出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
第一次幕領期[編集]
文化4年︵1807年︶発生した文化露寇[11][12][13]を受け、元泊郡域を含む西蝦夷地が松前奉行の管轄する公議御料︵幕府直轄領︶とされ︵〜1821年、第一次幕領期︶、樺太場所請負人は柴屋長太夫となる。
文化5年︵1808年︶は会津藩が樺太警固をおこなう。文化6年(1809年)西蝦夷地から樺太が分立、この年からの警固は弘前藩に交代し、栖原家が伊達家と共同で北蝦夷地(文化6年6月、樺太と改称)場所を請負うようになった[14]。
北方の緊張が解消され、元泊郡域は文政4年︵1821年︶松前藩領に復した。
山丹交易改革
また、松田伝十郎の改革[15][16]では、山丹交易を幕府直営とし白主会所のみで行い、支払いできない分の借財を幕府が肩代わりしり、借財を抱え困窮していたアイヌを救済。その後、過酷な労働環境であるが亜庭湾の漁場などに出稼ぎし、生計を立てる者もいたという。同時にアイヌ乙名たちの山丹渡航も禁じた。
松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分[編集]
第一次幕領期の文化5年︵1808年︶、間宮林蔵は樺太検分のため渡樺し元泊郡域も踏査[17][18][19]。林蔵は、北知床半島からの帰り、樫保に立ち寄っている。
幕末の安政元年(1854年)6月、普請役間宮鉄次郎が東浦タライカ(多来加)まで調査した。
結果、アイヌはタライカ(敷香郡多来可村多来加)まで居住しているが、公儀の撫育、即ち会所︵運上屋︶にておこなわれるオムシャでの役蝦夷の任命、周辺の役蝦夷からの掟書きの伝達︵法の適用︶や住民の宗門人別改帳︵戸籍︶の作成、漁場などでの就労、御救米の支給︵介抱︶など、樺太東岸のアイヌ居住地ではフヌフ(元泊村班伸)まで、何らかの形で撫育や介抱、今で言う﹁日本の統治﹂が及んでいることが確認された[20]。フヌフより北に住む者は風俗が少し異なり、﹁タライカ人﹂或いは﹁多来加アイヌ﹂と記述する文献も存在する。
弘化3年︵1846年︶と、安政4年︵1857年︶の2回、松浦武四郎も訪れた。武四郎は概ね大泊国境線の前身にあたる道沿いに旅し、元泊郡域では幕吏として訪れた安政4年、往路は元泊村のフヌフ︵班伸︶とカシホ︵樫保︶、復路は帆寄村のマクンコタン︵馬群潭︶に宿泊している。この調査の時点では、ロシア人は未到達・否混住である。
﹃鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記﹄︵嘉永7年︵1854年︶刊行︶に弘化3年当時の状況の一部が書かれている。
●帆寄村
●トッソ︵突阻︶に達した
北蝦夷餘誌︵安政3年、1856年の状況︶
●帆寄村
●チカヘロシナイ︵近幌︶・・・アイヌの家2軒
●マクンコタン︵馬群潭︶・・・サケ、マス、サクラマス多く、フヌフからイウウノの倅キンロカリを連れ出稼ぎ
●元泊村
●フヌフ︵班伸︶・・・人家4軒、鰊とアザラシ多い。ここまでトマリ︵クシュンコタン、大泊郡大泊町楠渓町︶に属す。
●この奥はタライカに属す。・・・少し風俗が違う、着ている物も三靼の古着、トドの皮で葺いた屋根
●カシホ︵樫保︶・・・川の西岸に人家3軒。
●ホロナイボ︵幌内保︶・・・ホタテや法螺貝の化石
樺太直捌場所の分立[編集]
安政年間(1854年~1860年)以降、東岸は中知床岬以北のオホーツク海側が幕府直捌となる。
安政3年︵1856年︶鳥井権之助、箱館奉行から北蝦夷地差配人を拝命[21][22]。安政5年︵1858年︶、佐藤広右エ門と米屋喜代作が漁場を開設した。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。
東浦漁場︵南方より順次記載︶安政5年︵1858年︶当時の割当[23]
●佐藤広右エ門・・・松川弁之助の義弟、越後国新潟の人
●拠点・・・シララオロ︵栄浜郡白縫村白浦︶
●受持ち場所・・・南のシルトロ川︵栄浜郡富浜村白浜付近︶より北のチカヘルウシナイ︵帆寄村近幌︶まで
●差配人を拝命。栄浜郡の富浜村西部︵後の栄浜村西部︶と白縫村、元泊郡帆寄村南部にまたがる地域を割当てられ漁場を開いた。
●米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)
●拠点・・・マクンコタン︵帆寄村馬群潭︶
●受持ち場所・・・南のノボリホ︵帆寄村登帆︶より北のウエンコタン︵新問郡東知取村北遠古丹︶まで
●帆寄村と元泊村、新問郡東知取村を割当てられ、漁場を開いたが経営は困難を極めた。文久3年に漁場返納を却下され、さらに3年間経営を継続。
※いずれも、後に栖原家に取捌を引継がれた。
