飯島勲
飯島勲 | |
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生年月日 | 1945年10月13日(78歳) |
出身校 | 東京電機大学短期大学電気科第二部 |
現職 |
内閣官房参与 長野県県政参与 |
内閣官房参与(特命担当) | |
内閣 | |
在任期間 | 2012年12月26日 - 現職 |
内閣 |
第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣 第1次小泉第2次改造内閣 第2次小泉内閣 第2次小泉改造内閣 第3次小泉内閣 第3次小泉改造内閣 |
在任期間 | 2001年4月26日 - 2006年9月26日 |
厚生大臣秘書官 | |
内閣 |
竹下改造内閣 宇野内閣 第2次橋本内閣 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 |
1988年12月27日 - 1989年8月10日 1996年11月7日 - 1998年7月30日 |
郵政大臣秘書官 | |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年7月20日 |
飯島 勲︵いいじま いさお、1945年︿昭和20年﹀10月13日 - ︶は、日本の議員秘書、国家公務員。内閣官房参与。
内閣総理大臣秘書官︵政務担当︶、厚生大臣秘書官、郵政大臣秘書官、衆議院議員公設秘書、自由民主党秘書会副会長などを歴任した。
2013年︵平成25年︶には、阿部守一長野県知事より長野県県政参与を委嘱された[1]。
駒沢女子大学人文学部客員教授︵2007年〜2011年︶、学校法人松本歯科大学常務理事、松本歯科大学歯学部特任教授。
小泉純一郎の初当選時から議員秘書、小泉の内閣総理大臣在任中は内閣総理大臣秘書官を務めた。表彰歴には永年秘書衆議院議長表彰、永年公務員内閣総理大臣表彰などがある。
経歴[編集]
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生い立ち[編集]
長野県上伊那郡辰野町に生まれた[2]。飯島家は江戸時代、伊那市郊外の東春近で庄屋を務めた名門の家柄だった[3]。
父は石川島汎用機械︵現・IHI回転機械エンジニアリング。IHK︶の工場のトラック運転手を長くつとめた[4]。木造二階建ての生家は物置小屋に手を加えた程度で、ごく粗末なつくりである[5]。飯島は4人兄弟の三男だが、飯島以外の3人は知的障害者であった。飯島の従兄で飯島本家の当主によれば﹁子どもの頃は貧しくて、電報の配達をしたり、納豆を売ったりしていた[4]。彼は家庭的には本当に恵まれなかったんです[4]。﹂という。
学生時代[編集]
辰野町立辰野中学校から長野県箕輪工業高等学校︵現・長野県箕輪進修高等学校︶定時制に進学。立辰野中学校時代の同級生に三浦久がいる。定時制高校在学中、昼間は父親と同じ職場のIHKの旋盤工として働いた[6]。 上京し、東京電機大学高等学校定時制から東京電機大学短期大学電気科第二部に入学。短期大学卒業後は都内の法律特許事務所で職員となる。小泉の秘書となる[編集]
1972年、知り合いの紹介で小泉純一郎の秘書となる。その採用面接の際、苦しかった生活のことや家族のことを小泉に話したが、政治家の家庭に生まれた小泉には理解されないと思っていたという。しかし、小泉は黙々と話を聞き、最後に一言﹁よし﹂と言い採用が決定。その瞬間、飯島は﹁この人のために生涯頑張りぬこう﹂と決意したという[7]。総理大臣秘書官[編集]
その後、竹下改造内閣及び宇野内閣において厚生大臣秘書官、宮沢改造内閣において郵政大臣秘書官、第2次橋本内閣・第2次橋本内閣改造内閣において厚生大臣秘書官を務め、小泉内閣の誕生にともない内閣総理大臣秘書官︵政務担当︶に就任。メディア戦略や情報操作に長けており、日本のメディアからは﹁官邸のラスプーチン﹂、アメリカのメディアからは﹁日本のカール・ローヴ﹂と評され、歴代の総理秘書官と比較してメディア露出が多い。
