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'''小山 松吉'''︵こやま まつきち、[[1869年]][[11月1日]]︵[[明治]]2年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]︶ - [[1948年]]︵[[昭和]]23年︶[[3月27日]]︶は、[[日本]]の[[法学者]]、[[司法]][[官僚]]、[[政治家]] |
'''小山 松吉'''︵こやま まつきち、[[1869年]][[11月1日]]︵[[明治]]2年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]︶ - [[1948年]]︵[[昭和]]23年︶[[3月27日]]<ref name=貴参>﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄122-123頁。</ref>︶は、[[日本]]の[[法学者]]、[[司法省 (日本)|司法]][[官僚]]、[[政治家]]。[[学位]]は[[博士︵法学︶|法学博士]]。[[検事総長]]、[[法務大臣|司法大臣]]、[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院勅選議員]]、[[法政大学]]総長を歴任。[[茨城県]]出身者では初の[[国務大臣]]である。 <!-- [[弓道]]家でもあり、[[称号]]は[[大日本武徳会]][[範士|弓道範士]]。--><!--場違い-->
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== 来歴 == |
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水戸の米穀商・高瀬儀平次の三男として生まれ、15歳で[[岡山県]]士族・小山高光の養子となる<ref name=jinji>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-9957 小山松吉]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref><ref>『考古の巨星: 末永雅雄と橿原考古学研究所』向谷進、文藝春秋, 1994、p19</ref>。[[二松学舎]]の学僕(学費免除の住み込み学生)を経て<ref>『ドファララ門』山下洋輔、晶文社、2014、p80</ref>、[[獨逸学協会学校]](現在の[[獨協大学]])専修科を卒業し、[[法曹会|法曹会雑誌]]編集委員<ref>「[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Japan_LAJ_%281923_Great_Kant%C5%8D_earthquake_report%29.pdf/page17-544px-Japan_LAJ_%281923_Great_Kant%C5%8D_earthquake_report%29.pdf.jpg 法曹会雑誌]」、奥付。1923年。</ref>、[[内田康哉]][[内閣総理大臣]]の奏請により[[判事懲戒法|懲戒裁判所]][[検事]]{{sfn|印刷局|1923|Page=297|}}、[[大審院]][[検察官|検事]]などを経て1924年([[大正]]13年)に[[検事総長]]となり、1932年(昭和7年)に[[法務大臣|司法大臣]]に就任するまでの8年間これを勤めた。 |
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[[水戸藩]]士の家庭に生まれる。旧姓は高瀬。[[獨逸学協会学校]](現・[[獨協大学]])専修科を卒業し、[[大審院]][[検事]]などを経て[[1924年]]に[[検事総長]]となり、[[1932年]]に[[司法大臣]]に就任するまでの8年間、検事総長を勤めた。司法大臣を退任した[[1934年]]には[[貴族院議員]](~1947年)に勅選されている。また、同じ1934年には小山の収賄行為とされるものを証言した者が偽証罪で有罪となったいわゆる「お鯉事件」が起きてもいる。 |
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司法大臣退任を目前に控えた1934年(昭和9年)7月3日には[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院勅選議員]]に勅任され<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。</ref>、[[無所属倶楽部]]に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止までつとめている{{R|貴参}}。また同じ年には小山の収賄行為を証言した者が逆に[[偽証罪]]で有罪となったいわゆる「[[お鯉 (芸妓)|お鯉事件]]」が起きている。 |
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検事総長在職中に起きた[[京都学連事件]]では、[[林頼三郎]]司法次官、各控訴院検事長、各府県[[特別高等警察|特別高等警察︵特高︶]]課長らと協議した上で、[[私的所有権|私有財産]]制度の否認を理由とした[[治安維持法]]の初めての適用に関わった。また特高に対しては[[拷問]]を禁止する一般的指示権を発動、それ以後は特高による拷問が激減した。司法官として小山は、無差別テロ・軍事クーデター・高官汚職のいずれに対しても厳しい姿勢をとった。人脈的には[[平沼騏一郎]] - [[鈴木喜三郎]] - 小山と連なりさらに[[塩野季彦]]へと続く、いわゆる[[思想検事]]系列を形成立していったとみられている。
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⚫ | 司法大臣のときは中国との戦争に反対、このことから[[荒木貞夫]][[陸軍大臣]]と対立した時期があった。この時期に[[神兵隊事件]]の公判を指揮している。[[帝人事件]]では特に捜査を止めなかった。<!-- [[五・一五事件]]の後の、法秩序の要となることを期待されたが、彼の辞任後、次の内閣では、[[二・二六事件]]が発生してしまう。--><!-- 牽強付会 --> |
