盧溝橋事件
盧溝橋事件 | |
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1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[1] | |
戦争:日中戦争 | |
年月日:1937年(昭和12年)7月7日~7月9日[2] | |
場所:盧溝橋付近 | |
結果:日本軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
橋本群 (少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行) 牟田口廉也 (大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長) 森田徹 (中佐, 連隊長代理) 一木清直 (少佐, 第三大隊長) |
宋哲元 (二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長) 秦徳純 (二十九軍副軍長) 馮治安 (三十七師師長) 金振中 (三十七師一一旅二一九団三営営長) |
戦力 | |
兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510)[3] | 兵員:100,000 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、平津地区には40,000) |
損害 | |
戦死10、戦傷30 (7/8)[3] 戦死6、戦傷12 (7/10)[4] |
戦死60余、戦傷120余 (7/8)[3] 戦傷死約150 (7/10)[4] |
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概要
事件前の状況
コミンテルンの人民戦線と中国
1935年7月25日から開会された[13]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[14]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[15]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には﹁抗日救国のために全国同胞に告げる書︵八・一宣言︶﹂を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[16]。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[17]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの抗日運動を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蔣介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[18]。西安事件翌月の1937年1月6日に中華民国南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[19]。中華民国による中央集権化と抗日の動き
1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、中華民国の国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった[要出典]。1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[20]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[21]、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[22]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[23]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[24]。 一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[25]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[26]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[27]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[28]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[29]。第二十九軍
日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で中華民国の北伐に参加。1928年宋哲元の陝西省主席就任にともなって陝西に入る。1930年蔣介石との戦いに敗北。1932年宋哲元が察哈爾省主席就任時に全軍河北省に移動。1933年に長城抗戦で日本軍に敗れる。1935年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となる[30]。 長城抗戦の時期、中国北部を完全に蔣介石直系軍(いわゆる中央軍)の支配とするため、宋哲元らの非中央軍は雑軍整理のために日本軍と対峙させられ[31][32][33]、日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ[32][34]、敗走すれば中央軍に武装解除されていた[34]。 宋哲元は日本から張北事件の責任を追及された際には、南京政府によって察哈爾省政府主席を罷免された[35]。一方、梅津・何応欽協定により蔣介石直系軍が河北省から撤退し、その後の河北自治運動が宋哲元自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する行動を取ると[36]、宋哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蔣介石は宋に対し﹁中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る﹂という警告の電報を送り[37]、宋哲元からは中国北部の自治を要求する電報が中央に送られると[38]、中央からは中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽が北平に派遣されて交渉が開始された[39]。宋哲元はこれに対抗して一切の官職を辞して天津に退避し、何応欽には北平からの退去勧告を出す[40]などの過程を経て、結局1935年12月18日に冀察政務委員会が成立した[41]。この政権の目的は﹁河北省の民衆による自治と防共﹂﹁外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限を中央からの分離﹂とされた[42]。日本との提携が強調され[43]、翌年2月には土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局は土肥原を中将に昇進させてこれに応じている[44]。なお、日本は華北分離工作において軍事圧力もいて蔣介石と一枚岩とは言えない宋哲元に自治を要求したが拒否されたとする主張がある[45]。 しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[30]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[46]。 盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[47][48]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[49]。副参謀長張克侠[50]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[49]。 第29軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた[51]。日本軍
