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2022年6月18日 (土) 07:07時点における版
東久邇 成子 (盛厚王妃 成子内親王) | |
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東久邇宮家 | |
![]() | |
続柄 | 昭和天皇第1皇女子 |
全名 | 成子(しげこ) |
称号 | 照宮(てるのみや) |
身位 | 内親王 → 王妃内親王 → (皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 → (皇籍離脱) |
お印 | 紅梅 |
出生 |
1925年12月6日![]() |
死去 |
1961年7月23日(35歳没)![]() |
埋葬 |
1961年8月4日![]() |
配偶者 | 東久邇盛厚(盛厚王) |
子女 |
東久邇信彦(信彦王) 高木文子(文子女王) 壬生基博(東久邇秀彦) 東久邇真彦 東優子 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
生涯
誕生
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/82/Crown_Prince_Hirohito_%26_Princess_Nagako_%26_Princess_Shigeko_3.jpg/180px-Crown_Prince_Hirohito_%26_Princess_Nagako_%26_Princess_Shigeko_3.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a3/Emperor_Showa%27s_daughters.jpg/170px-Emperor_Showa%27s_daughters.jpg)
養育を巡って
皇太子裕仁親王・同妃良子女王の意向もあり、里子には出されず両親の手元で養育される[11]。全国から3人の乳人が選ばれた[12]が、夜中以外は使わず[13]、当時としては画期的なことであった。 成子内親王が満1歳の誕生日を迎えた直後、1926年︵昭和元年︶12月25日、祖父・大正天皇の崩御に伴う父・皇太子裕仁親王の践祚により、成子内親王は天皇の第一皇女になり、また、自身の満年齢が昭和と同一になった。成子内親王は幼稚園には通園しなかったが、選ばれた学友達が葉山御用邸や赤坂離宮へ参内し、また成子内親王が幼稚園を訪問したり吹上御苑や新宿御苑等で幼稚園児らと交流を持った[14]。この頃、昼食の際に﹁だいじなだいじなおもうさまとおたあさま﹂と微笑みながら発語したという[15]。 しかし、その後、﹁昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育った﹂という批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年︵昭和6年︶10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定[16]。翌1932年︵昭和7年︶4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。 呉竹寮は、当初から1932年︵昭和7年︶時点で誕生していた妹宮達が入寮することができるよう設計され、後に学齢を迎えた妹宮たちと共に生活するようになる[17]。また選ばれた級友が5-6名ずつ輪番で呉竹寮を訪問した。前田美意子[18][19]や小堀臣子[20]の回想によれば、体温測定を行い訪問専用の制服に着替えた上で御所に上がっていたという。穂積美代子や前田美意子ら特に親しい学友は、これ以外に招きで呉竹寮や葉山御用邸に﹁お内緒﹂で招かれていた[21][22]。また学友たちは、宮内省からの辞令を受けていた[23]。 学習院では﹁成子内親王﹂と表記されていたが、入学当初は自身﹁シゲコ﹂と名のみ記名し、学友たちは﹁宮様﹂と呼んでいた[24]。成長・進級に伴い、自筆でも﹁成子内親王﹂を用いた[25]。教室への登校の前に控室に立ち寄ることと、女官が授業参観をしていた以外は、他の学友達と同じだった[24]。食事に関しては、宮内省の大膳職の作ったものしか口にできないため、学校が用意した水分︵お茶、運動後の冷水︶ではなく魔法瓶で持参していた[26]。 土曜日の午後、天皇・皇后が呉竹寮を訪問し、日曜の午後は成子内親王が宮城を訪問して、家族の時間を持った[27]。しかし成子内親王が宮城に宿泊したことはほとんどなく、例外のひとつが1936年︵昭和11年︶2月28日、二・二六事件の折であった[27]。1936年︵昭和11年︶の5月から夏季休暇まで、百日咳のため葉山で療養した以外は、健康状態は良好であり、また運動神経もよく水泳が得意であった[28]。学習院時代は理科[29]・作文[30]が得意だったといわれる。1937年︵昭和12年︶頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。 学習院中等科では、学業優秀なだけでなく、スポーツ競技会での活躍、英語劇でのヒロイン役︵白雪姫︶、合唱等を活発に行い、全校生徒の模範であった。反面、一般的な少女らしい性格面もあり、男性教師に憧れを抱いて積極的に質問したり、海軍の制服に憧れを持っていた[31]。しかし、東久邇宮家の盛厚王と婚約が内定してからは﹁今日から、私は陸軍党になりますから﹂と学友たちに笑って話した[32]。 女子学習院中等科の4・5年生次には、﹃反省録﹄を記し、主管︵担任教師︶の指導を受けていた。天皇の神格化が進む時代にあって、中等科5年生︵1942年︵昭和17年︶︶の10月26日付で、次のような反省録を記した。「 | 私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるとき、この地位にいる資格があるか恐ろしくなる。 | 」 |
