零式艦上戦闘機
A6M 零式艦上戦闘機
概要[編集]
零式艦上戦闘機は、1936年に大日本帝国海軍に制式採用された九六式艦上戦闘機の後継機として開発され、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦場で活躍した。 3,000 kmの長大な航続距離、翼内に対爆撃機用の20ミリ固定機銃2門、機首部分に7.7ミリ固定機関銃2門を装備した重武装、格闘戦を重視した優れた運動性能、そして空力的洗練と防弾装備をなくし軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の﹁栄﹂エンジンの性能を極限まで引き出すに至り、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。 しかし、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるも、後継機である十七試艦上戦闘機﹁烈風﹂の開発が大幅に遅れたことにより、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機だった。 大戦末期には、戦闘爆撃機や特攻機としても改造され使用された。 開発元は三菱重工業︵以下﹁三菱﹂︶。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産が行われており、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の一万機以上[2]。特徴[編集]
名称[編集]
構造[編集]
零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするために、軽量化を徹底している[4]。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した[5]。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトやねじなどに至るまで徹底したという。 しかし、これら軽量化策は想定外の強度低下を招き、初期の飛行試験では設計上耐えられるはずの条件下での機体の破壊を招いた。1940年︵昭和15年︶3月、十二試艦戦2号機が昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解しテストパイロットの奥山益美が殉職、さらに1941年︵昭和16年︶4月、二一型135号機と140号機がバランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより、急降下中に空中分解して下川万兵衛大尉が殉職、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[6]。操縦席の横に補強した脚置き場を設置し、胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。 生産段階でも多数の肉抜き穴や、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が増える設計となっているが、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。大戦中期以降は後継機の開発が遅れたため生産数を増やす必要に迫られたことで設計を変更し、工数を減らす努力が続けられたが、設計段階から生産効率を考慮したP-51マスタングと比較すると零戦の生産工数は3倍程度もあり、生産側の負担となった[注釈 3]。 米軍が鹵獲した零戦二一型の機体調査に携わったチャンス・ヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が、大戦中だけでなく現在でも一部海外で存在する。しかし、この説は開発開始時期の相違によって否定されている。降着装置が半引き込み式で、尾部の突起が少々長いが、外形、寸法、各種数値が似ているグロスター社のF.5/34をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。しかも、グロスターのF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮︵モノコック︶構造なので、コピー説は否定されている。似ているのは、機体形状に関して冒険を避け、当時主流の設計にまとめられた結果である。 零戦には九六式艦上戦闘機同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機︵中島製︶に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。 降着装置- 機銃
性能[編集]
格闘性能 高い運動性能を持ち、同世代の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能がズームを除いて格段に優れる。20mm機銃2挺という強力な武装。気化器が多重の弁︵0Gバルブ/中島製︶を持つために、マニュアル上背面飛行の制限がない[注釈 19]。これは戦闘機にとっては非常に重要で、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎを考慮しないで済むため、機体の空力特性=旋回性能限界としての操縦が可能である。ただし、持続的なマイナスG状態での飛行では米軍機同様のエンジンストールが発生することが米軍の鹵獲機試験で判明しており、大戦後期の攻略戦法に取り入れられている。初期の米国戦闘機に﹁ゼロとドッグファイトを行なうな﹂﹁零戦と積乱雲を見つけたら逃げろ﹂という指示があったのは、同じ姿勢変化を追随して行なうとエンジン不調につながるからでもあった。一方、低速域での操縦性を重視し巨大な補助翼を装備したため、低速域では良好な旋回性能の反面、高速飛行時には舵が重く機動性が悪かった。 零戦は操縦は極めて容易なため搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行えた[24]。 搭乗員の藤田怡与蔵は﹁零戦は戦闘機として必須のあらゆる特性を一身兼備、一千馬力から100パーセントの効率をしぼり出して再現したようなバランスのよくとれた高性能を持っていた。特に昇降舵操舵に対してはどこまでも滑らかで崩れず、いかなる速度と迎え角においても、ピシッときまる天下一品の応答をしてくれた。調教の行きとどいた駿馬とでもいったふうにパイロットの動かす通りに動いてくれた﹂と語っている[25]。 零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。烈風︵当時は十七試艦戦︶の研究会において、花本清登少佐︵横須賀航空隊戦闘機隊長︶は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面荷重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している[26]。 