トンプソン・サブマシンガン
トンプソン・サブマシンガン | |
---|---|
![]() 戦時中に生産されたトンプソン M1928A1 | |
種類 | 短機関銃 |
原開発国 |
![]() |
運用史 | |
配備期間 |
1938年-1971年 (アメリカ陸軍) |
配備先 | 米国はじめ各国 |
関連戦争・紛争 |
|
開発史 | |
開発者 | ジョン・T・トンプソン |
開発期間 | 1917年-1920年 |
製造業者 |
Auto-Ordnance Company (オリジナル) バーミンガム・スモール・アームズ コルト サベージ・アームズ |
製造期間 | 1921年 - |
製造数 | 約1,700,000丁 |
派生型 |
Persuader & Annihilator 試作機, M1921, M1921AC, M1921A, M1927, M1928, M1928A1, M1, M1A1 |
諸元 | |
重量 |
10.8lb(4.9kg)空の場合(M1928A1) 10.6lb(4.8kg)空の場合(M1A1) |
全長 | 33.5 in (851 ミリメートル)(M1928A1) 32 in (813 ミリメートル)(M1A1/M1) 銃身 10.5 in (267 ミリメートル) 銃身にオプションでCutts Compensatorが付く 12 in (305 ミリメートル) |
| |
弾丸 | .45ACP弾(11.43x23mm) |
作動方式 |
シンプル・ブローバック方式 ブリッシュ・ロック方式 |
発射速度 |
600–1,200発/分 (各モデルにより異なる) |
初速 | 285 m/s (935 ft/s) |
装填方式 |
20発 箱型弾倉 30発 箱型弾倉 50発 ドラムマガジン 100発 ドラムマガジン (M1とM1A1はドラムマガジンを装着できない) |
構造
歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/Thompson-and-his-gun.jpg/150px-Thompson-and-his-gun.jpg)
M1919
M1921
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Thompson_1921_submachine_gun.jpg/200px-Thompson_1921_submachine_gun.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Thompsonad1sm.jpg/160px-Thompsonad1sm.jpg)
M1923
M1927
M1928
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Corporal%2C_East_Surrey_Regiment_1940.jpg/200px-Corporal%2C_East_Surrey_Regiment_1940.jpg)
M1928A1
M1/M1A1
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/M1A1.gif/200px-M1A1.gif)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bf/Ww2_158.jpg/200px-Ww2_158.jpg)
- 戦時省力生産モデル
- 詳細は「トンプソンM1短機関銃」を参照トミーガンは切削加工を前提としたデザインであり、プレス加工を活用した大量生産には再設計が必要だったが、大幅な構造の変更はなされないまま、省力化と操作性向上のために幾つかの改良が施されたM1型が1942年に採用され︵ステン短機関銃タイプの鋼板プレス製M3グリースガンも同年に採用された︶、1943年末からサベージ・アームズ社で大量生産が開始された[4]。 M1に採用された簡易化は、 ●工数がかかり信頼性も低かったブリッシュ・ロック式閉鎖機構の替わりに、ボルトの重量を増やしてシンプル・ブローバック方式に変更された。 ●銃身に装着されていたコンペンセイターや放熱フィンが廃止された。 ●ストックの固定法が直接ネジで止める方式に変更された。 ●ドラム弾倉装着用の横スリット溝が廃止された。 ●コッキングハンドルを上面から右側面にずらした。 といったもので、M1はM1928A1の半分の時間で製造され、調達コストは$45まで低下した。しかし、当初は供給が追いつかなかったため、レイジングM50など他の短機関銃で不足分を間に合わせていた。 同年中には簡素化が更に進められて撃針をボルトに固定し、照門︵リアサイト︶の側面に三角形の保護板を付けたM1A1が採用された。
