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* [[佐佐木幸綱]] 『佐佐木信綱』(桜楓社(おうふう)〈短歌シリーズ人と作品2〉、1982年){{ISBN|4273005034}} |
* [[佐佐木幸綱]] 『佐佐木信綱』(桜楓社(おうふう)〈短歌シリーズ人と作品2〉、1982年){{ISBN|4273005034}} |
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* [[衣斐賢譲]] 『佐佐木信綱の世界:「信綱かるた」歌のふるさと』(中日本社、2008年){{ISBN|9784806205807}} |
* [[衣斐賢譲]] 『佐佐木信綱の世界:「信綱かるた」歌のふるさと』(中日本社、2008年){{ISBN|9784806205807}} |
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* [[佐佐木頼綱]]『佐佐木信綱:「愛づる心」に歌の本質を求めた大歌人』(コレクション日本歌人選069:笠間書院、2019年){{ISBN|9784305709097}} |
* [[佐佐木頼綱]] 『佐佐木信綱:「愛づる心」に歌の本質を求めた大歌人』(コレクション日本歌人選069:笠間書院、2019年){{ISBN|9784305709097}} |
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* [[鈴木健一 (日本文学者)|鈴木健一]]『佐佐木信綱:本文の構築』(近代「国文学」の肖像 |
* [[鈴木健一 (日本文学者)|鈴木健一]] 『佐佐木信綱:本文の構築』(近代「国文学」の肖像 第3巻:岩波書店、2021年){{ISBN|9784000269780}} |
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* [[三枝昂之]] 『佐佐木信綱と短歌の百年』([[角川書店]]、2023年){{ISBN|9784048845410}} |
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=== 関連文献 === |
=== 関連文献 === |
2023年9月6日 (水) 16:04時点における版
ペンネーム | 佐佐木信綱 |
---|---|
誕生 |
佐々木信綱 1872年7月8日 日本・三重県鈴鹿郡石薬師村 |
死没 |
1963年12月2日(91歳没) 日本・静岡県熱海市 |
墓地 | 東京谷中霊園の五重塔跡近く |
職業 |
歌人 国文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学博士 |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部 |
主な受賞歴 |
正三位 文化勲章 勲六等 銀杯一組(菊紋) |
配偶者 | 佐佐木雪子 |
子供 | 佐佐木治綱 |
親族 | 佐々木弘綱(父) |
経歴
功績・評価
和歌研究
立春短歌会を主宰した五島茂は信綱の業績を評して次のようにまとめている[9]。 ●﹃万葉集﹄の体系化を志し、﹃元暦校本万葉集﹄﹃西本願寺万葉集﹄など日本各地を巡って万葉集の古写本を発掘を行った。﹃万葉集の研究﹄など万葉集の基礎資料を数多く編集し、万葉学を樹立した。また、﹃英訳万葉集﹄などを通じて海外にも万葉集を宣布した。 ●﹃梁塵秘抄﹄など、埋もれていた歌集・歌謡書や歌人に光を当て、﹃日本歌学史﹄﹃和歌史の研究﹄﹃近世和歌史﹄を刊行し和歌の史的体系を構築した。 ●﹁校本萬葉集﹂、岩波文庫﹃新訓 万葉集﹄、﹃新古今和歌集﹄など、古典籍を活字本として複製・頒布した。 上田三四二は歌人としての信綱について﹁氏を大歌人と呼んでいいかどうか、私は疑う。けれども、氏は疑いなく大学者だった。﹂と評している[9]。三四二は﹁信綱にとって作歌と学問は別のものではなく、信綱の歌は学と識を備えた伝統的な詩歌の正統だった。しかし、近代以後の短歌は子規や啄木といった﹁歌学の何たるかをわきまえぬ﹂独断的・直感的な近代詩歌が、詩歌の革新を成し遂げてしまっている。信綱の歌の見方は正しい見方だが、文学においては正しい判断が文学を生かすとは限らない﹂と考察している[9]。唱歌
﹁夏は来ぬ﹂の作詞でも知られる。﹁卯の花の 匂う垣根に 時鳥︵ほととぎす︶ 早も来鳴きて 忍音︵しのびね︶もらす 夏は来ぬ﹂。校歌の作詞
