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== 生涯 ==

== 生涯 ==

元々は寇氏の子で、[[劉氏長沙国|長沙劉氏]]の甥であった。劉備に実子[[劉禅]]が生まれる[[207年]]以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。

元々は寇氏の子で、長沙劉氏の甥であった。劉備に実子[[劉禅]]が生まれる[[207年]]以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。



[[212年]]、劉備が[[益州]]攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、[[諸葛亮]]・[[張飛]]らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。益州平定後、劉封は副軍[[中郎将]]に任じられた。

[[212年]]、劉備が[[益州]]攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、[[諸葛亮]]・[[張飛]]らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。益州平定後、劉封は副軍[[中郎将]]に任じられた。



[[219年]]、[[孟達]]は劉備に命じられ、[[房県|房陵]]を攻略した。孟達は続いて[[上庸郡|上庸]]に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を[[漢中郡|漢中]]から派遣して上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。劉封と孟達は[[申耽]]を降伏させ、劉封は副軍将軍に昇進した。

[[219年]]、[[孟達]]は劉備に命じられ、[[房県|房陵]]を攻略した。孟達は続いて[[上庸郡|上庸]]に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を[[漢中郡|漢中]]から派遣し[[漢水]]を下って上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。劉封と孟達は[[申耽]]を降伏させ、劉封は副軍将軍に昇進した。




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[[220年]]7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔。魏は孟達を建武将軍・[[新城郡 (湖北省)|新城]]太守に任じ、[[夏侯尚]]・徐晃と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す手紙を送ったが、劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の[[申儀]]などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、[[成都]]への敗走を余儀なくされた。

[[220年]]7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔。魏は孟達を建武将軍・[[新城郡 (湖北省)|新城]]太守に任じ、[[夏侯尚]]・徐晃と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す手紙を送ったが、劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の[[申儀]]などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、[[成都]]への敗走を余儀なくされた。




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この結果を予測していた孟達はいがみ合った劉封に忠告の書簡を出したが彼に懸念が伝わる事は無く、自決の際に劉封も俄かに全てを悟り「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。これを聞いた劉備は不当な死を与えて終った彼のために涙を流した。

この結果を予測していた孟達はいがみ合っていた劉封に忠告の書簡を出したが彼に懸念が伝わる事は無く、自決の際に劉封も俄かに全てを悟り「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。これを聞いた劉備は不当な死を与えて終った彼のために涙した。



子の{{仮リンク|劉林 (三国)|label=劉林|zh|刘林 (三国)}}は誅殺されず牙門将に任命され、[[蜀漢]]滅亡後の[[264年]]、[[河東郡 (中国)|河東郡]]に移住した。

子の{{仮リンク|劉林 (三国)|label=劉林|zh|刘林 (三国)}}は誅殺されず牙門将に任命され、[[蜀漢]]滅亡後の[[264年]]、[[河東郡 (中国)|河東郡]]に移住した。


2021年6月10日 (木) 08:46時点における版

劉封
蜀漢
副軍将軍
出生 不詳
荊州長沙郡羅県[1]
死去 220年
拼音 Liú Fēng
別名 寇封
主君 劉備
養父: 劉備
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  192 - 220()[1]


207

21220

2191



2207



264

寿




??



使


[2][3]使[4][5][6][7]

脚注

  1. ^ a b 盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈によると、
    春秋左氏伝桓公13年に「の屈瑕が羅を伐った」とある。杜注は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された」という。『漢書』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。応劭は「楚の文王が羅子を枝江からここに徙した」という。『続漢書』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『水経注』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『水経注』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは襄陽(郡)宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の湖南(省)長沙府湘陰県の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。趙一清中国語版は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、寇恂の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。沈家本は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)永和5年の後のことである。

    ^ p79.

    ^ 

    ^ p130.

    ^ 使

    ^ p132.

    ^ p140.

参考資料

関連項目