「新青年 (日本)」の版間の差分

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博文館では[[日露戦争]]後から発行していた『[[冒険世界]]』(『日露戦争写真画報』『写真画報』から改名)が[[大正]]になって時代に合わなくなったため、編集長となった[[森下雨村]]に今後の方針を任せ、森下らは若い層に向けた新雑誌の構想を立て、社主の意向で地方青年向きの内容で『新青年』という名前の雑誌として、1920年(大正9年)1月に創刊した<ref name="乾1991,201p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=201 |isbn=}}</ref>。当初は、若者の背中を押し海外雄飛を促すことをねらった、ブラジルに移住して新天地を拓こうといった類の評論が巻頭を飾るような硬派な雑誌であったが、森下が主導し翻訳探偵小説を載せるようになると、やがて日本における探偵小説の唯一の発表舞台として不動の地位を築き、海外雄飛を奨励する傾向は自然消滅した<ref>{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=104-105 |isbn=}}</ref>。探偵小説は、当時の他の娯楽雑誌ではほとんど扱いが無く『新青年』の独自性を高める要因になった<ref name="乾1991,105p"/>。

博文館では[[日露戦争]]後から発行していた『[[冒険世界]]』(『日露戦争写真画報』『写真画報』から改名)が[[大正]]になって時代に合わなくなったため、編集長となった[[森下雨村]]に今後の方針を任せ、森下らは若い層に向けた新雑誌の構想を立て、社主の意向で地方青年向きの内容で『新青年』という名前の雑誌として、1920年(大正9年)1月に創刊した<ref name="乾1991,201p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=201 |isbn=}}</ref>。当初は、若者の背中を押し海外雄飛を促すことをねらった、ブラジルに移住して新天地を拓こうといった類の評論が巻頭を飾るような硬派な雑誌であったが、森下が主導し翻訳探偵小説を載せるようになると、やがて日本における探偵小説の唯一の発表舞台として不動の地位を築き、海外雄飛を奨励する傾向は自然消滅した<ref>{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=104-105 |isbn=}}</ref>。探偵小説は、当時の他の娯楽雑誌ではほとんど扱いが無く『新青年』の独自性を高める要因になった<ref name="乾1991,105p"/>。



翻訳小説では、創刊号では青年向き読物の他に、編集局長[[長谷川天渓]]の発案で[[オースティン・フリーマン]]「オシリスの眼」([[保篠龍緒]]訳)、雨村による[[セクストン・ブレイク]]ものの紹介を掲載した。創作では、10枚の掌編ミステリ小説の懸賞募集を行った<ref name="乾1991,201p"/>。1921年1月号では翻訳6編、8月には増刊号「探偵小説傑作集」を発行し、[[モーリス・ルブラン]]「[[水晶の栓]]」、[[ギルバート・ケイス・チェスタートン|チェスタトン]]「[[ブラウン神父の童心#青い十字架(The Blue Cross)|青い十字架]]」、L.J.ビーストン「マイナスの夜光珠」などを掲載。1922年からはこの増刊は年2回発行された。また募集により、1920年に八重野潮路([[西田政治]]、「林檎の皮」1920年4月号)、21年に[[横溝正史]](「[[恐ろしき四月馬鹿]]」1921年4月号)、22年に[[水谷準]](「好敵手」1922年12月号)がそれぞれ入選する。西田、横溝、[[浅野玄府]]、[[妹尾韶夫]]、[[谷譲次]]らは翻訳も盛んに手がけ、[[小酒井不木]]も探偵小説の研究随筆、翻訳、創作を発表するようになる。

