「集量論」の版間の差分
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知識には、直接知覚︵[[現量]]︶と推論論証︵[[比量]]︶の2つの手段しかない︵2量説︶ことが宣言される。これは、知識の |
知識には、直接知覚︵[[現量]]︶と推論論証︵[[比量]]︶の2つの手段しかない︵2量説︶ことが宣言される。これは、知識の確実性を論究される対象が、自相(具象:sva-lakSaNa)と共相(抽象:saamaanya-lakSaNa)の2つしかないから、その判断基準︵量︶もまた2つしかあり得ない、とするのである。<br>
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陳那は、ここで古来から[[仏陀]]などの言葉であるから正しいとする判断基準([[聖教量]])を否定するのである。<br> |
陳那は、ここで古来から[[仏陀]]などの言葉であるから正しいとする判断基準([[聖教量]])を否定するのである。<br> |
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現量とは、[[分別]]︵kalpanaa︶を離れた知識である。分別とは、名言︵naama︶と種類︵jaati︶等と相応することである。よって、この知識は自相を対象︵[[境]]:viSaya︶とするものであり、言葉にすることはできず、感覚認識されたものはユニークである。
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現量とは、[[分別]]︵kalpanaa︶を離れた知識である。分別とは、名言︵naama︶と種類︵jaati︶等と相応することである。よって、この知識は自相を対象︵[[境]]:viSaya︶とするものであり、言葉にすることはできず、感覚認識されたものはユニークである。
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2011年5月22日 (日) 08:04時点における版
上座部・部派 |
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■ 大衆部 前3世紀
■ 説一切有部 前2世紀 ■ 化地部 ■ 法蔵部 ■ 経量部 3世紀
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大乗 |
初期 |
■馬鳴
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中期 |
■ 唯識派(瑜伽行派) |
後期(金剛乗) |
集量論︵pramaaNa-samuccyaya︶は、中世初期のインドの仏教論理学者・認識論者である陳那(dignaaga)の主著であり、陳那の認識論的業績の中心的論書であり、仏教教義に沿って知識の確実性を論究しようとした。この論書によって、仏教としての認識論・論理学︵因明︶が完成したとみられている。 本文は偈頌と長行の典型的なインド哲学の論書の形態をとり、6章の構成となっている。 集量論は、玄奘によって中国に持ち込まれたことは判明しているが漢訳されず、後に義浄によって漢訳されたことが判明しているが、すぐに散佚してしまっている。現在、チベット訳によって伝わっているのみである。