横転性能 本庄季郎技師の研究による﹁軽くて効きが良い﹂弦長比の小さい舵が補助翼︵エルロン︶にも採用されている[27]。補助翼は昇降舵や方向舵より操作が軽い事が求められるが[28]、固定脚の九六艦戦に比べ飛行する速度域が急降下を含め拡大しており、全域で満足な舵を得るのが難しくなっていた。操縦者の見解は厳しく、堀越自身も﹁本機は翼幅が12mと大きく低速で十分な横揺れ加速度が得られず、中速度以上では重過ぎて効き不足だった﹂と書いている[29]。後に空技廠の提案で高速時の操舵を軽くできるバランスタブを補助翼後縁に追加し[29]、高速/空戦時の横転性能改善を確認したが、低速で舵が軽くなり過ぎる欠点を併発[30]。さらに1941年4月に発生した下川大尉の空中分解で事故原因としてバランスタブが疑われ、後に直接関係がない事が判明するも[31]バランスタブは廃止された。三二型は主翼幅を11mに減じ、さらに補助翼内端を約20cm削って補助翼面積が減少したが操舵が軽くなり横転性能は向上した[32]。なおフラップと補助翼の間にはどちらでもない固定部が20cm残った[33]。二二型は主翼幅、補助翼幅とも二一型と同じに戻されたがバランスタブが復活[34]。五二型で再び翼幅11mとし三二型と同じく補助翼内端が削られたがフラップが延長され固定部は無い。翼端を丸めた分、三二型より補助翼面積が減り、バランスタブが再び廃止されている[35]。五二型試作機の試験飛行は横須賀航空隊にいた本田稔が担当し、最終仕上げに尽力したという[36]。 零戦が採用した金属骨組みに羽布張りの補助翼は軽量化で有利となる反面、高速で舵角を取ると骨と骨の間の羽布面が風圧でたわみ、舵軸から遠い後縁ほど角度が急になる。これは操舵を軽くするバランスタブと逆の効果を産み、舵を押し戻すので操舵が重くなる。スピットファイアがV型で採用した金属外皮の補助翼は変形せず高速域で良く効いたという。[37][注釈 20] 速力 軽量化のため、500 km/h (270kt) 超の最高速度。急降下に弱いのは徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、F4Fなどの米軍機よりも低い629.7 km/h (340kt) であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた[6]。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は740.8 km/h (400kt) まで引き上げられている。 航続力 零戦は大戦初期において、長航続距離で遠隔地まで爆撃機を援護し同時侵攻できた数少ない単発単座戦闘機である。陸軍の一式戦闘機隼も航続距離は長い方だが、実戦では零戦の方が長距離作戦に投入されることが多かった。もともと艦隊防空を主任務とする艦戦は、常に艦船上空に滞空させて対空監視︵戦闘哨戒︶を行う必要がある。零戦が開発された1936年︵昭和11年︶当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦は、陸上基地とは異なり早期警戒のための対空見張り網を構築できないためである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど、交代機が故障で上がれないなどの突発的な事態において防空網に穴が空きにくいという利点がある。後述の十二試艦上戦闘機計画要求書にあるように、航続力が距離ではなく滞空時間で指定されている事も、こうした運用に基づくものである。当時の米軍戦闘機ではF4F-3︵2,285km︶でも長い部類であった。 長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。ただし、自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦で大航続力に頼った戦術は搭乗員に過度の負担と疲労を与えた。また、洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには、搭乗員が高度な技量と経験をもつ必要があった。 航続力において二一型は傑出しているが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や栄より燃費の悪い金星を搭載した五四型を除く零戦後期型︵二二型や五二型各型︶と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の85%程度となる。また、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういった制限はない。三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。 零戦の航続力はそれまでの単座戦闘機と比べて長大だったので、長距離飛行の技術が操縦員に求められた。単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機だけの洋上航法は、ベテランでも習得困難な技術だった。しかし1940年︵昭和15年︶の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波政治大尉、1941年︵昭和16年︶の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉らは、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった[38]。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤を使って計算し、海面の波頭、波紋の様子を観察してビューフォート風力表によって﹃風向、風力﹄を測定して[注釈 21]、風で流された針路を﹃偏流修正﹄し、﹃実速﹄︵実際の対地速度、当時の呼称︶を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上150海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索によって晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲︵例えば20海里︶に収める程度の精度だった。単座戦闘は複座・多座の攻撃機爆撃機に比較して無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかったが、実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。アメリカ軍による評価[編集]
太平洋戦争末期のアメリカ軍航空技術情報センター︵ADRC︶による零戦への評価は下記のとおり[39]。 零戦の高い旋回率、機動性、優れた飛行特性は、戦闘機の特性として最も望ましいものである。貧弱な性能、劣った武装、高速時の重い操舵性、過度の脆弱性は戦闘機として望ましくないものである。アメリカの水準と比べると非常に軽い構造で、装甲板、セルフシーリング燃料タンクを装備していない。このような特徴から、戦闘機としては非常に脆弱なものとなっている。歴史[編集]
