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紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
第一次幕領期[編集]
文化4年︵1807年︶の文化露寇[21][22][23] の影響で、当時、西蝦夷地に属した名好郡域は松前奉行の管轄する公議御料となる︵〜1821年、第一次幕領期︶。以降、樺太場所請負人は柴屋長太夫。文化6年(1809年)、西蝦夷地から分立した樺太を北蝦夷地に改称。同年、樺太場所は栖原家と伊達家が共同で[24]明治8年(1875年)まで請負った。
北方情勢が安定した文政4年︵1821年︶、名好郡域は松前藩領に復した。
山丹交易改革
アイヌたちは交易で来航する山丹人に対し莫大な借財を負っており、働き手の成人アイヌが山丹人に連れ去られ、その妻子が困窮したり集落がなくなる場所もあったとされる︵﹃蝦夷草紙後編﹄︶。また、借財のかたに山丹人に連行されたアイヌが、後に山丹船でエストルに姿を見せたこともあったという[25]。
当時、深刻なアイヌの窮状は樺太踏査した幕吏の知るところとなり、松田伝十郎[26][27] が山丹交易を幕府直営とし、白主会所のみの取引とした。またこの改革で、山丹人に対する借財のうち、アイヌが支払いできない分を幕府が立替え救済。ただし、その後生計を立てるため過酷な労働条件の漁場などに出稼ぎする者もいた。この改革では、同時にアイヌ乙名たちの山丹渡航も禁じた。
松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分[編集]
享和元年︵1801年︶には、高橋次太夫︵一貫︶ らにより、西岸のショウヤ岬︵名好町北宗谷︶までの踏査が実施された︵﹃唐太雑記﹄︶。
文化5年、松田伝十郎[28] とともに間宮林蔵が北樺太方面を調査[29]。郡域内では、恵須取などに立ち寄った。当時の名好郡域は、人家も少なくウショロアイヌの漁場であった。また、山丹人が頻繁に姿を現す最南端でもあったという。この年の秋、再調査のため間宮が訪れリョナイ︵名好町千緒︶のアイヌ乙名の家に滞在した[30][31][32]︵本陣も参照︶。樺太の呼称が北蝦夷と定まった翌6年6月にも立ち寄っている。
幕末には国境交渉に備え、安政元年(1854年)6月、幕府は支配勘定上川侍次郎を西海岸の北緯50度線のすぐ北側にあるホロコタン(幌渓)まで調査させ、松前藩土今井八九郎は進んでナッコ(北樺太、ラッカ・拉喀とも。露名ラハ)まで調査した。
その結果、公儀の撫育、即ち会所︵運上屋︶にておこなわれるオムシャでの役蝦夷の任命、周辺の役蝦夷からの掟書きの伝達︵法の適用︶や住民の宗門人別改帳︵戸籍︶の作成、漁場などでの就労、老病者への御救米の支給︵介抱︶など、樺太西岸のアイヌ居住地北限のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、何らかの形で撫育や介抱︵今で言う日本の統治︶が及んでいることが判明した[33]。
また、ロシア人は、1853年︵嘉永6年︶よりも後から、 スメレンクル夷の住む北樺太オッチシ︵落石、ニヴフ名:イドイー︶周辺に石炭採掘者が少数いるのみで、樺太南部の日本の統治が及ぶ地域に未到達・否混住であることが確認された。
幕末の樺太警固︵第二次幕領期︶[編集]
安政2年︵1855年︶日露和親条約では樺太方面の国境の確定を先送りされた。同年から樺太を含む蝦夷地全域が再び公議御料となり、秋田藩が名好郡域の警固を行い[34]、冬季は漁場の番屋に詰める番人をそのまま武装化し、足軽に取り立て警固した。
大野藩準領ウショロ場所[編集]
安政5年︵1858年︶、大野藩︵藩主:土井利忠︶の準領、ウショロ︵鵜城︶場所︵ウショロ領、領の項も参照︶に含まれた[24][35]。その範囲は北蝦夷地西浦の鵜城郡域と名好郡および北緯50度線のすぐ北側の北樺太ホロコタン︵幌渓︶までの地域にあたる。安政6年︵1859年︶3月、越前大野藩士・早川弥五左衛門ら30名が、カラフト奥地開発のため藩船﹁大野丸﹂でウショロに着任した。
幕末の状況について、﹁北海道歴検図﹂[36] のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の﹁北蝦夷山川地理取調図﹂等[37] によると、露宿︵宿泊施設︶については、西海岸のナヤス(名好郡名好村)以北のみに﹁露宿﹂と表記されたテント風の絵が描かれており、本斗安別線の前身の道がホロコタン方面へ通じていたようである。なお、樺太全土が日露雑居地とされたのは慶応3年︵1867年︶の樺太雑居条約締結以降である。