旧式化
トミーガンは第二次世界大戦勃発の時点で連合国軍が配備しうる唯一の有力な短機関銃と見なされていたが、一方で原設計が1919年ということもあり、既に旧式化しつつあった。このため、アメリカ政府ではより近代的かつ軽量で生産効率も高い新型短機関銃による更新を計画し、各国から広く新型短機関銃を募集した。1939年、ジョージ・ハイド技師が手がけたM35短機関銃が審査を受けた。M35はトミーガンと類似したシルエットを備えていたが、いくつかの点で劣ると見なされ採用されなかった。続いて審査を受けた製品としては、スオミ短機関銃、レイジング短機関銃、ハイスタンダード製短機関銃、スミス&ウェッソン製半自動カービン、ステン Mk.2などがあった。この時にはステン Mk.2が最も高い評価を受けたものの、結局更新は見送られた。1942年、陸軍武器省はステン Mk.3を審査した後に再び採用を見送ったが、この際にステンを参考とした安価かつ生産効率の高い短機関銃を設計することが決定した。設計担当に選ばれたのはかつてM35を提案し、当時はM2短機関銃を手がけていたハイドであった。同年12月24日、新型短機関銃は制式名称合衆国 .45口径短機関銃M3︵United States Submachine Gun, Cal. .45, M3︶として採用され、以後トミーガンの生産優先順位は低下した。しかし、その後も製造上の都合から1944年2月までトミーガンの販売は続けられた[12]。2月には最終注文分として2,091丁のトミーガンが陸軍に引き渡された[13]。第二次世界大戦後
大戦末期、オート・オードナンス社は当時の親会社マグワイア・インダストリーズ︵Maguire Industries︶に同社の銃器部門として吸収され、まもなくして需要が増加しつつあったラジオやレコードプレーヤーなどの製造部門に改組された。これに伴い銃器関連の生産設備は全て解体された[13]。1949年にはキルゴア製作所︵Kilgore Manufacturing Co.︶がエジプト向けのトミーガン製造を行うために旧オート・オードナンス社の資材を購入したものの、結局エジプト当局との契約には至らなかった。その後、オート・オードナンス社の資材とトミーガンの権利は複数の投資家や企業の間でやり取りされることとなった。1970年初頭にようやくオート・オードナンス社が再建され、官給用モデルの限定的製造および民生用セミオートモデルの製造が始まった。この新型セミオートモデルは従来のモデルの部品を用いたフルオート改造を封じるため、レシーバーが再設計されている。また、銃身も法規制に基づいた比較的長いものが取り付けられている[14]。 M1/M1A1は累計で138万挺製造され、第二次世界大戦を通じて米軍でもっとも多く使用された短機関銃となり、主に下士官や戦車兵、空挺兵に対して供給された。 1957年、アメリカ軍は準制式装備たるトミーガンの完全な退役を宣言した。しかし、1961年にジョン・F・ケネディ大統領がベトナム戦争への介入を決定すると、予備装備として残されていたトミーガンが軍事顧問団の装備やベトナム共和国軍︵南ベトナム軍︶への援助として使用されることになった。当時海兵隊員として従軍していたデイル・ダイは、銃床を取り外したトミーガンを頻繁に目撃したとしている。フエの戦いでは、戦闘後に遺棄されていたトミーガンを多くの海兵隊員が入手し、またダイ自身もしばらく使用していたという。ダイは弾薬の消費量や重量、引き金の重さを欠点としつつも、近距離戦闘では非常に効果的な火器であると評価している。そのほか、ヘリ乗員が銃床を外したトミーガンを南ベトナム兵から譲り受け、バグアウト・ガン︵bug-out gun, 機体からの脱出時に持ち出す非常用火器︶として使用したり、休暇で市街地に入る際の自衛用火器として用いた例がある。一方、重量以外にも威力不足や整備性の問題、弾倉の入手が困難などの問題点から、他の銃器ほどに広くは使用されなかったとも言われている[15]。普及
