札幌市立創成小学校
札幌市立創成小学校︵さっぽろしりつ そうせいしょうがっこう︶は、かつて北海道札幌市中央区にあった公立小学校。1871年に設置された資生館を起源とする﹁札幌で最も古い歴史をもつ学校[1]﹂であったが、2004年に廃校となった。本項では、直接の前身である札幌市立中央創成小学校、札幌市立西創成小学校、およびそれらの共通の前身校についても述べる。
札幌市立創成小学校 | |
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北緯43度03分19.7秒 東経141度20分54.1秒 / 北緯43.055472度 東経141.348361度座標: 北緯43度03分19.7秒 東経141度20分54.1秒 / 北緯43.055472度 東経141.348361度 | |
過去の名称 |
資生館 札幌学校 雨竜学校 第一学校 公立第一小学校 公立創成学校 県立創成学校 公立創成小学校 創成尋常高等小学校 創成尋常小学校 中央創成尋常高等小学校 中央創成尋常小学校 中央創成国民学校 札幌市立中央創成小学校 創成高等小学校 創成尋常高等小学校 西創成尋常高等小学校 西創成尋常小学校 西創成国民学校 札幌市立西創成小学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 札幌市 |
併合学校 |
札幌市立中央創成小学校 札幌市立西創成小学校 |
設立年月日 | 1871年(明治4年10月) |
開校記念日 | 10月26日 |
創立者 | 開拓使 |
閉校年月日 | 2004年3月31日 |
所在地 | 〒060-0063 |
北海道札幌市中央区南3条西7丁目 | |
外部リンク | http://www.sosei-e.sapporo-c.ed.jp/ |
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沿革[編集]
開校から2校分立まで︵1871年-1896年︶[編集]
●1871年2月13日︵明治3年12月24日︶ - 開拓使仮本陣[注釈 1]内︵現・札幌市中央区南1条西1丁目︶に仮学校開設[2][注釈 2] ●1871年11-12月頃︵明治4年10月︶ - 開拓使により資生館が開校、皇学・漢学の2科を教授︵雨竜通[注釈 3]、現・北1条東1丁目︶[3][注釈 4] ●1872年12月︵明治5年11月︶ - 教則を改め英語・漢学・数学・習字の4科を設け札幌学校に改称[4][注釈 5] ●1875年︵明治8年︶8月 - 雨竜学校に改称[注釈 6]、英語・数学2科を廃し、概ね普通小学教則[注釈 7]に準拠する学校となる[5] ●1876年︵明治9年︶5月4日 - 雨竜学校、札幌学校所轄となる[6][注釈 8] ●1876年︵明治9年︶5月26日 - 移転、第一学校に改称︵浜益通[注釈 3]、現・北1条西2丁目︶[7][注釈 9][注釈 10] ●1876年︵明治9年︶8月2日 - 札幌学校所轄を離れ[注釈 11]、公立第一小学校に改称[7][注釈 9][注釈 12] ●1880年︵明治13年︶10月 - 藻岩学校開校︵檜山通[注釈 3]、現・南3条西7丁目︶[8][注釈 13] ●1881年︵明治14年︶7月 - 公立創成学校に改称[9][注釈 14] ●1882年︵明治15年︶2月 - 開拓使廃止と札幌県設置に伴い県立創成学校に改称[10]、校内に仮師範学校を開設[11][注釈 15] ●1883年︵明治16年︶5月 - 仮師範学校が昇格して札幌県師範学校[注釈 16]となり、創成学校はその附属小学校となる[12][注釈 17] ●1883年︵明治16年︶12月 - 札幌区に移管、公立創成小学校に改称[13][注釈 18] ●1884年︵明治17年︶1月 - 札幌県師範学校附属小学校が新設され、創成小学校は附属を解除される[14][注釈 19] ●1885年︵明治18年︶2月10日 - 豊水学校開校[15] ●1886年︵明治19年︶4月 - 公立創成・藻岩学校・豊水学校の3校を合併して創成を本校とし、藻岩を第一分校、豊水を第二分校とする[16] ●1889年︵明治22年︶7月 - 札幌女子小学校開設、創成本校および各分校の女子児童を同校に移す。第一分校を廃止[17] ●1893年︵明治26年︶4月 - 第二分校独立して豊水小学校に改称[18] ●1895年︵明治28年︶4月 - 創成尋常高等小学校に改称[19][注釈 20] ●1896年︵明治29年︶11月28日 - 尋常科と高等科を分離[20]2校分立時代︵1896年-1965年︶[編集]
創成尋常小学校から中央創成小学校まで[編集]
●1896年︵明治29年︶11月 - 創成尋常高等小学校を創成尋常小学校に改称︵北1条西2丁目︶[21][注釈 21] ●1897年︵明治30年︶5月3日 - 私立上守尋常小学校を第一分校とする︵北8条西1丁目︶[22][注釈 22] ●1901年︵明治34年︶4月 - 第一分校独立して北九条尋常小学校に改称[23][注釈 23] ●1910年︵明治43年︶4月1日 - 高等科を併置し、中央創成尋常高等小学校に改称[24][25][注釈 24] ●1931年︵昭和6年︶4月1日 - 高等科を分離し、中央創成尋常小学校に改称[26][注釈 25][注釈 26] ●1941年︵昭和16年︶4月1日 - 国民学校令施行、中央創成国民学校に改称[27][注釈 27] ●1947年︵昭和22年︶4月1日 - 学校教育法施行、札幌市立中央創成小学校に改称[28][注釈 28] ●1962年︵昭和37年︶4月 - 北海道札幌開成高等学校が中央創成小学校の空き教室を仮校舎として使用︵翌年3月まで︶[29] ●1963年︵昭和38年︶4月 - 北海道札幌南高等学校が中央創成小学校の空き教室を北校舎として使用︵翌年3月まで︶[29][注釈 29] ●1965年︵昭和40年︶3月 - 閉校式挙行[30]創成高等小学校から西創成小学校まで[編集]