大政奉還後[編集]
慶応4年︵1868年︶4月12日、箱館裁判所(閏4月24日に箱館府と改称)の管轄[38][39] となり、明治2年︵1869年︶北蝦夷地を樺太州︵国︶と改称[40]。同年、開拓使直轄領となった。明治3年︵1870年︶開拓使と分離し、樺太開拓使領を経て、明治4年︵1871年︶北海道開拓使と再統合され開拓使直轄領に復した。同年8月29日、廃藩置県。このころ行われた文明開化期の事象としては、神仏分離令、壬申戸籍編製、散髪脱刀令、平民苗字必称義務令公布などが挙げられる。アイヌは百姓身分だったため、平民となった。明治8年︵1875年︶、樺太千島交換条約によりロシア領とされた。同条約第六款では露領時代も日本人の漁業権が認められており[41]、久春内から樺太北端までは北西海岸漁区の範囲に含まれた。
ロシアの侵出[編集]
安政2年︵1855年︶の日露和親条約で樺太の国境が未確定のまま棚上げ先送りとなったため、文久2年︵1862年︶ころからシルトッタンナイ(名好村古津、西柵丹村との境)付近に在留ロシア人・ヂャチコーフがおり、文久3年︵1863年︶のアイヌ身柄強奪事件を引き起こした︵ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照︶。
1867年締結の樺太全土を日露雑居地とする樺太雑居条約を受け、樺太放棄までに名好郡域にロシア人侵出。
日本領に復帰[編集]
●1905年︵明治38年︶
●7月 - 日露戦争・樺太の戦いで、日本軍第13師団が占領。31日、在樺太ロシア軍降伏。
●8月1日 - 軍政が敷かれる。
●8月28日 - 内務省下樺太民政署の管轄となる。
●9月1日 - 日露休戦条約を締結。
●9月4日 - 樺太民政署マウカ支所クスンナイ︵久春内︶出張所の管轄となる。
●9月5日 - ポーツマス条約締結により日本領に復帰。
●1907年︵明治40年︶3月14日 - 内務省の下部組織樺太庁発足、マウカ支庁ナヤシ︵名好︶出張所の管轄となる。
●1908年︵明治41年︶
●4月 - 管轄支庁を真岡支庁名好出張所に改称。
●12月 - 真岡支庁名好出張所が独立して名好支庁が発足。
●1909年︵明治42年︶ - 樺太庁令で﹁部落総代規定﹂を制定。主要集落に町村長に相当する総代を置き、行政事務をおこなうこととした。
●1913年︵大正2年︶
●6月 - 管轄支庁を久春内支庁に改称。旧・名好支庁が北名好出張所に改称
●10月 - 管轄支庁を泊居支庁に改称。
郡発足以降の沿革[編集]
●1915年︵大正4年︶6月26日 - ﹁樺太ノ郡町村編制ニ関スル件﹂︵大正4年勅令第101号︶の施行により、行政区画としての名好郡発足。発足時は恵須取村、名好村、安別村の3村。泊居支庁北名好出張所が管轄。︵3村︶
●1918年︵大正7年︶
●4月17日 - 共通法︵大正7年法律第39号︶︵大正7年4月17日施行︶1条2項で、樺太を内地に含むと規定[42] され、終戦まで基本的に国内法が適用されることとなった。
●6月 - 北名好出張所を名好出張所に改称。
●時期不明 - 恵須取村が恵須取町となる。︵1町2村︶
●1920年︵大正9年︶ 5月1日 - 大正9年勅令第124号︵樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件︶[43] 公布。本郡の安別村西柵丹にはニヴフが居住していたことから、樺太に施行される法律に、勅令により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設けるとされた。ただし、勅令第124号廃止まで内地に準ずる扱いは変わらず。
●1922年︵大正11年︶
●4月1日 - ﹁樺太ノ地方制度ニ関スル法律﹂︵大正10年4月8日法律第47号︶と、その細則﹁樺太町村制﹂︵大正11年1月23日勅令第8号︶を同時に施行。﹁部落総代規定﹂廃止。
●10月 - 鵜城支庁の管轄となる。
●1923年︵大正12年︶4月1日 - 安別村が名好村に合併。︵1町1村︶
●1924年︵大正13年︶12月25日 - 鵜城支庁が廃止され[44]、泊居支庁鵜城出張所の管轄となる[45]。
●1929年︵昭和4年︶7月1日 - 樺太町村制の施行により、恵須取町、名好村︵二級町村︶が発足。︵1町1村︶
●1938年︵昭和13年︶4月1日 - 恵須取町の一部が分立して塔路町︵一級町村︶が発足。︵2町1村︶