幕末の状況について、﹁北海道歴検図﹂[24]のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の﹁北蝦夷山川地理取調図﹂等[25]によると、小休所では、マクンコタン(帆寄村馬群潭)に﹁小休所﹂が描かれていることから、大泊国境線の前身に相当する道がフヌフ︵元泊村班伸、元泊の北樫保の南︶付近まで通じていたようである。
幕末の樺太警固︵第二次幕領期︶[編集]
安政2年︵1855年︶日露和親条約で樺太国境が未確定のまま棚上げ先送りとなっていた。この年以降、樺太を含む蝦夷地が再び公議御料となり、秋田藩が元泊郡域の警固も行った[26]。冬季は漁場の番屋に詰める番人を武装化して足軽とし警固した。万延元年︵1860年︶樺太警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となるが東北諸藩の負担は大きく、文久3年︵1863年︶以降は仙台・秋田・庄内の3藩体制となる[25]。慶応3年︵1867年︶樺太雑居条約で樺太全島が日露雑居地とされた。
大政奉還後[編集]
大政奉還後の慶応4年︵1868年︶4月12日、箱館裁判所(閏4月24日に箱館府と改称)の管轄[27][28]となり、明治2年︵1869年︶北蝦夷地を樺太州︵国︶と改称[29]。同年、開拓使直轄領となった。明治3年︵1870年︶開拓使と分離し、樺太開拓使領を経て、明治4年︵1871年︶北海道開拓使と再統合され開拓使直轄領に復した。同年8月29日、廃藩置県。このころ行われた文明開化期の事象としては、神仏分離令、壬申戸籍編製、散髪脱刀令、平民苗字必称義務令公布などが挙げられる。アイヌは百姓身分だったため、平民となった。明治8年︵1875年︶、樺太千島交換条約によりロシア領とされたが、同条約第六款において、日本人の漁業権が認められており[30]、露領時代の元泊郡域沿岸は東海岸漁区︵中知床岬から北知床岬まで︶の範囲に含まれた。
日本領に復帰[編集]
●1905年︵明治38年︶
●7月 - 日露戦争・樺太の戦いで、日本軍第13師団が占領。31日、在樺太ロシア軍降伏。
●8月1日 - 軍政が敷かれる。
●8月28日 - 内務省下樺太民政署コルサコフ支所の管轄となる。
●9月1日 - 日露休戦条約を締結。
●9月4日 - 樺太民政署の管轄となる。豊原に支所、落合に出張所を開設。
●9月5日 - ポーツマス条約締結により日本領に復帰。
●1907年︵明治40年︶3月14日 - 内務省の下部組織樺太庁発足、ウラジミロフカ支庁シスカ出張所の管轄となる。
●1908年︵明治41年︶
●4月 - 敷香支庁の管轄となる。
●1909年︵明治42年︶
●10月 - 敷香支庁元泊出張所の管轄となる。
●同年、樺太庁令で﹁部落総代規定﹂を制定。主要集落に町村長に相当する総代を置き、行政事務をおこなうこととした。
●1913年︵大正2年︶6月 - 豊原支庁元泊出張所の管轄となる。
郡発足以降の沿革[編集]
●1915年︵大正4年︶6月26日 - ﹁樺太ノ郡町村編制ニ関スル件﹂︵大正4年勅令第101号︶の施行により、行政区画としての元泊郡発足。発足時は、元泊村、帆寄村の2村。豊原支庁元泊出張所が管轄。︵2村︶
●1918年︵大正7年︶ - 共通法︵大正7年法律第39号︶︵大正7年4月17日施行︶1条2項で、樺太を内地に含むと規定[31]され、終戦まで基本的に国内法が適用されることとなった。
●1922年︵大正11年︶
●4月1日 - ﹁樺太ノ地方制度ニ関スル法律﹂︵大正10年4月8日法律第47号︶と、その細則﹁樺太町村制﹂︵大正11年1月23日勅令第8号︶を同時に施行。﹁部落総代規定﹂廃止。
●10月 - 管轄支庁が元泊支庁に変更。
●1929年︵昭和4年︶7月1日 - 樺太町村制の施行により、以下の変更が行われる。︵1町2村︶
●元泊村、帆寄村︵二級町村︶が発足。
●新問郡より知取町︵一級町村︶が発足し、本郡に所属。
●1942年︵昭和17年︶11月 - 管轄支庁が敷香支庁に変更。
●1943年︵昭和18年︶
●4月1日 - ﹁樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件﹂︵大正9年勅令第124号︶が廃止され、内地編入。
●6月1日 - 樺太町村制が廃止され、樺太で町村制が施行される。二級町村は指定町村となる。
●1945年︵昭和20年︶8月22日 - 日ソ中立条約を破棄したソ連軍の樺太侵攻後、ソビエト連邦により占拠される。
●1949年︵昭和24年︶6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日元泊郡消滅。
参考文献[編集]
(一)^ 函館市史 通説編1通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第2節 安東氏の支配