総理大臣秘書官として首相官邸に各省庁連絡室を置き、事務担当の首相秘書官の出身省庁である財務省・外務省・警察庁・経済産業省以外の省庁からもキャリア官僚を1人ずつ参事官として常駐させた上で、事務担当の首相秘書官と参事官を束ねた。また全省庁による指定ポスト化となるのを避けるために特定省庁出身のキャリア官僚の常駐はしないようにし政治事情に応じてキャリア官僚の出身省庁枠を変えることを示唆したため、中央省庁間の緊張関係を維持させたことで、個々の省庁の情報が官邸に入りやすくするようにして首相官邸の政治的影響力を増大させることに成功する︵小泉政権前半は農林水産省キャリア官僚が除外されており、小泉政権後半は農林水産省キャリア官僚を入れる代わりに文部科学キャリア官僚が除外された︶。各省庁連絡室などの首相官邸の事務組織は俗に飯島機関と呼ばれた。
小泉との決別[編集]
小泉が首相を退任した後は、以前のように小泉の議員秘書を務めていた。2007年の自民党総裁選では、小泉チルドレンなどによる﹁小泉前総裁の再登板を実現する有志の会﹂のメンバーと接触し、小泉再登板への準備を進めていたが、小泉は再登板を否定して飯島とは不仲とされる福田康夫を支持。飯島は同年9月13日付で小泉事務所に辞表を提出した[8]。小泉事務所は飯島の辞表を直ちに受けずに保留にしている。 飯島と福田の対立の発端は、小泉が首相に就任した2001年の終戦の日に靖国神社参拝を目指した際、参拝を是とする飯島と安倍晋三が首相官邸に不在の間隙を突く形で福田が小泉を説得。参拝を前倒しさせたことだとされる。この内幕を取材したジャーナリストの須田慎一郎によると、小泉は福田の、﹁唐家璇が終戦の日を外せば中国政府は問題視しない﹂とする説得を受け入れたものの、中国は最大限の糾弾を小泉に対し行い、小泉は福田に対する強い不信感をこのときに抱いたことを明らかにしている。他方、飯島と安倍はこのことをきっかけに関係を強めていったとされ、安倍が短期間で自民党幹事長、官房長官、首相に上り詰めた裏には、飯島との良好な関係が存在したこともその一因に挙げられる。 第二次訪朝の際には、裏の交渉ルートである朝鮮総連・許宗萬︵許は北朝鮮の最高人民会議代議員というもう一つの肩書きも有する︶とのパイプを重視する飯島と、正規の外交ルートである田中均を中心とした日朝両外務省を重視する福田との間で対立が再燃。小泉が飯島の主張を重視したことにより、福田は官房長官を辞任した。一方で、この訪朝劇は自民党幹事長だった安倍との間でも軋轢を生む結果になり、小泉と安倍の関係が一時険悪化する︵同年末頃には修復︶。訪朝後、小泉は甘利明副幹事長代読の形で朝鮮総連に祝電を送っている。なお、飯島が内閣官房参与になった2013年に増元照明は飯島の第二次訪朝での態度について、﹁なぜ、被害者をまだ幽閉し返さない国家の、まだ国家ではなく集団ですね、頭目となぜ笑いながら握手できるのか﹂と批判し、﹁官邸の体制を締めるという意味ではあの方は適任なのかもしれませんが、朝鮮半島問題には関与していただきたくないというのが正直な気持です﹂と述べた[9]。第2次安倍内閣[編集]
2012年12月、第2次安倍内閣において内閣官房参与に就任した。特命担当として主に危機管理や広報、メディア戦略に関する助言をする考えであると見られる[10]。 着任早々、民主党時代を通して首相官邸の情報セキュリティーが大幅に低下していると主張した。なおこれは個人的な調査の結果としているが、具体的な調査方法は明らかにしていない[11]。 2020年9月16日、安倍晋三首相辞任に伴い、内閣官房参与を退職した[12]。北朝鮮による日本人拉致問題[編集]
2013年4月、テレビ朝日のインタビューで﹁安倍総理大臣の北朝鮮電撃訪問もあり得る。拉致問題の進展も期待してもらって良い﹂と発言した[13][14]。 同年5月14日、安倍政権の要人として初めて北朝鮮の平壌を訪問。菅義偉官房長官は官邸が主導したことを認めた[15]。飯島は15日に金永日朝鮮労働党書記[16]、16日に平壌で北朝鮮のナンバー2の金永南最高人民会議常任委員長と会談。北朝鮮メディアは表敬訪問と報じたが会談内容は明らかにされず[17]、10年後の2023年9月に飯島が週刊文春に会談記録を公開している[18]。 産経新聞はこれについて﹁飯島勲内閣官房参与の訪朝は、北朝鮮が数ヶ月前から誘ったもので、平壌で行われた会談などは全面的な北朝鮮ペースだったことがわかった。︵中略︶飯島氏は北朝鮮の﹁言い分﹂をたっぷり吹き込まれたようだ。