アメリカ
アメリカにおいては軍用短機関銃としての運用に加え、禁酒法の恩恵で急成長を遂げていたマフィアによって抗争などで使用されたことがトミーガンの知名度を飛躍的に高めた。トミーガンを愛用した著名なマフィアとしては、ジョン・デリンジャー、ベビーフェイス・ネルソン、アル・カポネなどが知られている[16]。ジョージ・"マシンガン"・ケリーの通称も、彼が愛用したトミーガンに因んだものである[3]。 ギャング間の抗争事件は当時のマスコミの格好の題材であり、こうした事件が"再現フィルム"的に映像化されたハリウッド製作のギャング映画によって、トミーガンの存在はマシンガンの呼称とともに世界中に知れ渡り、トミーガン=機関銃という認識が広く定着するなど、実態以上に強い印象をもって記憶されており、寿司桶のようなドラムマガジンを装着したトミーガンの姿はRoaring Twenties︵狂騒の20年代︶を演出した歴史上重要なアイテムとして認識されている。 一方、これらの犯罪者らと対峙した法執行機関でもトミーガンは使用された。最初に本格的な配備を行ったのは郵便公社郵便監察局である[9]。連邦捜査局︵FBI︶におけるトミーガン採用のきっかけは、1933年に起こったカンザスシティの虐殺として知られる大規模な銃撃戦であった。この直後、捜査局︵BOI, FBIの前身︶の長官であるジョン・エドガー・フーヴァーはエージェントの重武装化の検討を行わせ、この中でいくつかの拳銃や散弾銃、小銃と共にトミーガンの調達が決定した。その後、トミーガンは長らくFBIの制式短機関銃として運用されたが、1971年には本部庁舎および各地方支局の見学ツアーにおけるデモンストレーション用とされた少数を除き、ほとんどが廃棄された。この際に後継装備の選定が行われなかった為、FBIは短機関銃不足に陥り、最終的にMP5短機関銃の調達が行われるまで、軍余剰品のM3/M3A1短機関銃やMAC-10短機関銃などが用いられたという[17]。 1989年、FBIは制式拳銃弾として10mmオート弾を採用した。これを用いる肩撃ち銃を模索する過程において、FBIは予備火器として保管されていたトミーガンの一部をオート・オードナンス社に送り、10mm仕様への改修を依頼した。オート・オードナンス社では10mm仕様トミーガンを自社のカタログにも掲載し、1991年から1993年頃まで販売していた。FBIでは10mm仕様のトミーガンを、﹁10mm弾を用いる短機関銃のテストプラットフォーム﹂と見なしており、間もなくして採用されたMP5/10短機関銃に置き換えられ、姿を消していった。なお、MP5/10は1980年代から採用されていたMP5を10mm仕様に再設計した短機関銃だったが、法執行機関向け拳銃市場における10mmオート弾の商業的失敗を経て、.40S&W弾仕様のMP5/40に置き換えられた。その後、これらの短機関銃の大部分は各種の5.56mm突撃銃へと段階的に更新されていった[18]。イギリス
ドラムマガジン付トミーガンを手にするウィンストン・チャーチル英首相(1940年) 1921年6月30日、ヨーロッパ各国を巡りトミーガンの売り込みを行っていたトンプソンは、M1921のテストを行うためイギリスのエンフィールド造兵廠に招かれた。この時のテストは概ね成功を収めたものの、イギリス側の担当者は精度と信頼性に懸念を示し、ブリッシュ・ロック方式が銃の構造を不必要に複雑化していると報告した。特徴的なドラム型弾倉についても有用性が疑問視され、同じ弾数を持ち運ぶとしても20発箱型弾倉を複数携行した方が軽量であるとした。また、第一次世界大戦の終戦から間もない時代において、平時に購入するには比較的高価であったこと、あらゆる銃器について高い射撃精度を重視するイギリス陸軍の伝統に反すること、自動銃の採用によって弾薬の購入費用が増すおそれがあることなどを理由に制式採用は見送られた[19]。 ヨーロッパでは9x19mm弾仕様の需要があることにトンプソンは気づいたものの、当時のアメリカでは一般的な拳銃弾ではなかったこともあり、オート・オードナンス社の設備では設計・製造を行うことができなかった。そのため、トンプソンはイギリスのバーミンガム・スモール・アームズ社︵BSA︶にヨーロッパ向けモデルの設計・製造を依頼したのである。