イングランド君主一覧
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最初にRex Anglorum︵イングランド王︶の称号を用いたのはマーシア王オファであるが、その権力は彼の後には生き延びることはなかった。9世紀にケント及びマーシアからサセックスを征服したウェセックスの王は次第にイングランド王国の他の王国に支配を及ぼすようになった。絶えることなく続くイングランド君主一覧は伝統的に829年のウェセックス王エグバートに始まる。アルフレッド大王 とその息子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン国王〟の称号を用いた。アゼルスタンは927年にノーサンブリアを占領してからRex Anglorumの称号を採用した。ヘンリー2世の治世の開始時︵1154年︶に称号がRex Angliae︵イングランド国王︶になった。
ウェールズ公国は1284年のルゥドドランの法令でイングランド王国に吸収され、1301年にエドワード1世は長男のエドワード2世にプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けた。この時以来、エドワード3世を例外として全てのイングランド君主の長男はこの称号を帯びるようになった。1603年のエリザベス1世の死後、イングランドとスコットランドの王位はジェームズ1世のもとで一つとなった。国王の布告によってジェームズ1世は自らの称号を“グレートブリテンの王”とした。ジェームズ1世の即位以来、親を介して二重の相続人である両王国の後継者の称号が“イングランド王”ないしは“イングランド女王”とするのは不正確である。しかし、この称号は栄んな用法として今日に至るまで存続していた。1707年にイングランドはスコットランドと法律上合同を行い、グレートブリテン王国が成立した。1707年以来、イングランドは法律上は分離していないが近年はスコットランドに譲歩している。ヘンリー2世以来、イングランドの支配下に置かれているアイルランド王国は1800年の連合法によって翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部となる。この状態はアイルランド自由国成立後の1922年まで続き、その後の改名 (en) の結果、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となった。
マーシア家
幾つかの資料では最初にRex Anglorum の称号を用いたのは757年以来、マーシア王であったオファの774年だと言われているが、この主張は明らかに10世紀に偽造された憲章に基づいている[1][2]。 しかし、自らをOf Rx Aと刻んだ幾つかのオファの貨幣から彼がOf Rx Aの立場にあったと信じられている[3]。このことは当時、後世に獲得したのよりも異なる意味を有していた、即ち、アングル人の王であって、必ずしもサクソン人の王ではない[3]。名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
---|---|---|---|---|
オファ (+OFFA•REX+) 774年–796年 |
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747年頃 | クネスリス 5人の子を儲ける |
796年7月26日ないしは28日 享年58歳 |
ウェセックス家
連続した一覧は伝統的に802年以降のウェセックス王で同王として最初にイングランドに君主権を及ぼしたエグバートに始まる[4]。エグバートは825年にマーシアを破ってブレトワルダになったが、829年にマーシアの支配権を失った。アルフレッド大王とその息子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン人の王〟の称号を用いた。927年のアゼルスタンの征服以降はrex Anglorum (イングランド王)の称号が採用された。
エルフウェルドが父エドワード長兄王とアゼルスタンとの間である924年の4週間に王であったことの幾つかの証拠はあるが、彼は戴冠しなかった[5][6] 。しかし、このことは歴史家たちに受け入れられなかった。
デーン家
「北海帝国」も参照
エゼルレッド2世の統治中にイングランドはデンマーク王 の支配下に置かれた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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スヴェン (Svend Tveskæg) 12月25日[29] 1013年–1014年[30] |
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960年 デンマーク ハラール1世とグリド・オラフスドティルの息子[31] |
(1) グンヒルト・オブ・ポーランド 990年 7人の子を儲ける (2) シギルド・ザ・ハウグティー 1000年 1娘儲ける[31] |
1014年2月3日 ガインスブルク・リンコンシャー 享年約 54歳[31] |
ウェセックス家(第1次復帰)
スヴェン1世の死でエゼルレッドは亡命先から帰国して1014年 2月3日に再び王であることを宣言した[32]。エゼルレッドの息子は、アングロ=サクソン人から王冠を奪い取ろうと画策するデーン人と対立するロンドン市民と賢人会議[33]に選ばれた後に父の後を継承した。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
---|---|---|---|---|
エゼルレッド2世 (Æþelræd Unræd) 3/4月 1014年–1016年 (第二次統治)[26] |
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968年 エドガーとエルフリーダの息子[34] |
(1) エルフリーダ・オブ・ノーサンブリア 4人の子を儲ける (2) アレルギフ 991年 6人の子を儲ける (3) エマ・オブ・ノーマンディー 1002年 3人の子を儲ける[35] |
1016年4月23日 ロンドン 享年約48歳[26] |
エドマンド2世 (Eadmund) 1016年4月24日 – 11月30日[33] |
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993年 エゼルレッドとエルフリーダ・オブ・ノーサンブリアの息子[33] |
エディス・オブ・イースト・アングリア 2人の子を儲ける[36] |
1016年11月30日 グラストンブーリー 享年約23歳[33][36] |
デーン家(復帰)