十二試艦上戦闘機[編集]
零戦の仕様は﹁昭和十一年度 航空機種及性能標準﹂の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている[40]。 ﹁昭和十一年度 航空機種及性能標準﹂ 機種‥艦上戦闘機 使用別‥航空母艦︵基地︶ 用途‥1. 敵攻撃機の阻止撃攘/2. 敵観測機の掃討 座席数‥1 特性‥速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること 航続力‥正規満載時全力1時間 機関銃‥7.7mm 700発 ×2。 機関砲‥20mm 60発 ×2。 通信力‥電信300浬、電話30浬 実用高度‥3,000m乃至5,000m 記事‥1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内/2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること/3. 促進可能なること/4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること 開発は1937年︵昭和12年︶10月5日に海軍から提示された﹁十二試艦上戦闘機計画要求書﹂に端を発する。 ﹁十二試艦上戦闘機計画要求書﹂[41] (一)用途‥掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの (二)最大速力‥高度4000mで270ノット以上 (三)上昇力‥高度3000mまで3分30秒以内 (四)航続力‥正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間︵高度3000m︶/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000mを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上 (五)離陸滑走距離‥風速12m/秒で70m以下 (六)着陸速度‥58ノット以下 (七)滑走降下率‥3.5m/秒乃至4m/秒 (八)空戦性能‥九六式二号艦戦一型に劣らぬこと (九)銃装‥20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺、九八式射爆照準器 (十)爆装‥60kg爆弾又は30kg2発 (11)無線機‥九六式空一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置 (12)その他の装置‥酸素吸入装置、消火装置など (13)引き起こし強度‥荷重倍数7、安全率1.8 ﹁十二試艦上戦闘機計画要求書﹂は1937年5月に原案がメーカーに提示され、10月に正式な文書として交付された。そのため、変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている[42]。﹁目的﹂が﹁攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり﹂というものもある。堀越二郎によれば、5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという[43]。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが﹁ないものねだり﹂と評するほど高いものであり、中島飛行機が途中で辞退、零戦は三菱単独開発となった。前作の九六式艦上戦闘機に続き堀越二郎技師を設計主務者として開発した。 1938年︵昭和13年︶1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、日中戦争から帰還した第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での九六式艦戦や九五式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える[44][45]。太平洋戦争開始前の日中戦争︵支那事変︶[編集]
太平洋戦争緒戦[編集]
零戦鹵獲と大戦中期[編集]
大戦末期[編集]
戦後[編集]
諸元[編集]
制式名称 | 零式艦上戦闘機二一型 | 零式艦上戦闘機五二型 | 零式艦上戦闘機五四型 |
---|---|---|---|
機体略号 | A6M2b | A6M5 | A6M8 |
全幅 | 12.0m | 11.0m | |
全長 | 9.05m | 9.121m | 9.237m |
全高 | 3.53m | 3.57m | |
翼面積 | 22.44m2 | 21.30m2 | |
自重 | 1,754 kg | 1,856 kg | 2,150 kg |
正規全備重量 | 2,421 kg | 2,733 kg | 3,150 kg |
翼面荷重[諸元注 1] | 107.89 kg/m2 | 128.31 kg/m2 | 147.89 kg/m2 |
発動機 | 栄一二型(離昇940hp) | 栄二一型(離昇1,130 hp) | 金星六二型(離昇1,560 hp) |
最高速度 | 533.4 km/h (288kt)[諸元注 2]@高度4,700m | 565 km/h (305kt)@高度6,000m | 572.3 km/h (309kt)@高度6,000m [諸元注 3] |
上昇力 | 6,000mまで7分27秒 | 6,000mまで7分1秒 | 6,000mまで6分50秒 |
降下制限速度 | 629.7 km/h (340kt) | 666.7 km/h (360kt) | 740.8 km/h (400kt) |
航続距離 | 巡航3,350 km(増槽あり) 巡航2,222 km(正規) 全速30分+2,530 km(増槽あり) 全速30分+1,433 km(正規) |
全力30分+2,560 km(増槽あり) 1,921 km(正規) |
全力30分+1200 km(増槽あり)[諸元注 4] 850 km(正規) |
武装 | 翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各60発)[諸元注 5] 機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発) |
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各100発) 機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発) |
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各125発) 翼内三式十三粍固定機銃2挺(携行弾数各240発) |
爆装 | 30kg又は60kg爆弾2発 | 250kg又は500kg爆弾1発 30kg小型ロケット弾4発 以上より選択 | |