●1896年︵明治29年︶11月28日 - 創成高等小学校を開校︵南3条西7丁目、旧藻岩学校跡︶[31][注釈 30] ●1908年︵明治41年︶4月 - 尋常科を併置し、創成尋常高等小学校に改称[32][注釈 31] ●1910年︵明治43年︶4月1日 - 西創成尋常高等小学校に改称[33][34][注釈 32] ●1931年︵昭和6年︶4月1日 - 高等科を分離し、西創成尋常小学校に改称[26][注釈 25][注釈 33] ●1941年︵昭和16年︶4月1日 - 国民学校令施行、西創成国民学校に改称[27][注釈 34] ●1941年︵昭和16年︶4月 - 1943︵昭和18年︶年3月 - 札幌市立商業学校が西創成国民学校校舎を夜間使用[35] ●1947年︵昭和22年︶4月1日 - 学校教育法施行、札幌市立西創成小学校に改称[28][注釈 35] ●1951年︵昭和26年︶8月 - 曙小学校開校に伴い、児童の一部を移動[36] ●1965年︵昭和40年︶3月 - 閉校式挙行[30]再統合後︵1965年-2004年︶[編集]
●1965年︵昭和40年︶4月 - 西創成・中央創成を統合し、札幌市立創成小学校開校[37][注釈 36]。旧中央創成小学校を仮校舎とする︵北1条西2丁目︶[38] ●1965年︵昭和40年︶10月 - 新校舎に移転︵南3条西7丁目、旧西創成小学校跡︶[39] ●1971年︵昭和46年︶10月26日 - 創建百年記念式典挙行[40][41] ●2002年︵平成14年︶4月 - 札幌市立二条小学校内の仮校舎に移転︵南2条西15丁目︶[42] ●2004年︵平成16年︶3月29日 - 閉校[43][44] ●2004年︵平成16年︶4月 - 創成小学校、大通小学校、豊水小学校、曙小学校の4校を統合し、札幌市立資生館小学校が開校︵南3条西7丁目︶[45]校歌[編集]
中央創成小学校校歌[編集]
作詞は石森和男︵1860年 - 1916年[46]、元・北海道師範学校教師[47]︶、作曲は玉川瓶也︵生年不詳 - 1920年[48]、当時北海道師範学校教師[49] [注釈 37]︶によるもので、創成尋常小学校時代の1909年︵明治42年︶3月出願[50]、同年4月8日認可された[51][注釈 38][注釈 39]。当初の歌詞は次のとおり[50][注釈 40]。
御代の恵の露ふかく 学の柱つき立てし
その年月をかぞふれば 明治 四ヨト年セの十カミ月ナヅキ
月のうちにも日をえらび 始めてこゝに開かれし
愛と情の充ちわたる 教の庭のうれしさよ
昼はひねもす夜もすがら 流るゝ水のたえまなく
ひらけゆく世におくれじと 勉めはげまであるべきか
やまと心もつとめずば 真マコトの光そはざらん
いともかしこき御ミコ勅トノ語リ 朝な夕なに仰アフぎつゝ
雪の徽章の我が校旗 高くさゝげて諸共に
をゝしき心ふり起し 学の道を進むべし
一方、戦後の資料には、1番の﹁御代の恵の露ふかく﹂を﹁菊のかおりのいや高く﹂に改め、4番を削除し、元の5番を4番に繰り上げたものが見られる[52][注釈 41]。﹁札幌市立中央創成小学校の跡﹂の碑に刻まれた歌詞も同様で、作詞者・作曲者の後に﹁飯田広太郎加筆﹂と記してある。戦後に飯田広太郎︵1894年 - 1954年[53]、元・中央創成尋常小学校校長[54]︶が1番の冒頭を改作したとの証言がある[55][注釈 42]。
札幌市立資生館小学校敷地にある梁田貞音楽碑
この学校出身の作曲家・梁田貞を記念し、1968年、当時の創成小校庭内︵東側正門のやや北側[132]︶に胸像︵梁田の東京府立第五中学校での教え子である安田周三郎[133]が制作︶と代表作﹁どんぐりころころ﹂の楽譜を刻んだ碑が建てられ、梁田の命日である5月9日に除幕式が行われた[134]。胸像の台座正面の銘板には小原國芳が揮毫した﹁楽聖梁田貞先生像﹂の題字[135]、梁田から見て右側面の銘板には、同じく小原國芳による頌詞、楽譜碑裏面の銘板には﹁梁田貞先生年譜﹂が記されている。後に、碑のそばにドングリ︵アカナラ︶の木が植えられた[136]。旧校舎から資生館小学校への改築に伴い移設され、現在は敷地の南西角︵南4条西7丁目︶にある[137]。
札幌市役所敷地にある札幌市立中央創成小学校の跡の碑
旧中央創成小学校の跡地である札幌市役所敷地の南東角︵大通西2丁目︶に記念碑が建てられ、1972年4月21日に除幕された[138]。坂坦道作品[139][140]。校章と児童の顔のレリーフを埋め込み、銘板に原田與作揮毫の﹁札幌市立中央創成小学校の跡﹂の題字と、校歌の歌詞が刻まれている。校歌の制定日を﹁明治12年4月20日﹂と記している。これは、﹁明治42年4月20日﹂[141][注釈 63]とすべきところを、レリーフ制作の際に誤って漢数字の﹁四﹂を落としたとの証言がある[55]。また、この碑のそばには同校の卒業生が植樹した2本のイタヤカエデ[142]と、﹁中央創成小学校 大十会[注釈 64] 昭和46年11月もみじ2本植樹﹂と書かれた石標がある[143]。
西創成小学校校歌[編集]
札幌市西創成尋常小学校校歌として、1938年︵昭和13年︶に作られ[56]、1939年︵昭和14年︶1月18日認可された[57][注釈 38][注釈 43]。詞は複数名の委員の手によるもの[56]で、監修した加勢蔵太郎︵1884年[58] - 1951年[59]、当時札幌第一中学校校長[注釈 44]︶が名義上の作詞者となっている[56]。 作曲は創成小学校出身の梁田貞[56]。当初の歌詞は次のとおり[56][注釈 40][注釈 45]。 石いし狩かりの 荒あら野のに据すゑし礎いしずゑは 我わが学まなび校やの 創はじめにて 拓ひらけゆく世よの基もとゐなり 歴れき史し尊たふとき 西にし創さう成せい 歴史尊き 西創成 穢けがれなき 雪ゆきの章しるしをかざしつゝ 勅みこと畏かしこみ 健すこやかに 日ひ毎ごと撓たゆまず 学まなぶなり 力ちから溢あふるゝ 西創成 力溢るゝ 西創成 青せい雲うんの 嶺みねを仰あふぎて 大おほ空ぞらに 伸のびゆく楡にれの さながらに 剛がう健けんの心こゝろ 鍛きたふべし 希き望ばう湛たゝへし 西創成 希望湛へし 西創成 戦後の﹁札幌市立西創成小学校校歌﹂では、2番の﹁勅畏み﹂が﹁教えまもりて﹂に書き換えられている[60]が、誰が改作したかは不明。創成小学校校歌[編集]
1965年︵昭和40年︶制定、宇野親美︵1895年 - 1968年、元・北海道帝国大学予科長[61]、1907年度の一時期創成高等小学校に在籍[62] ︶作詞、渡部日出雄︵生年不詳 - 1987年[63]、当時創成小学校校長︶作曲[64]。同年10月26日の開校記念日に行われた新校舎落成記念式で披露された[65]。冒頭の部分は、西創成小学校校歌のメロディを踏襲した形になっている[注釈 46]。歌詞[66]。関係者[編集]