1016年 10月18日のアサンダンの戦いの結果、エドマンド2世は、カヌート大王がウェセックスを除く全イングランドを支配することを認めた条約に調印した[37]。11月30日にエドマンド2世が死ぬとカヌート大王はイングランド全土を統治する唯一の王となった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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カヌート大王 (Knútr) 11月30日 1016年–1035年[38][39] |
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995年 スヴェンとグンヒルト・オブ・ポーランドの息子[38] |
(1) アレルギフ・オブ・ノーサムポトン 2人の子を儲ける (2) エマ・オブ・ノーマンディー 1017年[38] |
1035年11月12日[39] シャフテスブーリー 享年約40歳[38] |
ハロルド1世 (Harald) 11月13日 1035年–1040年[40] |
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1016/7年 カヌート大王とアレルギフ・オブ・ノーサムポトンの息子[40] |
アエルギウフ 1 人息子を儲ける[41] |
1040年3月17日 オックスフォード 享年23 ないしは 24歳[40] |
ハーデクヌーズ (Hardeknud) 6月18日 1040年–1042年[42] |
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1018年 クヌーズ1世とエマ・オブ・ノーマンディーの息子[41] |
不明 | 1042年6月8日 ラムベス 享年約24歳[41] |
ウェセックス家(第2次復帰)
ハーデクヌーズの後、1042年から1066年にかけて短いサクソン朝の復帰があった。ヘースティングスの戦いの後にイングランドの歴史は決定的なものとなり、ウィリアム1世がイングランド王になった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 |
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エドワード懺悔王 (Eadweard) 6月9日 1042年–1066年[43] |
ファイル:EdtheCon.jpg | 1003年 イスリプ、オックスフォードシャー エゼルレッド2世とエマ・オブ・ノーマンディーの息子[43] |
エディス・オブ・ウェセックス 1045年1月23日 子を儲けず[43] |
1066年1月5日 ウェストミンスター寺院 享年約 60[43] |
ハロルド2世 (Harold Godwinesson) 1066年1月6日–10月14日[43] |
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1020年 ゴッドヴィンとギーザ・トルケルスドーティルの息子[43] |
(1) エディス・スヴェーニシャ 6人の子を儲ける |
1066年10月14日 ヘースティングス 享年約46 歳(戦死)[43] |
エドガー・アシリング (Eadgar Æþeling) 1066年10月15日–12月17日 即位宣言をするも戴冠せず[44] |
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1053年 ハンガリー エドワード・アシリングとアガタの息子[45] |
未婚[45] | 1125年 享年約 72歳[44] |
ノルマン家
詳細は「ノルマン朝」を参照
「無政府時代 (イングランド)」も参照
1066年にフランス王の封臣でエドワード懺悔王の従妹の息子であるノルマンディー公 ギヨーム2世がイングランドに侵攻してウェストサクソンを征服したことでノルマン・コンクエストが確立され、自らの恒久的な政府をウィンチェスターからロンドンに新しく移転した。10月14日のヘースティングスの戦いでハロルド2世の死が決定的になると、アングロサクソン人の賢人会議はエドガー・アシリングをハロルド2世に代わる国王に推戴したが、エドガーは侵略者に抵抗することが出来ず、戴冠することもなかった。ギョーム2世は1066年のクリスマスにイングランド王として戴冠し、今日ではウィリアム征服王、ウィリアム庶子王、ウィリアム1世として知られている。
スタンフォード・ブリッジの戦いと同時に、ノルマン朝はデーンロウ、次第には一貫してイングランドの支配を主張するスカンジナヴィア半島の請求者を追い払うことに成功した、それによって自身のスカンジナヴィアの子孫達に王冠を守る一方で、後世に西ローマ帝国のイギリス海方面にあるサクソンの沿岸部として知られたが、神聖ローマ帝国のイギリス海峡方面にあるネウストリア国境地帯に変わった南側に基盤を置いた。ノルマンディーでは王権が強大に増強され、ごく僅かな独立は大目に見られた。それはノルマン朝の主題であったウェセックス支配を大きく特徴付け、幾つかの場合、まさにノルマン朝の性質の実態は、自らの公国はフランク人の性質から独立しているという歴史的決定の型を通じたサクソン朝とデーン朝の混合であった。サクソン朝にせよデーン朝にせよ掴んだ権力が他者に対抗する自らの区域という単純なものであったことからすると、屈服されたイングランドが得たものがごく少量であった。ウェストサクソンの君主のデーン人の攻撃に対する実力行使や自らの支配の集中化が不十分であったことから、イングランドはノルマン人の手で押さえ付けられていた、しかしこの結果は行政の中心︵即ち、ウェストミンスター︶は以前よりもデーンロウに近く、権力の集中は太守のような地方の政府の役人の手から完全に離れていた。ノルマンディーでは単にルーアンからロンドンまでのキュリア・レジスによって当局が派遣された、そして王自身と側近に近付くことは共通の人々に厳しく制限されていた。この隔絶は、しかし、自らが独立した王位を求めるという明らかにデンーン人の先入観を持ったような王によって廃位された影響され易い他の君主よりも安定した統治を維持するには必要不可欠であった。
フランスの様式である君主の順位︵代数︶を採用したのは、ウィリアム1世とその子孫による統治が唯一のものであった、しかし、渾名によって君主を区別するという初期の習慣は、最後まで途絶えることはなかった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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ウィリアム1世 庶子/征服王 (Guillaume le Bâtard / le Conquérant) 12月25日 1066年–1087年[46] |
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1028年 ファレーズ城 ロベール1世とヘルレヴァの息子[46] |
マティルダ・オブ・フランダース ノルマンディーのノートルダム教会 1053年 10人の子を儲ける[46] |
1087年9月9日 ルーアン 享年59歳[46] カーンにあるセントピーターズ教会に埋葬 |
征服の権利 |
