「柳田國男」の版間の差分
→外部リンク: リンク切れ修復、整理 |
|||
339行目: | 339行目: | ||
{{Portal box|日本|民俗学}} |
{{Portal box|日本|民俗学}} |
||
{{commons&cat|Kunio Yanagita|Yanagita_Kunio}} |
{{commons&cat|Kunio Yanagita|Yanagita_Kunio}} |
||
* [http://www.seijo.ac.jp/ |
* [http://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 成城大学|民俗学研究所|柳田國男について] |
||
* [http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/html/kinenkan/ 福崎町立柳田國男・松岡家記念館] |
* [http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/html/kinenkan/ 福崎町立柳田國男・松岡家記念館] |
||
* [http://www.icl.keio.ac.jp/enkaku01.html 柳田文庫(慶應義塾大学言語文化研究所)] |
* [http://www.icl.keio.ac.jp/enkaku01.html 柳田文庫(慶應義塾大学言語文化研究所)] |
||
* [http:// |
* [http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page000986.html 柳田國男記念公苑(茨城県利根町)] |
||
* [http://www.fsjnet.jp/ 日本民俗学会] |
|||
* [http://www.iida-museum.org/link/yanagida.html 飯田市美術博物館―柳田國男館] |
* [http://www.iida-museum.org/link/yanagida.html 飯田市美術博物館―柳田國男館] |
||
* [http:// |
* [http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7&viewRestricted=0 国立国会図書館デジタルコレクション検索結果] |
||
* {{青空文庫著作者|1566|柳田 国男}} |
* {{青空文庫著作者|1566|柳田 国男}} |
||
* [http://homepage1.nifty.com/yanagita/ 柳田国男の会(東京大学大学院 人文社会系研究科 社会学 佐藤健二研究室内)] |
|||
* [http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0074-10.pdf 戦前の部落史研究と柳田民俗学の周辺][[秋定嘉和]]、部落解放・人権研究所、1990.06 |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
2018年2月4日 (日) 08:38時点における版
柳田 國男 (やなぎた くにお) | |
---|---|
![]() 昭和初期 | |
誕生 |
1875年7月31日![]() (現・兵庫県神崎郡福崎町) |
死没 |
1962年8月8日(87歳没)![]() |
墓地 | 春秋苑墓地(神奈川県川崎市) |
職業 | 民俗学者、著作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
![]() |
教育 | 法学士 |
最終学歴 | 東京帝国大学法科大学政治科 |
ジャンル | 民俗学 |
主題 | 民俗学、日本思想、歴史、口承文学 |
代表作 |
『遠野物語』(1910年) 『蝸牛考』 『桃太郎の誕生』 『海上の道』 |
主な受賞歴 |
文化勲章受勲(1951年) 正三位勲一等旭日大綬章受勲 |
親族 | 本項の「家族・親族」及び「系譜」の節を参照 |
影響を受けたもの
| |
![]() |
生涯
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Kunio_yanagita02_1920.jpg/250px-Kunio_yanagita02_1920.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Kunio_Yanagita_Memorial_Park_in_Fukawa%2C_Ibaraki.jpg/250px-Kunio_Yanagita_Memorial_Park_in_Fukawa%2C_Ibaraki.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/Kunio_Yanagita_01.jpg/180px-Kunio_Yanagita_01.jpg)
生い立ち
1875年︵明治8年︶7月31日、飾磨県︵兵庫県︶神東郡田原村辻川︵現‥兵庫県神崎郡福崎町辻川︶に儒者で医者の松岡操、たけの六男︵男ばかりの8人兄弟︶として出生する。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は﹁私の家は日本一小さい家﹂だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた[1]。 父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌︵じんじゅさんこう︶や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎︵ゆうせんしゃ︶という町学校の舎主として1863年︵文久3年︶に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという[2]。 幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川︵現・利根町︶に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける[3]。徳満寺という寺では、間引き絵馬︵母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている︶を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける。また、隣家の小川家の蔵書を乱読した。16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰︵帝国大学医科大学に在学中︶と同居、図書館に通い読書を続ける。三兄の紹介で森鴎外の門をたたく。17歳の時、尋常中学共立学校︵のちの開成高等学校︶に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する[4]。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科︵現・東京大学法学部政治学科︶卒業後、明治33年︵1900年︶に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。詩人・松岡國男
井上通泰の紹介により森鴎外と親交を持ち、﹃しがらみ草紙﹄に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には﹃文學界﹄﹃國民之友﹄﹃帝國文学﹄などに投稿する。1897年︵明治30年︶には田山花袋、国木田独歩らと﹃抒情詩﹄を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた[5]。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学︵特に自然主義や私小説︶のありようを次第に嫌悪するようになっていった。民俗学の夜明け