日本軍北支那駐屯軍は、中国側戦力を警戒し天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた[52]。北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づくもので[注釈 3]、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強していた[53]。この増強は長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを日本陸軍が重視したことと日本居留民増加のため保護に当たる兵力の不足が痛感されたことが理由であったが[53]、公表されぬことながら北支問題について関東軍の干渉を封ずることも目的にあった[53]。 しかし、豊台は北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれた[54]が、陸軍自身の調査により﹁豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキ﹂[55]との結論が出されている。その上で﹁取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スル﹂と、臨時措置を口実として法的根拠の無い永続的駐留を既成事実化する方策の下、中華民国の反対を押し切って1936年6月に豊台駐留は行われた。豊台にはもともと中華民国第二十九軍第三十七師の一部隊が駐屯しており、そこへ日本軍が駐屯し、第一次、第二次の豊台事件が起き、中国軍が撤退する形で収束した[56]。共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強
長征として知られる中共軍の江西根拠地からの大西遷により、1935年秋陝西省に移った中共軍は、主力の集結を待たず、二万余の全兵力を挙げて、1936年2月17日、突如、山西省内に進出した[57]。陝西の中共軍にたいしては、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍、閻錫山の山西軍が第一線に立ち、後方に准中央軍、中央軍が配備されていた[57]。中共の巧妙な工作により、東北軍、西北軍は中共軍に対する戦意がなく[57]、中共軍の攻撃は専ら山西軍に向けられ僅か一ヵ月の間に山西省の三分の一を占領した[57]。数年来討伐軍と戦火を交えた共産軍はその作戦、戦術において山西、綏遠などの地方軍隊に比べはるかに優秀であった。脚力に依存した行軍力に優れ、弾丸が十分でないため射撃に無駄なく秀れた腕前を持ち、斥候の偵察状況判断が的確で住民との連絡は完璧、主力部隊のとの交戦を避け、敵の意表をつき、各個撃破の作戦ではパルチザン式による高い効果を上げ、時と場所、情勢に即して宣伝が巧みであった。一方、山西軍は山西モンロー主義の中、長年産業道路の建設に使役され、銃をとって戦線を駆け回ることが難しく、共産軍一流の宣伝上手により討伐どころか寝返りの危険が全線に蔓延した。閻錫山の計画経済、土地国有も巧みに擬装された山西省の省民搾取の手段方法だったと暴露され山西省の民を取り込む共産軍側の宣伝材料にされてしまった[58]。 宋哲元は山西省共産化の危機が増大したことに鑑み、共産軍の河北省および察哈爾省への侵入を防ぐために取りあえず第二十九軍の一部を省境に配置し、自ら保定に赴き数日間にわたり河北省南部の縣長会議を招集して防共に関する指針を与え、3月29日察哈爾省主席張自忠より察哈爾省における防共の情勢を聴取し協議を行い、午後天津に赴き多田駐屯軍司令官、松室北平特務機関長、今井北平武官らと会見して北支防共に関する会議を行なった[59]。3月30日、多田駐屯軍司令官と冀察綏靖主席宋哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ﹁相協同シテ一切ノ共産主義的行為ノ防遏に従事スル﹂ことを約したといわれる[60]。また翌31日に調印されたという細目協定の要旨は、(一)冀察政権は閻錫山と協同して共匪の掃蕩に従事す。これがため閻と防共協定を結ぶことに努む。閻にして之を肯ぜざるときは適時独自の立場に於て山西に兵を進め共匪を掃滅す。(二)共産運動に関する情報の交換。(三)冀察政権は、防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じ防共協定を結ぶことに努む。(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要なる援助を行なう、と決めている[60]。 東アジア全体の安定のため日本から提議された北支、外蒙古における赤化の日支共同防衛に関して南京政府と協議する件については南京政府にその熱意はなかった[61]。それどころか共産軍の迂回行動に当って、その進路を示したのは蔣介石であり、蔣の意思は共産軍の進路を決定する一要素であった。蔣は剿匪の名の下に討伐の指揮を執りつつ、常に軍事行動を利用して中央の威令の及ばない地方勢力に対する中央政権の拡大強化を計ろうとする巧妙な政略を忘れず、討伐の戦略も決して殲滅作戦は取らず、一定の計画の下に一定の方向に向かって共産軍を駆逐し、それを追撃しつつ大局の目的を遂げるのを常としていた[62]。 1936年4月17日、廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した[60]。北支に派遣される諸隊は、5月9~10日宇品港から、5月22~23日新潟港から乗船輸送され、軍は6月上旬編成を完結した[63]。軍司令官は田代皖一郎中将、そして軍司令部、支那駐屯歩兵第二聯隊、軍直諸隊は天津に位置し、歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第一聯隊を北平および豊台に、その他一部の歩兵部隊を塘沽、灤州、山海関、秦皇島などに配置した[63]。なお、参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった[64]。豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが[54]、陸軍自身の調査でも﹁豊台ニ法的根拠ナシ﹂との結論が出されており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する[65]方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上[66]、中国軍兵営とも近く[67]、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた[68]。東京裁判でも、駐兵場所の問題について議論が行われている[68]。盧溝橋事件の現場に居合わせた今井武夫北平武官によれば豊台は北寧、平漢両線の分岐要点の為、北平の戦略的遮断の意図と誤解され、かえって中国側の神経を刺激し、とかく物議の種となり、豊台事件を惹起するに至った[69]。中村粲によれば、梅津次官は国際条約尊重の念から通州駐屯に反対したが豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、さらに多数の日本居留民が虐殺された通州事件が通州における日本軍不在を狙って計画されたことは日本の善意が悲劇を招いた事例であるとしている[64]。北支における日本陸軍の作戦計画要領
日本陸軍が北支で作戦する場合、作戦計画策定の基礎として、﹁昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領﹂が訓令により次のように示されていた[70]。 ●一 帝国陸軍北支那方面ニ作戦スル場合ニ於ケル作戦要領ヲ概定スルコト左ノ如シ ●1河北方面軍︵支那駐屯軍司令官隷下部隊ノ外、関東軍司令官及朝鮮軍司令官ノ北支那方面ニ派遣スル部隊竝内地ヨリ派遣セラルル部隊ヲ含ム︶ハ主カヲ以テ平漢鉄道ニ沿フ地区ニ作戦シ南部河北省方面ノ敵ヲ撃破シテ黄河以北ノ諸要地ヲ占領ス 此際必要ニ応シ一部ヲ以テ津浦鉄道方面ヨリ山東方面作戦軍ノ作戦ヲ容易ナラシメ又情況ニ依リ山西及東部綏遠省方面ニ作戦ヲ進ムルコトアリ ●2山東方面作戦軍ハ青島及其他ノ地点ニ上陸シテ敵ヲ撃破シ山東省ノ諸要地ヲ占領ス ●二 帝国陸軍北支那ニ作戦スル場合ニ於ケル支那駐屯軍司令官ノ任務左ノ如シ作戦初頭概ネ固有隷下部隊ヲ以テ天津及北平、張家口為シ得レハ済南等ノ諸要地ヲ確保シ北支那方面ニ於ケル帝国陸軍初期ノ作戦ヲ容易ナラシム爾後ニ於ケル任務ハ臨機之ヲ定ム ●三 右ノ場合ニ於ケル作戦初期ノ支那駐屯軍作戦地域ハ独石口以東満支国境以南ノ地域ニシテ山東方面作戦軍トノ境界ハ臨機之ヲ定ム第二十九軍との緊張
事件発生前、蘆溝橋付近における第二十九軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。この模様を﹁支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報﹂に、次のように記述している。[71] 事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵カヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ 其変化ノ状況左ノ如シ ●一 兵力増加ノ状況 平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ城内兵カユハ変化ナキモ蘆溝橋城﹇宛平県城﹈外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ 六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ ●二 防禦工事増強ノ状況 長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ2箇所構築シアリ 又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ政修増強シ而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ﹁トウチカ﹂︵従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ︶ヲ掘開ス︵主トツテ夜間実施セリ︶ ●三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大 ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ ●四 演習実施ニスル抗議 蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊台駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ 然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ ●五 行動区域ノ制限 従来龍王廟堤防及同所南方鉄道﹁ガード﹂ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ ●六 警戒配備ノ変更 六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵カヲ増加セルモノノ如シ一文字山附近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵カヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル 北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル 本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲシバシバ目撃セリ 一方、蘆溝橋付近日本軍の状態については、前述戦闘詳報に次のように記されている。[72] 駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ 而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊台部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ彼等全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ ●一 豊台駐屯隊ノ中期︵五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ ●ニ 豊台駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山﹇俗称﹈ニ参集ス ●三 聯隊長ノ行フ豊台部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ 随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ ●四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ ●五 本年六月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊台部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ聯隊長ハ支那側全般的ノ動静力何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊台駐屯隊ニ対シテハ﹁トウチカ﹂発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ第二十九軍の対日抗戦準備
