シエラレオネ
- シエラレオネ共和国
- Republic of Sierra Leone
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(国旗) (国章) - 国の標語:Unity - Freedom - Justice
(英語: 団結 - 自由 - 正義) - 国歌:高く我らは汝、自由の国を賞賛する
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公用語 英語 首都 フリータウン 最大の都市 フリータウン - 政府
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大統領 ジュリウス・マーダ・ビオ 副大統領 モハメド・ジュルデ・ジャロー 首相 デビッド・モイニナ・センゲ - 面積
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総計 71,740km2(116位) 水面積率 0.2% - 人口
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総計(2020年) 797万7000[1]人(102位) 人口密度 110.5[1]人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2018年) 32兆4016億2600万[2]レオン - GDP(MER)
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合計(2018年) 40億8500万[2]ドル(155位) 1人あたり 533.972(推計)[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2018年) 129億6000万[2]ドル(151位) 1人あたり 1,694.124(推計)[2]ドル
独立
- 宣言イギリスより
1961年4月27日通貨 レオン(SLE) 時間帯 UTC0 (DST:なし) ISO 3166-1 SL / SLE ccTLD .sl 国際電話番号 232
国名[編集]
正式名称は英語で、Republic of Sierra Leone︵リパブリック・オブ・スィエラ・リオウン/リオウニ︶。通称、Sierra Leone [sɪˈɛərə lɪˈəʊn, -lɪˈəʊni] ( 音声ファイル)︵スィエラ・リオウン/リオウニ︶。 日本語の表記は、シエラレオネ共和国。通称、シエラレオネ。 国名は、ポルトガル語で﹁ライオンの山﹂を意味する﹁Serra Leão﹂をスペイン語に翻訳した﹁Sierra León﹂から来ている。﹁ライオンの山﹂と名付けられた理由については、現在のフリータウン付近にいたポルトガル人が、山の方からライオンのように轟く雷鳴が聞こえたため名付けたという説や、山から海へ吹き降ろす風がライオンの咆哮に似ているので名付けた、など諸説ある。歴史[編集]
フリータウン[編集]
18世紀後半に入るとイギリスでは奴隷廃止運動が盛んになり、運動の指導者のひとりであるグランビル・シャープはアフリカに解放された奴隷の定住地を作ることを計画。白羽の矢が立てられたのが、シエラレオネ半島であった。1787年、彼は最初の移住者をシエラレオネに送り出した。現地人であるテムネ人の王の一人トム王とその臣下の首長たちは友好的であり、シエラレオネ半島北岸の細長い土地をジョン・テーラー船長に売却し割譲した。移住者たちは半島北岸にあるフォーラー・ベイ付近に入植し、建設された街はグランビルタウンと呼ばれた。しかし、トム王の後継者ジミー王による攻撃がはじまり、またマラリアなどの病気により、多くの入植者たちが死に、最初の入植は失敗に終わった[6]。1791年にはグランビル・シャープの後継者として、奴隷貿易廃止促進協会のメンバーでもある、アレクサンダー・ファルコンブリッジの指導の下、グランビルタウンはクラインタウンと改名し再建設されるが、これも結局成功しなかった。1792年にはクラインタウンの土地の跡はフリータウンと名付けられ、再度、解放奴隷たちの拠点となる。植民地としてのシエラレオネは、この時点に始まる事となる。以後イギリスのほか、ジャマイカ及び他のイギリス領の西インド諸島や、アメリカ独立戦争において忠誠派︵ロイヤリスト︶として追われカナダのノヴァ・スコシアへと逃れた解放奴隷︵マルーン︶達が入植した。しかしシエラレオネ半島は肥沃ではなく、近隣の部族やフランスの小艦隊からの攻撃なども重なって、入植者たちは苦しい状況にあった。イギリス植民地[編集]
独立[編集]
1961年4月27日にイギリスがついにシエラレオネの独立を許可して認めた為、シエラレオネはイギリスの君主を元首としたイギリス連邦の一員として独立した。ミルトン・マルガイは引続いてシエラレオネの独立最初の首相となり、1964年に死亡するまで国民の各部族の融和など安定した国の基盤を築き首相を務めた[9]。後任として彼の政権下で財務大臣を務めていた弟のアルバート・マルガイが首相を引き継ぐが、兄と違い、彼は汚職や軍隊や政権などに自分の出身部族であるメンデ族を中心的に優遇するなど偏った政策をしようとした為多くの国民から批難が殺到した。またマルガイは1966年に共和制及び一党制の導入を主張したが反マルガイ派の野党などから彼の権力集中の独裁化に繋がると警戒され反発により失敗した。クーデター[編集]