試作機完成 | 1940年7月 | 1943年4月 | 1945年4月 |
型の変遷[編集]
発動機 | 型式 | 主翼 | ||||||||||
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栄一二 | 一一 | 翼端折り畳みなし | ||||||||||
└→ | 二一 | → | 四一(計画のみ) | 翼端折り畳みあり | ||||||||
栄二一 | └→ | 三二 | 翼端切落し(角型) | |||||||||
└→ | 二二 | 二二甲 | 翼端折り畳みあり | |||||||||
栄二一 栄三一甲 栄三一乙 |
└→ | 五二 | 五二甲 | 五二乙 | 五二丙 | → | 六二 | 翼端切り落とし(丸型) | ||||
栄三一 | ├→ | 五三丙 | 六三 | |||||||||
金星六二 | └→ | 五四 | 六四 | |||||||||
装備 | 九九式一号機銃 | 九九式二号機銃 | 20mm機銃の形式 | |||||||||
60発 | 100発 | 125発ベルト給弾 | 20mm機銃の弾数 | |||||||||
九七式7.7mm機銃 | 三式13.2mm機銃 | 副兵装 | ||||||||||
防弾装備なし | 防弾装備あり | 防弾装備 | ||||||||||
小型爆弾のみ | 250 kg | 500 kg | 爆装 |
この他、引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20mm斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型(通称「零夜戦」)がある。また、陸上基地での運用を前提に、二二型の翼端折り畳み機構と着艦フックを廃止した「零戦一二型」と呼ばれる型が存在していたとする説が雑誌「丸」において発表されている。その他にも、翼内の九九式20mm機銃を二式30mm機銃に換装した試験機が数機試作され、ラバウルにおいて実戦テストに投入されている。
生産推移[編集]
- 出典: 学研『零式艦上戦闘機 2』2001年 [143]。
年月 | 三菱重工業 | 中島飛行機 | ||||||||||
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一一型 | 二一型 | 三二型 | 二二型 | 五二型 | 五二型甲/乙 | 五二型丙 | 六二型 | 五四型 | 二一型 | 五二型 | 五二型丙/六二型 | |
1940.5 | 5機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.6 | 3機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.7 | 9機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.8 | 8機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.9 | 9機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.10 | 19機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.11 | 7機 | 16機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.12 | - | 19機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.01 | - | 23機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.02 | - | 23機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.03 | - | 30機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.04 | - | 27機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.05 | - | 30機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.06 | - | 25機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.07 | - | 24機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.08 | - | 30機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.09 | - | 33機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.10 | - | 43機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.11 | - | 52機 | - | - | - | - | - | - | - | 1機 | - | - |
1941.12 | - | 60機 | - | - | - | - | - | - | - | 5機 | - | - |
1942.01 | - | 60機 | - | - | - | - | - | - | - | 19機 | - | - |
1942.02 | - | 58機 | 4機 | - | - | - | - | - | - | 21機 | - | - |
1942.03 | - | 55機 | - | - | - | - | - | - | - | 25機 | - | - |
1942.04 | - | 54機 | - | - | - | - | - | - | - | 22機 | - | - |
1942.05 | - | 58機 | - | - | - | - | - | - | - | 28機 | - | - |
1942.06 | - | 21機 | 24機 | - | - | - | - | - | - | 29機 | - | - |
1942.07 | - | - | 46機 | - | - | - | - | - | - | 41機 | - | - |
1942.08 | - | - | 51機 | - | - | - | - | - | - | 52機 | - | - |
1942.09 | - | - | 64機 | - | - | - | - | - | - | 62機 | - | - |
1942.10 | - | - | 65機 | - | - | - | - | - | - | 72機 | - | - |
1942.11 | - | - | 67機 | - | - | - | - | - | - | 80機 | - | - |