第29軍は馮玉祥が率いた西北軍が改編されて中国国民党の地方部隊となったため、抗日精神が強烈であった。第29軍は1935年︵昭和10年︶12月ごろ、日本軍を仮想敵として、秘密裏に作戦計画を作成した。1936年12月の西安事件後、抗日民族統一戦線の形成が促進されると、1937年︵昭和12年︶4月から5月にかけて、第29軍の幕僚は、対日抗戦の具体的作戦計画を研究、作成した。副参謀長の張克侠は、攻撃をもって守備となす、という積極的作戦計画を作成した。この計画は第29軍10万の兵力を数個の集団に編成し、天津、北平、察哈爾の三戦区に分け、保定地区を総予備隊集結地区とし、戦区内の日本軍を壊滅し、その後戦況の進展に応じ、全力で山海関に向かって前進し、華北の日本軍を一挙に撃滅するというものであり[73]、中国共産党北方局の同意を経た後、軍長の宋哲元に報告された。宋はこの計画に基づき準備を促進するよう張克侠に命令した。また宋哲元は第29軍全軍に対して、華北の日本軍を標的として軍事訓練を厳しく実施することを命令し、同軍は5月から6月にわたって頻繁に軍事演習を実施した[12]。 そして、盧溝橋一帯の守備態勢を強化した。宛平県城内には歩兵1個連︵中隊︶と盧溝橋守備の営︵大隊︶本部が駐屯、長辛店には騎兵1個連が駐屯していたが、5月下旬に、城外に歩兵3個連︵中隊︶が増駐し、6月に、盧溝橋西南約6キロの町長辛店に第219団︵連隊︶所属の歩兵2個営︵大隊︶が新たに駐屯した。機関銃陣地と野砲陣地が構築されていた長辛店北方の高地には、散兵壕が新しく構築され、永定河左岸の10個のトーチカが掘り出され、使用できるようになった。そのほか盧溝橋付近の砂礫地帯と宛平県城の北側、東側、西側の三方面の警戒が厳重になり、夜間には歩哨所が増設された[12]。永定河堤防上には鉄道橋付近から龍王廟にわたり一連の散兵壕が完成しつつあった[74]。 7月6日、第29軍第37師第110旅長の何基灃は、盧溝橋一帯を守備している第219団に対して、日本軍の行動に注意し、これを監視するよう要求し、もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃せよ、と命令した[75]。第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察した後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連︵中隊︶に対して周到な戦闘準備を整えるように要求し、日本軍がわが陣地100メートル以内に進入した場合は射撃してよく、敵兵がわが軍の火網から逃れないようにすることを指示した。7月7日、保定に常駐している第37師長の馮治安は急遽北平に帰還し、何基灃と協議のうえ、対日応戦準備の手配をした[12]。 なお、張克侠︵1939年共産党に入党︶、何基灃、金振中は1948年11月から翌年1月にかけて江蘇省徐州付近の淮海戦役の初期に、国民党軍から共産党軍に寝返った[73]。北平付近に展開されていた各国兵力
中国国民党国民革命軍
第29軍兵力編成表[76] 司令‥宋哲元、副司令‥秦徳純、参謀長‥張樾亭部隊 | 司令官 | 配置 | 隷下部隊 | 兵員 |
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第37師 | 師長:馮治安 | 西苑 | 第109、第110、第111、独立第25旅 | 約15,750名 |
第38師 | 師長:張自忠 | 南苑 | 第112、第113、第114、独立第26旅 | 約15,400名 |
第132師 | 師長:趙登禹 | 河間 | 第1、第2、独立第27旅 | 約15,000名 |
第143師 | 師長:劉汝明 | 張家口 | 第1、第2、独立第29旅、独立第20旅 | 約15,100名 |
独立39旅 | 旅長:阮玄武 | 北苑 | 約3,200名 | |
独立40旅 | 旅長:劉汝明(兼務) | 張家口 | 約3,400名 | |
騎兵第9師 | 師長:鄭文章 | 南苑 | 約3,000名 | |
独立騎兵第13旅 | 旅長:姚景川 | 宣化 | 約1,500名 | |
特務旅 | 旅長:孫玉田 | 南苑 | 約4,000名 | |
河北辺区保安隊 | 司令:石友三 | 黄寺 | 約2,000名 |
河北省、察哈爾省にある第二九軍以外の部隊(7月上旬)[76][77]
部隊 | 司令官 | 所属 |
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第39師 | 師長:龐炳勲 | 西北軍 |
第68師 | 師長:李服膺 | 徐永昌軍 |
第91師 | 師長:馮占海 | 旧東北軍 |
第101師 | 師長:李俊功 | 山西軍 |
第116師 | 師長:繆澄流 | 万福麟軍 |
第119師 | 師長:黄顕声 | 旧東北軍 |
第130師 | 師長:朱鴻勲 | 万福麟軍 |
第139師 | 師長:黄光華 | 商震軍 |
第141師 | 師長:李鴻文 | 商震軍 |
第142師 | 師長:呂済 | 商震軍 |
騎兵第2師 | 師長:黄顕声 | 旧東北軍 |
総兵力約153,000名
日本陸軍
支那駐屯軍(総兵力約5,600名)[78]
天津部隊 | 司令官 |
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軍司令部 | 軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将 |
支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊 | |
同歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠) | 長:萱嶋高大佐 |
同戦車隊 | 長:福田峯雄大佐 |
騎兵隊 | 長:野口欽一少佐 |
砲兵聯隊(第一大隊 山砲二中隊、第二大隊 十五榴二中隊) | 長:鈴木率道大佐 |
工兵隊 | |
通信隊 | |
憲兵隊 | |
軍病院 | |
軍倉庫 |
北平部隊 | 司令官 |
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支那駐屯歩兵旅団司令部 | 旅団長:河邉正三少将19期 |
同歩兵第一聯隊(第二大隊と一小隊欠) | 長:牟田口廉也大佐22期 |
電信所 | |
憲兵分隊 | |
軍病院分院 |
分遣隊 | 注釈 |
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通州 | 歩一の一小 |
豊台 | 歩一の第三大隊、歩兵砲隊 |
塘沽 | 歩二の第三中隊 |
唐山 | 歩二の第七中隊 |
欒州 | 歩二の第八中隊〈一小欠〉 |
昌黎 | 歩二の一小 |
秦皇島 | 歩二の一小 |
山海関 | 歩二の第三大隊本部、第九中隊〈一小欠〉 |
以上のほか、次のような陸軍機関(特務機関)等がいた。
配置 | |
---|---|
北平陸軍機関 | 長:松井太久郎大佐22期、輔佐官:寺平忠輔大尉35期、第二九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐24期、長井徳太郎少佐30期、笠井牟藏少佐 |