出身者[編集]
肩書の﹁元﹂は省略する。 ●阿部謙夫[67]︵技官、実業家、1906年高等科2年修了[注釈 47]︶- 北海道新聞社社長、北海道放送社長、創成小学校創建百年記念事業協賛会会長。 尋常科1‐2年時の同期に植村甲午郎がいた[68][69]。阿部良夫の弟。 ●阿部利雄[67]︵経営学者、1904年高等科卒[注釈 48]︶ - 北海道産業学園理事長、北海道産業短期大学学長。 ●阿部良夫[70]︵物理学者、新聞社社長、卒業年等不明[注釈 49]︶- 北海タイムス社社長を務めるかたわら、北海道帝国大学で科学史の講義を担当。阿部謙夫の兄。 ●荒谷正雄[67]︵指揮者、ヴァイオリニスト、1926年中央創成尋常科卒[71]︶- 札幌交響楽団初代指揮者。楽団設立にあたり阿部謙夫に協力を要請。 ●伊志井寛[72]︵俳優、1911年度中央創成尋常科退学[73][注釈 50]︶- テレビドラマ﹃肝っ玉かあさん﹄に出演。 ●井上和雄[74]︵時計技師、1942年中央創成卒[75]︶ - 札幌市時計台の保守点検を担当。 ●植村甲午郎[72]︵官僚、財界人、1902年の尋常科2年修了まで在籍[68][注釈 51]︶- 経済団体連合会会長、札幌オリンピック組織委員会会長。同期に阿部謙夫がいた[68][69]。 ●おおば比呂司[67]︵漫画家、1934年西創成尋常小卒[76]︶- ホテイのやきとり缶詰、わかさいもなどのパッケージをデザイン。札幌市資料館に﹁おおば比呂司記念室﹂がある。 ●小笠原貞子[67]︵政治家、1933年中央創成尋常小卒[77][注釈 52]︶- 参議院議員、日本共産党副委員長。 ●奥田良三[67]︵声楽家、1916年中央創成尋常科卒[78]︶- ヒット曲に﹁城ヶ島の雨﹂︵梁田貞作曲︶がある。南部忠平とは幼稚園からの幼なじみで、﹁よく泣かされた﹂[79]という。 ●加藤進[67]︵官僚、1915年中央創成尋常科卒[80]︶- 会計検査院長。 ●工藤恒美[72]︵漫画家、1946年西創成卒[81]︶ - ﹃ツッパラサール学園﹄で第27回文藝春秋漫画賞を受賞。 ●久保栄[82]︵劇作家、小説家、1907年創成尋常小入学、1910年3月まで在籍[82]︶ - 代表作﹁火山灰地﹂﹁のぼり窯﹂。札幌市中央区南2条西8丁目に生誕地の表示板がある。本人は校名は出さず﹁記憶に誤りがなければ、雪のなかの小学校で、伊志井寛と同級﹂[83]と書いている。 ●久保信[84]︵フィギュアスケート選手、1916年西創成尋常科卒[85]︶ - 第1回全日本フィギュアスケート選手権優勝。久保栄の弟。 ●倉井敏麿[86]︵実業家、政治家、卒業年不明︶- 新潟鐵工所社長、貴族院議員。 ●栗谷川平五郎[86]︵ノルディックスキー選手、1921年中央創成尋常科卒[87]︶- 1932年レークプラシッドオリンピック出場。 ●小菅正夫[88]︵獣医師、1961年西創成卒[89]︶ - 旭川市旭山動物園園長、札幌市環境局参与︵札幌市円山動物園担当︶を歴任。 ●小林繁夫[90]︵航空宇宙工学者、1940年中央創成卒[91]︶ - 東京大学名誉教授、日本航空宇宙学会会長。 ●斉藤昌子[92]︵声楽家、1958年中央創成卒[93]︶ - ﹃おかあさんといっしょ﹄うたのおねえさん、二期会会員。 ●坂本直行[94][注釈 53]︵画家、1919年中央創成尋常科卒[95]︶ - 六華亭の包装紙をデザイン。 ●佐々木酉二[86][注釈 54]︵微生物学者、1921年西創成尋常科卒[96]︶- 北海道大学名誉教授。 ●佐藤藤佐[86]︵裁判官、検察官、1908年創成高等小卒[97]︶- 検事総長。 ●島木健作[98]︵小説家、1914年度西創成尋常科退学[99]︶ - 代表作﹁生活の探求﹂﹁赤蛙﹂。札幌市中央区北1条西10丁目に生誕地の表示板がある。 ●左右田一平[100]︵俳優、1943年中央創成卒[101]︶ - テレビドラマ﹃新選組血風録﹄、用心棒シリーズ、映画﹃お葬式﹄などに出演。中谷一郎と同級。 ●内藤晋[86]︵スピードスケート選手、1934年中央創成卒[102]︶ - 1951年世界スピード選手権500メートル優勝。冬季オリンピック日本代表選手に2度選ばれるが、戦争と自身の病気により出場機会を逃す。 ●中谷一郎[86]︵俳優、1943年中央創成卒[101]︶- テレビドラマ﹃水戸黄門﹄で風車の弥七役。左右田一平と同級。 ●中山周三[86]︵歌人、1929年西創成尋常科卒[103]︶ - 短歌雑誌﹁原始林﹂編集発行人、藤女子大学教授。 ●南部忠平[86]︵陸上競技選手、1917年中央創成尋常科卒[104]、1919年中央創成高等科卒[95]︶- 1932年ロサンゼルスオリンピック三段跳金メダリスト。奥田良三とは幼稚園からの幼なじみで、﹁大の仲よし﹂[105]だったという。 ●西尾長光[106]︵実業家、1941年中央創成卒[107]︶ - 北の誉酒造社長、セイコーマート社長、札幌商工会議所会頭。 ●西田順子[86]︵陸上競技選手、1928年西創成尋常科卒[108]︶- 1936年ベルリンオリンピック走高跳出場、当時西創成訓導[109]。 ●半澤洵[110]︵微生物学者、1892年高等科卒[111][注釈 55]︶- 北海道大学名誉教授、納豆菌の研究。 ●平沢貞通[112]︵画家、1905年度創成高等小在籍[113][注釈 56]︶- 帝銀事件の犯人とされ死刑判決が確定するが、執行も釈放もされず獄死。 ●藤村操︵旧制一高学生、推定1898年創成尋常小卒[注釈 57]︶- 華厳滝で投身自殺し、遺書﹁巌頭之感﹂が社会的反響を呼ぶ。 ●船山馨[86]︵小説家、1926年西創成尋常科卒[114]︶- 代表作﹁石狩平野﹂﹁お登勢﹂。札幌市中央区大通西8丁目に生誕地の表示板がある。 ●古市二郎[115]︵物理学者、1922年西創成尋常科卒[116]︶- 北海道大学学長。 ●町村金五[72]︵官僚、政治家、1907年創成尋常小入学、1910年まで在籍[117][注釈 58]︶- 警視総監、衆議院議員、北海道知事、参議院議員、自治大臣。町村敬貴の弟。 ●町村敬貴[115]︵酪農家、政治家、1895年高等科2年修了[118][注釈 59]︶- まちむら農場創業者、貴族院議員、参議院議員。町村金五の兄。 ●松本秋男[86]︵工学者、1921年中央創成尋常科卒[87]︶- 北海道大学名誉教授、北見工業大学学長。 ●三岸好太郎[119]︵洋画家、1909年西創成入学、1911年まで在籍[119][注釈 60]︶ - 北海道知事公館敷地内に北海道立三岸好太郎美術館がある。 ●村中孝次[120]︵軍人、1916年西創成尋常科卒[注釈 61]︶ - 二・二六事件の首謀者の一人。 ●室谷賢治郎[115]︵経営学者、1912年中央創成尋常科卒[121]︶- 札幌商科大学学長。 ●梁田貞[122]︵作曲家、1891年尋常科入学[123][注釈 62]︶- 代表作﹁城ヶ島の雨﹂︵奥田良三の歌でヒット︶、﹁どんぐりころころ﹂。西創成小学校校歌を作曲[124]。資生館小学校敷地︵創成小学校跡地︶に記念碑がある。 ●山田忍[115]︵農学者、1916年中央創成尋常科卒[78]︶- 帯広畜産大学名誉教授。 ●若林彊[115]︵実業家、1921年西創成尋常科卒[125]︶ - 東北電力社長、会長。教職員[編集]
●大庭恭平 - 資生館長[126]。元は会津藩士だが尊王攘夷運動に加担、足利三代木像梟首事件に関与。 ●調所広丈 - 公立第一小、公立創成、県立創成校長︵1876年8月‐1882年2月︶[127]。札幌農学校長との兼任。 ●西田順子 - 西創成訓導として在職中に1936年ベルリンオリンピック走高跳出場[109]。 ●森源三 - 雨竜学校、第一学校長︵1875年10月-1876年8月︶[128]。のち札幌農学校長、衆議院議員を歴任。 ●若木勝蔵 - 中央創成校長︵1940年4月-1946年10月︶[129]、西創成校長︵1946年10月-1947年4月︶[130]歴任後、第1回参議院議員通常選挙に出馬、当選[131]。記念碑[編集]
梁田貞音楽碑[編集]
﹁札幌市立中央創成小学校の跡﹂の碑[編集]
クラブ活動[編集]
合唱クラブのNコン2連覇[編集]
1971年の開校百周年記念行事として、10月21日にはこの学校出身の歌手・奥田良三を迎えての音楽会[144][145]、10月26日には創建百年記念式典[144][41]が開かれたが、この2つの行事に前後を挟まれた10月24日、合唱クラブがNHK全国学校音楽コンクール小学校の部で最優秀校となった[146]。指導に当たっていた松坂哲夫教諭は﹁だれが仕組んだのかと疑うほどのタイミングだった[147]﹂と書いている。翌1972年も同コンクールで最優秀校となり、2連覇を果たした[148][149]。通学区域[編集]
札幌市中央区[150] ●大通東1丁目、西1-7丁目 ●南1条東1丁目、西1-7丁目 ●南2条東1丁目、西1-8丁目 ●南3条東1丁目、西1-10丁目︵ただし西10丁目は南3条通以南︶ ●南4条東1丁目、西1-10丁目︵ただし西1-4丁目は南4条通以北︶ ●南5条西5-10丁目 ●南6条西5-10丁目 ●南7条西6-10丁目 ●北1条西1-7丁目 ●北2条西1-7丁目 ●北3条西1-7丁目 ●北4条西1-7丁目 ●北5条西1-7丁目進学先中学校[編集]
※閉校時脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁本陣﹂とは、官設の旅館を意味する。開拓使官員や人夫のための宿泊施設が﹁開拓使本陣﹂であるが、当初、今の豊平3条1丁目付近にあった志村鐵一の通行屋︵﹃新札幌市史 第1巻﹄824頁︶の建物を南1条西1丁目に移して仮設の本陣とした︵﹃札幌区史﹄318頁、﹃札幌教育史 上巻﹄18頁︶。これが﹁開拓使仮本陣﹂である。
(二)^ 対象とする生徒について、﹃札幌区史﹄389頁では﹁移民子弟の教育﹂、﹃札幌教育史 上巻﹄23‐24頁では﹁官員子弟に限定﹂、﹃新札幌市史 第2巻﹄378頁では﹁開拓使官員子弟等教育のため﹂とばらつきがある。
(三)^ abc﹃札幌区史﹄387-388頁、札幌市内の通りを参照。
(四)^ 資生館開校の時期について、﹃創成百年﹄22-23頁では、明治36年における元生徒︵正しくは﹃新札幌市史 第2巻﹄992頁にあるように﹁明治病院 院長 尾形碧﹂であるが、誤って﹁長尾明治病院々長﹂としている︶の﹁明治4年10月、北1条東2丁目に移転﹂という発言が引用されているのみで、26日開校とする根拠は示されていない。
﹃札幌教育史 上巻﹄25頁には、(a) 明治4年9月14日設置認可、(b) 同年10月26日設置、(c) 同年11月3日開校とあるが、(b) を設置日とする根拠が示されていない。
﹃新札幌市史 第2巻﹄378頁は︵旧暦︶11月開校としているが、同書の年表﹃新札幌市史 第8巻2﹄45頁では︵旧暦︶10月26日開校としており、混乱が見られるうえに、後者が出典史料としている﹃札幌区史﹄389頁でも、﹁︵明治︶4年10月﹂に校舎を北1条東2丁目に移転して資生館と称した旨が書かれているだけで、﹁26日﹂というのは根拠不明である。
また、資生館の所在地について、上述のように﹃札幌区史﹄389頁、﹃創成百年﹄22-23頁などは﹁北1条東2丁目﹂としているが、﹃札幌教育史 上巻﹄24頁で引用する尾形碧の発言︵﹁札幌区史々料﹂伊東正三編 函館図書館蔵︶では、﹁明治4年10月北1条東1丁目︵現今上星小間物店辺ノ角ニ当ル︶二移転セリ﹂となっている。この発言は1903年︵明治36年︶におけるものだが、1910年︵明治43年︶の﹁札幌区商工新地図﹂を見ると、北1条東1丁目に﹁小間物雑貨 上・ 神田商店﹂︵﹁上・﹂は﹁上﹂と﹁・﹂を上下に並べた屋号紋︶が存在する。尾形碧の発言を信用し、上星小間物店がこの7年間で移転していないとすれば、資生館の所在地は雨竜通︵東2丁目通︶に面した北1条東1丁目の角、現在のアルファセンタービルの場所であったと考えられる。この場所は、1978年︵昭和53年︶に町の区域の変更により﹁北1条東2丁目﹂から﹁北1条東1丁目﹂に変わった︵﹃広報さっぽろ﹄217号中央7頁︶。
なお、﹃創成百年﹄23頁の大庭恭平館長の肩書、218頁年表に﹁開拓使立資生館﹂とあるが、﹁開拓使立﹂を冠するのが正式名称だったかどうかは不明。
(五)^ この改称時期については、(a) 明治5年11月︵1872年12月︶とする史料︵﹃開拓使事業報告 第4編﹄402頁︶と、(b) 明治6年︵1873年︶6月17日とする史料︵﹃開拓使事業報告 附録 布令類聚下編﹄26頁︶がある︵﹃札幌教育史 上巻﹄28頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄380頁︶。﹃新札幌市史 第2巻﹄380頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄51頁は(b)を採用している。
