坂口允彦
坂口允彦 九段 | |
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名前 | 坂口允彦 |
生年月日 | 1908年12月10日 |
没年月日 | 1990年1月18日(81歳没) |
プロ入り年月日 | 1931年(22歳) |
引退年月日 | 1985年4月2日(76歳) |
棋士番号 | 10 |
出身地 | 北海道沙流郡日高町 |
所属 |
日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 花田長太郎九段 |
弟子 | 佐伯昌優 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 坂口允彦 |
順位戦最高クラス | A級(8期) |
2022年2月14日現在 |
坂口 允彦︵さかぐち のぶひこ、1908年︵明治41年︶12月10日 - 1990年︵平成2年︶1月18日︶は、将棋棋士。九段。棋士番号10。日本将棋連盟会長。花田長太郎九段門下。北海道沙流郡日高町出身[1]。
経歴[編集]
北海道沙流郡富川[2]︵現・日高町︶に生まれた[1]。14歳の時、洋服業を営む兄を頼って兵庫県神戸市に転居[1]。翌年満洲に渡ったが胸を病んで1年で帰国[1]。その後は神戸で兄が経営する洋服屋の仕事を手伝った[1]。 兄が経営する洋服屋を手伝っていた時期に神戸の将棋クラブで開催された将棋大会に出席して優勝した[1]。元来将棋が強かったことから席主は棋士になることを勧め[1]、関根金次郎に紹介状を書いた[1]。坂口はその紹介状を持って上京したが[1]、既に関根の家には渡辺東一ら2人の内弟子が住み込んでいた[1]。関根は自らの弟子である花田長太郎を紹介し[1]、1927年︵昭和2年︶花田に入門[1]。兄弟子に塚田正夫[1]、弟弟子に荒巻三之、廣津久雄らがいる[1]。 1928年9月の奨励会創設に二段として参加。1931年︵昭和6年︶四段。 1938年︵昭和13年︶八段[3]、1976年︵昭和51年︶九段。 若手時代、塚田正夫、建部和歌夫の三名で﹁昭和の三銃士﹂と呼ばれた。﹁くろがね﹂﹁不沈艦﹂と呼ばれる強靱な棋風[3]。順位戦A級通算8年。 現役の間に連盟会長を2度務めた。 1985年︵昭和60年︶引退。引退時76歳3ヶ月は当時の最年長記録[4]。1990年︵平成2年︶肝硬変のため死去。人物[編集]
弟子に佐伯昌優、孫弟子に中村修、北浜健介、斎田晴子、高橋和、中村真梨花、曾孫弟子[5]に阿部光瑠、上村亘、香川愛生がいる。 このうち中村修は1980年にプロデビューしているが、中村の大師匠にあたる坂口は現役中であった。このため、坂口は﹁現役中に孫弟子がプロデビューする﹂という珍しい快挙を達成したことになる。 チェスの強豪としても有名で、チェスのために第2期 - 第4期のA級順位戦を3年間休場するという、異色の経歴を持つ。終戦直後、敗戦で自他ともに自信を失った日本人全体に対して、チェスではアメリカ人と対等に戦えるということを示すため、奮起してチェスを独学で学び、チェスのプロに転向[3]。アレクサンドル・アレヒンの棋譜を徹底的に研究し、占領軍将校らにチェスを教えるまでになった[6]。1947年︵昭和22年︶日本チェス連盟︵日本チェス協会とは無関係︶を設立し、日本でのチェスの普及に努めた[6]。またチェスの初代日本チャンピオンでもある。﹃チェス上達法﹄︵1961年、虹有社︶などの入門書も著している。 占領下の日本は講和条約が未締結で国外に遠征することも許されなかったためチェスの世界チャンピオンの座は断念せざるを得なかった[6]。生来、金もうけには無縁な性格のため、生活がなりたたず、1950年︵昭和25年︶日本将棋連盟の棋士として復帰した[7]。 変人という評もあり、﹁カッパの鳴き声﹂と称するテープを対局場に持ち込んで観戦記者らに聞かせて回るなどの奇行でも知られた。昇段履歴[編集]
- 1927年 入門
- 1931年 四段
- 1932年 五段
- 1934年 六段
- 1936年 七段
- 1938年 八段
- 1976年11月 九段
- 1985年4月2日 引退
棋戦優勝[編集]
- 産経杯戦 1回(1951年度)