政府は飯島氏から報告を聞いたが、この訪朝を受けての日朝交渉の具体的な動きはない。飯島氏は北朝鮮の﹁日朝接近﹂演出に利用されただけとの指摘も出ている﹂﹁北朝鮮としては、これまでの経緯を含めた北朝鮮側の言い分を吹き込むには、最適な人物だと考えたのだろう﹂としている[19]。 一方で、国際社会が北朝鮮の非核化を迫っているさなかの訪問は抜け駆けととられる可能性が指摘され、韓国政府が﹁日米韓協調の役に立たない﹂との見解を日本に伝達した他、アメリカのデービース北朝鮮担当特別代表も﹁︵飯島の訪朝は︶私にはニュースだった﹂と不快感を示した。また日本国内からも﹁この時期に行ってどんなプラスがあるのか﹂︵外務省関係者︶、﹁米韓から不信感が出るだけだ﹂︵防衛省幹部︶との声があがった[20]。 北朝鮮側には、日本人拉致問題の解決に前向きな姿勢を示し日本から制裁解除を引き出すことで、日米韓を離間させ国際社会による制裁包囲網を突き崩したいとの思惑や、朝鮮総連中央本部の競売問題で日本の譲歩を引き出す狙いがあるとみられている[16]。 22日、飯島は﹁再訪朝は100%ない﹂とした上で[21]、﹁ある程度やることはできた。そのうち分かる﹂と述べ、日本人拉致問題などの進展に含みを残した[21]。極秘訪中[編集]
7月28日の講演で、7月13日から16日まで中国の北京を極秘訪問していたことを明らかにした。習近平国家主席に近い要人と会談した一方で、北朝鮮関係者との接触はなかったとしている[22]。この訪中は日中首脳会談の地ならしが目的とみられるが、飯島は﹁個人の調査研究の一環の行動。プライベートだ﹂と述べている[23]。なお中国外務省の洪磊・副報道局長は飯島が訪中ビザを申請したことは認めたものの、中国政府当局者との接触は否定した[24]。菅義偉内閣[編集]
2020年9月25日、第4次安倍内閣後任の菅義偉内閣により内閣官房参与に再任された。担当は特命事項[25][26]。在任期間は通算9年となる。岸田内閣[編集]
2021年11月発足の第2次岸田内閣でも、引き続き同じ担務で内閣官房参与となった。10年目。 2023年9月発足の第2次岸田第2次改造内閣においても内閣官房参与。人脈[編集]
フランスとの関係[編集]
日仏親善に貢献するとともに、日本ソムリエ協会を設立するなど、日本におけるワインをはじめとするフランス料理の普及に尽力した。これらの功績が認められ、2016年11月4日、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエ及び農事功労章シュバリエが叙勲された。自ら授与したマニュエル・バルス首相は「一度に複数の賞が授与されるのは珍しい」と述べた[27][28]。
鈴木宗男との関係[編集]
叩き上げ・議員秘書という共通点から、小泉政権下で失脚・逮捕・起訴されることになる鈴木宗男とは親しい間柄で、鈴木は飯島を通じて小泉とも実は近しい関係にあった。鈴木はアメリカ同時多発テロ事件後のアフガニスタン侵攻の際、小泉の特使としてタジキスタンを訪問︵その際には後に鈴木に連座する佐藤優が通訳として同行︶、エモマリ・ラフモノフ大統領から、米英軍に対する﹁領空通過﹂、﹁国内の基地使用﹂の成果を引き出している。小泉政権下の日米関係は、戦後最良と言われるほど親密であったが、それに対する鈴木の貢献は決して少なくない。
だが、その後鈴木を取り巻く状況は一変する。鈴木の圧力によるとされる、NGO出席拒否事件の発覚で政局は大混乱を来す。その際に飯島は田中真紀子外相、野上義二外務事務次官両名の更迭と鈴木の衆議院・議院運営委員会委員長辞任で事態の収拾を図ろうとする。その際鈴木は二つ返事で飯島の申し出を快諾している。後に鈴木は、週刊新潮に寄せた手記の中で飯島から申し出があったことを明らかにしている。
鈴木は政界復帰を果たした郵政選挙後の特別国会で、郵政民営化法案には反対票を投じる傍ら、首班指名選挙においては小泉に票を投じている。一方飯島は田原総一朗との対談で田中更迭について次のように語っている。﹁あの人の官僚をひたすら罵倒する姿勢は、いたずらに士気を低下させるだけ﹂と田中の政治手法を激しく批判。飯島は安倍内閣が2007年3月27日に閣議決定を行った﹁公務員制度改革﹂についても真っ先に慎重論を唱えている。