なお、﹃創成百年﹄25頁の上村行清校長の肩書に﹁開拓使立札幌学校﹂とあるが、﹁開拓使立﹂を冠するのが正式名称だったかどうかは不明。同頁掲載の明治8年6月28日付賞状の写真には、発行者名が単に﹁學校﹂と筆文字で書いてあり、校印は﹁札幌学校﹂となっている。
(六)^ 開拓使東京仮学校が札幌に移転し、﹁札幌学校﹂という名で設立された︵札幌農学校の前身︶ので、同名を避けるための改称。校舎が﹁雨竜通﹂に面していたことによる。
﹃札幌教育史 上巻﹄27頁では﹁明治8年9月7日東京の開拓使仮学校を札幌に移し札幌学校と称したため﹂﹁雨龍︵小︶学校に改めた﹂と書いており、9月7日以降に雨竜学校に改称したように読める書き方をしている。
なお、﹃創成百年﹄26頁の森源三校長の肩書には﹁開拓使立雨竜学校﹂とあるが、﹁開拓使立﹂を冠するのが正式名称だったかどうかは不明。同書27頁掲載の賞状の写真には筆文字で﹁雨龍黌﹂とあり、学校印は﹁雨龍學校﹂となっている。
(七)^ 学制に基づいて定められた、﹁小学教則﹂︵明治5年9月8日文部省布達番外︶。
(八)^ この札幌学校所轄となった時期について、﹃創成百年﹄26頁では雨竜学校への改称と同時のように書いているが、﹃新札幌市史﹄によると、時期にずれがあったようである。
(九)^ ab﹃創成百年﹄27頁の上段年表欄では明治9年5月﹁第一学校と改称﹂に対して見出しでは﹁公立第一小学校と改称︵明9・5︶﹂となっていたり、28頁見出しでは﹁公立第一小学校の開業式︵明9・5︶﹂とするなど、﹁公立第一小学校﹂に改称した時期に関して混乱が見られ、校正ミスとも思われる。
﹃札幌区史﹄568頁によれば、﹁校舎を新築し、9年5月竣工、其月26日を以て開校式を挙げ、更に校名を公立第一小学校と改めたり﹂と書いて、﹁初め単に第一学校と称し、8月2日に至り第一小学校と改む﹂とあるから、併せて読めば、まず5月26日に﹁第一学校﹂となり、8月2日に﹁第一小学校﹂に改めたということのようだが、﹁第一学校﹂にも﹁公立﹂を冠したのかどうか、この記述からは判断しがたい。
﹃新札幌市史 第8巻2﹄59頁では、﹁6.21 雨竜学校を︵略︶第一小学校と改称﹂、﹁8.2 第一小学校を公立第一小学校と改称﹂としており、﹃新札幌市史 第2巻﹄381頁の記述と比べると、雨竜学校からの改称の日付も学校名も食い違っている。この年表の8月2日の項が典拠とする﹃西創成小学校 学校沿革誌(上)﹄︵札幌市公文書館蔵︶6頁では、﹁明治9年5月26日 ︵略︶校名ヲ公立第一小学校ト改ム﹂﹁而シテ単ニ第一学校ト称セシヲ同9年8月2日公立第一小学校ト改称ス﹂となっている。
(十)^ ﹃創成百年﹄26頁の森源三校長の肩書と、218頁年表には﹁札幌学校所轄第一学校﹂とある。また、﹃札幌教育史 上巻﹄67頁、巻末年表5頁では、﹁札幌学校所轄第一小学校﹂となっている。これらが正式名称だったかどうかは不明。
(11)^ 札幌学校から札幌農学校への改組に伴う︵﹃創成百年﹄28頁、﹃札幌教育史 上巻﹄68頁︶。ただしその所轄を離れた厳密な日付までは不明で、﹃札幌教育史 上巻﹄巻末年表5頁でも﹁明治9年8月﹂としか示されていない。
(12)^ ﹃創成百年﹄26頁に掲載の賞状の写真では、汚れにより判読しにくいものの、発行日が﹁明治9年9月29日﹂、発行者は﹁開拓使札幌﹂と小書きにしてから改行し大きく﹁公立第一小学校﹂、校印は﹁第一學校﹂と読める。
また、﹃創成﹄4頁に掲載の卒業証書の写真では、発行日が﹁明治14年4月18日﹂、発行者はやや小書きで﹁開拓使札幌﹂、改行して大きく﹁第一小學校﹂とあり、﹁第一學校﹂の印が押されている。
両者の時期には4年半ほどの開きがあるが、いずれにしても、﹁第一小学校﹂の上に﹁開拓使札幌﹂や﹁公立﹂を冠するのが正式だったのかどうか、判定しがたい。
(13)^ ﹃札幌区史﹄573頁などでは﹁藻巌学校﹂と表記している。﹃創成百年﹄では﹁藻巌学校﹂︵33頁本文、39頁本文など︶と﹁藻岩学校﹂︵39頁上段年表、218頁年表など︶が混在する。﹁藩岩学校﹂︵33頁上段年表︶は誤植。
(14)^ 校名は﹁創業守成﹂の古語に由来し、札幌の教育の夜明けを﹁創﹂にこめ、その創業の精神を守り発展させる未来への願いを﹁成﹂にこめた︵﹃創成百年﹄35頁︶。
なお、同書218頁では明治14年7月﹁札幌区公立創成学校﹂となっているが、﹁札幌区﹂を冠するのが正式名称だったかどうかは不明。
(15)^ 仮師範学校開設の時期について、﹃札幌区史﹄807頁は﹁明治15年中﹂、﹃創成百年﹄36頁、219頁は﹁明治15年9月﹂とする。
(16)^ ﹃札幌区史﹄807頁では﹁県立札幌師範学校﹂、﹃創成百年﹄37頁では﹁県立師範学校﹂としている。
(17)^ ﹃創成百年﹄36頁上段年表では明治16年5月に県立師範の﹁附属小学校となる﹂としているのに対し、37頁本文見出しでは﹁県立師範の附属となる。︵明16・12︶﹂としているが、後者は校正ミスであろう。
(18)^ ﹃創成百年﹄37頁ではこの時期を附属小が新設されたのと同時の﹁明治17年2月﹂としている。
﹃札幌区史﹄807頁は﹁県立を廃し公立小学校たらしめ﹂、810-811頁は﹁16年12月25日創成学校県立を廃され、札幌区第一番学区引渡を受けて公立となし﹂と書いており、これを受けて﹃創成百年﹄37頁も﹁県立から公立へ移される﹂としているが、﹃札幌教育史 上巻﹄巻末年表9頁では﹁12・24札幌県立創成学校は区立学校に改組する﹂、﹃新札幌市史 第8巻2﹄77頁では﹁12.25 創成学校が県立から区立となる﹂と表現を変えている。
また、日付については、﹃創成百年﹄は﹁12月﹂とだけ書いているが、﹃札幌教育史 上巻﹄は﹁12月24日﹂、﹃札幌区史﹄と﹃新札幌市史 第8巻2﹄は﹁12月25日﹂としている。