通州陸軍機関 | 細木繁中佐25期、甲斐厚少佐 |
太原陸軍機関 | 河野悅次郎中佐25期 |
天津陸軍機関 | 茂川秀和少佐30期 |
張家口陸軍機関 | 大本四郎少佐30期 |
済南陸軍機関 | 石野芳男中佐28期 |
青島陸軍機関 | 谷萩那華雄中佐29期 |
北平駐在武官輔佐官 | 今井武夫少佐30期 |
陸軍運輸部塘沽出張所 |
列強兵力
国名 | 注釈 | 兵員 |
---|---|---|
英国 | 在香港支那駐屯軍司令官に属し、二年交代制である。天津772名、北平236名 | 1008名 |
米国 | 比島軍司令官の隷下にある天津の658名、本国海軍省に直属する北平の海兵隊508名、その他 | 1227名 |
仏国 | 在支全駐屯軍を指揮する在天津軍司令官の隷下に天津1375名、北平227名、その他 | 1823名 |
伊国 | 在上海極東艦隊司令官隷下の海兵隊が天津229名、北平99名 | 328名 |
事件の経緯
7月7日
7月8日
<現地の動き> ●3時25分‥竜王廟方面から3発の銃声あり。乗馬伝令として豊台に派遣された岩谷兵治曹長と内田市太郎一等兵が演習場に戻り、所属中隊が移動したことを知らずに探し回っているのを、中国兵が狙撃したものであった。内田一等兵は馬の右側手綱の約三分の二を射抜かれた。現地では既に黎明の時分で、相当の距離においても彼我の識別は可能であった。そのため、一文字山でこの銃声を聞いた一木大隊長は﹁今や支那軍の対敵意志の確実なること一点の疑いなし﹂と判断した[92]。 ●4時00分‥日中合同調査団が北平を出発。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳2名・1個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城︵盧溝橋城︶内に入り、中国側と交渉を開始した。 ●4時20分‥一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。一文字山を占領していた一木大隊は龍王廟方向に向かって攻撃前進を起こした。途中で一木隊長は桜井徳太郎中佐から、城外にいるやつに対しては、その29軍たるとなんたるとを問わず、日本軍が攻撃しようと討伐しようと、一切日本側のご自由にお任せする、と秦徳純が言ったことを聞いた。また、宛平県城には一般住民もいるので同城の攻撃は猶予してほしいと要望されこれを承諾した。一木大隊長は宛平県城は攻撃しない方針と永定河の堤防の方へ進撃することを命令した[93]。 ●5時すぎ‥大隊長は永定河の堤防の陣地に多数の中国兵がいるのを目撃したので、歩兵砲の砲撃を命令したが、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐︵連隊長代理として来着︶の命令によって、砲撃はいったん中止された。 支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報によると以下のとおり[94] 聯隊長ハ午前四時稍過キ第三大隊長ヨリ電話ヲ以テ次ノ報告ニ接ス﹁午前三時二十五分 龍王廟方向ニテ三発ノ銃声ヲ聞ク 支那軍カ2回モ発砲スルハ純然タル対敵行為ナリト認ム 如何ニスヘキヤ﹂ 茲ニ於テ聯隊長ハ熟考ノ後支那軍ニ2回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリト命令セリ時正二午前四時二十分ナリ 此ニ於テ第三大隊長ハ支那軍攻撃ニ関スル決意ヲ堅メ一文字山ニ向フ途中 第二十九軍顧問タル櫻井︹徳太郎︺少佐︹30期︺ト西五里店︹蘆溝橋東方約1,800米︺西方本道東側畑地ニ於テ会見シ左ノ件ヲ知ル ●1櫻井少佐カ馮治安﹇秦徳純の誤り﹈ト会見シ蘆溝橋不法射撃ヲ訊シタル処 馮曰ク﹁馮ノ部下ハ絶対ニ蘆溝橋城外ニ配兵セス 支那軍ニ非サルヘシ﹂ト ●2城外ニ配兵セラレアリトセハ攻撃ハ随意ニシテ恐ラクハ馮ノ部下ニアラサルヘシ又馮ノ部下トスルモ城外ニアラハ断乎攻撃シテ可ナラン 馮ハ﹁城外ニ居ルトセハ其レハ 匪賊ナラント附言セリ﹂ト 右ハ全ク馮治安ノ欺弁ナリ即チ責任ヲ回避セントスル支那要人ノ常套手段ニシテ心事ノ陋劣唾棄スヘキモノアリ ●安保喜代治 (当時第八中隊第二小隊第四分隊長) によると﹁午前五時三〇分、攻撃命令で発進、第一小隊左、第二小隊右で一列縦隊で併進し、平素の演習そのままの状態でした。こうして中隊は敵陣地に対し攻撃前進して行きますと、この状況を壕外から監視しておった敵の将校が中隊に対して前進を停止せよと呼びかけ、野地少尉は我々は演習であるから通してほしいと言いながら前進、敵前約二〇米位の地点に至った時、監視中の敵将校が壕内に跳び込んだと同時に敵銃火による一斉射撃を受けた。﹂[95]といい、安井三吉は﹁この説明の通りだとすると、午前五時三〇分頃、﹁攻撃命令﹂が出ていたこと、中国軍から日本軍に対して﹁停止﹂の呼びかけがあったこと、野地少尉は﹁演習﹂だと言って中国軍陣地を通過しようとしたこと、中国側の発砲は、日本軍が﹁約二〇米位の地点﹂まで接近した時点でのことだったことになり、日本側の攻撃姿勢が明確になる。﹂と述べた[95] ●約2時間後、現地での激戦は一旦収束。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。 <日本の政府及び軍上層部の動き> ●早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に﹁一撃﹂を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。 ●18時42分‥参謀本部より支那駐屯軍司令官宛、﹁事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし﹂と不拡大を指示する総長電が発せられる。これは参謀本部の実質的な責任者であった石原莞爾少将の主導によるものであった。7月9日
<現地の動き> ●2時00分頃‥﹁とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸﹂へ、との日本側の﹁兵力引き離し﹂提案を中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込んだ。 ●5時‥中国側より砲撃が行われる。[96] <日本の政府及び軍上層部の動き> ●8時50分頃‥臨時閣議。陸相より3個師団派遣等の提案が行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。 ●夜‥参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、﹁中国軍の盧溝橋付近からの撤退﹂﹁将来の保障﹂﹁直接責任者の処罰﹂﹁中国側の謝罪﹂を対支折衝の方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。7月10日
