「銀あけみ」の版間の差分
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== エピソード == |
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* 父親は海軍軍人<ref name=kageki813p51>小林公平 ﹁花の道より﹂ ﹃歌劇﹄、通算813号、1993年6月1日発行、51頁</ref>。銀の誕生から19日後、搭乗していた潜水艦が南太平洋ソロモン海域で爆撃を受け戦死。銀と父親は一度も対面したことがない<ref name=asahi93124 /><ref name=kageki813p51 />。父親の死後、母親は美容師の資格を取り、銀を育てた<ref name=asahi93124 />。
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* 父親は海軍軍人<ref name=kageki813p51>小林公平 ﹁花の道より﹂ ﹃歌劇﹄、通算813号、1993年6月1日発行、51頁</ref>。銀の誕生から19日後、搭乗していた[[伊号第十六潜水艦|潜水艦]]が南太平洋ソロモン海域で爆撃を受け戦死。銀と父親は一度も対面したことがない<ref name=asahi93124 /><ref name=kageki813p51 />。父親の死後、母親は美容師の資格を取り、銀を育てた<ref name=asahi93124 />。
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* 幼少期は東京築地の[[歌舞伎座]]近くで育つ。宝塚歌劇ファンの母親は、東京公演のたびに銀を連れて観劇した。銀はこの頃から「タカラヅカのおねえさんになる」と入団を志す発言をしていた。<ref name=asahi93124 /> |
* 幼少期は東京築地の[[歌舞伎座]]近くで育つ。宝塚歌劇ファンの母親は、東京公演のたびに銀を連れて観劇した。銀はこの頃から「タカラヅカのおねえさんになる」と入団を志す発言をしていた。<ref name=asahi93124 /> |
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* 幼少期から日本舞踊や長唄を習っていた。中学校入学後は自分で探し出した教室でバレエと声楽のレッスンを受けた。<ref name=asahi93124 /> |
* 幼少期から日本舞踊や長唄を習っていた。中学校入学後は自分で探し出した教室でバレエと声楽のレッスンを受けた。<ref name=asahi93124 /> |
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* 小学校から無遅刻無欠席。責任感が強く、宝塚音楽学校の同期生からも一目置かれる存在であった。<ref name=asahi93124 /> |
* 小学校から無遅刻無欠席。責任感が強く、宝塚音楽学校の同期生からも一目置かれる存在であった。<ref name=asahi93124 /> |
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* 宝塚歌劇団入団後は、伸びのある歌声と安定した歌唱で早くから注目を集めた<ref name=kageki813p54 />。舞踊でも評価を受けており、藤間流の名取として藤間勘緒を名乗っていたほか、ダンスでは振付家[[パディ・ストーン]]によるオーディションに合格して第2回ヨーロッパ公演に参加<ref name=kageki813p50 />。公演参加者の中では最下級生<ref>在団年数が最も短い団員を指す。詳細は[[宝塚歌劇団#劇団員と宝塚音楽学校]]を参照。</ref>であった。 |
* 宝塚歌劇団入団後は、伸びのある歌声と安定した歌唱で早くから注目を集めた<ref name=kageki813p54 />。舞踊でも評価を受けており、藤間流の名取として藤間勘緒を名乗っていたほか、ダンスでは振付家[[パディ・ストーン]]によるオーディションに合格して第2回ヨーロッパ公演に参加<ref name=kageki813p50 />。公演参加者の中では最下級生<ref>在団年数が最も短い団員を指す。詳細は[[宝塚歌劇団#歌劇団員と宝塚音楽学校]]を参照。</ref>であった。
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*[[麻実れい]]退団公演『さよならショー』では、雪組組長として、司会進行を務め、麻実の宝塚在団中の思い出やエピソードなども語っている。 |
*[[麻実れい]]退団公演『さよならショー』では、雪組組長として、司会進行を務め、麻実の宝塚在団中の思い出やエピソードなども語っている。 |