さらに、﹁創成学校﹂から﹁創成小学校﹂となった時期についても不明な点がある。﹃創成百年﹄37頁掲載の明治17年8月14日付卒業証書の写真には﹁公立創成學校﹂とあることや、その他公文書、当時の他校名︵藻岩学校、豊水学校など︶の関連などから、改称時期はもっと遅かったとも考えられる︵同書38頁︶が、﹃札幌教育史 上巻﹄104頁は﹁創成学校は明治16年12月に創成小学校と改称﹂としているのに対し、﹃新札幌市史 第2巻﹄396頁では明治15年2月に﹁創成学校﹂、同じ頁で明治17年1月には﹁創成小学校﹂と表記しており、改称時期には触れていない。﹃新札幌市史 第8巻2﹄では明治19年6月まで﹁創成学校﹂と書き、明治21年8月31日に初めて﹁創成小学校﹂が現れる。
また、﹃創成百年﹄37頁掲載の卒業証書の写真で﹁公立創成學校﹂の前の行に﹁札幌縣﹂と記されているのは、単に所在地を記したものなのか、それも名称の一部なのか、判定しがたい。
同書39頁、41頁、42頁の歴代校長の肩書に﹁札幌区創成小学校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかも不明。
(19)^ この時期について、﹃創成百年﹄37頁、219頁は﹁明治17年2月﹂とし、﹃札幌教育史 上巻﹄105頁と﹃新札幌市史 第8巻2﹄79頁は﹁明治17年1月22日﹂と日付を明記している。
(20)^ ﹃創成百年﹄42頁の校長肩書に﹁札幌区創成尋常高等小学校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかは不明。
(21)^ この改称の日付を﹃新札幌市史 第8巻2﹄109頁では11月28日と明記しており、創成高等小学校の開校日に合わせたものと見られる。
﹃創成百年﹄42頁の校長肩書には﹁札幌区創成尋常小学校﹂とあるが、同書58頁に掲載の﹁卒業生心得﹂には﹁札幌區公立創成尋常小學校﹂と印字されており、﹁札幌区﹂﹁公立﹂を冠するのが正式名称であったとも考えられる。
(22)^ ﹃創成百年﹄46頁では﹁明30・6﹂となっているが、おそらく誤記。同書220頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄820頁 では明治30年5月、﹃札幌教育史 上巻﹄161頁、巻末年表18頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄111頁では明治30年5月3日としている。
(23)^ ﹃札幌区史﹄1025頁に﹁31年﹂とあるのは誤記。
(24)^ この改称時期は、﹃札幌区史﹄1024頁と﹃新札幌市史 第2巻﹄688頁は単に﹁43年﹂とし、﹃新札幌市史 第8巻2﹄153頁では﹁43年4月1日﹂としているのに対し、﹃創成百年﹄62頁は見出しで﹁高等科の併置と校名の改称︵明43・8︶﹂としながら、本文では﹁43年4月1日からは本校にも高等科が併置され校名も中央創成尋常高等小学校と改称された﹂とし、同220頁年表では﹁43・8 高等科を併置し、中央創成尋常︵ママ︶小学校と改称﹂とするなど、大混乱が見られる。正しくは、1910年3月2日﹁北海タイムス﹂掲載の﹁札幌区告示第14号﹂に﹁明治43年4月1日ヨリ創成尋常小学校及東尋常小学校ニ高等小学校ノ教科ヲ併設シ其ノ学校名ヲ左ノ通リ改称ス︵中略︶創成尋常小学校 改称 中央創成尋常高等小学校︵後略︶﹂とあるように、﹁明治43年4月1日﹂に高等科併置と同時に改称したと見られる。なお、﹃札幌市史 文化社会篇﹄126頁は、明治41年に﹁高等科を併置して中央創成尋常高等小学校﹂となったとしているが、上記告示に照らして間違いである。
また、﹃創成百年﹄54頁、64頁の歴代校長肩書では﹁札幌区中央創成尋常高等小学校﹂、72頁に掲載の﹁創立五十年記念帖﹂の写真では﹁札幌區中央創成尋常高等小學校﹂、66頁、75頁、79頁、83頁の歴代校長肩書では﹁札幌市中央創成尋常高等小学校﹂となっているのに対し、﹃新札幌市史 第2巻﹄688頁に掲載の写真-2では、門柱に﹁公立中央創成﹂の文字が見えることから、﹁公立﹂を冠するのが正式だったとも考えられ、キャプションも﹁公立中央創成尋常高等小学校﹂としている。門柱の写真は1911年︵明治44年︶、記念帖は1920年︵大正9年︶と時期のずれがあることは考慮すべきであるとしても、いずれが正式名称だったとも判定しがたい。
﹃創成百年﹄73頁に、1920年︵大正9年︶のものとされる﹁寄贈された校旗﹂の写真が掲載されており、﹁札幌市中央創成尋常小学校﹂という文字が読める。市制が施行されたのは1922年︵大正11年︶だし、再び高等科を分離して単置の尋常小学校となったのは1931年︵昭和6年︶なので、大正9年の写真とは考えられない。
(25)^ ab札幌市では、1930年から1931年にかけて3つの単置高等小学校︵第一、第二、女子︶を設置して高等科児童をここに収容することとし、従来の尋常高等小学校は、師範附属を除いてすべて尋常小学校になった︵﹃札幌市史 文化社会篇﹄136-137頁︶。
(26)^ ﹃創成百年﹄73頁の校旗の写真、83頁、90頁の歴代校長肩書には﹁札幌市中央創成尋常小学校﹂とあるのに対し、86頁に掲載の校名の標札の写真では﹁公立中央創成尋常小學校﹂となっており、このうちいずれかが正式名称だったのか、判定しがたい。
(27)^ ﹃創成百年﹄102頁の校長肩書には﹁札幌市中央創成国民学校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかは疑問。
(28)^ ﹃創成百年﹄114頁本文に﹁札幌市立中央創成小学校と改名﹂とあり、同頁掲載の写真に写っている門標にも同じ表記があるので、昭和22年改称時点での正式名称が﹁札幌市立﹂を冠したものだったと考えられるが、113頁の鎌田校長肩書ではわざわざ﹁札幌市中央創成小学校﹂と﹁札幌市立中央創成小学校﹂を併記しているので疑問が残る。しかし、鎌田校長の着任が﹁昭和21・10﹂とあるので、着任当初は﹁札幌市中央創成国民学校﹂であったと書くつもりで、﹁札幌市中央創成小学校﹂と誤記したとも考えられる。なお、119頁に掲載の﹁招待券付学芸会﹂の写真︵昭和25年︶では、招待券に﹁札幌市中央創成小学校﹂と印刷されているなど混乱が見られる。
(29)^ ﹃創成百年﹄132頁に﹁期間は38年3月末まで﹂とあるのは誤り。
(30)^ ﹃創成百年﹄46頁には﹁11月22日開校﹂とあるが、﹃新札幌市史 第8巻2﹄109頁が典拠とする﹃北海道毎日新聞﹄︵1896年︵明治29年︶11月26日︶の記事では、11月28日開校式と報じられている。