<現地の動き> ●前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、﹁謝罪﹂﹁責任者の処罰﹂﹁盧溝橋付近からの撤退﹂﹁抗日団体の取締﹂を骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に交渉が継続される。 ●日本軍の将校斥候へ向けて迫撃砲が撃たれる。[96] <日本の政府及び軍上層部の動き> ●午前‥参謀本部第三課と第二部が﹁支那駐屯軍の自衛﹂﹁居留民保護﹂を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、案は陸軍省に送付された。﹁国民党中央軍の北上﹂﹁現地情勢の緊迫﹂の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に大きな影響を与えたと言われる。7月11日
<現地の動き> ●20時00分‥﹁責任者の処分﹂﹁中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退﹂﹁抗日団体の取締﹂を骨子とする現地停戦協定が成立した︵松井-秦徳純協定︶。 <日本の政府及び軍上層部の動き> ●11時30分‥五相会議にて、陸相の﹁威力の顕示﹂による﹁中国側の謝罪及保障確保﹂を理由とした内地3個師団派兵等の提案が合意された。 ●14時00分‥臨時閣議にて、北支派兵が承認された。 ●16時20分‥近衛首相は葉山御用邸に伺候、北支派兵に関し上奏御裁可を仰いだ。 ●18時24分‥﹁北支派兵に関する政府声明﹂により、北支派兵を発表。 ●21時00分‥近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、有力紙の論調は、﹁強硬論﹂が主流となる。 本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであった。しかし、日本政府と中国政府は、停戦協定と並行して大兵力を動員させた。このことは、主戦派や強硬派を勢いづけ、以降の事件拡大の大きな要因となった。[97]7月12日以降
7月13日、北平の大紅門で日本軍トラックが第38師によって爆破され日本兵4名が殺害される︵大紅門事件︶。[96] 7月14日、日本軍騎兵が惨殺される。[96] 7月18日、日本軍偵察機への射撃が行われる。[96] 7月19日、蔣介石は﹁最後の関頭﹂演説を公表して、抗戦の覚悟を公式に明らかにした。同日、宛平県城内より日本軍への砲撃が行われる。[96] 以降、7月20日の宛平県城内より日本軍への再砲撃と日本軍の報復砲撃。[96] 7月25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始された。共産党の策動
共産党中央は7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した[98]。 7月11日、周恩来は廬山国防会議に招かれ、15日には共産党の合法的地位が認められた。11日の周恩来・蔣介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り、7月15日、朱徳は﹁対日抗戦を実行せよ﹂と題する論文を発表し、日本の戦力は恐るるに足らず、抗戦は持久戦となるが、最後の勝利は中国側にあることを説いた[98]。 南京政府と冀察政務委員会が日本側と妥協しようとしたため、共産党中央は7月23日、﹁第二次宣言﹂を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調し、(1)日本提出の三条件︵冀察政務委員会の日本への謝罪、29軍の永定河以西への撤退、抗日運動の停止︶を拒否すること(2)29軍に即時大軍を増派し、全国の軍隊を総動員して抗戦の実行(3)大規模に民衆を動員、組織、武装して人民抗日統一戦線組織の設立(4)全国的対日抵抗の実行。和平談判を停止し、日本人のすべての財産を没収し、日本大使館を封鎖し、すべての漢奸・特務機関を粛清すること(5)政治機構の改革。親日派、漢奸分子の粛清(6)国共両党の親密合作の実現(7)国防経済と国防教育の実行(8)米・英・仏・ソ諸国と各種の抗日に有利な協定の締結、の8項目の提案を発表した[98]。関東軍の動き
関東軍司令部(軍司令官:植田謙吉大将10期、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、﹁ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際冀察に一撃を加えるべきである﹂と判断し、参謀本部へは﹁北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ﹂と報告した[99]。 関東軍では、事件が発生すると、八日、機を失せず独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ満支国境線に推進させた。該旅団は九日夕までに主力をもって承徳市、古北口間、一部をもって山海関に集結した。また関東軍飛行 隊主力も錦州、山海関地区に集結した。 支那駐屯軍は、八日午後、事態の将来を顧慮し、関東軍に対し弾薬、燃料及び満鉄従業員ならびに鉄道材料の増派援助方に関し協議した[100]。 また同日十八時十分、関東軍は﹁暴戻なる支那第二九軍の挑戦に起因して今や華北に事端を生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成行きを注視する﹂と声明した。関東軍が所管外の事柄に対して、このような声明を公表することは異例であり、この事件に対する異常な関心を示したものである。 更に関東軍は支那駐屯軍に連絡しかつ幕僚を派遣して強硬な意見を述べ︵九日、辻政信大尉36期、天津着︶両軍連帯で中央に意見具申をしようと申し入れた。支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、かつソ連が今出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を非常に軽く見ていることに不安を感じ、申し入れを断った。 また朝鮮軍︵軍司令官:小磯國昭中将12期︶も関東軍と同様に﹁北支事件ノ勃発ニ伴ヒ第二十師団ノ一部ヲ随時出動セシメ得ル態勢ヲトラシメタリ﹂と報告した。これは年度作戦計画訓令に基づく応急の措置であったが、小磯大将自身は﹁この事態を契機とし支那経略の雄図を遂行せよ﹂という意見であった[101]。国民党中央軍の北上
7月9日に蔣介石は中央軍に対し徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。蔣介石は宋哲元に電報で平和談判をしても戦争に備えることは忘れずにと命令する。また、第26軍孫連仲に先ず2個師を保定・石家荘へ鉄道で運送し、宋哲元の指揮に任せるようと指示した。7月10日に200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開した。蔣介石は、7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達し、19日までに30個師団を北支に集結させた。1発目を撃った人物