内約期間
「 | お式の日、御所をあとにしたときも悲しくもなく、不安な気持ちも、嬉しい気持ちもありませんでした。まだそのときは盛厚さんに対しても愛情を感じるほどに至っていなかったのでしょう。でも盛厚さんはまじめな人だったから、素直に尽くすことが出来ました。両方とも一年くらいたってからだんだん愛情が湧いてきました | 」 |
皇族妃として
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/Higashikuni-no-miya_Wedding_1943.jpg/170px-Higashikuni-no-miya_Wedding_1943.jpg)
皇籍離脱後
皇籍離脱後は終戦後のインフレーション等の厳しい社会情勢の中、皇族としての身分も経済的特権も失い、厳しい家計を内職をしながら助けたり、都内遠方でも商店街の特売に人目を忍んで並んだりと、元皇女とはいえ一般家庭の主婦並の苦労も多かった。特に、ヌートリアの養殖を独学で成功させたという逸話もある[41]。 1949年︵昭和24年︶夏、創刊間もない雑誌﹃美しい暮しの手帖﹄第5号に大橋鎭子からの強い依頼を受けて﹁やりくりの記﹂を寄稿する。物資不足に悩みながらも﹁やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来る﹂[42]とした成子の手記は大きな反響を呼び、﹃暮らしの手帖﹄の部数拡大のきっかけとなった[43]。 1958年︵昭和33年︶1月2日、NHKのテレビ番組﹃私の秘密﹄に生出演。宮中でのカルタ会を中座しての出演であり、皇族たちもカルタそっちのけでTVに見入ったという[注釈 1]。 1959年︵昭和34年︶4月、実弟である皇太子明仁親王と正田美智子の結婚に際しては、二人を祝福するとともに﹁新しい仕事﹂を応援するメッセージを新聞に寄稿している[44]。成子自身も、同年6月3日に昭和天皇、香淳皇后、皇太子夫妻をはじめ両親と弟妹らを自宅へ招待してホームパーティーを開き、﹁家庭的な皇室のあり方﹂を実践して見せた[45]。 この他、盛厚が携わった団体の公私にわたる活動に成子も関わり、また子女教育にも熱心であった。闘病と逝去
成子は、1960年︵昭和35年︶11月11日、国立東京第一病院に入院した[46]。成子自身には胃潰瘍と告げられた[注釈 2]が、実際には結腸癒着と腹壁腫瘍であり、末期がんであった[46]。父昭和天皇は、12月16日、成子の手術結果を聞き﹁ダメだね﹂と答えたほどに、重篤な状態であった[46]。1961年︵昭和36年︶2月、退院[46]。 しかし、そのわずか2か月後の4月より宮内庁病院に入院。これは、父天皇直々の願いであり、実際に天皇・皇后も頻繁に見舞いに訪れた。特に母親の皇后はほぼ毎日訪問しており、家族や知人の見舞いの際も皇后を通して成子の体調を確認する必要があった[47]。同年5月7日、天皇の還暦祝いのため皇居に参内したのが最後の外出となったが、すでに衰弱し、宴の最中も後方のソファに横たわりながらの状態であった[48][47]。これは、宴を楽しみにしていた成子のために、天皇が医師の反対を押し切って配慮させたものであり、天皇は何度も成子が満足しているか確認した[47]。 初夏頃、成子が天皇・皇后に7月の予定を尋ねた際、天皇は成子の看病のために予定を中止にしていたにもかかわらず、︵存在しない︶予定がメモに書いてあるふりをして話したという[47]。 7月19日夕方から容体が悪化し、7月22日に危篤となった。そして1961年︵昭和36年︶7月23日午前3時15分、東久邇家の家族のほか、両親である昭和天皇・香淳皇后、皇太子夫妻ら弟妹の見守る中、逝去した。 皇后は成子の手を握りしめたまま嗚咽し、天皇は﹁成子﹂とひとことつぶやいた[49]。妹の鷹司和子や池田厚子が、成子の死化粧を施した[49]。まだ35歳と若年であり、当時16歳の長男・信彦を筆頭に5人のまだ小さい子供を残しての逝去だった。天皇・皇后とも、第一子に先立たれたことに大きな衝撃を受けた。葬儀と没後