1967年の国民選挙ではアルバート・マルガイ政権の腐敗した汚職などの批判と反発などから、野党であった全人民会議︵All-People’sCongress,APC︶がマルガイ政権の与党シエラレオネ人民党︵SLPP︶に勝利し、第一党となったが、APCの議長であるシアカ・スティーブンスが首相に就く前に、マルガイ政権の同盟であるマルガイ派の軍の指導者であるデビッド・ランサナ准将が無血クーデターを起こし、スティーブンスは職を追われた。マルガイは選挙結果を却下し、暫定総督を宣言し、軍により戒厳令が敷かれ、軍の管理下に国家改革協議会がおかれたものの、全人民会議の支持派によってカウンタークーデターが起こり、マルガイは国外に逃亡し、1968年にはスティーブンスが政権へと復帰した[10]。しかし、やがてスティーブンス政権は独裁化していき、1971年に共和制を導入して大統領に就任した後、1978年にはシエラレオネは一党制となった[11]。スティーブンス政権は1985年まで続いた。内戦[編集]
民主化[編集]
2007年9月17日には大統領選でAPCのアーネスト・コロマが与党SLPPのソロモン・ベレワを破り、新大統領に就任。内戦終結以来、初の大統領選挙による政権交代が実現した。2012年11月17日大統領選では、コロマが過半数の票を得て再選された[15]。 2014年にはギニア、リベリア、シエラレオネの3か国を中心にエボラ出血熱が大流行し、これらの国で合わせて約2万8,000人以上が感染し、約1万1300人が死亡した[16]。なおシエラレオネのみでの死者は約3900人[17]。この流行は2015年末までに終息した。ビオ政権[編集]
2018年に大統領選挙が行われ、16人の候補者から、さらにコロマ大統領の後継者の与党APCのサムラ・カマラと野党SLPPの党首を務めるジュリウス・マーダ・ビオの一騎打ちにより、ビオ候補が当選した[18]。ビオは、軍政下の1996年に国家最高評議会議長を務めており、元首となるのは2回目。就任後、公務員や政府閣僚の規律を引き締めるために就業状況を抜き打ちでチェックする方針を示したほか、毎月第1土曜日をクリーンデーと定め、全国民に対して午前7時から正午まで生活環境の清掃を行うように求めた[19]。政治[編集]
国際関係[編集]
日本国内にシエラレオネ大使館は無く、在中華人民共和国大使館が兼轄している。また、シエラレオネにも日本大使館は無く、在ガーナ大使館が在シエラレオネ大使館を兼轄している。 日本とシエラレオネの関係も参照。
国家安全保障[編集]
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地理[編集]
地方行政区画[編集]
かつて植民地であった西部地域と、かつて保護領であった東部州、北部州、南部州、北西部州の5つに分けられる。旧保護領の4州は186の首長領をもつ14の地区に細分されている。西部地域は地方自治体によって治められている。4州にはそれぞれ知事がおり、州内の行政単位は小さいものから順に、村、広域村、郡区、首長領、地区議会がある。
主要都市[編集]
経済[編集]
産業[編集]
交通[編集]
国民[編集]
民族[編集]
言語[編集]
公用語は英語であり、その他にテムネ語やメンデ語などの各現地部族語、クリオ語と呼ばれる英語を母体にしたクレオール語などが使われる。
婚姻[編集]
シエラレオネでは一夫多妻制が刑法で禁止されている。
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宗教[編集]
イスラム教(特に北部および西部地域)が60%で、伝統的宗教(特に南東部地域)が30%、キリスト教(特に西部地域)が10%(プロテスタントがほとんどで、カトリックは2%程度)である。2009年の見積りではイスラム教が71.3%、キリスト教が26.8%で伝統的宗教が1.9%とされている。シエラレオネでは名目上ではイスラム教が多く、続いて伝統的宗教が続き、キリスト教の人口は10%と少ない方であるが、シエラレオネでのキリスト教の影響力は強い部分を構成している。キリスト教の布教活動は全国的に行われており、欧米のキリスト教団体や宣教師らが各地で活動している。また同じくイスラム教の布教活動も西部地域を中心に活発に行われている。シエラレオネでは暴力に発展する様な宗教対立は殆ど稀で、アフリカでは珍しく基本的にイスラム教徒とキリスト教徒は協力し合って平和的に交流して共存している。イスラム教のモスクのすぐ近くや隣にキリスト教の教会が建ち並んでいる場合も珍しくない。
教育[編集]
保健[編集]
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治安[編集]