翻訳小説では、創刊号では青年向き読物の他に、編集局長[[長谷川天渓]]の発案で[[オースティン・フリーマン]]「オシリスの眼」([[保篠龍緒]]訳)、雨村による[[セクストン・ブレイク]]ものの紹介を掲載した。創作では、10枚の掌編ミステリ小説の懸賞募集を行った<ref name="乾1991,201p"/>。1921年1月号では翻訳6編、8月には増刊号「探偵小説傑作集」を発行し、[[モーリス・ルブラン]]「[[水晶の栓]]」、[[ギルバート・ケイス・チェスタートン|チェスタトン]]「[[ブラウン神父の童心#青い十字架(The Blue Cross)|青い十字架]]」、[[L.J.ビーストン]]「マイナスの夜光珠」などを掲載。1922年からはこの増刊は年2回発行された。また募集により、1920年に八重野潮路([[西田政治]]、「林檎の皮」1920年4月号)、21年に[[横溝正史]](「[[恐ろしき四月馬鹿]]」1921年4月号)、22年に[[水谷準]](「好敵手」1922年12月号)がそれぞれ入選する。西田、横溝、[[浅野玄府]]、[[妹尾韶夫]]、[[谷譲次]]らは翻訳も盛んに手がけ、[[小酒井不木]]も探偵小説の研究随筆、翻訳、創作を発表するようになる。



編集方針として翻訳探偵小説と創作探偵小説を大きな二本柱とし、そこにエッセイやコラムを交えるのが大まかなパターンであった<ref name="乾1991,105p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=105 |isbn=}}</ref>。編集会議ではおもしろそうな提案でも他所がやっていことは却下され、他誌がやらないことをやろうという精神が骨格にあった。新しいこと、すなわち現代風をよく表現できるものとしてコラムやエッセイ、レイアウトに着目していた<ref name="乾1991,106p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=106 |isbn=}}</ref>。

編集方針として翻訳探偵小説と創作探偵小説を大きな二本柱とし、そこにエッセイやコラムを交えるのが大まかなパターンであった<ref name="乾1991,105p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=105 |isbn=}}</ref>。編集会議ではおもしろそうな提案でも他所がやっていことは却下され、他誌がやらないことをやろうという精神が骨格にあった。新しいこと、すなわち現代風をよく表現できるものとしてコラムやエッセイ、レイアウトに着目していた<ref name="乾1991,106p">{{Cite book|和書|author=乾信一郎 |title=「新青年」の頃 |publisher=早川書房 |date=1991 |page=106 |isbn=}}</ref>。



挿絵画家としては、創刊から間もなく[[松野一夫]]が原稿を持ち込み、森下編集長に認められ挿絵の執筆を始める。松野は1921年5月号で初めて表紙絵を担当、その後、1921年7月号、10月号、1922年1月号を経て、1922年3月号から1948年3月号まで連続して表紙絵を担当することになった<ref>{{citation

挿絵画家としては、創刊から間もなく[[松野一夫]]が原稿を持ち込み、森下編集長に認められ挿絵の執筆を始める。松野は1921年5月号で初めて表紙絵を担当、その後、1921年7月号、10月号、1922年1月号を経て、1922年3月号から1948年3月号まで連続して表紙絵を担当することになった<ref>{{citation

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探偵小説愛好家であった[[江戸川乱歩]]は[[馬場孤蝶]]に創作作品「[[二銭銅貨]]」を送ったが読んでもらえなかったため、雨村に送り直して1923年4月号に掲載され、怪奇幻想色の濃い後年の作風とは異なる論理性の高い探偵小説を続けて発表する。これに刺激を受けて、横溝、水谷の他に、[[角田喜久雄]]、[[山下利三郎]]らが執筆、さらに新人として[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]、[[大下宇陀児]]、[[城昌幸]]、[[渡辺温]]、[[牧逸馬]]、[[国枝史郎]]、[[夢野久作]]などがデビューした。文壇作家では[[片岡鉄兵]]、[[佐々木味津三]]、[[平林たい子]]、[[戸川貞雄]]、[[林房雄]]、[[佐藤春夫]]なども探偵小説を寄稿した。