●1940年︵昭和15年︶1月 - 管轄支庁が恵須取支庁に変更。
●1941年︵昭和16年︶4月1日 - 名好村の一部に名好町︵一級町村︶、残部に西柵丹村︵一級町村︶が発足。︵3町1村︶
●1942年︵昭和17年︶11月 - 恵須取町・塔路町の所属郡が恵須取郡に変更。︵1町1村︶
●1943年︵昭和18年︶
●4月1日 - ﹁樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件﹂︵大正9年勅令第124号︶が廃止され、内地編入。
●6月1日 - 樺太町村制が廃止され、樺太で町村制が施行される。二級町村は指定町村となる。
●1945年︵昭和20年︶8月22日 - 日ソ中立条約を破棄したソ連軍の樺太侵攻後、ソビエト連邦により占拠される。
●1949年︵昭和24年︶6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日名好郡消滅。
参考文献[編集]
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(二)^ 函館市史 通説編1通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第2節 安東氏の支配
(三)^ 十三湊から解き明かす 北の中世史 - JR東日本
(四)^ 五所川原市の地域経済循環分析 安東氏の活動範囲は北海道や樺太のほか、大陸にも及んでいたという
(五)^ 十三湊遺跡 五所川原観光情報局︵公式ウェブサイト︶. 五所川原観光協会
(六)^ 木村裕俊 ﹁道南十二館の謎﹂111頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
(七)^ 日持上人開教の事績-津軽十三湊をめぐって - 日蓮宗 現代宗教研究所
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(十)^ 瀬川拓郎 アイヌ学入門 58頁 ISBN 978-4-06-288304-7
(11)^ 新岡武彦・宇田川洋著8頁 ISBN 4-8328-9013-1
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(13)^ 海保嶺夫 エゾの歴史 2006-02︵原著1996-02︶講談社文庫 103頁 ISBN 978-4061597501
(14)^ 北海道の古代・中世がわかる本 2015-04 亜璃西社 170-173頁 ISBN 978-4906740154
(15)^ 海保嶺夫 エゾの歴史 2006-02︵原著1996-02︶講談社文庫 212-214頁 ISBN 978-4061597501
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(17)^ 木村裕俊 ﹁道南十二館の謎﹂95-98,137-138頁 ISBN 978-4-8328-1701-2
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(40)^ 髙木崇世芝、近世蝦夷地の地名
(41)^ 山口精次﹁橋立出身 忠谷・田端家の函館に於ける商業活動﹂﹃市立函館博物館研究紀要﹄第20巻、市立函館博物館、2010年、21-50頁、doi:10.24484/sitereports.121115-58797。
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(44)^ ﹁樺太廳告示第二百九號﹂﹃官報﹄第3724号、内閣印刷局、472頁、1925年1月23日。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955872/3。
(45)^ ﹁樺太廳告示第二百十號﹂﹃官報﹄第3724号、内閣印刷局、472頁、1925年1月23日。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955872/3。
外部リンク[編集]
●﹃函館市史﹄デジタル版
関連項目[編集]
●安倍氏
●奥州藤原氏
●蝦夷管領安東氏
●安藤水軍︵関東御免船︶
●十三湊
●モンゴルの樺太侵攻
●武田信広
●松前藩
●商場︵場所︶知行制
●場所請負制-オムシャ
●領-村請制度-役蝦夷-夫役
●箱館奉行
●天領
●江戸時代の日本の人口統計-宗門人別改帳
●山丹交易・蝦夷錦
●大野藩
●ニヴフ