ウィリアム2世赤顔王 (Guillaume le Roux) 9月26日 1087年–1100年[46] |
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1060年 ノルマンディー ウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの息子[46] |
未婚 | 1100年8月2日 ニューフォレスト 享年約40歳[46] |
ウィリアム1世の息子;I (appointment) |
ヘンリー1世I 碩学王 (Henri Beauclerc) 8月5日 1100年–1135年[47] |
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1068年9月 セルビー ウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの息子[47] |
(1) マティルダ・オブ・スコットランド ウェストミンスター寺院 1100年11月11日 4人の子を儲ける (2) アデライザ・オブ・ルーヴァン ウィンザー城 1121年1月29日 子を儲けず[47] |
1135年12月1日 リオンズ=ラ=フォレート城 享年67歳[47] リーディング寺院に埋葬 |
ウィリアム1世の息子; (seizure of the crown) |
スティーブン オブ・ブロワ (Étienne de Blois) 12月22日 1135年–1154年[48] |
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1096年 ブロワ ブロワ伯エティエンヌ2世とアデル・ド・ノルマンディーの息子[47] |
マティルド・ド・ブローニュ ウェストミンスター 1125年 5人の子を儲ける[47] |
1154年10月25日 ドーバー城 享年約58歳[47] |
ウィリアム1世の外孫 (appointment/usurpation) |
- 対立王位請求者
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
---|---|---|---|---|---|
マティルダ (Mathilde Mahaut l'emperesse) 1141年4月7日–11月1日[49] 称号の対立 |
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1102年2月7日 ストン・コートネー ヘンリー1世とマティルダ・オブ・スコットランドの娘[50] |
(1) ハインリヒ5世 マインツ 1114年1月6日 子を儲けず (2) ジョフロワ4世 ラ・マンス大聖堂 1128年5月22日 3人の子を儲ける |
1167年9月10日 ルーアンのノートルダム大聖堂 享年約65歳[49] |
ヘンリー1世の娘 (王位を掌握) |
マティルダは父のヘンリー1世によって推定相続人であると宣言され、男爵達によって認識された。しかしヘンリー1世が死ぬと、王位はマティルドの従兄にあたるスティーブン・オブ・ブロワの手に渡った。無政府時代はマティルダが“正当なる”支配者として君臨した1141年の数ヶ月間のことであるが、彼女は戴冠することはなく、稀にイングランド君主の一覧に表記される。この時、スティーブンとジョフロワ4世が互いにイングランドの政治の中に入ったことは、彼等がイングランドの民族的部類に直接の繋がりはなく、僅かにノルマン朝︵ノルマン朝はイングランドとフランス間の文字通りに抽象的な橋としての役割を果たし、文化的遺産は今日のチャネル諸島で保たれている︶を介した王朝的繋がりという点で注目すべきことである。
プランタジネット家
詳細は「プランタジネット朝」を参照
スティーブンは1153年11月にウォーリングフォード条約で、マティルダの息子アンリを養子という形で自らの王位後継者とすることに同意した。
ノルマン朝による統治期間よりも、プランタジネット家はアキテーヌから支配を行い、より多くのフランスにおける領土を獲得したが︵アンジュー帝国︶、ジョン欠地王の代にほとんどのフランス領を失う前には、同じくイングランドを自分達の主要な領土とは見なさなかった。この長きにわたる王朝は、アンジュー朝、ランカスター朝、ヨーク朝の3期に分けられる。フランスへの焦点からブリテン島全域への拡大の変更はランカスター朝とヨーク朝の用法が異なることを示し、両王朝の前方に見渡す国境先にはノーサンブリアを要求する スコットランド王︵古い同盟︶が存在し、敵対するプランタジネット家の分家の名に等しいということで特筆される。プランタジネット家が互いに殺し合ったことでウェールズ系のテューダー家が有利になったが、ランカスター家とポルトガル︵アキテーヌ維持には不可欠だった︶、それにカスティーリャも加わった結び付きは確かなものになった。これがヘンリー8世がクレーフェにおけるヨーク朝・ブルゴーニュ公国の古い同盟を選択したことから急に変わり、エリザベス1世の寵臣レスター伯ダドリーの許でのネーデルラント反乱における内紛で更に続行されたイングランドをスコットランド・レノックスの︵本来はフランス・オービニー=シュル=ネーレに基盤を置いていた︶親仏のステュアート家に明け渡すというかつてのノーサンブリア=ウェストモアランド内紛での争いから来る反テューダーという“背信”への憤りから、このこと全てが並行して行われた。スコットランドの王朝は対象として新たに見つけたイングランドに権威を及ぼすのを維持するためにフランスに依存し、両国は前にも後にも王冠を獲得するために共に戦った。百年戦争以前のヨーク=ブルゴーニュ同盟はウィリアム3世のもとで復活し、これは第二次百年戦争と呼ばれる。
プランタジネット家はイングランドの王章を制定し、これは大抵、王国を掌握ないしは要求する者やその後継者によって示されたが、全く同時期のアイルランドの表象は欠けている。
アンジュー朝
王の一覧に関して蛇足を加えると、フランス王太子ルイはジョン王に対するバロン戦争の結果、1216年から1217年の短期間にイングランドの半分を支配した。しかし、ラムベス条約に調印したことで自身が正当なるイングランド王ではないことを認めた。ランカスター家
詳細は「ランカスター朝」を参照
この家系はエドワード3世の四男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子孫である。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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ヘンリー4世ボリングブロク 9月30日 1399年–1413年[59] |
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1366/7年4月3日 ボリングブロク城 ジョン・オブ・ゴーントとブランシュ・オブ・ランカスターの息子[59] |
(1) メアリー・ド・ブーン アルンデル城 1380年7月27日 7人の子を儲ける |
