辛毗
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(辛ピから転送)
辛毗 | |
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魏 関内侯・衛尉 | |
出生 |
生年不詳 豫州潁川郡陽翟県 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Xīn Pí |
字 | 佐治 |
諡号 | 粛侯 |
主君 | 袁紹 → 袁譚 → 曹操 → 曹丕 → 曹叡 |
辛 毗︵しん ぴ、生没年不詳︶は、中国後漢末期から三国時代の政治家。魏に仕えた。字は佐治。豫州潁川郡陽翟県︵現在の河南省許昌市禹州市︶の人。兄は辛評。子は辛敞・辛憲英︵羊耽の妻︶。孫は羊琇。﹃三国志﹄魏志に伝がある。
生涯
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先祖は、建武年間に隴西郡から東方に移住してきた一族だという。若い頃は陳羣・杜襲・趙儼と並んで名が知られていた︵﹁趙儼伝﹂︶。兄が袁紹の重臣であったため、辛毗も兄に付いて袁紹に従っていた。曹操が司空になると召し寄せられたが、応じることができなかった。
袁紹の死後は袁譚に仕えた。袁譚は袁紹の跡を継いだ袁尚と争った末に、弱体化したところを曹操に攻められ窮地に陥ったため、辛毗を和睦の使者として、曹操の元に派遣した。この決定については使者の人選も含めて、郭図の進言が大きかったという︵﹃英雄記﹄︶。
曹操はこの時、荊州を討つため西平に駐屯していたが、袁譚の意向を知らされ、大きく喜んだという。ところが数日すると、曹操は心変わりし、荊州攻撃を続行、袁譚と袁尚を争わせ共倒れにさせようと謀った。辛毗は宴席で曹操の様子が変わったのを見て取り、郭嘉に相談を持ちかけた。郭嘉の取り成しで曹操との会談の機会を得た辛毗は、袁譚と結び袁尚を討つことの利益を堂々と説いた。曹操は辛毗の意見に納得した上で、袁譚との和睦に応じ黎陽に滞在した。
また、曹操の鄴攻略にも従った。辛毗は以前、袁尚の下から自身の家族を連れ出すことには成功していたが、兄の家族を捕らえられてしまっていた︵﹁袁紹伝﹂が引く﹃先賢行状﹄︶。このときに袁尚の部将として鄴を守っていた審配は、袁氏衰退の元凶であるとして、兄辛評の家族を皆殺しにしたという︵﹁袁紹伝﹂が引く﹃先賢行状﹄︶。鄴の落城後、辛毗は兄の家族を救おうとしたが殺害された後であったため、捕虜となった審配の頭を鞭打ち、お互いに罵り合った。さらに審配を助命しようとする曹操に対して、断じて処刑するように号泣しながら求めたという。審配にも再仕官の意思がなかったため、曹操は処刑を命じた︵﹁袁紹伝﹂が引く﹃先賢行状﹄︶。
鄴攻略後、辛毗は曹操から議郎に任命された。
曹操と劉備が漢中を争うようになると、辛毗は曹休とともに曹操から曹洪の輔佐を任された。曹操は、曹洪が女好きで金銭に執着する性格であることを心配し、辛毗と曹休に前漢の高祖の事例を引いて、その責任の重さを言い含めたという。漢中から軍が帰還すると、丞相長吏に任じられた。
曹丕と親しく、曹丕が太子となることが決まったときは、曹丕から肩を抱かれ喜ばれたという。辛毗がこの話を娘の憲英にしたところ、憲英はかえって曹魏政権の行く末を心配する発言をしたという︵﹃晋書﹄﹁列女伝﹂︶。
後漢から魏への禅譲に協力し︵﹁文帝紀﹂が引く﹃漢紀﹄︶、曹丕︵文帝︶が帝位に就くと侍中に昇進、関内侯の爵位を得た。正朔の議論があった時、辛毗は意見を具申し、曹丕から採用された。
曹丕が、冀州の兵士10万戸を河南に移住させようとした時、民が蝗の害で餓えていたため、群臣達は反対する者が多かった。群臣達が意見を言い出せない中で、辛毗は率先して意見を述べ強く諫言した。曹丕は耳を貸そうとしなかったものの、移住させる兵士を半数に留めた。また、曹丕が狩猟を好み、雉撃ちが好きであったため、これも強く諌めた。これ以降、曹丕が狩猟に出ることは稀になったという。
曹丕が曹真に命じ、呉の朱然が守る江陵を攻撃させた時、辛毗はその軍師として従軍した。帰還後、広平亭侯に封じられた。その後、曹丕が呉征伐の親征軍を起こそうと考えたが、辛毗はこれに反対し、しばらく民衆を休養させるべきだと述べた。結局、曹丕は呉征伐の軍を起こしたが、長江の畔まで赴いて帰還することになった。
曹叡︵明帝︶が即位すると、潁郷侯に爵位が進み、300戸を得た。この頃、曹叡の側近である劉放と孫資が政治を壟断していたため、大臣の多くが彼らと誼を通じていたが、辛毗は彼らとの不仲を貫き、子の辛敞が諌めたにもかかわらず、その態度を改めなかった。あるとき、畢軌が王思の後任として辛毗を推挙したところ、劉放と孫資は辛毗の誠実さは評価しつつも、強情で妥協性がないことを理由に、それに賛同しなかった。曹叡は辛毗を衛尉に任じた。その後も辛毗は、曹叡の宮殿造営により、民衆が疲弊していることを強く諫言した。
蜀漢の北伐により張郃が戦死したとき、曹叡はその死を強く愛惜した。陳羣もこれに同調する意見を述べたが、辛毗は弱気な発言をすべきではないと思い、陳羣の意見に反対し、発言を撤回させたという︵﹃魏略﹄︶。
234年、蜀の諸葛亮が渭南に進撃してきた︵五丈原の戦い︶。司馬懿が、以前より何度か蜀との交戦を願い出ており、今回は軍を押さえきれない様子であったため、曹叡は辛毗を大将軍軍師・使持節に任命し、出撃に逸る諸将たちを押し留めさせようと派遣した。辛毗が派遣されると、全軍は粛然となり、主将の司馬懿以下、諸将はみな辛毗の指示に従ったという。諸葛亮が死去し蜀軍が撤退した後、中央に帰還し衛尉に復職した。
没年は不明だが死後、粛侯と諡された。