﹃創成百年﹄46頁、48頁、50頁の歴代校長肩書には﹁札幌区創成高等小學校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかは不明。
(31)^ 第三次小学校令明治40年改正による義務教育延長に伴い、尋常科4年・高等科4年から尋常科6年・高等科2年に改められたため、それまでの高等科の1年生~4年生が尋常科5年・6年、高等科1年・2年となり、新たに尋常科1年生を入学させた︵﹃創成百年﹄59頁︶。
また校名については、同書58頁の校長肩書に﹁札幌区創成尋常高等小学校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかは不明。
﹃新札幌市史 第8巻2﹄147頁は、改称日を4月1日としている。また同頁に明治41年7月11日﹁西創成尋常高等小学校が保護者会設立﹂とあるのは誤記。
(32)^ 創成尋常小学校にも高等科が併置され、そのままでは創成尋常高等小学校が2校できることになるので、区別のため︵﹃創成百年﹄62頁︶。
﹃札幌区史﹄1024頁には明治43年に﹁創成高等小学校﹂から直接﹁西創成尋常高等小学校﹂に改称したように書いてあり、また﹃札幌市史 文化社会篇﹄126頁には明治41年に﹁創成高等小学校﹂が﹁西創成尋常高等小学校となった﹂と書いてあるが、1910年︵明治43年︶3月2日﹁北海タイムス﹂掲載の﹁札幌区告示第15号﹂に﹁明治43年4月1日ヨリ創成尋常高等小学校ヲ西創成尋常高等小学校ト改称ス﹂あることから、どちらも正しくない︵﹃創成百年﹄59頁の注で否定されている︶。
同書同頁、66頁の歴代校長肩書には﹁札幌区西創成尋常高等小学校﹂、66頁、83頁の歴代校長肩書には﹁札幌市西創成尋常高等小学校﹂とあるが、これらが正式名称だったかどうかは不明。
(33)^ ﹃創成百年﹄73頁の﹁昭和9年ごろの校舎全景﹂の図には﹁札幌市立西創成尋常小學校﹂、100頁の校歌の写真では﹁札幌市西創成尋常小學校﹂、優良校表彰状の写真では﹁北海道廳札幌市﹂と小書きにしてから改行し﹁西創成尋常小學校﹂、83頁の校長肩書には﹁札幌市西創成尋常小学校﹂とあり、いずれが正式名称だったかは不明。
(34)^ ﹃創成百年﹄83頁、107頁の歴代校長肩書に﹁札幌市西創成国民学校﹂、108頁の賞状の写真には﹁札幌市西創成國民學校﹂とあるが、これが正式名称だったかどうかは不明。
(35)^ ﹃創成百年﹄114頁本文、表札の写真、115頁の校長肩書で﹁札幌市立西創成小学校﹂となっており、この改称時から﹁札幌市立﹂が冠されていたと考えられる。なお、112頁の若木勝蔵校長肩書に﹁札幌市西創成小学校﹂とあるのは、在任期間が昭和21・10から昭和22・4までとあることから見て、﹁札幌市西創成国民学校﹂の誤りであろう。
(36)^ ﹃新札幌市史 第8巻2﹄407頁では開校日を3月31日としている。
(37)^ ﹃創成百年﹄61頁には﹁本校教諭﹂とあるが、同書237‐241頁の歴代職員名簿には見当たらない。
(38)^ ab1894年、小学校唱歌用歌詞及楽譜採用方︵明治27年文部省訓令第7号︶により、小学校で校歌など独自の唱歌を採用するには文部大臣の認可を要した。この訓令は昭和6年文部省訓令第20号によって廃止されると同時に、昭和6年文部省令第21号によって改正された小学校令施行規則︵明治33年文部省令第14号︶第53条ノ2に同趣の規定が引き継がれた。小学校令施行規則は昭和16年文部省令第4号により改正されて国民学校令施行規則となったが、その第36条に同趣の規定が引き継がれ、1947年︵昭和22年︶に廃止されるまで効力を有した。
(39)^ ﹃創成百年﹄61頁では﹁明治42年4月20日認可﹂としているが、これは学校に認可の通知が届いた日か。
(40)^ ab歌詞、曲ともに著作権の保護期間が満了している。
(41)^ ﹃創成﹄冒頭で4番︵元の5番︶の歌詞中﹁諸共に﹂が﹁もろもろに﹂となっているのは誤記と見られる。
(42)^ 改作が飯田広太郎によるものだとすれば、その改作部分についても、著作権の保護期間が満了している。
(43)^ ﹃創成百年﹄100頁では﹁昭和14年2月13日認可﹂となっているが、これは学校に認可の通知が届いた日か。
(44)^ ﹃創成百年﹄100頁では﹁札幌第二中学校︵現西高︶の加勢蔵太郎先生﹂となっているが、﹃百年史 北海道札幌南高等学校﹄207頁によると札幌第二中学校から1937年︵昭和12年︶4月に札幌第一中学校に移り、1942年︵昭和17年︶6月まで校長を務める。なお、﹃創成﹄冒頭の楽譜で﹁加瀬蔵太郎 作詞﹂となっているの は誤記。
(45)^ ﹃創成百年﹄100頁および﹃創成﹄冒頭に掲載の楽譜を参考にふりがなを補った。ただし2番の﹁勅畏み﹂については7文字ということから推定した。
(46)^ ﹃創成﹄冒頭に掲載の楽譜を比較のこと。
(47)^ ﹃創成﹄41頁に創成尋常小﹁明治33年4月~明治37年1月入学﹂として、72頁に創成高等小﹁明治39年度﹂の一人として載っている。しかし、本人が書いた記事︵札幌南高校﹃六十年史﹄167頁︶によると札幌中学に明治39年から44年まで在学したことになっているから、明治39年には高等小学校を出ていなければならない。﹃その微笑﹄366‐367頁では﹁明治33年3月 札幌区中央創成小学校に入学﹂﹁明治39年3月 札幌区西創成高等小学校卒業﹂となっており、学校名は不正確だが、中学在学時期と整合する。
(48)^ ﹃創成﹄65頁に﹁明治36年度﹂として載っているが1904年︵明治37年︶卒業と解釈される。
(49)^ ﹃創成﹄15頁に﹁札幌区創成小学校 札幌区創成尋常高等小学校 尋常科在籍 明治25年9月入学~明治28年7月入学﹂として載っている。
(50)^ ﹃創成﹄93頁では尋常科・高等科の区別なく﹁明治44年度退学﹂となっているが、年齢から判断して尋常科退学である。﹃札幌人名事典﹄32頁には﹁創成小学校を卒業﹂とあるが、他の資料によると卒業はしていない。
(51)^ ﹃創成﹄39頁に﹁明治33年4月~明治37年1月入学﹂として載っている。﹁私の履歴書﹂34頁では明治34年︵1901年︶に第2学年を終えたことになっている。しかし、その後、慶応義塾幼稚舎、東京府立第一中学校を経て1年浪人し、第一高等学校に入学したとある︵﹁私の履歴書﹂34‐44頁︶から、そのまま行けば一高入学は明治44年︵1911年︶になるはずだが、実際には大正元年︵1912年︶である︵﹁入学許可﹂官報1912年8月3日︶。﹃北海道新聞﹄1959年7月5日朝刊13面掲載の植村のインタビュー記事﹁休日放談﹂で、﹁明治35年﹂まで札幌で過ごしたと述べていることからも、創成尋常小学校入学は明治33年で、明治35年に第2学年を修了したと判断される。