1413年3月20日 ウェストミンスター寺院 享年45 ないしは 46歳[60] |
エドワード3世の孫及び男子相続人 (簒奪/父方の長子相続) |
ヘンリー5世 3月20日 1413年–1422年[59] |
1386年9月16日ないしは 1387年8月9日[61] モンマス城 ヘンリー4世とメアリー・ド・ブーンの息子[59] |
キャサリン・オブ・ヴァロワ トロワ城 1420年6月2日 1子を儲ける[59] |
1422年8月31日 シャトー・ド・ヴァンセンヌ 享年35歳[59] |
ヘンリー4世の息子 (男系の長子相続) | |
ヘンリー6世 (最初の統治) 1422年8月31日 – 1461年3月4日[62] |
1421年12月6日 ウィンザー城 ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの息子[62] |
マーガレット・オブ・アンジュー ティッチフィールド寺院 1445年4月22日 1子を儲ける[62] |
1471年5月21日 ロンドン塔 享年49歳(殺害される)[62] |
ヘンリー5世の息子 (男系の長子相続) |
ヨーク家
詳細は「ヨーク朝」を参照
ヨーク家はエドワード3世の五男ヨーク公エドムンド・オブ・ラングリーの子孫である。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
---|---|---|---|---|---|
エドワード4世 (最初の統治) 1461年3月4日 – 1470年10月2日[63] |
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1442年4月28日 ルーアン リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの息子[63] |
エリザベス・ウッドヴィル グラフトン・レギス 1464年5月1日 10人の子を儲ける[63] |
1483年4月9日 ウェストミンスター宮殿 享年40歳[63] |
エドワード3世の玄孫及び継承権の長 (王位の掌握/親族による長子相続制) |
ランカスター家(復帰)
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
---|---|---|---|---|---|
ヘンリー6世 (第二次統治) 1470年10月2日 – 1471年4月11日[62] |
1421年12月6日 ウィンザー城 ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの息子[62] |
マーガレット・オブ・アンジュー ティッチフィールド寺院 1445年4月22日 1子供を儲ける[62] |
1471年5月21日 ロンドン塔 享年49歳(殺害される)[62] |
ヘンリー5世の息子 (王位の掌握) |
ヨーク家(復帰)
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
---|---|---|---|---|---|
エドワード4世 (第二次統治) 1471年4月11日 – 1483年4月9日[63] |
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1442年4月28日 ルーアン リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの息子[63] |
エリザベス・ウッドヴィル en:Grafton Regis 1464年5月1日 10人の子を儲ける[63] |
1483年4月9日 ウェストミンスター宮殿 享年40歳[63] |
エドワード3世の玄孫及び継承者の長 (王位を掌握/親族の長子相続) |
エドワード5世 1483年4月9日 – 6月25日[64] |
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1470年11月2日 ウェストミンスター エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの息子[64] |
未婚 | 1483年 ロンドン 享年約12歳[65] |
エドワード4世の息子 (親族の長子相続) |
リチャード3世 6月26日 1483年 – 1485年[66] |
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1452年10月2日 ファザーリンゲイ城 リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの息子[67] |
アン・ネヴィル ウェストミンスター寺院 1472年6月12日 1子を儲ける[67] |
1485年8月22日 ボズワーズ平原 享年32歳(戦死)[67] |
エドワード3世の玄孫 (en:Titulus Regius) |
テューダー家
詳細は「チューダー朝」を参照
テューダー家は14世紀のジョン・オブ・ゴーントとその長年の愛人キャサリン・スウィンフォードの庶子ジョン・ボーフォートの女系の子孫である。イングランド君主の庶系の子孫は王位請求権を持たない。しかし、ジョン・オブ・ゴーントとスウィンフォードが1396年︵ジョン・ボーフォートが産まれてから25年目︶に最終的に結婚したことが事態を面倒にした。この結婚の視点は、同年に教会がボーフォートはローマ教皇経由の勅書で嫡子であることを遡及して宣言した︵同時に1397年の議会の決議に秘められた︶。続いてジョン・オブ・ゴーントによって嫡子であることが宣言され、ヘンリー4世もボーフォートを嫡出と認識したが、王位を継承する資格のないことが宣言された。にもかかわらずボーフォート家はジョン・オブ・ゴーントの子孫であるランカスター家と親密に同盟を結んでいた。
ジョン・ボーフォートの曾孫で相続人と見なされたマーガレット・ボーフォートはエドムンド・テューダーと結婚した。エドムンド・テューダーはウェールズ大公家の末裔であるオーウェン・テューダーとヘンリー5世の妃であったキャサリン・オブ・ヴァロワの息子である。エドムンド・テューダーとその兄弟は庶子ないしは秘密結婚の産物によるものであり、自分たちの幸運が正嫡の異父兄ヘンリー6世の好意によるものであることを認めていた。ランカスター家が力を失った時にテューダー家が台頭した。
ヘンリー8世がローマ・カトリック教会と断絶するとイングランドの君主はイングランド国教会とアイルランド国教会の最高首長となった。エリザベス1世の称号にイングランド国教会最高首長が加えられた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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ヘンリー7世 8月22日 1485年–1509年[68] |
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1457年1月28日 ペンブローク城 エドムンド・テューダーとマーガレット・ボーフォートの息子[68] |