1942.12 | - | - | 19機 | 50機 | - | - | - | - | - | 96機 | - | - |
1943.01 | - | - | - | 68機 | - | - | - | - | - | 89機 | - | - |
1943.02 | - | - | - | 69機 | - | - | - | - | - | 100機 | - | - |
1943.03 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 114機 | - | - |
1943.04 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 120機 | - | - |
1943.05 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 126機 | - | - |
1943.06 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 132機 | - | - |
1943.07 | - | - | - | 77機 | - | - | - | - | - | 146機 | - | - |
1943.08 | - | - | - | 4機 | 75機 | - | - | - | - | 156機 | - | - |
1943.09 | - | - | - | - | 79機 | - | - | - | - | 170機 | - | - |
1943.10 | - | - | - | - | 105機 | - | - | - | - | 182機 | - | - |
1943.11 | - | - | - | - | 110機 | - | - | - | - | 202機 | - | - |
1943.12 | - | - | - | - | 130機 | - | - | - | - | 223機 | 2機 | - |
1944.01 | - | - | - | - | 125機 | - | - | - | - | 230機 | 8機 | - |
1944.02 | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 79機 | 30機 | - |
1944.03 | - | - | - | - | 8機 | 97機 | - | - | - | 88機 | 109機 | - |
1944.04 | - | - | - | - | - | 109機 | - | - | - | 111機 | 238機 | - |
1944.05 | - | - | - | - | - | 95機 | - | - | - | - | 232機 | - |
1944.06 | - | - | - | - | - | 100機 | - | - | - | - | 200機 | - |
1944.07 | - | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 163機 | - |
1944.08 | - | - | - | - | - | 135機 | - | - | - | - | 232機 | - |
1944.09 | - | - | - | - | - | 135機 | - | - | - | - | 245機 | - |
1944.10 | - | - | - | - | - | 74機 | 71機 | - | - | - | 141機 | 53機 |
1944.11 | - | - | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 109機 |
1944.12 | - | - | - | - | - | - | 62機 | - | - | - | - | 206機 |
1945.01 | - | - | - | - | - | - | 35機 | - | - | - | - | 216機 |
1945.02 | - | - | - | - | - | - | 58機 | 1機 | - | - | - | 108機 |
1945.03 | - | - | - | - | - | - | - | 40機 | - | - | - | 207機 |
1945.04 | - | - | - | - | - | - | - | 36機 | 1機 | - | - | 230機 |
1945.05 | - | - | - | - | - | - | - | 37機 | 1機 | - | - | 247機 |
1945.06 | - | - | - | - | - | - | - | 23機 | - | - | - | 185機 |
1945.07 | - | - | - | - | - | - | - | 15機 | - | - | - | 137機 |
1945.08 | - | - | - | - | - | - | - | 6機 | - | - | - | 87機 |
注1:中島製五二型には五二型甲も含む(生産数不明)
注2:1942年2月の三菱製三二型4機は同年2 - 4月の合計数
注3:1944年4月の中島製二一型111機は同年4 - 5月の合計数
注4:1945年4月 - 5月の三菱製五四型2機は試作機
塗装[編集]
海外の運用国[編集]
インドネシア ●インドネシア空軍 独立派ゲリラが少数を鹵獲し、1945-1949年のインドネシア独立戦争でオランダ軍に対して使用した。 中華民国 ●中華民国空軍 中国国民党は1941年に2機の二一型を鹵獲してフライング・タイガースに引き渡し、終戦後は台湾でも1機の五二型を鹵獲して1948年から福建省で練習機として使用した[146]。中国共産党も1945年10月に東北民主連軍が3機の三二型を接収して修理し、日本軍人による東北民主連軍航空学校で練習機として使用した[147]。
現存する機体[編集]
国内[編集]
型名 | 機体写真 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 尾翼番号/製造番号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
二一型 | 科博廣澤航空博物館 | 公開 | 静態展示 | 53-122/中島 31870(主要部品) | 1943年5月頃より、ラバウル航空隊に属する航空隊が順次撤退していたが、そのうち最後まで残り撤退した航空隊の武器や人員を受け入れていた二五三空がラバウル工廠で偵察用に改造した複座機。吉澤徳重上飛曹の乗機だったが、1945年1月9日、ラバウル北西ニューブリテン島ランバート岬沖約250m地点で撃墜され、水深8mの海底に沈んでいた。1972年(昭和47年)に引き上げられ、復元された後に国立科学博物館へ寄贈された[148](日大教授による)。2020年7月まで国立科学博物館で展示されていたが、科博廣澤航空博物館に移設され、2024年2月11日より公開[149]。 | |