探偵小説愛好家であった[[江戸川乱歩]]は[[馬場孤蝶]]に創作作品「[[二銭銅貨]]」を送ったが読んでもらえなかったため、雨村に送り直して1923年4月号に掲載され、怪奇幻想色の濃い後年の作風とは異なる論理性の高い探偵小説を続けて発表する。これに刺激を受けて、横溝、水谷の他に、[[角田喜久雄]]、[[山下利三郎]]らが執筆、さらに新人として[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]、[[大下宇陀児]]、[[城昌幸]]、[[渡辺温]]、[[牧逸馬]]、[[国枝史郎]]、[[夢野久作]]などがデビューした。文壇作家では[[片岡鉄兵]]、[[佐々木味津三]]、[[平林たい子]]、[[戸川貞雄]]、[[林房雄]]、[[佐藤春夫]]なども探偵小説を寄稿した。



翻訳では、ビーストン、[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]、[[バロネス・オルツィ]]、[[アガサ・クリスティ]]、[[メルヴィル・デイヴィスン・ポースト]]らの探偵小説、その他に[[ジョンストン・マッカレー]]、[[P・G・ウッドハウス]]、[[オー・ヘンリー]]らのコントが人気を博した。

翻訳では、[[L.J.ビーストン|ビーストン]]、[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]、[[バロネス・オルツィ]]、[[アガサ・クリスティ]]、[[メルヴィル・デイヴィスン・ポースト]]らの探偵小説、その他に[[ジョンストン・マッカレー]]、[[P・G・ウッドハウス]]、[[オー・ヘンリー]]らのコントが人気を博した。



[[1925年]]から横溝が編集に加わり、当時のモダニズムを取り入れてユーモア小説を掲載するようになり、1927年3月号から2代目編集長となる。この誌面を乱歩は「日本娯楽雑誌中の最も上級な新味のあるものになりきった」と評した<ref>1927年3月号「三月号寸評」。</ref>。乱歩が1928年8月増刊号から10月号にかけて連載した『[[陰獣]]』は、最終回の掲載された10月号が売り切れて3刷まで増刷する<ref>『江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上)』〈光文社文庫〉(光文社、2006年), p. 343, 345.</ref> ほどの人気となったが、乱歩は、探偵小説以外に重点を置く本誌からはその後遠ざかった。また、『陰獣』の挿絵を担当したのは[[竹中英太郎]]であり、これが『新青年』への初登場となった<ref>{{citation

[[1925年]]から横溝が編集に加わり、当時のモダニズムを取り入れてユーモア小説を掲載するようになり、1927年3月号から2代目編集長となる。この誌面を乱歩は「日本娯楽雑誌中の最も上級な新味のあるものになりきった」と評した<ref>1927年3月号「三月号寸評」。</ref>。乱歩が1928年8月増刊号から10月号にかけて連載した『[[陰獣]]』は、最終回の掲載された10月号が売り切れて3刷まで増刷する<ref>『江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上)』〈光文社文庫〉(光文社、2006年), p. 343, 345.</ref> ほどの人気となったが、乱歩は、探偵小説以外に重点を置く本誌からはその後遠ざかった。また、『陰獣』の挿絵を担当したのは[[竹中英太郎]]であり、これが『新青年』への初登場となった<ref>{{citation

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1948年4・5月合併号から高森栄次が編集長となる。1949年に横溝正史『[[八つ墓村]]』の連載が始まって探偵小説色を取り戻し、江戸川乱歩『[[探偵小説四十年|探偵小説三十年]]』、次いで[[山田風太郎]]、[[島田一男]]ら新人や、[[火野葦平]]、[[林房雄]]、[[船山馨]]の探偵小説も掲載されるが、探偵小説雑誌としては『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』『[[ロック (雑誌)|ロック]]』などの新雑誌が中心となっていて経営は改善されず、実売も1万部に満たなかった。