エリザベス・オブ・ヨーク ウェストミンスター寺院 1486年1月18日 8人の子を儲ける[68] |
1509年4月21日 リッチモンド宮殿 享年52歳[68] |
エドワード3世の7代の孫 (en:right of conquest) |
ヘンリー8世 4月21日 1509年–1547年[69] |
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1491年6月28日 グリニッジ宮殿 ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの息子[69] |
キャサリン・オブ・アラゴン グリニッジ 1509年6月11日 1娘を儲ける |
1547年1月28日 ホワイトホール宮殿 享年55歳[69] |
ヘンリー7世の息子 (長子相続制) |
アン・ブーリン ウェストミンスター宮殿 1533年1月25日 1娘を儲ける | |||||
ジェーン・シーモア ホワイトホール宮殿 1536年5月30日 1人儲ける | |||||
アン・オブ・クレーヴズ グリニッジ宮殿ン 1540年1月6日 | |||||
キャサリン・ハワード ハンプトンコート宮殿 1540年1月28日 | |||||
キャサリン・パー ハンプトンコート宮殿 1543年6月12日 | |||||
エドワード6世 1月28日 1547年–1553年[70] |
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1537年10月12日 ハンプトンコート宮殿 ヘンリー8世とジェーン・シーモアの息子[70] |
未婚 | 1553年6月6日 グリニッジ宮殿 享年15歳[70] |
エドワード8世の息子 (長子相続制) |
- 対立王位請求者
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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ジェーン・グレイ (9日間の女王) 1553年6月10日–7月19日[71] 称号を争う |
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1537年10月 ブラドゲートパーク サフォーク公ヘンリー・グレイとフランセス・ブランドンの娘[71] |
ギルフォード・ダドリー The Strand 1553年5月21日 未婚[72] |
1554年2月12日 ロンドン塔 享年16歳 (斬首刑)[71] |
ヘンリー7世の曾孫 (Device for the succession) |
エドワード6世はジェーン・グレイを自身の推定相続人と見做した。エドワード6世死後の4日間、ジェーンは女王と宣言した。宣言から9日後、エドワード6世の異母姉でカトリック教徒であったメアリーは十分な支持を得ることに努め、7月19日にジェーンを補足してロンドン塔に送った。ジェーンは16歳で処刑された。幾人かの歴史家はジェーンは正統なる君主であると見なしている。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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メアリー1世 (血塗れのメアリー) 7月19日 1553年–1558年[70] |
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1516年2月18日 グリニッジ宮殿 ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの娘[70] |
フェリペ2世 ウィンチェスター大聖堂 1554年7月25日 子を儲けず[70] |
1558年11月17日 セント・ジェームズ宮殿 享年42歳[70] |
ヘンリー8世の娘 (en:Third Succession Act) |
フィリップ・オブ・スペイン[73] 1554年7月25日– 1558年11月17日 (in the right of his wife) |
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1527年5月21日 スペイン・バリャドリッド 神聖ローマ皇帝兼スペイン王カルロス1世とイサベル・デ・ポルトゥガルの息子 |
(2) メアリー1世 ウィンチェスター大聖堂 1554年7月25日 子を儲けず 他の3人の結婚で 7人の子を儲ける |
1598年9月13日 スペイン・エル・エスコリアル 享年71歳 |
メアリー1世の王配 (Act for the Marriage of Queen Mary to Philip of Spain) |
![Coat of arms, 1554–1558](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/England_Arms_1554-1558.svg/125px-England_Arms_1554-1558.svg.png)
フェリペ2世 とメアリー1世の結婚の取り決めのもとで、フェリペ2世はメアリー1世の称号を享受し、名声は結婚と同じ長さで続いた。議員立法を含む公的文書には両人の名前が記され、議会は夫妻の権威の名のもとで召集された。議員立法はフェリペ2世に王の称号を与え、“メアリー1世陛下の神の恩恵を受けた王国と支配領域の幸福なる行政を……助けるべし”と明記した[74]︵しかし、あらゆる場所での議決でメアリー1世が“唯一”の女王と明記されている︶。にもかかわらず、フェリペ2世はメアリー1世と共同統治を行った[75]。新しいイングランド王は英語 が出来なかったことから、全ての物事とを明記した記録はラテン語ないしはスペイン語で作成しなければならなかった[75][76][77]貨幣にはメアリー1世とフェリペ2世の顔を示したのが刻まれ、イングランドの紋章︵右側︶はフェリペ2世の物に夫妻の共同統治を示す合わせ紋とした[78][79] 。フェリペ2世の王権に傾斜させる大逆罪の法令はイングランド[80]とアイルランドへもたらされた[81]。1552年にローマ教皇パウルス5世がフェリペ2世とメアリー1世を正統なるアイルランドの王及び王妃とする教皇勅書を発行した。
名前 | 肖像画t | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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エリザベス1世 (処女王) 11月17日 1558年–1603年[70] |
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1533年9月7日 グリニッジ宮殿 ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘[70] |