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* 銀は生前、宝塚おとめ<ref>宝塚歌劇団全生徒のプロフィールを掲載した書籍。毎年新版が発行される。基本的なプロフィールの他に﹁好きだった役﹂や﹁演じてみたい役﹂という項目があり、これらは団員自身が選んだものが掲載される。</ref>で﹁好きだった役﹂として﹃[[メナムに赤い花が散る]]﹄の田鶴役を挙げていた。この役は作・演出の[[植田紳爾]]が﹁イムコ︵銀︶の持つ得難い人柄と、豊饒な歌唱力を何とか生かしたい﹂という思いから銀に当て書きした役である<ref name=kageki813p55>植田紳爾﹁寂﹂ ﹃[[歌劇 (雑誌)|歌劇]]﹄、通算813号、1993年6月1日発行、55頁</ref>。この役を演じた銀について植田は﹁人の心を素直に歌いあげるのは、簡単なようでそうではない。気持ちさえ込めれば情感が出ると思うのはまちがいで、彼女の歌はそのいちばんむずかしいところに到達していた﹂と語っている<ref name=asahi93128>﹁銀あけみ︵死を生きる・第一部3つの物語‥13︶/兵庫﹂﹃[[朝日新聞]]﹄、1993年12月8日発行、朝刊、兵庫面 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧</ref>。
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* 銀は生前、宝塚おとめ<ref>宝塚歌劇団全生徒のプロフィールを掲載した書籍。毎年新版が発行される。基本的なプロフィールの他に﹁好きだった役﹂や﹁演じてみたい役﹂という項目があり、これらは団員自身が選んだものが掲載される。</ref>で﹁好きだった役﹂として﹃[[メナムに赤い花が散る]]﹄の田鶴役を挙げていた。この役は作・演出の[[植田紳爾]]が﹁イムコ︵銀︶の持つ得難い人柄と、豊饒な歌唱力を何とか生かしたい﹂という思いから銀に当て書きした役である<ref name=kageki813p55>植田紳爾﹁寂﹂ ﹃[[歌劇 (雑誌)|歌劇]]﹄、通算813号、1993年6月1日発行、55頁</ref>。この役を演じた銀について植田は﹁人の心を素直に歌いあげるのは、簡単なようでそうではない。気持ちさえ込めれば情感が出ると思うのはまちがいで、彼女の歌はそのいちばんむずかしいところに到達していた﹂と語っている<ref name=asahi93128>﹁銀あけみ︵死を生きる・第一部3つの物語‥13︶/兵庫﹂﹃[[朝日新聞]]﹄、1993年12月8日発行、朝刊、兵庫面 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧</ref>。
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* [[小林公平]]は銀について「たいへん美声の持ち主」「和・洋何れにも貴重な存在であった」と語っている<ref name=kageki813p50 />。 |
* [[小林公平]]は銀について「たいへん美声の持ち主」「和・洋何れにも貴重な存在であった」と語っている<ref name=kageki813p50 />。 |
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* 植田は銀について「気配りや心遣いがいつも的確」「人間的な優しさや暖かさは同期生の中でも群を抜いていた」と語っている<ref name=kageki813p55 />。 |
* 植田は銀について「気配りや心遣いがいつも的確」「人間的な優しさや暖かさは同期生の中でも群を抜いていた」と語っている<ref name=kageki813p55 />。 |
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* 雪組組長を務めていた時、研究科3年生であった[[北原遥子]]が︵カメラテストのみときいて出かけたテレビドラマの撮影で、結果的に顔が映る形での﹁出演﹂となり、その責任をとる形で︶退団させられた際には﹁北原を正式退団者にしてくれないのなら、自分たちも辞める﹂と、歌劇団に対して猛抗議したという。その後、北原は正式退団者として扱われ、﹃宝塚歌劇団80年史﹄には﹁昭和59年退団﹂と記されているという<ref>{{Cite web|date=2009-02-05|url= |
* 雪組組長を務めていた時、研究科3年生であった[[北原遥子]]が︵カメラテストのみときいて出かけたテレビドラマの撮影で、結果的に顔が映る形での﹁出演﹂となり、その責任をとる形で︶退団させられた際には﹁北原を正式退団者にしてくれないのなら、自分たちも辞める﹂と、歌劇団に対して猛抗議したという。その後、北原は正式退団者として扱われ、﹃宝塚歌劇団80年史﹄には﹁昭和59年退団﹂と記されているという<ref>{{Cite web|和書|date=2009-02-05|url=https://coccinelle-king.seesaa.net/article/200902article_2.html|title=へそだんご﹁北原遥子さん、御巣鷹山に散った悲劇のタカラジェンヌの思い出﹂|publisher=ウェブリブログ|accessdate=2013-04-20}}</ref>。
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==宝塚歌劇団時代の主な舞台== |
==宝塚歌劇団時代の主な舞台== |