同社のジョージ・ノーマン技師︵George Norman︶が手がけたヨーロッパ向けトミーガンは、1926年に発表されたことからM1926として知られる。9x19mm弾仕様のほか、9x20mm弾仕様、7.63x25mm弾仕様が設計された。M1926はレシーバ部が強化されていたほか、フォアグリップや銃床の形状が改められ、ピストルグリップも除去されている。M1926はいくつかの国で試験されたものの結局採用には至らず、1930年には製造が中止された。なお、在庫となっていた少数のM1926は1940年のダンケルク撤退後に戦争省が全て買い上げている[20]。レンドリース法のもとアメリカから送られたトミーガンを運び出すイギ リス兵︵1942年︶ 1939年9月に第二次世界大戦が始まると、ネヴィル・チェンバレン内閣の中にもこの戦争が長期化するものと予想する人々がいた。いわゆるまやかし戦争の期間、イギリス軍は本格的な参戦に備えて銃火器の備蓄と新規購入に着手したものの、資金不足などから軽量な自動火器の調達に失敗していた。こうして当時﹁みすぼらしいアメリカのギャングの銃﹂と見なされていたトミーガンの再評価が行われ、兵站委員会︵Board of Ordnance︶では政府に対しトミーガンの本格的な調達を求めたのである。1940年、ウィンストン・チャーチルが首相に就任する。チャーチルは雑誌﹃TIME﹄誌上でトミーガンを賞賛し、間もなくM1928の調達を認めた。ニューヨークのは英国購買委員会では1940年2月に最初の注文を行った。最初にトミーガンの供給を受けたのは、正規軍ではなくホーム・ガードの補助隊︵英本土侵略に備えた秘密抵抗組織︶であった。1941年初頭には陸軍での調達が始まったが、当初は特殊部隊ブリティッシュ・コマンドスのみに支給されていた。レンドリース法の元で供給が始まると、イギリスはアメリカに対して514,000丁のトミーガンを要求した。しかし、大西洋ではドイツ海軍のUボートによる通商破壊が激化しており、1942年4月までにイギリスへ届けられたトミーガンはわずか100,000丁に過ぎず、結局は需要の一部をステン短機関銃で代替することとなった。以後はステン短機関銃が優先して支給され、トミーガンはコマンドスなど一部の部隊にのみ与えられた。ホーム・ガードでも引き続き使用された[19]。 イギリスに供給されたM1928A1は基本的にアメリカ軍で採用されたモデルと同一であったが、水平フォアグリップではなく旧型の垂直フォアグリップが標準的に取付けられていた点と、アメリカ軍のモデルでは下部にあった銃床側のスリングスイベルが上部に移されている点が異なっていたほか、銃身と機関部にはイギリス政府調達を示す刻印が施されていた[5]。後にM1やM1A1も購入され、M1928と共に使用されている[19]。 トミーガンを構えるチャーチルの有名な写真は、1940年7月にハートルプール近くで行われた部隊視察の折に撮影された。当時イギリス軍が有したトミーガンはアメリカから最初に出荷された400丁のみで、その一部が各地でのプロパガンダ写真撮影の為に使いまわされていた。これによって、全軍にトミーガンが広く配備されているかのような宣伝が行われたのである[21]。イギリスでは徹底抗戦の象徴となったチャーチルの写真だが、発表の数週間後にはナチス・ドイツ側も同じ写真を用いた伝単を作成しイギリスへと投下した。これはトミーガンの印象も相まって写真のチャーチルがいかにも﹁ギャング風﹂に見えることから、彼を﹁非人道的な殺人犯﹂と称して非難する指名手配書風のものだった[22]。 2014年、国防省ドニントン集積所︵MoD Donnington︶からエセックスの統合軍事博物館︵Combined Military Services Museum︶に展示用として引き渡された旧式火器700丁の中に、かつてプロパガンダ用に使われていた初期輸入品のトミーガンが発見された。同博物館の軍事史家クライヴ・マクファーソン︵Clive McPherson︶は、80%の可能性でチャーチルが手にしたトミーガンそのものであると述べている[21]。カナダ
カナダ軍では1940年のフランス陥落後にトミーガンを採用した。1942年には安価なイギリス製ステンガンに更新されたが、地中海戦線では弾薬供給上の都合からトミーガンが使用され続けた。特徴的な50連発ドラム型弾倉も少数使用されたものの、大きくかさばるため好まれず、もっぱら20連発または30連発の箱型弾倉が使用された[23]。