1948年4・5月合併号から高森栄次が編集長となる。1949年に横溝正史『[[八つ墓村]]』の連載が始まって探偵小説色を取り戻し、江戸川乱歩『[[探偵小説四十年|探偵小説三十年]]』、次いで[[山田風太郎]]、[[島田一男]]ら新人や、[[火野葦平]]、[[林房雄]]、[[船山馨]]の探偵小説も掲載されるが、探偵小説雑誌としては『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』『[[ロック (雑誌)|ロック]]』などの新雑誌が中心となっていて経営は改善されず、実売も1万部に満たなかった。




195018[[]][[]][[]][[]][[]]19504319507<ref>{{Cite |  | author = [[]] | title =  | publisher =  | date = 1973-10-15 | page = 86-95}}</ref>

1950年1月8日、正月恒例の木々高太郎邸での新年会が、この年に限って博友社で開催された。出席者は、木々高太郎、[[大坪砂男]]、永瀬三吾、宮野村子、[[岡田鯱彦]]、[[氷川瓏]]、[[本間田麻誉]]。一同揃うと、神楽坂の小料理屋”喜らく”に連れていかれ、高森編集長が、今日は座談会であると切り出した。いわゆる”[[抜打座談会事件]]で、『新青年』1950年4月号に掲載された。これに本格派の作家たちが激怒・反論し、また本格派作家の牙城とされた雑誌『宝石』編集部が怒り心頭に達した。この事件のわずか3ヶ月後、1950年7月号で『新青年』は終刊となった<ref>{{Cite | 和書 | author = [[山村正夫]] | title = 推理文壇戦後史 | publisher = 双葉社 | date = 1973-10-15 | page = 86-95}}</ref>。



なお、終刊号は上述の通り1950年7月号だが、その後に東京鉄道局旅客課編『山の旅案内 コースと賃金』という[[旅行ガイドブック|ガイドブック]]が、名目上『新青年』の7月増刊号という形で発行されており、形式的にはこちらが最終号である。内容的には本誌とは全く無関係なガイドブックで、流通の都合から雑誌増刊号という形式で出されたものと考えられている<ref>{{Cite | 和書 | author = [[新保博久]] | title = ミステリ編集道 | publisher =[[本の雑誌社]] | date = 2015-05-25 | ISBN = 978-4-86011-271-4 | pages = 70-71 }}</ref>。

なお、終刊号は上述の通り1950年7月号だが、その後に東京鉄道局旅客課編『山の旅案内 コースと賃金』という[[旅行ガイドブック|ガイドブック]]が、名目上『新青年』の7月増刊号という形で発行されており、形式的にはこちらが最終号である。内容的には本誌とは全く無関係なガイドブックで、流通の都合から雑誌増刊号という形式で出されたものと考えられている<ref>{{Cite | 和書 | author = [[新保博久]] | title = ミステリ編集道 | publisher =[[本の雑誌社]] | date = 2015-05-25 | ISBN = 978-4-86011-271-4 | pages = 70-71 }}</ref>。

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===モダン文化===

===モダン文化===

変化する生活様式に応えるように、1929年(昭和4年)1月号からファッション欄である「わ゛にてい・ふえいあ」(Vanity Fair 邦訳・虚栄の市)が設けられた<ref>「わ゛にてい・ふえいあ」の誌面上の表記はひらがなの「わ」に濁点がついたもの</ref>。モダン・ボーイ、モダン・ガールのお洒落、伊達、流行などを扱った。また、ファッションに限定せず、映画、音楽、ダンス、ビールの種類などに至るまで、流行の最先端が紹介された。

変化する生活様式に応えるように、1929年(昭和4年)1月号からファッション欄である「わ゛にてい・ふえいあ」(Vanity Fair 邦訳・虚栄の市)が設けられた<ref>「わ゛にてい・ふえいあ」の誌面上の表記はひらがなの「わ」に濁点がついたもの</ref>。モダン・ボーイ、モダン・ガールのお洒落、伊達、流行などを扱った。また、ファッションに限定せず、映画、音楽、ダンス、ビールの種類などに至るまで、流行の最先端が紹介された。