二一型 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 | 8月のみ | 静態展示 | オヒ-101(現在はAI-101)/中島 91518(主要部品) | 左記施設により東南アジア各地の戦跡で集められた零戦のパーツから復元。90%以上がオリジナル部材で、栄一二型発動機を搭載している。岩本徹三中尉搭乗機であるオヒ-101の塗装とマーキングが施されていた。2001年(平成13年)より毎年8月だけの期間限定で、原田館長の個人収蔵品の一部として公開が行われている[150][151]。 | |
二一型 | 写真 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 | 8月のみ | 静態展示 | 311-190/中島 92717 | 1944年(昭和19年)4月ごろ製造された最終期の21型。この機体は内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し外板を張らずにスケルトン状態で保存されている[150][151]。 |
二一型 | ガダルカナル時の写真 上 : 主翼 中 : 胴体後部 下 : 報国号の表記 |
零式一号艦上戦闘機 二型 三菱2666号・報國515(廣嶋縣産報呉支部號)資料館[152] | 月一度公開 | 静態展示 | /三菱 2666(報國-515 廣嶋縣産報呉支部號) | 報国515資料館の機体入手後の調査と2008年に発見時の写真資料から、不時着ではなく墜落の可能性が高いことが判明した。朝日新聞デジタルの記事[153]などでの空母翔鶴所属機「EI-108」との推測は、後部胴体の線が「白線と誤判定」され、機体の一部にあった「8」という数字からの誤認の結果と考えられており、この機体の所属などは未確定となっている。 |
三二型 | 筑前町立大刀洗平和記念館 | 公開 | 静態展示 | Y2-128/三菱 3318 | マーシャル諸島タロア島で残骸が発見され、現地所有者より買い取った福岡航空宇宙協会が中日本航空で修復して2004年(平成16年)まで名古屋空港航空宇宙館に展示していた機体。
福岡航空宇宙協会の所有物であったが現在は筑前町に寄贈され左記施設に展示されている。 | |
五二型 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 | 8月のみ | 静態展示 | 豹187/中島 1493 | 昭和19年(1944年)5月頃、中島飛行機にて製造。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。2001年(平成13年)から毎年8月だけの期間限定で原田館長の個人収蔵品の一部として公開が行われている[150][151]。 | |
五二型 | 靖国神社遊就館 | 公開 | 静態展示 | 81-161/三菱 4240、?/三菱 4241(主翼と前部胴体の一部) | 1943年(昭和18年)11月に製造された初期の五二型。戦後ラバウルで連合軍の連絡機として使用されていた。1975年にラバウルから回収され河口湖自動車博物館・飛行舘館長の原田信夫によって修復が進められた。[151]三菱重工の協力で、あいち航空ミュージアムの五二甲型と2機同時に復元作業が行われた[要出典]。2002年、靖国神社創立130年記念のため遊就館に奉納され、永久に靖国神社で保存されることとなった。[2] | |
五二型 | 航空自衛隊浜松基地浜松広報館 | 公開 | 静態展示 | 43-188/三菱 4685 | 1944年(昭和19年)3月に三菱名古屋工場にて製造。同年グアムのアガナ (Agana) 飛行場において不時着・破損。そのまま放置されていた機体が1963年(昭和38年)に発見され日本へ搬送し復元されたもの[154]。 | |
五二甲型 | 大江時計台航空史料室 [3] | 公開 | 静態展示 | /三菱 4708 | 1975年にミクロネシアのヤップ島から回収され、河口湖自動車博物館・飛行舘館長の原田信夫が三菱の協力のもとに復元した機体[155]。かつては三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室で一般公開されていた。史料室の閉室に伴いあいち航空ミュージアムで展示していたが、左記史料室が新設したときに移設した。 | |
五二甲型 | 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 | 公開 | 静態展示 | 三菱 ???? (二一型) 中島 22383 (五二型丙) |
1992年(平成4年)に鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた二一型の末期生産型と五二丙型の2機を使用し、1機の五二甲型として復元した機体[156][157]。 | |
五二丙型 | 知覧特攻平和会館 | 公開 | 静態展示 | ヨD-127/中島 62343 | 大戦末期の1945年(昭和20年)5月に鹿児島県甑島の手打港近海に没した機体。1980年(昭和55年)に知覧町(当時)によって引き上げられた。ほぼ海底から引き上げられたままの状態で主翼を含めた機体前部が展示されている。損傷が大きいためか六二型とされることもある[158]。 | |
六二型 | 呉市海事歴史科学館 | 公開 | 静態展示 | 210-118B/中島 82729 | 終戦間際に琵琶湖へ不時着水し湖底に沈んでいた機体を1978年(昭和53年)に引き上げ、京都嵐山美術館が外観を修復した[159]後、和歌山市の白浜零パーク[160][161]で展示されていた。現在は呉市海事歴史科学館で展示されている[162]。 |
国外[編集]
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 尾翼番号/製造番号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
二一型 | アメリカ (ハワイ) | 真珠湾太平洋航空博物館 [4] | 公開 | 静態展示 | 中島 2985(機首7.7mm機銃提供),中島 3471,中島 5355,EII-102/中島 5356 ,WI-150/中島 5451(報国第1053號 全南海苔號)[163][164](原型機) EII-102→BII-120 (西開地一飛曹の機体と同ナンバー)(新造機) |
1943年(昭和18年)のソロモン諸島の戦いに出撃した機体。 | |
二一型 | アメリカ | 国立海軍航空博物館 [7] | 公開 | 静態展示 | 中島 3471,4460,4461,4469, ,EII-140/中島 5450(報国第1045號 内外印刷號)[163][164] (原型機) 神-136→EII-140(新造機) |
カナダ人大戦機収集家のロバート・ディマート [8] がバラレ島で収集した8機のパーツより復元された3機のうちの2機目(3機目は墜落事故で喪失)。 | |
二一型 | アメリカ | ダコタ・テリトリー航空博物館[11] | 公開 | 飛行可能 | 中島 1498(主な胴体) AI-1-129/中島 6544[165](胴体後ろ) ,中島 5459[166](左翼) ,中島 3471[167](胴体前)(原型機) AI-1-129(新造機) |