スウェーデン
スウェーデンはヨーロッパでトミーガンを採用した最初の国の1つである。冬戦争最中の1940年1月25日、陸軍がトミーガンを500丁購入し、制式名称m/40短機関銃(kpist m/40)として配備した。さらに3,000丁を調達する計画もあったが講和に伴い中止されている。m/40はオート・オードナンス社のカタログにM1928Aとして掲載されているモデルとおよそ同等で、カッツ・コンペンセイターを備えていなかった。また、大部分がM1921から改修されたものだったため、機関部の刻印に打ち直しの痕跡があった。弾薬にはm/40 11mm弾(11 mm patron m/40)という制式名称が与えられていたが、国内生産は行われなかった。その後、まもなくしてスウェーデン軍における短機関銃の需要が満たされたため、m/40は二線級装備と位置づけられた。1950年代にはイスラエルに売却されたと言われている[24]。
最初のスウェーデン語版マニュアルはオート・オードナンス社によって印刷された。早急な出荷が求められていたため、ページ数は英語版の半分以下の21ページまで減らされた。写真や図版は既成のマニュアルやカタログから流用されたもので、M1928Aではないモデルのものも混じっており、垂直フォアグリップや100連発弾倉などスウェーデン軍が採用していないオプションも描かれていた。その後、1941年から1944年にかけてスウェーデン国内で独自のスウェーデン語版マニュアルが何種類か作製された[25]。
ソビエト連邦
レンドリース法の元、トミーガンはソビエト連邦にも供給された。ただし、当初はいくつかの理由で少数供給に留まっていた。すなわち、赤軍上層部がソ連邦の気候に適した銃か疑わしいと考えていたこと、.45ACP弾がソ連邦内で一般的な銃弾ではなく、アメリカからの供給を含めても調達が難しかったこと、アメリカ軍およびイギリス軍への供給が優先されていたことの3点である。通常の運用に加え、車両乗員やパイロットの自衛火器としても配備されていた。評判は悪くなかったが、その後も弾薬の調達が難航した為、段階的にソ連邦製の火器へと更新されていった[26]。フランス
第一次世界大戦後に新しい自動火器の調達を計画していたフランスでは、1921年に試験目的でトミーガン1丁を購入している。1924年にはトンプソンがフランスを訪れ、M1921︵.45ACP弾︶とM1923︵.45レミントン=トンプソン弾、二脚付︶の試験が行われた。フランス側ではさらに.351ウィンチェスター・セルフローディング弾︵.351 SL︶仕様での試験に関心を示した。これはフランス軍が大戦中に同弾薬を採用しており、当時まだ在庫が残されていたためである。1926年には.351SL仕様のトミーガンで再度試験が行われたが、銃の破損など問題が相次いだ。1927年にはイギリスで再設計されたM1926の試験が行われたものの、射撃性能とは別に弾倉の故障などが起こった。発射速度も高すぎると判断され、最終的にあらゆる種類のトミーガンの採用見送りが決定した。 第二次世界大戦勃発後の1939年、早急に大量の武器を調達する必要に駆られたフランスは3,000丁のトミーガン︵大半はM1921︶を購入し、1940年を通じて配備が行われた。これらはスリングスイベルを取り付けない状態で出荷され、フランス到着後にベルティエ小銃と同型のものが取り付けられた。追加の評価試験後、さらに3,000丁の追加注文が行われたものの、全てを受領する前にフランスは降伏した。国内に残されていた3,000丁あまりのトミーガンは、ヴィシー政権の軍・警察部隊によって使用された。ヴィシー政権下では独自のフランス語版マニュアルも作成された。 一方、自由フランス軍ではM1928A1およびM1が広く使用された。当初はFM23-40などアメリカ陸軍の教範をフランス語に翻訳したものが使用されていたが、のちに独自のフランス語版マニュアルも作成されている[27]。日本