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1934年︵昭和9年︶には急死した[[水町袈裟六]]に替わり[[法政大学]]総長に就任、[[野上豊一郎]]と[[森田草平]]の対立に端を発した学内紛争︵いわゆる[[法政騒動]]︶を収拾した。この頃には荒木陸相との関係を修復して学内に招聘している。法政大学総長として[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]を熱心に支援したのも小山である。1936年︵昭和11年︶にはやはり急死した[[獨逸学協会中学校]]の[[司馬亨太郎]]に替わって校長に就任し、1946年1月まで務めた<ref>﹃[http://www.dokkyo-mejiro.com/100_Year/frame/index_history_06_4.html 目で見る獨協百年]﹄、獨協中学・高等学校同窓会。</ref><!-- たが、[[第二次世界大戦]]終戦後に辞任した-->。
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1948年(昭和23年)3月27日、脳溢血のため[[目黒区]][[平町 (目黒区)|平町]]の自宅で死去<ref>『朝日新聞』 1948年3月31日</ref>。 |
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無差別テロ・軍事クーデター・高官汚職のいずれに対しても厳しく当たったが、厳しすぎたとも言える{{誰|date=2010年10月}}。 |
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== 人物 == |
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娘は建築家[[山下啓次郎]]の次男と結婚。二人の次男にジャズピアニスト[[山下洋輔]]がいる。 |
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⚫ | [[弓道|弓道家]]として知られ、1931年(昭和6年)には[[範士]]となっている。武芸に詳しく、古武道振興会の初代会長、[[大日本武徳会]]の顧問なども務めている。 |
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妻の正尾は養父・小山高光の長女<ref name=jinji/>。娘は建築家[[山下啓次郎]]の次男と結婚。二人の次男にジャズピアニスト[[山下洋輔]]がいる。二女・豊は北海道炭鉱汽船夕張病院長伊藤金三郎に嫁ぎ、子に外科医の伊藤宏、孫に通訳のベルジュロ伊藤宏美<ref>『ドファララ門』p88</ref><ref>[https://books.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-37817-2.html 会議通訳者 ――国際会議における通訳 訳者紹介]研究社</ref>。 |
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兄の[[高瀬羽皐]](高瀬真卿)はジャーナリスト、社会事業家で、日本最初の予備[[感化院]](のち[[東京感化院]])を創設した。羽皐の婚外子の娘・倭文子は社会主義者の[[猪俣津南雄]]と結婚の後に労働運動家の[[高野実]]と再婚し、[[高野孟]]と[[津村喬]]は羽皐の孫にあたる。 |
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==備考== |
==備考== |
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小山の娘は警官に敬礼されるのを嫌い、裏口からこっそり自宅に入っていたという<ref name="dobarada">山下洋輔『ドバラダ乱入帖』p.183</ref>。また、小山の妻は社会主義者たちに同情し、「あの人たちは正しいことを言っています。あの人たちが社会主義者なら私も同じです」と発言し、死刑執行の日には一日中線香を焚いて悼んでいた<ref name="dobarada"></ref>。 |
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なお、小山の妻には[[三味線]]を弾く趣味があり、小山の司法大臣就任後、「大臣の妻になったのだから三味線など弾くものではない」と人に言われたが、「好きなものはやめられない」と押入れの中に隠れて弾いていたため、孫の山下洋輔は「音楽ということに関してはこの祖母の性質が母親を通じてこちらに伝わっている可能性はある」<ref>山下洋輔『ドバラダ乱入帖』p.184</ref>と述べている。 |
なお、小山の妻には[[三味線]]を弾く趣味があり、小山の司法大臣就任後、「大臣の妻になったのだから三味線など弾くものではない」と人に言われたが、「好きなものはやめられない」と押入れの中に隠れて弾いていたため、孫の山下洋輔は「音楽ということに関してはこの祖母の性質が母親を通じてこちらに伝わっている可能性はある」<ref>山下洋輔『ドバラダ乱入帖』p.184</ref>と述べている。--><!-- 脱線トリビア/小山本人の逸話ではありません、むしろ「[[山下洋輔]]」の記事内容です --> |
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== 栄典 == |
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* [[1913年]](大正2年)[[4月22日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第220号「叙任及辞令」1913年04月26日。</ref> |
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* [[1927年]](昭和2年)[[12月28日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第358号「叙任及辞令」1928年3月10日。</ref> |
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== 著作 == |
== 著作 == |
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*『「ソヴイエト」露国の司法制度及び訴訟手続』《[[法曹会]]『法曹会雑誌』第1巻1号-6号》1923年4月-9月。なお、同7号は [[関東大震災]]の報となった。 |
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*『刑事訴訟法提要』(法政大学、1929年) |
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*『名判官物語』(中央公論社、1941年) |
*『名判官物語』(中央公論社、1941年) |
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==脚注== |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 |
