁この愛よ永遠に〜TAKARAZUKA FOREVER〜﹂など数々の名曲も担当。宝塚を代表する重鎮の作曲家である。
2003年、自身が構成・音楽監督・指揮を担当した﹃𠮷﨑憲治オリジナルコンサート TAKARAZUKA FOREVER﹄を開催。
2007年、宝塚での長年の功績に対して菊田一夫演劇賞特別賞を受賞。
2014年、﹃宝塚歌劇の殿堂﹄最初の100人のひとりとして殿堂表彰[2][3]。
主な作品[編集]
※年の記載は初演のみ。 ●﹁愛の歌﹂︵1962年、﹃皇帝と魔女﹄︶ ●﹁私は雨の日が好き﹂︵1962年、テレビ番組﹃宝塚バラエティ﹄︶ ●﹁タカラジェンヌがやってくる﹂/﹁タカラジェンヌに乾杯﹂︵1967年、﹃タカラジェンヌに乾杯!﹄︶ ●﹁花にふれた私﹂︵1972年、﹃ザ・フラワー﹄︶ ●﹁清く正しく美しく﹂︵1973年、﹃宝塚名曲選﹄︶ ●﹁丘の上のジョニー﹂︵1978年、﹃丘の上のジョニー﹄︶ ●﹁この世にただひとつ﹂︵1979年、﹃心中・恋の大和路﹄︶ ●虹を追って︵1980年、虹の橋-ある騎士の物語-︶ ●﹁いつか﹂︵1981年、﹃ディーン﹄︶ ●﹁愛のクレッシェンド﹂︵1981年、﹃クレッシェンド!﹄︶ ●﹁Welcome to TAKARAZUKA﹂︵1982年、東南アジア公演﹃ザ・タカラヅカ﹄︶ ●﹁虹の夢﹂︵1982年、﹃パリ変奏曲﹄︶ ●﹁朱(朱に恋うる歌)青(青のにじむ朝の歌)﹂︵1983年、﹃紅葉愁情﹄※地方公演では﹃朱に恋うる調べ﹄に改題︶ ●﹁ジュテーム﹂︵1984年、﹃ジュテーム﹄︶ ●﹁この愛よ永遠に TAKARAZUKA FOREVER﹂︵1984年、﹃ザ・レビューII -TAKARAZUKA FOREVER-﹄︶ ●﹁ザ・ヒーロー﹂︵1985年、﹃フル・ビート﹄︶ ●﹁愛の祈り﹂︵1985年、西海に花散れど︶ ●﹁アランチャ﹂﹁ラテン・ラバー﹂︵1986年、﹃ヴァレンチノ﹄︶ ●﹁ラ・ノスタルジー﹂︵1986年、﹃ラ・ノスタルジー﹄︶ ●﹁メモアール・ド・パリ﹂︵1986年、﹃メモアール・ド・パリ﹄︶ ●﹁ラ・パッション!﹂︵1989年、﹃ラ・パッション!﹄︶ ●﹁ル・ポアゾン﹂/﹁愛の媚薬について﹂︵1990年、﹃ル・ポアゾン 愛の媚薬﹄︶ ●﹁朝日の昇る前に﹂︵1991年、﹃華麗なるギャツビー﹄︶ ●﹁ナルシス・ノアール﹂︵1991年、﹃ナルシス・ノアール﹄︶ ●﹁いつも夢見てた﹂︵1992年、﹃スパルタカス﹄︶ ●﹁LOVER'S GREEN﹂︵1992年、﹃PUCK﹄︶ ●﹁熱愛のボレロ﹂/﹁愛の祈り﹂︵1994年、﹃ラ・カンタータ!﹄︶ ●﹁シトラスの風﹂︵1998年、﹃シトラスの風﹄︶ ●﹁Rose Garden﹂︵2001年、﹃Rose Garden﹄︶ ●﹁タカラヅカ・グローリー!﹂︵2004年、﹃タカラヅカ・グローリー!﹄︶ ●﹁CAPTAIN NEMO﹂︵2017年、﹃CAPTAIN NEMO﹄︶ ほか多数。脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ ﹃歌劇﹄1988年5月号より
(二)^ 村上久美子 (2014年1月11日). “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツ 2022年4月26日閲覧。
(三)^ ﹃宝塚歌劇 華麗なる100年﹄朝日新聞出版、2014年3月30日、134頁。ISBN 978-4-02-331289-0。
関連項目[編集]
- 宝塚歌劇団によって舞台化された作品の一覧
- 「吉崎憲治 作品集」(CD/TCAC 36〜37)
外部リンク[編集]
- 宝塚クリエイティブアーツ 配信deタカラヅカ
- 雪組 バウホール('92)「ヴァレンチノ」「アランチャ」「ラテン・ラバー」ほか 収録
- 吉崎憲治 オリジナルコンサート」