「わ゛にてい・ふいあ」は翌年1930年(昭和5年)から「ヴォガンヴォグ」(Vogue en Vogue)と改題された。ここでは、洋服の基礎知識と世界の最新モード情報を紹介した<ref>{{Cite book|和書|author=阿部恒久編 |title=男性史2 モダニズムから総力戦へ |publisher=日本経済評論社 |date=2006年12月 |page=8頁 |isbn=}}</ref>。コラム内では「あんさず・あんさあ」という読者から質問を募集し、誌上で回答する欄もあった。

「わ゛にてい・ふいあ」は翌年1930年(昭和5年)から「ヴォガンヴォグ」(Vogue en Vogue)と改題された。ここでは、洋服の基礎知識と世界の最新モード情報を紹介した<ref>{{Cite book|和書|author=阿部恒久編 |title=男性史2 モダニズムから総力戦へ |publisher=日本経済評論社 |date=2006年12月 |page=8頁 |isbn=}}</ref>。コラム内では「あんさず・あんさあ」という読者から質問を募集し、誌上で回答する欄もあった。

執筆は服飾評論家・作家の中村進治郎が1932年まで担当し、自らグラビアにも登場している<ref>{{Cite book|和書|author=公益財団法人 神奈川文学振興会編 |title=永遠に「新青年」なるもの |publisher=県立神奈川近代文学館 |date=2021年3月 |page=37頁 |isbn=}}</ref>。

執筆は服飾評論家・作家の中村進治郎が1932年まで担当し、自らグラビアにも登場している<ref>{{Cite book|和書|author=公益財団法人 神奈川文学振興会編 |title=永遠に「新青年」なるもの |publisher=県立神奈川近代文学館 |date=2021年3月 |page=37頁 |isbn=}}</ref>。




2021年4月26日 (月) 12:57時点における版

新青年
創刊号(1920年1月号)の表紙
ジャンル 総合雑誌
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 博文館
→江古田書房
→文友館
→博友社
編集長 森下雨村
横溝正史
延原謙
水谷準
上塚貞雄
→水谷準
横溝武夫
→高森栄次
刊行期間 1920年1月号 - 1950年7月号
発行部数 30,000部(1937年1月内務省警保局[1]調べ)
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19201950

1920193035-6[2]調1927215000[3]181193721319319382521000[1]

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192091[5][6][7]

10[5]1921168L.J.192221920西1920421鹿1921422192212西

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稿192151921710192211922319483[9]


19234稿

PG

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(一)19201 - 19272

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(三)192810 - 19297

(四)19298 - 193712

(五)19381 - 12

(六)19391 - 19469

(七)194610 - 19483

(八)194845 - 19507[16]


19234

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 19493 - 19503- 

194910 - 19507 - 









































































































































西

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192941Vanity Fair [17] 19305Vogue en Vogue[18] 1932[19]


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 - 西[8]

 - [8]

Ōtancino Paca Pacacino - [8]



(一)^ ab  . ︿24201112133ISBN 978-4907789-84-8 

(二)^ 21997

(三)^ 調1979101522 

(四)^   (10) ︿200227ISBN 4-334-73282-8 

(五)^ ab1991201 

(六)^ 1991104-105 

(七)^ ab1991105 

(八)^ abcdefghi1991106 

(九)^ 11952132-13919899 

(十)^ 19273

(11)^  28 ︿2006, p. 343, 345.

(12)^ ;      1241986512 

(13)^ ︿20151015383-384ISBN 978-4-8460-1478-0 

(14)^ 1973101586-95 

(15)^ 201552570-71ISBN 978-4-86011-271-4 

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(17)^ 

(18)^ 2 2006128 

(19)^  2021337 


5 1969 - 1970

5︿ 1977 - 

  1988

13 ︿

13 ︿ 2008

  2011

 2021


 1985

33  1992 

 1999

 ︿ 2000

  (10) ︿20022ISBN 4-334-73282-8 

1991


 - HP2018

 - 20081010

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