浄ノ池特有魚類生息地
浄の池の歴史[編集]
浄円寺[編集]
名台之永荒廢間ニ不罷成候間如貴寺御望之井出志摩守其斷申心得候尤之由被申候間御屋敷建立普請候而御作事可被成候悉細和田百姓中ヘ申渡候間可御心易候門前之儀相渡申候間相違有間敷爲其一筆如此候仍如件
慶長十三年七月十六日 觀 譽 殿
浄の池の異魚毒魚[編集]
黒田長礼による天然記念物調査報告[編集]
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浄の池の所在地[編集]
この池の所在地について、黒田の作成した調査報告書では 冒頭の﹁淨の池﹂ノ所在地其他、で次のように説明されている。玖須美ノ十字路ヲ濱新道ノ方ヘ二丁 初メテノ横丁ヲ右ヘ曲リ左側ノ中部ニ在リ |
『史跡名勝天然記念物調査報告』 第26號 |
町の中央を貫流する松川の下流に架けた大川橋に東南に立てば伊東唯一の近代的建物である駿河銀行伊東支店が前方左手に峙つてゐる。 その前の道路は若干の廣場になつて居て、そこから三叉状に分岐してゐる中央の道路を、伊東町水道課の建物を左手に見て約そ四丁程進めば、 道の將に大左曲しやうとする手前の左側道路に面して『天然記念物淨の池』と書いた標柱が見出される。ここが即ち淨の池所在地である。 |
『淨の池異魚繪葉書』解説書 |
浄の池の概要[編集]
黒田が調査を行った1921年︵大正10年︶当時の浄の池は、水表面積わずか9坪という極めて小さな池であった。幕末から明治初期頃までは数倍ほど大きな池であったという。それが次第に埋め立てられ徐々に狭められ小さな池になり、池畔は多少手入れが加えられていた[10]。つまり調査時には、池の周囲に岩石が並べ廻らされるなど、元々自然の池だった浄の池は、人手も加わった半人工的な池になっていたのである。池の水は隣接する唐人川と小孔︵水門︶を介して流出入していた。ただし、この唐人川は川とはいえ1間︵約1.8m︶幅程度の小さな溝に過ぎず[4]、池の水とは辛うじて繋がっている状態であった。池の水量はほぼ一定しており増減することは少なく、深さはおよそ2尺5寸︵約75cm︶、池の底より微温湯が湧出しており、水面からは白い湯気が立ち昇っていた。また、朝から午前にかけた時間帯は池の水が澄んでいて、午後になると多少濁ることが常であったという[9]。 水温および水質について黒田は伊東町の薬剤師徳永静馬に調査を依頼し、1921年3月27日に測定された。外気温のまだ低い3月下旬に水温が一定して26°Cであり、池底より常に温泉が湧出していることが示された。徳永は水温以外にも、水質は中性であり、無色透明無味無臭である旨を報告している[23]。 1921年︵大正10年︶の浄の池計測値 ●面積 9坪︵約29.75平方メートル︶ ●水深 2尺5寸︵約75センチメートル︶ ●水温 摂氏26°C浄の池の魚類[編集]
オオウナギ[編集]
- 報告書での学名 Anguilla mauritiana
- 報告書での和名 おほうなぎ
- 方言名 蛇鰻 (じやうなぎ)
オキフエダイ[編集]
- 報告書での学名 Lutjanus vaigiensis
- 報告書での和名 おきふえだひ(沖笛鯛)
- 方言名 毒魚 (どくぎよ)
ユゴイ[編集]
- 報告書での学名 Kuhlia marginata
- 報告書での和名 ゆごひ(湯鯉)
- 方言名 湯鯉 (ゆごひ)
コトヒキ[編集]
- 報告書での学名 Therapou servus
- 報告書での和名 やがたいさぎ
- 方言名 迅奈良 (じんなら)
シマイサキ[編集]
- 報告書での学名 Therapon oxyrhyuch
- 報告書での和名 しまいさぎ
- 方言名 横縞 (よこしま)
唐人川と﹁千葉氏所有池﹂[編集]
ハイレン(イセゴイ)[編集]
- 報告書での学名 Megalops cyprinoides
- 報告書での名称 はいれん(海奄)
マクチ(ボラ)[編集]
- 報告書での学名 Mugil oeur
- 報告書での名称 まくち(眞口)
マクチことボラ (英: Flathead grey mullet)はボラ目ボラ科ボラ属に属する魚であり、学名Mugil cephalus cephalus (Linnaeus, 1758)、標準和名はボラである[55]。今日で言う まくち とは一般的にはボラの別称として使用される別名のひとつであるが、黒田は通常のボラとは区別し次のように報告書に記載している。
「…普通のぼら(いな)と同等なるも背面全部及び各鰭は眞黒色を呈す(但し腹鰭には黒色少なし)體の側面は白色の地に淡黒色を帯び各鰭に黒斑を有し多数の縦線を構成す…(中略)…今回余の調査にては「淨の池」及び千葉氏の大池の方にも産せず同氏の小池(二十坪位)にのみ約二十尾を産するを目撃せり普通の淡色のぼらと共に遊泳するを見たるが黒色なるを以て直ちに見分くることを得且つ不活動なるを確かめ得たりこは性質を異にするものの如し…」