(52)^ ﹃創成﹄229頁に旧姓︵非公開︶で載っている。
(53)^ 九島勝太郎が書いた﹁そば﹂という文章の中に﹁畏友、坂本直行は私と小学校の同期生だが﹂という記述があり︵﹃札幌事始﹄278頁︶、﹃創成﹄110頁に九島、同書111頁に坂本の名が、﹁中央創成大正8年尋常科卒業﹂として載っている。
(54)^ ﹃創成百年﹄209頁で﹁佐々木酉三﹂となっているのは誤植。
(55)^ ﹃創成﹄7頁に﹁尋常小学科在籍 明治20年5月入学~明治25年7月入学﹂として載っている。
(56)^ ﹃われ、死すとも瞑目せず﹄203頁によると、平沢は1892年︵明治25年︶2月18日生まれで、﹁高等3年で庁立札幌中学に入りました﹂とあるが、通常通り満6歳︵1898年︶で就学し、尋常科に4年、高等科に3年通ったとすると、1905年︵1904年度末︶に修了したはずであり、明治38年度︵1905年度︶に高等小に在籍したとする﹃創成﹄の記録に合致しない。
﹃帝銀事件と平沢貞通氏﹄17-18頁には、﹁明治32年︵1899年︶、7歳のときに︵略︶創成小学校に入学﹂、明治38年︵1905年︶に﹁創成小学校高等2年﹂から﹁札幌第二中学﹂に入学したとあるが、これも﹃創成﹄の記録に合致しない。また、当時まだ札幌第二中学は存在しないから﹁札幌中学﹂の誤りであろう。
いずれにしても疑問が残る。
(57)^ ﹃創成﹄12頁に﹁尋常科在籍 明治25年9月入学~明治28年7月入学﹂として載っている。
(58)^ ﹃創成﹄90頁に中央創成明治43年度退学として﹁町村金吾﹂が載っているが誤植であろう。
(59)^ ﹃創成﹄9頁に﹁尋常小学科在籍 明治20年5月入学~明治25年7月入学﹂として﹁町村敏貴﹂が載っているが、誤植であろう。また同書19頁に﹁高等科在籍 明治26年4月~30年3月﹂として載っている。この書き方だと明治30年︵1897年3月︶に高等科を卒業したようにも読めるが、﹃町村敬貴伝﹄64頁に明治22年4月創成小学校入学、明治28年同校を﹁卒業﹂、札幌尋常中学校に入学とあることから、実際には明治28年﹁高等科2年修了﹂と見られる。
(60)^ ﹃創成﹄148頁に﹁明治44年度退学﹂として載っている。
(61)^ ﹃創成﹄156頁に﹁村中孝治﹂として載っているが誤植と見られる。
(62)^ ﹃音楽の師 梁田貞﹄46頁では﹁︵1899年︶明治32年3月﹂高等科卒業、﹃札幌教育史 上巻﹄251頁では﹁︵1897年︶明治30年3月﹂高等科2年修了としている。﹃創成﹄では10頁に﹁尋常小学科在籍 明治20年5月入学~明治25年7月入学﹂、21頁に﹁高等科在籍 明治28年4月~明治32年3月﹂として載っている。
(63)^ 上述のとおり、採用認可は明治42年4月8日。
(64)^ 大正10年尋常科卒業生の同期会。
出典[編集]
(一)^ ﹃札幌の小学校﹄13頁
(二)^ ﹃札幌区史﹄389頁、﹃創成百年﹄22-23頁、﹃札幌教育史 上巻﹄23-24頁、巻末年表2頁
(三)^ ﹃開拓使事業報告 第4編﹄402頁、﹃札幌区史﹄389頁、﹃創成百年﹄22‐23頁、﹃札幌教育史 上巻﹄24‐25頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄45頁
(四)^ ﹃開拓使事業報告 第4編﹄402頁、﹃札幌区史﹄389-390頁、567頁、﹃創成百年﹄24頁、﹃札幌教育史﹄上巻26頁
(五)^ ﹃札幌区史﹄567頁、﹃創成百年﹄26頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄57頁
(六)^ ﹃新札幌市史﹄第8巻2 59頁
(七)^ ab﹃札幌区史﹄568頁、﹃創成百年﹄27頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄381頁
(八)^ ﹃札幌区史﹄573頁、﹃創成百年﹄33頁、﹃札幌教育史 上巻﹄70-72頁、巻末年表7頁、﹃新札幌市史第2巻﹄381頁、﹃新札幌市史第8巻2﹄69頁
(九)^ ﹃札幌区史﹄570頁、﹃創成百年﹄35頁、﹃札幌教育史 上巻﹄巻末年表7頁 、﹃新札幌市史﹄第2巻381頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄71頁
(十)^ ﹃創成百年﹄36頁、﹃札幌教育史 上巻﹄104頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄73頁
(11)^ ﹃札幌教育史 上巻﹄104頁、巻末年表8頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄396頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄73頁
(12)^ ﹃札幌区史﹄807頁、﹃創成百年﹄36-37頁、﹃札幌教育史 上巻﹄105頁、巻末年表8頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄396頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄77頁
(13)^ ﹃札幌区史﹄807頁、﹃創成百年﹄37頁、﹃札幌教育史 上巻﹄104頁、巻末年表9頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄77頁
(14)^ ﹃創成百年﹄37頁、﹃札幌教育史 上巻﹄105頁、﹃新札幌市史 第2巻﹄396-397頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄79頁
(15)^ ﹃豊水百年﹄29頁、﹃札幌教育史 上巻﹄75頁、巻末年表9頁、﹃新札幌市史 第8巻2﹄81頁
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