未婚 | 1603年3月24日 リッチモンド宮殿 享年69歳[70] |
ヘンリー8世の娘 (en:Third Succession Act) |
ステュアート家
詳細は「ステュアート朝」を参照
1603年にエリザベス1世が後継者を残すことなく没したことで、スコットランド王ジェームズ6世が王位を継ぎ、これは王冠の合同として知られるようになった。ジェームズ6世は曾祖母でヘンリー7世の長女であるマーガレット・テューダーを介してテューダー家の血を引いていた。1604年にジェームズ1世は、かつてのカスティーリャとアラゴンがハプスブルク家の“スペイン”で一塊になったのと酷似したグレート・ブリテン王の称号を採用した。ジェームズ1世は国境を越えたアイディティティーを促進させるために、従兄弟のレノックス公をリッチモンド公に、他方、en: Lord of the Islesをプリンス・オブ・ウェールズに、アルバ公をヨーク公に等と名付けるようにして、称号をスコットランド人とイングランド人に対して等しく気前良く与えた。しかし、議会、特に下院は効率良く分かれたままであった。アイルランドは別個として独立し、教会と国家が並存するというイングランドと平行した統治はスコットランドもこれに加わった時に存続したが、ジェームズ1世は自らの同胞をアルスターに紹介することでアイルランドの荘園に変え、彼等の多くはイングランドのレンスター支配に憤りを持っていた。ステュアート朝は古い同盟に基づいて長い間カペー家とヴァロワ家を支援し、このことが完全にフランス王位請求を試みるに至らなかった。ステュアート家はブルボン家から年金を受け取っており、継承したイングランド内における自身の外国の適応に対して大概悪口を言っていた。プランタジネット家の裏切りが原因なのかも知れないが、フランス革命の圧力下でステュアート朝の後継者であるハノーヴァー朝がフランス王位を放棄した時に更なる譲歩がなされた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死 | 主張 |
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ジェームズ1世 3月24日 1603年–1625年[82] |
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1566年6月19日 エディンバラ城 ヘンリー・ステュアートとメアリー・ステュアートの息子[82] |
アン・オブ・デンマーク オスロ 1589年11月23日 7人の子を儲ける[82] |
1625年3月27日 シ-アーボールズ宮殿 享年58歳[82] |
ヘンリー7世の玄孫及び親族の継承者 (長子相続制) |
チャールズ1世 (聖チャールズ殉教王[83]) 3月27日 1625年–1649年[84] |
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1600年11月19日 ダンファームリン宮殿 ジェームズ1世とアン・オブ・デンマークの息子[84] |
ヘンリエッタ・マリア 聖アウグスティヌス寺院 1625年6月13日1月30日 9人の子を儲ける[84] |
1649年1月30日 ホワイトホール宮殿 享年48歳 (斬首刑)[84] |
ジェームズ1世の息子 (長子相続制) |
共和制
詳細は「イングランド共和国」を参照
1649年のチャールズ1世の処刑から1660年のチャールズ1世による王政復古までの間、イングランドには君主がいなかった。代わりに1653年に護国卿が設けられ、この期間は護国卿時代として知られている。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | |
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オリバー・クロムウェル (Old Ironsides) 12月16日 1653年–1658年[85] |
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1599年4月25日 ハンティンドン[85] ロバート・クロムウェルとエリザベス・ステュワートの息子[86] |
エリザベス・ボルチア St Giles[87] 1620年8月22日 9人の子を儲ける[85] |
1658年9月3日 ホワイトホール 享年 59歳[85] | |
リチャード・クロムウェル (Tumbledown Dick) 1658年9月3日 – 1659年5月7日[88] |
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1626年10月4日 ハンティンドン オリバー・クロムウェルとエリザベス・ボルチアの息子[88] |
ドロシー・マイジョル 1649年5月 9人の子を儲ける[88] |
1712年7月12日 チェシャント 享年85歳[89] |
ステュアート家(復帰)
1660年に君主制が復活したが、安定した解決は、議会が最終的に意に叶う君主として選ばれた者全てへの権利を宣言した1688年の名誉革命まで訪れなかった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | 主張 |
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チャールズ2世 1649年–1685年[90] Recognized by Parliament in 1660 |
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1630年5月29日 セント・ジェームズ宮殿 チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの息子[91] |
キャサリン・オブ・ブラガンザ ポーツマス 1662年5月21日 3人の嫡子を儲ける(全員死亡)[91] |
1685年2月6日 ホワイト・ホール宮殿 享年54歳[91] |
チャールズ1世の息子 (長子相続制; 王政復古) |
ジェームズ2世 1685年2月6日 – 1688年12月23日 (廃位)[92] |
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1633年10月14日 セント・ジェームズ宮殿 チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの息子[92] |
(1) アン・ハイド The Strand 1660年9月3日 8人の子を儲ける (2) メアリー・オブ・モデナ |
1701年9月16日 en:Château de Saint-Germain-en-Laye 享年67歳[92] |
チャールズ1世の息子(長子相続制) |
メアリー2世 2月13日 1689年–1694年[92] |
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1662年4月30日 セイント・ジェームズ宮殿 ジェームズ2世とアン・ハイドの娘[92] |