(二)^ 木村裕俊 ﹁道南十二館の謎﹂111頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
(三)^ 新岡武彦・宇田川洋著 187頁 ISBN 4-8328-9013-1
(四)^ 海保嶺夫 エゾの歴史 215頁 ISBN 978-4-0615-9750-1 原出典:遠藤巌 ﹁応永初期の蝦夷反乱﹂﹃北からの日本史﹄ 三省堂 1988年
(五)^ 海保嶺夫 エゾの歴史 117,149-152頁 ISBN 978-4-0615-9750-1
(六)^ 木村裕俊 ﹁道南十二館の謎﹂95-98,137-138頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
(七)^ 函館市史 通説編1通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第3節 中世期の商品流通
(八)^ 五所川原市の地域経済循環分析 安東氏の活動範囲は北海道や樺太のほか、大陸にも及んでいたという
(九)^ 松前町﹁松前の文化財﹂ - 松前家伝 銅雀台瓦硯
(十)^ 佐々木史郎﹁18,19世紀におけるアムール川下流域の住民の交易活動﹂﹃国立民族学博物館研究報告﹄第22巻第4号、国立民族学博物館、1998年、683-763頁、doi:10.15021/00004131、NAID 110000448267。
(11)^ 稚内史 第二章 ロシアの乱暴と山崎半蔵の宗谷警備
(12)^ 文化四︵千八一七︶年ロシアの択捉島襲撃を巡る諸問題 川上淳
(13)^ 高野明、﹁フヴォストフ文書考﹂﹃早稲田大学図書館紀要﹄ 1964年6巻 p.1-28, hdl:2065/00053944, NAID 120006306514
(14)^ 田島佳也、﹁近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人﹂﹃知多半島の歴史と現在(16) ﹄ 2015年19巻, 日本福祉大学知多半島総合研究所
(15)^ 稚内史 第五章 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革
(16)^ 池添博彦、北蝦夷地紀行の食文化考 北夷談について ﹃帯広大谷短期大学紀要﹄ 1995年32巻 p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33
(17)^ 稚内史 第三章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査
(18)^ 池添博彦、北蝦夷地紀行の食文化考 北夷分界余話について 帯広大谷短期大学紀要 1993 年30巻 p. A51-A60, doi:10.20682/oojc.30.0_A51
(19)^ 松浦美由紀, 池添博彦、北蝦夷地紀行の食文化考 東韃地方紀行および北蝦夷餘誌について ﹃帯広大谷短期大学紀要﹄ 1994年31巻 p.1-12, doi:10.20682/oojc.31.0_1
(20)^ 上村 英明、﹁北海道﹂・﹁沖縄﹂の植民地化とその国際法の論理 - アジアにおける﹁先住民族﹂形成の一時例 -
(21)^ 敦賀屋文書︵鳥井家文書︶
(22)^ ﹁新潟県北洋漁業発展誌﹂内橋 潔 著
(23)^ ﹃新北海道史﹄第二巻通説一 P.764
(24)^ 目賀田帯万が安政3年4年(1856・57)頃のカラフト沿岸を写生した﹁延叙歴検真図﹂の再写図
(25)^ ab榎森進、﹁﹁日露和親条約﹂がカラフト島を両国の 雑居地としたとする説は正しいか?﹂﹃東北文化研究所紀要﹄ 2013年45号 p.1-22, 東北学院大学東北文化研究所
(26)^ 平成18年度 秋田県公文書館企画展 秋田藩の海防警備
(27)^ 秋月俊幸、﹁明治初年の樺太 日露雑居をめぐる諸問題﹂﹃スラヴ研究﹄ 1993年40巻 p.1-21, 北海道大学スラブ研究センター
(28)^ 第十七回資料紹介展 徳島県人の北海道移住 徳島県立文書館
(29)^ 髙木崇世芝、近世蝦夷地の地名
(30)^ 山口精次﹁橋立出身 忠谷・田端家の函館に於ける商業活動﹂﹃市立函館博物館研究紀要﹄第20巻、市立函館博物館、2010年、21-50頁、doi:10.24484/sitereports.121115-58797。
(31)^ 法律第39号 官報 大正7年︵1918年︶4月17日
外部リンク[編集]
●﹃函館市史﹄デジタル版
関連項目[編集]
●安倍氏
●奥州藤原氏
●蝦夷管領安東氏
●安藤水軍︵関東御免船︶
●十三湊
●武田信広
●松前藩
●商場︵場所︶知行制
●場所請負制-オムシャ
●領-村請制度-役蝦夷-夫役
●箱館奉行
●天領
●江戸時代の日本の人口統計-宗門人別改帳
●山丹交易・蝦夷錦
●北前船
●北海道におけるニシン漁史