2021年12月20日時点において、治安情勢は比較的落ち着いている状況にあるが、首都フリータウン市内中心部は人口過密状態にあり、窃盗や武装強盗などの犯罪、特に外国人を狙ったひったくりが発生している他、与野党支持者間の衝突が発生することが報告されている。また、フリータウン以外の地域では交通、通信などの基礎インフラが整備されておらず、不測の事態が発生した際の退避や移動・連絡手段の確保が困難となっている点が問題視されている[29]。
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人権[編集]
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マスコミ[編集]
憲法では言論の自由と報道の自由を保障しているが、同国政府はメディアに対して強力な統制を維持しており、実際にこれらの権利を制限することがある為、海外からは問題視されている。
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文化[編集]
食文化[編集]
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文学[編集]
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音楽[編集]
ネイティブ、フランス、イギリス、西インド、クレオールの音楽ジャンルが混在している。 パーム ワインの音楽が代表的で、西アフリカ沿岸の国々でアコースティック ギターとパーカッションで演奏される。 シエラレオネは、西アフリカの大部分と同様に、ラップ、レゲエ、ダンスホール、 R&B 、グライム (音楽)に開かれている。
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世界遺産[編集]
シエラレオネには現在、世界遺産となるものが存在していない。但し、同国は世界遺産条約を2005年に批准しており、ウェスタン・エリア・ペニンシュラ国立公園をはじめとした6件の暫定候補を挙げている。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 |
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1月1日 | 元日 | New Year's Day |
2月11日 | 預言者生誕祭 (預言者ムハンマド生誕記念日) |
Maulid-un-Nabi |
3月8日 | 国際女性デー | International Women's Day |
4月6日 | 聖金曜日 | Good Friday |
4月9日 | 復活祭の翌日 | Easter Monday |
4月27日 | 独立記念日 | Independence Day |
5月1日 | レイバー・デー (労働者の日) |
Labour Day |
8月 | 銀行休日 | Bank Holiday |
8月19日 | イード・アル=フィトル (ラマダーン明けの祝日) |
Eid al-Fitr |
10月26日 | イード・アル=アドハー (犠牲祭) |
Eid al-Adha |
11月1日 | 諸聖人の日 | All Saints Day |
12月25日 | クリスマス | Christmas |
12月26日 | ボクシング・デー | Boxing Day |
スポーツ[編集]
他のアフリカ諸国同様、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。球技にはバスケットボールやクリケットも広く浸透しており、サッカーに次いで愛好されている。他にも陸上競技やボクシングも一般的なスポーツとして広まっている。また、シエラレオネはアフリカで初めて国際フロアボール連盟に加盟した国家として認知されている。
サッカー[編集]
シエラレオネサッカー協会によってサッカーシエラレオネ代表が組織されている。これまでFIFAワールドカップには未出場であるが、アフリカネイションズカップには3度出場している。
オリンピック[編集]
著名な出身者[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
政府
- シエラレオネ共和国政府 (英語)
日本政府
- 日本外務省 - シエラレオネ (日本語)
観光
- ウィキボヤージュには、シエラレオネ(英語)に関する旅行情報があります。
- ウィキトラベル旅行ガイド - シエラレオネ (日本語)
その他
- "Sierra Leone". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency.
- シエラレオネに関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 地図 - Google マップ
- 『シエラレオネ』 - コトバンク