敗戦の際、マレーにて日本軍から接収された銃火器。手前にトミーガンなどの外国製銃器が確認できる(1945年) 第二次世界大戦前の1930年には、日本海軍が実験に用いたという記録がある[28]。 開戦後、日本軍は各戦線でトミーガンを鹵獲した。1944年2月に作成された米軍装備に関する陸軍の資料中では、米軍が装備するサブマシンガン︵日本陸軍では主に﹁機関短銃﹂と呼んだ︶について、トンプソン機関短銃、ライジング機関短銃、M3機関短銃の3点が写真付きで紹介されている[29]。また、日本陸軍では短機関銃を有する連合国軍部隊に対抗するべく、トミーガンなどの鹵獲短機関銃を装備した﹁自動小銃班﹂なる特設部隊が各地で編成されていたという[30]。1943年に米陸軍省が作成した資料にも、ビルマ戦線にて日本軍が曳光弾を装填したトミーガンを用いて夜間の威力偵察を行っていた旨を記したものがある[31]。シンガポール占領で英軍から鹵獲されたトミーガン600丁が、パレンバン作戦後に陸軍落下傘部隊に支給されたとも伝えられている[32]。 敗戦後の1950年に発足した警察予備隊に対しては、米国からM3グリースガンと並んで供与され、"サブマシンガン"の訳語として﹁短機関銃﹂という言葉が作られ﹁11.4mm短機関銃M1﹂として制式化された。その後も保安隊から自衛隊において継続して装備され、陸上自衛隊では1970年代まで使用されたほか、海上自衛隊及び航空自衛隊では1990年代に入っても少数ながら現役として装備されていた。 自衛隊が保有していた45口径短機関銃は、1998年度から9mm機関けん銃への更新が始まり、2011年度までに完了した[33]。中国
ファイル:Guo jun mei xie zhuang bei.png トミーガンの射撃訓練を行う紅軍の兵士(1937年) 1920年代から1930年代にかけて、アメリカ合衆国主導のもとで国際的な武器禁輸が行われていたにも関わらず、軍閥間の内戦が続いていた中国にも多数のトミーガンが輸出された[34]。少なくとも3箇所の地方兵廠にてコピー生産が行われていたことが知られている。 山西省を支配した閻錫山の軍閥ではM1921のコピー品が生産され、モーゼル軍用拳銃をM1921の弾薬に合わせて.45ACP弾化した独自製品まで出現した。また、各地で跋扈する匪賊の襲撃を撃退する効果的な兵器として、富裕な地主や帰国華僑 [35] なども、手頃な価格で強力な防御能力を発揮できるトミーガンを用いていた。 中国に大量に存在したトミーガンとコピー工廠は、国共内戦の終結と共に中国共産党の手に渡り、朝鮮戦争では米軍も中国軍も共にトミーガンを装備して戦っていた。共産党軍では回収された旧式火器の口径を自軍の標準弾薬にあわせて改造した上で使用しており、トミーガンの場合は7.62x25mmトカレフ弾仕様に改造されたものもあった[34]。その他
トミーガンを装備した南ベトナム兵ら。右の兵士は銃床を取り外している(1966年) インドシナ戦争においてもベトミン/ベトコン勢力やビン・スエン派などがトミーガンを使用していた事が知られているほか、南ベトナムではこれをコピー生産していた勢力があった事も知られている[4]。 南ベトナム軍では、アメリカからの援助の一環としてトミーガンを受領していた。しかし、アメリカ兵よりも小柄な者の多い南ベトナム兵にとって、その重量は大きな問題だった。南ベトナム兵らが好んだ銃床を取り外す改造も、軽量化を目的としたものだった。正規軍のほか民兵組織などにも配備されていたが、1967年以降に大部分がM16小銃へと置き換えられた[15]。 キプロス紛争でもトミーガンは広く用いられた。当時、トルコ軍部隊には戦後余剰装備としてアメリカから放出された各種火器が配備されており、トミーガンもそこに含まれていた。紛争中にはキプロス島内で製造されたモデルも確認されている。このトミーガンはおおむねM1A1のコピーで、いくつかの部品はアメリカ製のものがそのまま使われていた。組合せは雑多で、M1A1では通常使われなかったカッツ・コンペンセイターが溶接︵本来はネジ止め︶されているものや、鋼鉄製よりも重量のある真鍮製のレシーバを備えたもの、手作業で作られた低品質な部品を組み込まれたものなどがあった。刻印から親トルコ派のトルコ抵抗軍︵TMT︶が製造したものと考えられている。正確には不明だが、生産数は10,000丁以下と推測されている[36]。画像
-
トミーガンを構えるアーネスト・ヘミングウェイ(1935年)
-
自宅でトミーガンを磨くホーム・ガード隊員(1940年)
-
特殊部隊ブリティッシュ・コマンドスの記章。中央にトミーガンが描かれている。
-
蘭印陸軍の兵士(1948年)
-
フィデル・カストロとカミロ・シエンフェゴス。シエンフェゴスがトミーガンを手にしている(1959年)
-