ロバート・ディマートがバラレ島で収集した8機から復元した3機を製造した後、使用されなかった残骸数機を使用して修復を加えた機体。カナダの企業によりプロジェクトが開始されたが、その企業が倒産したため、アメリカ・ノースダコタ州のダコタ・ブレイド社が引き継ぎ完成させた。
主な部材はアメリカ最大手のアルミメーカー・アルコア社の協力のもとで新造し、流用部品は再生加工を施された。 2004年に二度目の飛行が行われた。[12] | |
二一型 | アメリカ | 国立アメリカ空軍博物館 [13] | 公開 | 静態展示 | AI-3-102/中島 5553 | ニューアイルランド島のカビエン市の周辺で発見・回収された機体。ラバウルに送られカビエンの第六航空隊のちに第二五三航空隊によって運用されたうちの1機でソロモン海戦中に撃墜されたとみられる。 | |
二一型 | 現在の様子 撃墜直後の様子 |
オーストラリア | ダーウィン航空博物館[15] | 公開 | 静態展示 | BII-124/三菱 5349 | 1942年にメルヴィル島上空で撃墜された機体。搭乗者は後にカウラ事件を起こす豊島一・一飛兵。[16] |
二一型 | オーストラリア | オーストラリア戦争記念館 [17] | 公開 | 静態展示 | V-173/三菱 5784 | ニューブリテン島のガスマタ飛行場に放置されていた機体が回収され、1976年にオーストラリアに送られた後に左記施設が取得し復元したもの。
坂井三郎一飛曹(当時)がラバウルの台南航空隊で1942年(昭和17年)の6月から7月にかけて搭乗した機体とされている。[18] | |
二一型 | 事件直後に撮影された同機 |
アメリカ (ハワイ) | 真珠湾太平洋航空博物館 | 公開 | 静態展示 | BII-120/三菱 2266 | ニイハウ島事件時の、西開地重徳一飛曹乗機の実物。[168] |
二一型 | ソロモン諸島 ブーゲンヴィル島 | 旧バラレ飛行場[169] 滑走路跡東側 | 公開 | 放置 | /中島 | コックピット周辺だけが現存。[170] | |
三二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開 | 静態展示 | V-190/三菱 3032(報國-874 定平號) | 機体の主翼より後ろ側と垂直尾翼だけが現存し、尾輪は失われている。壁にかけるように展示されている。 | |
三二型 | アメリカ | エバーグリーン航空博物館 | 公開 | 静態展示 | S-112/三菱 3148(報國-994 満洲國中等學校號) | コックピット周辺だけが現存。[19] | |
三二型 | 写真 | アメリカ | 非公開 | 修復中 | S-112/三菱 3148 (報國-994満洲國中等學校號) | 各地の三二型の残骸とリバースエンジニアリングによる新造部品から飛行可能とすべく復元中の機体。当初は栄二一型発動機を修繕する予定であったが、長時間飛行に耐えられないため代替発動機 P&W R1830-92となった。 | |
三二型 | イギリス | ロンドン帝国戦争博物館 [20][21] | 公開 | 静態展示 | Y2-176/三菱 3685 | コックピット周辺から尾翼までの胴体を中心とした残骸で、1991年にマーシャル諸島のタロア島より回収された。一部修復の上、2014年より展示されている。[22] | |
二二型 | アメリカ | 記念空軍(CAF)[23] | 公開 | 飛行可能 | X-133/三菱 3869(原型機) X-133/3869(新造機) |
1970年代にパプアニューギニアでサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代後半にロシアのストレラ・プロダクション・アソシエイツ社で新造して復元された、飛行可能な3機の零戦二二型の内の1機目。エンジンはP&W R-1830。飛行登録ナンバー:NX712Z。
所有者はアメリカ国内を中心に歴史的航空機を保存・再生し航空祭でそのデモフライトを行っているNPOである、記念空軍(略称CAF)である。同団体は他にも、T-6 テキサンを改造して二一型に模したレプリカ機(『トラ・トラ・トラ!』などの映画やドラマに出演している)など保存している。 | |
二二型 | アメリカ | フライング・ヘリテージ・コレクション | 公開 | 飛行可能 | UI-161/三菱 3852 | 1970年代にパプアニューギニアでサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシアで新造して復元された飛行可能な3機のうちの2機目。複座仕様へ改造の後、2011年にフライング・ヘリテージ・コレクションにより二度目の飛行を行った[171]。ポール・アレンが購入後、私設博物館で常設展示している他、アメリカの機体番号(N3852)を取得し、定期的にデモ飛行を行っている。[24] | |
二二型 | ニュージーランド | オークランド研究所・博物館 [25] | 公開 | 静態展示 | 2-152/三菱 3844 | 戦後にブーゲンヴィル島に残されていた、故障した後に残存していた部品を使って修復し飛べる状態にしてから特攻に使用予定だったとされる故障機を回収・修復した機体。この機体は修復された当時、やっと飛べるような酷い状態であったが、それでもラバウルへ運んだあと特攻に使う予定だったとされている。ラバウルへ飛び立つ日に終戦となったため、連合軍が来た際にも良い状態で残っていたようだ。博物館へ移動されてからはまだら模様に塗装されていたが、前の塗装に戻された。[26] | |
二二型 | ソロモン諸島 (ブーゲンヴィル島) | キエタ記念公園 [27] | 公開 | 静態展示 | (3-112)/三菱 | 鉄の支柱二本の上に展示されている。被弾して墜落した機体であり、展示後も尾翼が落ちたりなどした為2005年に修理がされたが、状態はあまり良いとは言えない。[28] | |
二二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開 | 静態展示 | 不明 | 主翼が展示されている。 | |
二二型 | 分割した状態
|
アメリカ | 米国内の財団(詳細不明) | 非公開 | 飛行可能 | (AI-112)/三菱 3858 | 1970年代にパプアニューギニア・ラバウル近郊でサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシア・ヤコヴレフ社で新造して復元された飛行可能な3機のうちの3つ目。エンジンはP&W R-1830。米映画『パール・ハーバー』などに使用され、アメリカ人パイロットが所有していたが、後にTHE FEWを経営する石塚政秀が購入した。2010年に日本への「零戦里帰りプロジェクト」を設立したものの、日米両国「武器輸入」の通関問題や、それまでの維持費の資金難などで紆余曲折した末、100人以上の協力と資金援助を受けて、2014年11月に帰国が実現し、同月21日から24日の4日間、埼玉スーパーアリーナにて分解状態のままで一般公開された後2015年内までに組立が完了し、翌年1月27日に本機の国内初飛行を実施[172]。2017年に千葉県で開催されたエアレース世界選手権にてデモフライトも行われた(このとき、機体記号(N553TT)は米国籍のままである[173][174])。日本国内での保存を計画していたが維持費の捻出が厳しくなり[175]、2020年6月に米国内の財団(詳細不明)に売却した[176]。 |