秦郁彦によれば、日本側研究者の見解は、﹁中国側第二十九軍の偶発的射撃﹂ということで、概ねの一致を見ているとしている[102]。安井三吉は﹁日本では秦郁彦﹁現場大隊長が明かした貴重な証言﹂(﹃中央公論﹄1987年2月)や江口圭一﹃盧溝橋事件﹄ (岩波ブックレット)のように﹁第一発﹂の発砲者を中国国民革命軍第二九軍兵士とする見解が有力で、﹃日本側発砲説﹄ほとんど見られない。﹂[103][注釈 4]、﹁意図的﹃計画﹄的になされたのではなく、演習中の支那駐屯軍第一聯隊第三大隊第八中隊の軽機関銃の発射音に驚いた第二九軍兵士が反射的に発砲したものであろうという解釈が一般的である。﹂と述べた[103][注釈 5]。 坂本夏男は、第29軍が盧溝橋事件の数ヶ月前から対日抗戦の用意を進め、盧溝橋付近の中国軍は、7月6日、戦闘準備を整え、7日夜から8日朝にかけ日本軍に3回発砲し︵最初の発砲の前後には、宛平県城の城壁上と龍王廟のあたりで懐中電灯で合図していた︶、中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している[106]。中国側研究者は﹁日本軍の陰謀﹂説を、また、日本側研究者の一部には﹁中国共産党の陰謀﹂説を唱える論者も存在する。[要出典] 現場大隊長で後に中国共産党側に転向した金振中は、一貫して堤防への配兵を否認してきたが、1986年に出版された﹃七七事変﹄︵中国文史出版社︶の中で、部下の第11中隊を永定河の堤防に配置していたことを認めたうえ、部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地100メートル以内に進入したら射撃せよ、と指示していた事実を明らかにした[107]。 中共軍将校としての経歴にもつ葛西純一は、中共軍の﹁戦士政治課本﹂に、事件は﹁劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した﹂と記入してあるのを自身の著作︵新資料・盧溝橋事件︶に記している。これが﹁中国共産党陰謀説﹂の有力な根拠としてあげられているが、秦郁彦は葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとしている[注釈 6]。常岡滝雄によれば当時紅軍の北方機関長として北京に居た劉少奇が、青年共産党員や精華大学の学生らをけしかけ、宋哲元の部下の第二十九軍下級幹部を煽動して日本軍へ発砲させたもので、1954年、中共が自ら発表したとしている[108]。 一方でサーチナ︵2009年5月15日付︶によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で、﹁中国共産党陰謀説﹂は﹁荒唐無稽な説﹂としながらも﹁劉少奇が盧溝橋事件を起こした﹂﹁劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った﹂との記述が、共産党支配区域で配られた﹁戦士政治読本﹂と言うパンフレットに確かに書かれていると伝えている。ただし、これは中国共産党がプロパガンダのために嘘の戦功を書いたのであって﹁われわれ中国人の伝統的ないい加減さ﹂を指摘する論旨であり、このような嘘がかえって自分達の主張の信憑性を貶めていると結んでいる[109]。 当時、北平大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は以下のように述べている[110]。 最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方︹恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ︺は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。 また、中国共産党北方局による抗日工作が第二九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとなす説がある。これは状況証拠すなわち前後の事情からして、ありそうなことである。また戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに﹁蘆溝橋事件は中共北方局の工作である﹂と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きい[111]。 なお﹁北平特務機関日誌﹂の七月十六日の記事に﹁北支事変ノ発端ニ就テ﹂の情報に関して、次のように述べている部分もある[112]。 ﹁北支事変ノ発端ニ就キ冀察要人ノ談左ノ如シ事変ノ主役ハ平津駐在藍衣社第四総隊ニシテ該隊ハ軍事部長李杏村、社会部長齋如山、教育部長馬衡、新聞部長式舎吾ノ組織下ニ更ニ西安事変当時西安ニアリシ第六総隊ノ一部ヲ参加セシメ常ニ日本軍ノ最頻繁ニ演習スル蘆溝橋ヲ中心ニ巧ミニ日本軍ト第二十九軍トヲ衝突セシメムト画策シアルモノニシテ第三十七師ハ全ク此ノ術中ニ陥入レルモノナリト 尚北寧鉄路ニハ戴某ナルモノ潜入シエ作中ト謂ハル﹂兵1名の行方不明について
第八中隊長がとりあえず不法射撃を受けたことと兵1名行方不明である状況を大隊長に報告したのち、約20分ほどしてこの兵は発見された。中隊長は西五里店に引き揚げ、八日二時過ぎ大隊長に会い、行方不明の兵が復帰したことも報告した。大隊長、聯隊長は最初の事件報告を受けたときは、﹁暗夜の実弾射撃﹂以上に﹁兵一名行方不明﹂の方を重視し部隊出動を決意した。しかし二時過ぎには行方不明の兵発見の報告を受けているので、事後の中国側との折衝においても、当時はこれを全然問題にしていない。しかし、中国側では故意に兵一名行方不明及びその捜索を蘆溝橋事件及び拡大の原因とし、不法射撃の件は不問に付している。東京の極東国際軍事裁判における秦徳純の供述、蔣介石の伝記﹁蔣介石﹂あるいは﹁何上将軍事報告﹂も同様であり、﹁抗戦簡史﹂にも次のように述べている。 ﹁民国二十六年七月七日夜十一時、豊台駐屯の日軍の一部は宛平城外蘆溝橋付近において夜間演習を名目となし、日兵一名が失踪したるを口実として、日軍武官松井は部隊を引率して宛平城内に進入し捜査せんことを要求す。当時わが蘆溝橋駐在部隊は、第三七師第二一九団吉星文部隊の一営金振中部隊なり。時に深夜にして将兵は熟睡中なるをもって当然日軍の要求を拒絶す。日軍はただちに蘆溝橋を包囲す。その後、双方は代表を現地に赴かしめ調査することに合意す。然るに日本の派したる寺平輔佐官は依然として日軍の入城、捜索を要求す。われ承諾せず。日軍は東西両門外にありて砲撃を開始す。われ反撃を与えず。日軍の攻撃本格的となるや、わが守備軍は正当防衛の目的をもって抵抗を開始す。双方に死傷者あり。暫時、蘆溝橋北方において対峙の状態となる﹂ ︵右の文章は、昭和十二年七月八日の中国側新聞﹁亜州新報﹂夕刊に掲載された内容とほぼ同じである。当時この新聞を読んだ寺平大尉が発行人の林耕宇を難詰したところ、林は記者の創作であると白状し謝罪した。しかし単なる記者の創作でなく秦徳純の当時政府発表によるものではなかろうか︶ 中国中央放送局の九日十九時の放送によれば﹁日本軍は近来蘆溝橋を目標として演習をなしゐたり。八日朝、たまたま日本軍の前進し来るを、わが方は蘆溝橋︵宛平県城︶を奪取せらるるものと見られたり。然して之による衝突が事件の発端なり﹂と。︵北平陸軍機関業務日誌︶[113]事件直後の延安への電報