— 「静岡県伊東町「淨の池」ノ魚類ニ関スルモノ」黒田長礼[56]
天然記念物指定の必要性と保護[編集]
現状の保護状態と改善の提言[編集]
﹁淨の池﹂ノ魚類ヲ天然記念物トナスヲ要ス[編集]
調査報告書の結論として﹁浄の池﹂および﹁生息する魚類﹂に対し天然記念物に指定するよう黒田は結論付けている。池に生息する5種のうち、やがたいさぎ︵コトヒキ︶と、しまいさぎ︵シマイサキ︶の2種は他所でも普遍的に生息しているため、天然記念物として保護する必要はないものの、他の、おおうなぎ、おきふえだい、ゆごい、の3種は南洋を主な産地とし、伊東に所在する特定の池に棲み付いているのは珍しく、充分な保護を行う価値があるものとしている。また、浄の池は希少な生物群の生息地であるにもかかわらず、容易に訪れることが可能な街中に位置する特異性を指摘し、同時に浄の池が個人所有地であるため、所有者による土地改変などの懸念を払拭する意味も含め、天然記念物に指定することの必要性にも言及している。 黒田による﹁淨の池﹂ノ魚類ヲ天然記念物トナスヲ要スとする文節の全文を下記に示す。 '此池ニ産スル魚類中しまいさぎトやがたいさぎノ二種ハ本邦内ニアリテ分布廣ク且ツ其数モ多キヲ以テ特ニ天然記念物トシテ保護ノ必要ナキモ他ノおほうなぎ及ビおきふえだひ並ニゆごひハ其分布︵南洋、印度地方ニ主産シ本邦ニ達セルモノ︶ヨリ見ルモ充分保護ノ値アリ且ツおほうなぎノ如ク偉大ナルモノハ明ニ天然記念物トシテ永遠ニ保存スベキニ値ス是等ノ魚類ハ伊豆地方ニハ決シテ稀ナルモノニハ非ラザルモ﹁淨の池﹂ノ如ク何人ニテモ容易ニ是等ノ魚類︵大形ノモノノ意ヲ含ム︶ヲ観察シ得ラル、場所ハ他ニ類例少キモノトス若シ今後所有者ノ考ヘ變ジテ此池ヲ埋メンカ此貴重ナル年經タルおほうなぎヲ初メ其他ノ魚類を失フコト明ラカニシテ再ビ之ト同一ノモノヲ補缺スルノ困難ナルハ云フマデモナキナリ此故ヲ以テ速カニ﹁淨ノ池﹂ト共に天然記念物トシテ指定ヲ要スルナリ'浄の池を訪れた文人[編集]
種田山頭火[編集]
自由律俳句で知られる俳人種田山頭火︵たねだ さんとうか︶は、1936年︵昭和11年︶4月、熱海まで汽車を使い、熱海から徒歩で伊東を訪ねている。当時山頭火は53歳、伊東温泉に数日間滞在し、伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音、湯の町通りぬける春風、はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる、などの句を残している。山頭火が宿泊したのは和田湯から東へ3軒目にあった﹁伊東屋﹂︵現存しない︶という木銭宿であったが、すぐ側にある浄の池へも訪れている[30]。そのときの様子は山頭火の其中日記︵ごちゅうにっき︶の中に次のように記されている[† 7]。 四月十九日 雨、予想した通り。 みんな籠城して四方山話、誰も一城のいや一畳の主だ、私も一隅に陣取つて読んだり書いたりする。 午后は晴れた、私は行乞をやめてそこらを見物して歩く、浄の池で悠々泳いでゐる毒魚。 伊東はいはゆる湯町情調が濃厚で、私のやうなものには向かない。波音、夕焼、旅情切ないものがあつた。一杯ひつかける余裕はない、寝苦しい一夜だつた。 — 種田山頭火、其中日記[62]室生犀星[編集]
伊豆伊東の温泉(いでゆ)に、じんならと云へる魚棲みけり
けむり立つ湯のなかに 己れ冷たき身を泳がし、あさ日さす水面に出でて遊びけり
人ありて間はばじんならは悲しと告げむ、己れ冷たく温泉(ゆ)はあつく
されど泳がねばならず、けぶり立つ温泉(いでゆ)のなかに棲みけり
詩人・小説家として知られる室生犀星(むろう さいせい)は、1923年(大正12年)3月5日から17日まで1人で伊東を訪れ、浄の池の湯煙の立つ水中を懸命に泳ぐコトヒキ、方言名迅奈良(じんなら)を見て心を打たれ、じんなら魚(じんならうお)という詩を残している[† 8]。
室生犀星は当時34歳、生まれて間もない長男豹太郎を前年に亡くし、絶望の最中にあった犀星は、浄の池を訪れた際に「じんなら魚」を見て、湯煙の立つ池の中で必死に泳ぐ「じんなら」を自分の身にたとえて、この詩を詠んだと言われている[18][64]。
…お寺のようなところで、列をつくって泳いでいるじんならという魚を見たとき、余りにふしぎな感じがあった。(中略)このじんなら魚は、湯気の立つ温かい温泉まじりの水のなかに、快活に泳いでいた。半分は地獄で半分は極楽のような光景は、このさかなが温かいお湯に泳いでいるだけでも、何か間違った事をしているように思われた。
「じんなら、じんなら、じんならはあわれなりけり」…
天然記念物指定の解除[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
座標: 北緯34度58分8.1秒 東経139度6分0.0秒 / 北緯34.968917度 東経139.100000度