セイント・ジェームズ宮殿 1677年11月4日 3人の子を儲ける(全員死亡)[93] |
1694年12月28日 ケンジントン宮殿 享年32歳[92] |
ジェームズ2世の娘及びチャールズ1世の孫 (議会の要請で戴冠) |
ウィリアム3世 オラニエ公ウィレム3世 2月13日 1689年–1702年[93] |
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1650年11月4日 ハーグ ウィレム2世とメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの息子[94] |
1702年3月8日 ケンジントン宮殿 享年 51歳[93] | ||
アン 3月8日 1702年–1714年[95] 連合王国女王 1707年5月1日 |
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1665年2月6日 セント・ジェームズ宮殿 ジェームズ2世とアン・ハイドの娘[96] |
カンバーランド公ジョージ セント・ジェームズ宮殿 1683年7月28日 17人の子を儲ける[96] |
1714年8月1日 ケンジントン宮殿 享年49歳[96] |
ジェームズ2世の娘 (長子相続制; 権利の章典) |
イングランド君主の年表
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/timeline/85hme91mnzbso7letu5cj6s6desh1gg.png)
連合法
「イギリス君主一覧」も参照
一組の議員立法である連合法は、 1706年7月22日に2つの国の議員を代表する委員間の交渉で同意された合同条約を有効にするためにイングランド議会とスコットランド議会によって1706年から1707年の間に通過された。立法にはイングランド王国とスコットランド王国︵かつては分離した主権国家及び立法府であったが、共通の王を戴いていた︶はグレートブリテン王国として一つの王国となることが加えられたT[97]。
2つの国は100年間君主を共有してきた︵“王冠の合同”‥スコットランド王ジェームズ6世がエリザベス1世からイングランド王位を継承した1603年から︶。しかし、王冠の合同について述べると1707年以前には実際には同じ頭の上に2つの分かれた王冠が抱かれた。1607年、1667年、1669年の3度にわたって議員立法によって2つの国の合同が試みられたが、18世紀初頭までに実行されることはなかった︵意見には背後にある両国の政治的体制の思惑があった、他にも様々な理由があったが︶。
称号
アルフレッド大王からジョン欠王に至るまでの全君主の基本的な称号はRex Anglorum (イングランド王)。付け加えておくと、ノルマン朝以前の君主の称号を以下に記す。 ●アルフレッド大王: Rex Angulsaxonum (King of the Anglosaxons) and Rex Anglorum et Saxonum (アングロ=サクソン王) ●アゼルスタン: Rex Anglorum per omnipatrantis dexteram totius Bryttaniæ regni solio sublimatus ●エドマンド1世: Rex Britanniae and Rex Anglorum caeterarumque gentium gobernator et rector ●エドレッド: Regis qui regimina regnorum Angulsaxna, Norþhymbra, Paganorum, Brettonumque ●エドウィ: Rex nutu Dei Angulsæxna et Northanhumbrorum imperator paganorum gubernator Breotonumque propugnator ●エドガー: Totius Albionis finitimorumque regum basileus ●カヌート大王: Rex Anglorum totiusque Brittannice orbis gubernator et rector and Brytannie totius Anglorum monarchus ノルマン朝期には基本的にはRex Anglorum は残り、時折Rex Anglie︵イングランド王︶が使われた。マティルダ自身の称号はDomina Anglorum︵イングランドの女主︶であった。 ジョン欠地王の時代からは先のその他全ての称号はRex AnglieないしはRegina Anglie︵イングランド女王︶のために避けられた。 1604年に前年にイングランド王を継承したジェームズ1世は︵今日では普通にラテン語よりも英語で表現される︶に“グレートブリテン王”の称号を採用した。しかし、イングランドとスコットランドの議会は1707年のアン女王︵彼女は勿論“グレートブリテン女王”であった︶下での合同法までこの称号を認識していなかった[98]脚注
(一)^ Keynes, Simon (1999), “Offa”, in Lapidge, Michael, The Blackwell Encyclopedia of Anglo-Saxon England, Oxford: Blackwell, pp. 301–341, ISBN 0-631-22492-0 "The notion that Offa claimed to be 'king of the English', or 'king of the whole country of England', has been shown to depend, however, on charters forged in the tenth century. In his own day he was 'king of the Mercians', and proud enough to be so." (p. 341)
(二)^ Wormald, Patrick (1982), “The Age of Offa and Alcuin”, in Campbell, James, The Anglo-Saxons, London: Phaidon, pp. 101–128, ISBN 0-14-0143950-5{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。﹃Charlemagne, moreover, saw England as if it were ruled by two kings only; Æthelred ruling Northumbria, and Offa everything to the south.﹄(p. 101)
(三)^ abThe Earliest English Kings, D.P. Kirby
(四)^ abcdBurke's Peerage & Gentry. Retrieved 7 September 2007.