五二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開 | 飛行可能 | 61-120/中島 5357[177] | オリジナルの栄三一甲型エンジンを搭載して飛行可能な唯一の零戦。アメリカで登録され(ナンバー:N46770)毎年5月開催の博物館航空祭ではデモフライトが行われている。かつては迷彩塗装[178]であったが、1978年に三菱製のような塗装へ変わり、少々の変更を経て現在の塗装となった。
1995年には竜ヶ崎飛行場をはじめ国内数か所でデモフライトをおこなった。2012年12月1日から2013年8月まで埼玉県の所沢航空発祥記念館の特別展にて展示。エンジンの起動とタキシングを披露した。デモフライトの様子 詳細は「零式艦上戦闘機五二型61-120号機」を参照
| |
五二型 | アメリカ | フライング・ヘリテージ・コレクション | 公開 | 静態展示 | 61-121/中島 1303 | 1944年にサイパン島で鹵獲され戦利品として米国に渡った。2001年にフライング・ヘリテージ・コレクションが取得[171]。コレクションが取得するまでの管理・保存に難があり損傷が激しい。 | |
五二型 | アメリカ | 国立航空宇宙博物館 [30] | 公開 | 静態展示 | 61-131(61ー108)/中島 4340 | 1944年(昭和19年)4月に米軍がサイパン島で鹵獲した12機の日本軍機のうちの1機。米海軍は7月に本機を含む複数の零戦を性能評価のために米本国に送った。
同博物館が1974年8月から1975年7月におこなった修復作業の際に、胴体後方内部の金属表面に必勝を祈願する日本語のメッセージが刻まれていることが発見された。二六一航空隊の塗装とマーキングが施されている。[31] | |
五二型 | アメリカ | フライング・ヘリテージ・コレクション | 公開 | 静態展示 | HK-102/三菱 4400 | 1945年9月にトラック島で米軍により鹵獲され1947年に戦利品として米国に渡った。1950年代にエドワード・マロニーの手に渡り、プレインズ・オブ・フェイムにて展示されていたが、2001年にフライング・ヘリテージ・コレクションが取得[171]した。 | |
五二型 |
|
イギリス | ロンドン帝国戦争博物館 またはダックスフォード帝国戦争博物館[32][33] |
公開 | 静態展示 | BI-05/三菱 196 | 終戦時に連合国の調査機関(Allied Technical Air Intelligence Unit、略称ATAIU)に鹵獲され試験飛行をされた機体だが、現存し展示されているのはコックピットと主翼付け根および脚を含む胴体中央部だけであり、それ以外は廃棄されている。2つの博物館で定期的に交換している模様。 |
五二型 | インドネシア | ジョグジャカルタ航空宇宙博物館(インドネシア空軍博物館) | 公開 | 静態展示 | ヨD-1153/ | 終戦後にインドネシアのバボ飛行場に残されていた機体を修復したもの。現在でも自由に触れることのできる唯一の零戦。[179] | |
五二甲型 | アメリカ | ファンタジー・オブ・フライト [34] | 公開 | 修復中 | 3-108/中島 4043 | オーストラリア戦争記念館職員が1970年代にラバウルや南太平洋で発見し復元した機体の内の1機で、墜落を再現した状態で展示されていたが、現在は修復中となっている。航空機収集家カーミット・ウィークス(Kermit Weeks)のコレクションの一つ。[35] | |
五二乙型 | ミクロネシア連邦 ヤップ島 | 旧コロニア飛行場付近 | 公開 | 放置 | 不明 | 他の零戦などの残骸とともに放置されている[180]。 | |
六二型 | アメリカ | サンディエゴ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ヨ-143/三菱 23186 | 1945年(昭和20年)の5月 - 8月の間に製造され横須賀航空隊に配備された機体。戦後に横須賀で鹵獲された。レストアのため国立航空宇宙博物館が左記施設に貸与したもので、3年以上(12,000時間)をかけて修復した[181]。 | |
不明 | [182] | ソロモン諸島 | ラノンガ島 | 公開 | 放置 | 不明 | 墜落した状態で放置されている[182]。 |
不明 | パラオ | ペリリュー島 | 公開 | 放置 | 不明 | ペリリュー飛行場の近くに放棄された機体[183]。 | |
不明 | パラオ | ペリリュー島 | 公開 | 放置 | 不明 | 浅瀬に不時着した機体[184]。 | |
不明 | [185] | パラオ | ペリリュー島近海 | 公開 | 放置 | 不明 | 二一型のような外観である。珊瑚礁に逆さに沈んでいる[185]。 |
不明 | [186] | ミクロネシア連邦 | ヤップ島 | 公開 | 放置 | 不明 | 五二型のような外観である。ヤップ島の浅瀬に沈んでいる[186]。 |
不明 | ミクロネシア連邦 | デュブロン島近海 | 公開 | 放置 | 不明 | 1944年2月17日のトラック島空襲で沈没した富士川丸の船内に放棄されている。 | |
二一
型 |
ミクロネシア連邦 | デュブロン島近海 | 公開 | 放置 | 不明 | 同上 |
- この他にも、太平洋やアジア・オセアニアの各地に零戦が眠っている。また、博物館での展示や映画の撮影、個人の趣味などのために製作されたレプリカも、飛行可能なもの・外観のみを再現したものを併せて複数存在する[187][188][189][190]。
- 参考
- 現存する零戦のリスト - 情報に少々古い部分がある。
- 旧日本軍の現存兵器一覧
関連作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
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- 零式艦上戦闘機の派生型
- 零式艦上戦闘機五二型61-120号機
- 爆戦
- 紫電改、烈風 - 両機とも、零戦の後継機を目指して開発された。
- 戦闘機一覧
- ジョン・サッチ
- 松平精 - 空中分解事故の調査に携わった
外部リンク[編集]
- 零式艦上戦闘機二一型改造複座機 - 国立科学博物館
- 零式艦上戦闘機六二型 - 大和ミュージアム
- ハイビジョン特集 零戦(ぜろせん) : 栄光と悲劇の航跡 - NHK放送史
- 零戦 里帰りプロジェクト
- プラモデル三菱 零式艦上戦闘機 22型