元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。 盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は﹁成功した﹂と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。 さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も﹁延安への成功電報は、国府軍の機要室︵情報部に相当︶でも傍受した。盧溝橋事件は中共︵中国共産党︶の陰謀だ﹂と語っている[114]。 これに対し、安井三吉は、この電報は、(1) 平尾や秋富自身が受信したものもないこと、(2) このような話が当時の軍関係者の回想、文書のなかに全くでてこないこと、(3) 支那駐屯軍がこの事実を把握していれば、当然反中共宣伝に利用したと想像できるにも関わらず、そうしたことがないことの3点を挙げ、このような話が事実であったかどうか疑わしいと述べている。更に、(4) 1937年当時の平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津から行われていたことが明らかになっていること、(5) 事件発生当日の深夜における盧溝橋の現場と北京大学間の連絡方法が不明であること、(6) 午前3時25分まで日中両軍には何の問題も発生しておらず、﹁成功した︵成功了︶﹂などとはいえないこと、(7) 中国共産党員がこのように重要な連絡を平文で打つとは考えられないこと、加えて、﹃戦史叢書 北支治安戦﹄383頁において、横山幸雄少佐が、﹁中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和16年2月中旬、遂にその一部の解読に成功した﹂と述べていることを挙げ、平尾の回想︵録︶を以て、中共﹁計画﹂説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない、と結論付けている[115]。 なお、中国中学校歴史教科書には以下のような記述が見られる[116]。 ◆団結して抗戦する 7月8日、中国共産党は抗日の電報を各地に発し、全国人民に、団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者を中国から駆逐せよ、と呼びかけた。17日、蔣介石は廬山で談話を発表し、抗戦への備えがあることを示した。 中共の抗日を呼びかける電報 ﹁北平、天津が、華北が、中華民族が危急の時を迎えている。全民族が抗戦を実践してこそわれわれの活路が開ける.... 武装して北平、天津を防衛し、華北を防衛せよ。 日本帝国主義に寸土たりとも中国を占領させてはならぬ国土防衛のため最後の一滴まで血を流せ。 全中国の同胞、政府と軍は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築き、日本侵略者の侵略に抵抗せよ。﹂現地軍の折衝
寺平忠輔著の﹃日本の悲劇 盧溝橋事件﹄や児島襄著の﹃日中戦争4﹄では冀察政務委員会と支那駐屯軍らが粘り強く折衝している様子がある。例えば7月18日に、宋哲元は香月清司中将と天津宮島街の偕行社、即ち上海市長呉鉄城から譲り受けた洋館建ての倶楽部で会見を行い、張自忠、張允栄 陳中孚、陣覚生等を帯同し、悠揚迫らざる態度で車から降り立った。軍司令官は橋本参謀長はじめ、和知、大木、塚田等各参謀を侍立させ、この冀察の重鎮と握手した。宋哲元はまず、身をもって停戦協定条文の第一項、日本軍に対する遺憾の意表明を、いとも丁重厳粛な態度でやってのけた。7月21日には航空署街の秦徳純邸に中島弟四郎や笠井半蔵、二十九軍参謀長の張越亭、保安隊第一旅長の程希賢、交通副処長周永業、それに軍参謀の周思靖などが来合せて秦徳純を囲んで、三十七師の撤退を議論し、﹁今日の撤退は宋委員長の自発的意志に基き、松井機関長、今井武官、和知参謀とも協議の上、いよいよ実行に移す事になったわけです。どうかこれがスムーズに完了するよう、ひとえに顧問のお骨折りをお願いします﹂とくれぐれも頼んだ。しかし幾度も衝突が起こっており、結局開戦となった。停戦協定と和平条件
脚注
注釈
出典
参考文献
- 江口圭一『盧溝橋事件』(岩波書店〈岩波ブックレット〉、1988年12月)ISBN 4-00-003433-2
- 岡野篤夫『蘆溝橋事件の実相 平和主義から軍国主義へ』(旺史社、2001年8月)ISBN 487119129X
- 葛西純一『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社、1975年)
- 肥沼茂『盧溝橋事件 嘘と真実』(叢文社、2000年7月)ISBN 4794703392
- 坂本夏男『盧溝橋事件勃発についての一検証』(國民會館、1993年5月)
- 寺平忠輔『蘆溝橋事件 日本の悲劇』(読売新聞社、1970年)
- 中村粲『大東亜戦争への道』(展転社、1990年)
- 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫、1999年12月)ISBN 4167453045
- 秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」『Will』 2009年2月号
- 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4
- 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ 一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254
- 雪竹栄「新東亜読本2 事変と中国共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1939年4月12日
- 『支那事変実記 第1輯』(読売新聞社、1941年)
- 外務省情報部(1936)「日独防共協定の意義」『官報附録 週報』内閣印刷局 1936年12月2日
- 外務省情報部(1937a)(これより情報局)「防共協定の国際的意義」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年1月13日
- 外務省情報部(1937b)「注目を惹いた中国三中全会の経過」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年3月3日
- 外務省情報部(1937c)「支那の抗日団体」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
- 外務省情報部(1937d)「事変と支那共産党」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月31日
- 日本政府「派兵に関する政府声明」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
- 陸軍省新聞班「北支派兵に至る経緯」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年7月21日
- 陸軍省新聞班、海軍省海軍軍事普及部「事変半歳の回顧」『官報附録 週報』内閣印刷局 1938年1月5日
- フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕 ―日中戦争の真実―』(芙蓉書房出版、2009年)ISBN 978-4-8295-0467-3
盧溝橋事件を描いた作品
- 映画
関連項目
外部リンク
座標: 北緯39度51分02秒 東経116度13分20秒 / 北緯39.85056度 東経116.22222度
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