同日午後5時、成子の遺体は麹町三番町の宮内庁分室に移され、さらに午後7時30分に正田英三郎や鷹司平通により、かつて成子が花嫁修業で使っていた二階の一室に安置された[50]。その後、天皇・皇后をはじめとする皇族のみで、御舟入の儀︵納棺︶が行われた。成子の遺体は白羽二重の袿袴で、棺には花や絹の袋にいれた茶、そして遺児たちが描いた絵などが納められた[51]。 7月26日に葬儀が青山葬儀所で執り行われた後、遺体は火葬された。葬儀委員長は野村吉三郎衆議院議員︵当時︶であり、司祭長は伊達巽明治神宮宮司だった[50]。﹁天皇・皇后は目下の者の葬儀に参列しない﹂という慣習をはじめて破って参列した[50]。 8月4日に斂葬の儀が行われ、東京都文京区の豊島岡墓地に埋葬された。彼女の墓所には、母・香淳皇后の指示によって成子のお印の紅梅が植樹された。墓所は盛厚の希望で比翼塚となっており、向かって左には盛厚のお印である松が植樹されている[52]。 なお夫‥盛厚は、1964年︵昭和39年︶10月3日に寺尾佳子と再婚し、厚彦︵寺尾家養子︶、盛彦の2男をもうけたが、1969年︵昭和44年︶に逝去している。 没後20年にあたる1980年︵昭和55年︶、父天皇は、記者会見の中で﹁照宮は本当に朗らかな人で、私の話し相手として面白くあった﹂とした上で、﹁若くして亡くなったということを、大変残念に思っています﹂と振り返った[53]。 没後40年にあたる2001年︵平成13年︶7月23日、没後50年にあたる2011年︵平成23年︶7月23日には、弟で第125代天皇であった明仁と皇后美智子が、墓所に拝礼した。年譜
- 1925年(大正14年)12月6日 - 誕生
- 1929年(昭和4年)12月6日 - (満4歳、数え年5歳)、着袴の儀
- 1943年(昭和18年)10月2日 - (満17歳、数え年19歳)、納采の儀
- 1947年(昭和22年)10月14日 - (満21歳)、皇室典範第13条に基づき皇籍離脱
- 1961年(昭和36年)7月23日 - (満35歳)、逝去
栄典
1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章[54]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[55]
1943年(昭和18年)10月12日 - 勲一等宝冠章(宝冠大綬章)[56]
系譜
東久邇成子 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
子女
夫の東久邇盛厚︵盛厚王︶との間に、3男2女を出産し5人の子女をもうけた。 うち最初に出産した2人(1男1女)は皇族として、その後の3人(2男1女)は民間人︵国民︶として誕生している。 ●第1子/長男‥信彦王︵のぶひこ︶: 1945年︵昭和20年︶- 2019年︵平成31年︶ ●昭和天皇と香淳皇后にとっての初孫、東久邇信彦。 ●第2子/長女‥文子女王︵ふみこ︶: 1946年︵昭和21年︶- ●1947年︵昭和22年︶10月14日の皇籍離脱者︵旧皇族︶では最年少。 ●大村和敏︵大村益次郎子爵家の継嗣︶、次いで高木代々吉夫人。東久邇文子 → 大村文子→ 東久邇文子→高木文子。 ●第3子/次男‥秀彦︵ひでひこ︶: 1949年︵昭和24年︶- ●旧壬生伯爵家に養子入りし改姓名、壬生基博︵みぶ もとひろ︶。壬生家12代当主、山階鳥類研究所理事長。 ●男児の孫を持つ2人の子息がおり、基成︵1979年/S54年-︶と基敦︵1982年/S57年-︶がいる。 ●第4子/三男‥真彦︵なおひこ︶: 1953年︵昭和28年︶ - ●子として2人の男子、照彦︵1979年/S54年-︶と睦彦︵1980年/S55年-︶がいる。 ●長男の照彦には、2004年(H16年)生まれの男子がいる。 ●次男の睦彦には、子として1人の男子。 ●第5子/次女‥優子︵ゆうこ︶: 1954年︵昭和29年︶- ●東作興夫人。東久邇優子 → 東優子。
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明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 |
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大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) |
| 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) |
| 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) |
| 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) |
| 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) |
| 成子内親王 (1925-1961) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 |
| 竹田恒正 (1940-) |
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| 北白川道久 (1937-2018) |
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| 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- |
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| 竹田家 |
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| (男系断絶) |
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| 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||