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*衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 |
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{{参照方法|date=2019年8月|section=1}} |
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*[https://kotobank.jp/word/小山松吉-66356 「小山松吉」、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、コトバンク]{{smaller|(2016年6月24日閲覧)}} |
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*[https://kotobank.jp/word/小山松吉-66356 「小山松吉」、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク]{{smaller|(2016年6月24日閲覧)}} |
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* {{Cite journal| 和書| last =印刷局| first =| author =[[国立印刷局|印刷局]]| authorlink =| year =1923| url= https://dl.ndl.go.jp/pid/986605/1/170 | title =職員録| journal =| volume =大正12年| issue =| page =| pages =| publisher =印刷局| location =| issn =| doi =| naid =| pmid =| id =| format =| accessdate =| quote =|ref=harv}} |
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2023年8月27日 (日) 12:42時点における最新版
小山松吉 | |
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生年月日 | 1869年11月1日 |
出生地 | 常陸国 |
没年月日 | 1948年3月27日(78歳没) |
死没地 |
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出身校 | 獨逸学協会学校専修科 |
子女 | 小山菊代(山下洋輔の母) |
親族 | 大塚倭文子(姪、猪俣津南雄の妻) |
在任期間 | 1924年1月7日 - 1932年5月26日 |
第35代司法大臣 | |
在任期間 | 1932年5月26日 - 1934年7月8日 |
在任期間 | 1934年7月3日 - 1947年5月2日 |
来歴[編集]
水戸の米穀商・高瀬儀平次の三男として生まれ、15歳で岡山県士族・小山高光の養子となる[2][3]。二松学舎の学僕︵学費免除の住み込み学生︶を経て[4]、獨逸学協会学校︵現在の獨協大学︶専修科を卒業し、法曹会雑誌編集委員[5]、内田康哉内閣総理大臣の奏請により懲戒裁判所検事[6]、大審院検事などを経て1924年︵大正13年︶に検事総長となり、1932年︵昭和7年︶に司法大臣に就任するまでの8年間これを勤めた。 司法大臣退任を目前に控えた1934年︵昭和9年︶7月3日には貴族院勅選議員に勅任され[7]、無所属倶楽部に所属し1947年︵昭和22年︶5月2日の貴族院廃止までつとめている[1]。また同じ年には小山の収賄行為を証言した者が逆に偽証罪で有罪となったいわゆる﹁お鯉事件﹂が起きている。 小山は初期の社会主義運動取締りの指揮にあたった。東京控訴院検事時代には捜査主任として小原直や武富済らと大逆事件の第一線に立ち、大規模テロ事件の全貌解明と再発防止に貢献した。ただし幇助犯の幸徳秋水についてはこれを担当していない。大逆事件の公判時には担当検事として社会主義者の多くから憎しみを買い、自宅に硫酸の入った瓶を投げつけられるに至って警官に門前を警備させざるを得なくなっている。 検事総長在職中に起きた京都学連事件では、林頼三郎司法次官、各控訴院検事長、各府県特別高等警察︵特高︶課長らと協議した上で、私有財産制度の否認を理由とした治安維持法の初めての適用に関わった。また特高に対しては拷問を禁止する一般的指示権を発動、それ以後は特高による拷問が激減した。司法官として小山は、無差別テロ・軍事クーデター・高官汚職のいずれに対しても厳しい姿勢をとった。人脈的には平沼騏一郎 - 鈴木喜三郎 - 小山と連なりさらに塩野季彦へと続く、いわゆる思想検事系列を形成立していったとみられている。 司法大臣のときは中国との戦争に反対、このことから荒木貞夫陸軍大臣と対立した時期があった。この時期に神兵隊事件の公判を指揮している。帝人事件では特に捜査を止めなかった。 1934年︵昭和9年︶には急死した水町袈裟六に替わり法政大学総長に就任、野上豊一郎と森田草平の対立に端を発した学内紛争︵いわゆる法政騒動︶を収拾した。この頃には荒木陸相との関係を修復して学内に招聘している。法政大学総長として東京六大学野球を熱心に支援したのも小山である。1936年︵昭和11年︶にはやはり急死した獨逸学協会中学校の司馬亨太郎に替わって校長に就任し、1946年1月まで務めた[8]。 1948年︵昭和23年︶3月27日、脳溢血のため目黒区平町の自宅で死去[9]。人物[編集]
弓道家として知られ、1931年︵昭和6年︶には範士となっている。武芸に詳しく、古武道振興会の初代会長、大日本武徳会の顧問なども務めている。 妻の正尾は養父・小山高光の長女[2]。娘は建築家山下啓次郎の次男と結婚。二人の次男にジャズピアニスト山下洋輔がいる。二女・豊は北海道炭鉱汽船夕張病院長伊藤金三郎に嫁ぎ、子に外科医の伊藤宏、孫に通訳のベルジュロ伊藤宏美[10][11]。 兄の高瀬羽皐︵高瀬真卿︶はジャーナリスト、社会事業家で、日本最初の予備感化院︵のち東京感化院︶を創設した。羽皐の婚外子の娘・倭文子は社会主義者の猪俣津南雄と結婚の後に労働運動家の高野実と再婚し、高野孟と津村喬は羽皐の孫にあたる。栄典[編集]
●1913年︵大正2年︶4月22日 - 正五位[12] ●1927年︵昭和2年︶12月28日 - 従三位[13]著作[編集]
●﹃﹁ソヴイエト﹂露国の司法制度及び訴訟手続﹄︽法曹会﹃法曹会雑誌﹄第1巻1号-6号︾1923年4月-9月。なお、同7号は 関東大震災の報となった。 ●﹃刑事訴訟法提要﹄︵法政大学、1929年︶ ●﹃名判官物語﹄︵中央公論社、1941年︶脚注[編集]
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