東京都の千代田区立麹町中学校、筑波大学附属小学校、台東区立根岸小学校、板橋区立赤塚第三中学校、世田谷区立緑丘中学校、栃木県の那須烏山市立烏山小学校、埼玉県の川口市立本町小学校、滑川町立宮前小学校、神奈川県の神奈川県立横浜平沼高等学校、横浜市立戸塚高等学校、清泉女学院中学高等学校、清泉小学校、横浜市立大綱小学校、岐阜県の岐阜県立武義高等学校、山梨県の中央市立三村小学校、郷里三重県の三重県立四日市高等学校、四日市市立楠中学校[10]、鈴鹿市立石薬師小学校、滋賀県の近江八幡市立八幡小学校、奈良県の奈良県立奈良高等学校、吉野町立吉野中学校、静岡県の磐田市立福田中学校、磐田市立福田小学校、熱海市立熱海中学校、山口県下関市立下関商業高等学校などの校歌は彼の作詞による。また千葉工業大学の校歌は彼が選歌した。逸話
●苗字は本来﹁佐々木﹂と記したが、信綱が明治36年︵32歳のとき︶に訪中の折、中国には﹁々﹂の字が存在しないことを知ったため、それ以後は﹁佐佐木﹂と改めた[11][12]。家族
●妻‥雪子は大蔵官僚藤島正健の長女。三男五女に恵まれた。 ●長男‥逸人は祖父正健の養子に入り、有坂成章の五女季子と結婚した。 ●長女‥綱子は機械工学者朝永研一郎︵ノーベル物理学賞受賞者朝永振一郎の従兄弟︶に嫁いだ。 ●三女‥三枝子は久松潜一に嫁いだ。 ●二男‥文綱は三菱銀行に勤め、丘浅次郎の長女ひさと結婚した。 ●三男‥治綱も歌人だったが、父に先立ち1958年︵昭和33年︶に逝去。孫の幸綱も歌人で、信綱と同じく芸術院会員。著作
著書
- 歌のしをり (博文館 1892年4月)
- 支那征伐の歌 (博文館 1894年8月)
- 征清歌集 (博文館 1894年10月)
- 百人一首講義 (博文館 1894年1月)
- 竹柏園集 第1・2編 (博文館 1901年 - 1902年)
- おもひ草 (博文館 1903年11月)
- 国歌評釈 (人文社 1903年11月)
- 歌学論叢 (博文館 1908年)
- 日本歌学史 (博文館 1910年)
- 金鈴遺響 (西東書房 1911年)
- 新月 (博文館 1912年)
- 戸田茂睡論 (竹柏会 1913年)
- 和歌史の研究 (大日本学術協会 1915年)
- 文と筆 (広文堂書店 1915年)
- 竹柏集 歌話文話 (日東堂 1916年)
- 賀茂真淵と本居宣長 (広文堂書店 1917年)
- 常盤木 (竹柏会 1922年)
- 近世和歌史 (博文館 1923年)
- 旅と歌と (実業之日本社 1926年)
- 鶯 歌集 (新撰書院・心の華叢書 1931年)
- 短歌入門 (改造社 1931年)
- 信綱文集 (改造文庫 1932年)
- 萬葉集概説 (明治書院 1932年)
- 麗人九条武子 (弘文社 1934年)
- 明治文学の片影 (中央公論社 1934年)
- 建春門院中納言日記新解 (明治書院 1934年)
- 国文学の文献学的研究 (岩波書店 1935年)
- 筆のまにまに (佐佐木雪子共著 人文書院 1935年)
- 萬葉読本 (日本評論社 1935年)
- 椎の木 歌集 (新陽社 1936年)
- 天地人 自選歌集 (改造社 1936年)
- 歌がたり (人文書院 1937年)
- 萬葉漫筆 (改造文庫 1937年)
- 萬葉集百話 (明治書院 1937年)
- 瀬の音 歌集 (人文書院 1940年)
- 行旅百首 (草木屋出版部 1941年)
- 萬葉清話 (靖文社 1942年)
- 萬葉集の研究 仙覺及び仙覺以前の萬葉集の研究 (岩波書店 1942年)
- 盲人歌集 (墨水書房 1943年)
- 萬葉五十年 (八雲書店 1944年)
- 歌謡の研究 (丸岡出版社 1944年)
- 黎明 (八雲書店 1945年)
- 上代歌謡の研究 (人文書院 1946年)
- わが文わが歌 (六興出版部 1947年)
- 雲 佐佐木信綱随筆集 (京都印書館 1948年)
- 佐佐木信綱全集 全10巻 (六興出版部 1948年 - 1953年)
- 評釋萬葉集(第1-7巻)
- 佐佐木信綱文集(第8巻)
- 佐佐木信綱歌集(第9巻)
- 日本歌学史(第10巻)
- 萬葉集を読もうとする人に (人文書院 1948年)
- 山と水と 歌集 (長谷川書房 1952年)
- ある老歌人の思ひ出 自伝と交友の面影 (朝日新聞社 1953年)
- 鎌倉三種 (戯曲 竹柏会 1957年)
- 作歌八十二年(毎日新聞社 1959年)
- 新版『佐佐木信綱 作歌八十二年』 日本図書センター〈人間の記録〉1999年
- 明治大正昭和の人々 (新樹社 1961年)[13]
- 短歌入門 (集文館、改訂新版1977、1989年)
- 佐佐木信綱全歌集(佐佐木幸綱編、ながらみ書房、2004年)
校訂・編纂
作詞
佐佐木信綱記念館
三重県鈴鹿市石薬師町には佐佐木信綱記念館がある[14]。記念館の施設内にある信綱資料館の展示室は、2019年に雨漏りが発生して閉鎖されていたが、2022年1月28日に展示を再開した[14]。
- 佐佐木信綱記念館
- 佐佐木信綱資料館
- 佐佐木信綱生家
- 石薬師文庫