(五)^ Yorke, Barbara. Bishop Æthelwold. His Career and Influence. Woodbridge, 1988. p. 71
(六)^ Textus Roffensis
(七)^ abcd“thePeerage.com – Æthelbald, King of Wessex and others”. 2007年10月24日閲覧。
(八)^ “King Egbert”. 2007年10月24日閲覧。
(九)^ Weir, Alison (1999), Britain's Royal Family: A Complete Genealogy, London, U.K., p. 6
(十)^ abAlfred (the Great) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
(11)^ Catholic Encyclopedia: Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
(12)^ Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
(13)^ abEADWEARD (Edward the Elder) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
(14)^ There are various references listing Edward the Elder's birth as sometime in the 870s, being the second child of a marriage of 868. There are no sources listing his birth as after 877. Anglo-Saxons.net : Edward the Elder. Retrieved 15 March 2007.
(15)^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Edward the Elder. Retrieved 21 January 2007.
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(17)^ abcEADMUND (Edmund) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
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(19)^ EADRED (Edred) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
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(21)^ abcEADWIG (Edwy) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
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(24)^ The Ætheling. Retrieved 17 March 2007.
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(26)^ abcdÆthelred the Unready was forced to go into exile in the summer of 1013, following Danish attacks, but was invited back following Sweyn Forkbeard's death. AETHELRED (the Unready) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
(27)^ Schoolnet Spartacus: Ethelred. Retrieved 17 March 2007.
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(44)^ abAfter reigning for approximately 9 weeks, Edgar the Atheling submitted to William the Conqueror, who had gained control of the area to the south and immediate west of London (“Eadgar (the Ætheling) - Archontology.org”. 2007年10月26日閲覧。).
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(55)^ abcdEdward II was officially deposed by Parliament on 25 January 1327, having been imprisoned on 16 November 1326. “thePeerage.com – Person Page 10094”. 2007年10月25日閲覧。
(56)^ The date of Edward II's death is disputed by Ian Mortimer in his book "The Perfect King: The Life of Edward III, Father of the English Nation," in which argues that he may not have been murdered, but held imprisoned in Europe for several more years: ISBN 009952709X
(57)^ abcd“thePeerage.com – Person Page 10188”. 2007年10月25日閲覧。
(58)^ abcdRichard II was deposed, and became a prisoner of Henry Bolingbroke, who usurped the throne from the prior claims of the issue of his father John of Gaunt. “thePeerage.com – Person Page 10206”. 2007年10月25日閲覧。
(59)^ abcdefg“thePeerage.com – Person Page 10187”. 2007年10月25日閲覧。
(60)^ “HENRY IV - Archontology.org”. 2007年10月25日閲覧。
(61)^ Biography of HENRY V - Archontology.org. Retrieved 28-11-2009
(62)^ abcdefghEdward IV usurped the throne in 1461 after years of civil war. Henry VI was restored for about five months in 1470 before being deposed again permanently. “thePeerage.com – Person Page 10186”. 2007年10月25日閲覧。
(63)^ abcdefghEdward was briefly deposed during his reign by Henry VI. “thePeerage.com – Person Page 10164”. 2007年10月25日閲覧。
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(70)^ abcdefghij“thePeerage.com – Person Page 10150”. 2007年10月25日閲覧。
(71)^ abcJane was deposed in favour of Mary I. “thePeerage.com – Person Page 10152”. 2007年10月25日閲覧。
(72)^ “Lady Jane Grey: Marriage”. 2007年10月25日閲覧。
(73)^ Philip was not meant to be a mere consort; rather, the status of Mary I's husband was envisioned as that of a co-monarch during her reign. See Philip II of Spain's reign in England. However the extent of his authority and his status are ambiguous. An Act of Parliament, 1 Mar. stat. 2 c. 2, says that Philip shall have the title of king and﹃shall aid her Highness ... in the happy administration of her Grace’s realms and dominions,﹄but elsewhere says that Mary shall be the sole Queen.
(74)^ 1 Mar. stat. 2 c. 2
(75)^ abLouis Adrian Montrose, The subject of Elizabeth: authority, gender, and representation, University of Chicago Press, 2006
(76)^ A. F. Pollard, The History of England – From the Accession of Edward VI. to the Death of Elizabeth (1547–1603), READ BOOKS, 2007
(77)^ Wim de Groot, The Seventh Window: The King's Window Donated by Philip II and Mary Tudor to Sint Janskerk in Gouda (1557), Uitgeverij Verloren, 2005
(78)^ Richard Marks, Ann Payne, British Museum, British Library; British heraldry from its origins to c. 1800; British Museum Publications Ltd., 1978
(79)^ American Numismatic Association, The Numismatist, American Numismatic Association, 1971
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(81)^ Robert Dudley Edwards, Ireland in the age of the Tudors: the destruction of Hiberno-Norman civilisation, Taylor & Francis, 1977
(82)^ abcd“thePeerage.com – Person Page 10137”. 2007年10月25日閲覧。
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(97)^ Welcome parliament.uk. Retrieved 7 October 2008.
(98)^ After the personal union of the three crowns, James was the first to style himself King of Great Britain, but the title was rejected by the English Parliament and had no basis in law. The Parliament of Scotland also opposed it. Croft, p67; Wilson, pp249–252. See also the early history of the Union Flag.