サラエヴォ包囲中のセルビア兵(1992年)
-
展示品として保管されていたトミーガンの説明を受ける米海兵隊員(2009年)
脚注
(一)^ abcBishop, Chris. Guns in Combat. Chartwell Books, Inc (1998). ISBN 0-7858-0844-2. (二)^ abcd“Thompson Submachine Gun”. Auto-Ordnance. 2015年8月2日閲覧。 (三)^ abcdefgh“History”. Auto-Ordnance. 2014年10月15日閲覧。 (四)^ abcd Thomas B Nelson (1963), The world's submachine guns, T.B.N. Enterprises, ASIN: B0007HVRYY (五)^ abcdefghi“Thompson Submachine Gun: The Tommy Gun Goes to War”. American Rifleman. NRA (2011年2月15日). 2015年8月2日閲覧。 (六)^ ab“THE THOMPSON SUB-MACHINE GUN, Philip B. Sharpe”. 2013年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月11日閲覧。 (七)^ abcThe Inflation Calculator Archived 2007年7月21日, at WebCiteから換算 (八)^ “Ireland's History Magazine "Thompson submachine-gun"”. 2012年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月11日閲覧。 (九)^ ab“POSTAL INSPECTORS: THE SILENT SERVICE - UNEXPECTED DUTIES”. National Postal Museum. 2015年8月2日閲覧。 (十)^ .45 Remington-Thompson / .45 Thompson Model 1923 long / 11.25x26 / SAA 7610 / ECRA-ECDV 11 026 CGC 010 (11)^ “The Aluminum Thompson SMG”. smallarmsreview.com. 2016年9月8日閲覧。 (12)^ “Obsolescence”. The Unofficial Tommy Gun Page. 2016年8月22日閲覧。 (13)^ ab“End of an era”. The Unofficial Tommy Gun Page. 2016年8月22日閲覧。 (14)^ “Rebirth”. The Unofficial Tommy Gun Page. 2016年8月22日閲覧。 (15)^ ab“The Tommy Gun “In Country”: The Thompson SMG in Vietnam”. American Rifleman. NRA (2017年12月1日). 2018年8月23日閲覧。 (16)^ “Dillinger's Choice”. Auto-Ordnance. 2015年8月3日閲覧。 (17)^ “"Bring Enough Gun" A History of the FBI's Long Arms”. American Rifleman. NRA (2013年9月30日). 2015年8月15日閲覧。 (18)^ “Full Power/Full Auto: The Thompson Goes Metric And the MP5 Goes American”. American Rifleman. NRA (2013年9月30日). 2018年7月31日閲覧。 (19)^ abc“The "Tommy's" Thompson”. American Rifleman. NRA (2011年2月23日). 2015年8月3日閲覧。 (20)^ “BSA Thompson 1926”. Historical Firearms. 2016年3月20日閲覧。 (21)^ ab“Found after 74 years, the Tommy Gun Churchill used to rally British troops in 1940 as Hitler prepared to invade”. Mail Online (2014年12月23日). 2015年8月24日閲覧。 (22)^ “Wanted for Incitement to Murder: Winston S. Churchill”. Peter Harrington (2012年2月1日). 2015年8月24日閲覧。 (23)^ “Thompson Submachine Gun”. canadiansoldiers.com. 2016年8月14日閲覧。 (24)^ O. Janson. “The submachine guns of Sweden.”. Gothia Arms Historical Society. 2016年8月14日閲覧。 (25)^ “SOLDATINSTRUKTION FÖR INFANTERIET: Swedish Thompson Manuals”. smallarmsreview.com. 2016年9月8日閲覧。 (26)^ “ППШ против «Томпсона»: чем не угодило американское оружие советским солдатам”. «Звезда» (2015年5月1日). 2015年8月18日閲覧。 (27)^ “Colt Thompsons in French Service”. smallarmsreview.com. 2016年3月20日閲覧。 (28)^ ﹁第3530号 5.10.29 兵器貸与並に供給の件﹂ アジア歴史資料センター Ref.C05021291500 (29)^ ﹁米軍銃器火砲一覧表﹂ アジア歴史資料センター Ref.A03032193600 (30)^ 藤田昌雄 (2004). もう一つの陸軍兵器史―知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態. 光人社. pp. 19-20. ISBN 4769811683 (31)^ “1943-06 Intelligence Bulletin Vol 01 No 10”. 2015年8月14日閲覧。 (32)^ ﹃陸軍落下傘部隊戦記 あゝ純白の花負いて﹄ 田中賢一著 学陽書房 1976年 P130〜131 (33)^ “平成24年行政事業レビューシート︵機関銃︶” (PDF). 防衛省. 2015年8月3日閲覧。 (34)^ ab“Chinese Thompson copy & 'Thampson'”. Imperial War Museums. 2016年7月10日閲覧。 (35)^ 1930年代に福建省に潜伏したタン・マラカは、インドネシアから帰国した客属華僑と知り合い、その下に一時身を寄せていたが、匪賊による襲撃の噂が流れたため、これに備えて華僑の一族がトンプソンサブマシンガンなどの各種火器を準備して迎撃準備に努めていた事を記しており、当時の中国国内でトンプソンサブマシンガンは比較的身近な存在だった事が伺える ﹃牢獄から牢獄へ - タン・マラカ自伝﹄ タン・マラカ 著 押川典昭 訳 鹿砦社 1981年7月 (36)^ “Turkish Thompson Submachine Guns”. smallarmsreview.com. 2016年9月8日閲覧。関連項目
外部リンク
- Auto-Ordnance Original manufacturer of the world famous "Tommy Gun" - オート・オードナンス社公式サイト
- Handbook of the Thompson Submachine Gun - 1929年に作成されたM1928およびM1921の共通マニュアル
- TM 9-1215 Ordnance Maintenance: Thompson Submachine Gun cal .45, M1928A1 - 米陸軍省が1942年に作成したM1928A1の教範
- "Thompson Submachine Gun: Principles of Operation 1943" - YouTube - 米陸軍省が1942年に作成したM1928A1の教育用映画
-