東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた﹁怪談ブーム﹂のさなか[6]で当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して﹃遠野物語﹄を執筆する[7]。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌﹃郷土研究﹄を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。日本民俗学の確立
﹃蝸牛考﹄での﹁方言周圏論﹂、﹃郷土生活研究法﹄における﹁重出立証法﹂などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に﹁内省の学﹂として位置づけられてきた。略年譜
●1875年︵明治8年︶7月31日 - 兵庫県神東郡田原村辻川︵現・神崎郡福崎町︶に儒者・松岡操、たけの六男として生まれる。松岡家は代々の医家。 ●1884年︵明治17年︶ - 一家で兵庫県加西郡北条町︵現・加西市北条町︶に転居。 ●1885年︵明治18年︶ - 高等小学校卒業。1年間、辻川の旧家三木家に預けられ、和漢の書籍を乱読する。 ●1887年︵明治20年︶ - 兄・鼎︵かなえ︶が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村︵現・利根町︶に移住する。 ●1893年︵明治26年︶ - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町︵現・我孫子市︶に移住する。 ●1897年︵明治30年︶ - 第一高等学校︵第一高等中学校改称︶卒業。東京帝国大学法科大学入学。 ●1900年︵明治33年︶7月 - 東京帝国大学法科大学政治科卒業︵法学士︶。卒業論文は三倉の研究、これにより民衆史を知る契機となる。農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で﹁農政学﹂を講義する。 ●1901年︵明治34年︶5月 - 柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(1849-1932︶︵旧・飯田藩士︶は大審院判事を務め、義理の叔父たる安東貞美︵直平の同母弟︶は、陸軍軍人で台湾総督などを務めた[注釈 1]。 ●1902年︵明治35年︶2月 - 法制局参事官に任官。 ●1904年︵明治37年︶4月 - 柳田直平の四女・孝︵17歳︶と結婚。 ●1907年︵明治40年︶2月 - 島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。 ●1908年︵明治41年︶1月 - 兼任宮内書記官。この頃、自宅で﹁郷土研究会﹂を始める。 ●1908年︵明治41年︶10月 - 宮崎県の北西部椎葉村に住む中瀬淳︵﹁後狩詞記﹂の共著者︶へ書簡を送る[9] 。 ●1909年︵明治42年︶ - 東北を旅行し、初めて遠野を訪れた。 ●1910年︵明治43年︶6月 - 兼任内閣書記官記録課長。﹁郷土研究会﹂を発展させて、新渡戸稲造を世話人、柳田が幹事役で﹁郷土会﹂を開始[10]。 ●1911年︵明治44年︶3月 - 南方熊楠との文通[11]始まる。 ●1913年︵大正2年︶3月 - 雑誌﹃郷土研究﹄を刊行。 ●1914年︵大正3年︶4月 - 貴族院書記官長。 ●1915年︵大正4年︶11月 - 京都における大正天皇の即位式に奉仕、提言を残す︵当時は未公開︶、この年に折口信夫と出会う。 ●1919年︵大正8年︶12月 - 貴族院書記官長を辞任[12]。新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧したため、﹁郷土会﹂の活動休止[13]。 ●1920年︵大正9年︶8月 - 東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。 ●1921年︵大正10年︶ - 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。 ●1922年︵大正11年︶ - 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリヴァ︵Edmond Privat︶と交流し、自身もエスペラントを学習。 ●1923年︵大正12年︶ - 国際連盟委任統治委員、突如、辞任してを帰国︵これを契機に新渡戸との交流が途絶える[14]︶。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。 ●1924年︵大正13年︶4月 - 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。 ●1926年︵大正15年︶7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。︵日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照︶。 ●1930年︵昭和5年︶ - 宮本常一との文通始まる。1934年に宮本と直接会い、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる[15]。 ●1940年︵昭和15年︶ - 朝日文化賞受賞。 ●1946年︵昭和21年︶7月 - 枢密顧問官就任。日本国憲法審議に立ち会う︵翌年に憲法施行に伴い廃止︶。 ●1947年︵昭和22年︶3月 - 自宅書斎隣に民俗学研究所を設立︵晩年に解散︶。この年、帝国芸術院会員︵同年末日本芸術院に改称︶。 ●1949年︵昭和24年︶ ●3月 - 日本学士院会員に選任。 ●4月 - 民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。 ●1951年︵昭和26年︶ ● - 國學院大學教授に就き、神道に関する講座を担当[16]。 ●11月 - 文化勲章受章。 ●1962年︵昭和37年︶8月8日 - 午後1時頃、東京都世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去、87歳没。葬儀は12日に東京・青山葬儀所にて日本民俗学会葬として営まれる。各界から300人が参列。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士[1]。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑。栄典
●1916年︵大正5年︶1月19日 - 勲四等旭日小綬章[17] ●1920年︵大正9年︶9月7日 - 旭日中綬章[18] ●1962年︵昭和37年︶8月8日 - 贈勲一等旭日大綬章︵没時陞叙︶記念館
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Yanagita_kunio_mh01_1920.jpg/220px-Yanagita_kunio_mh01_1920.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Kunio_Yanagita_Memorial_Hall_1.jpg/220px-Kunio_Yanagita_Memorial_Hall_1.jpg)
柳田民俗学の特徴
現地調査主義
﹃郷土生活の研究法﹄︵1935年︶において﹁在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう﹂と述べている。 ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという認識が示されている。﹁常民﹂の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。 また、柳田は﹃日本民俗学﹄︵1942年︶において﹁民俗学は微細な事実の考証から出発する﹂とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。柳田國男と歴史学
和歌森太郎﹃柳田国男と歴史学﹄︵NHKブックス︶によれば、國男の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあったことが記され、國男が長野県東筑摩郡教育会で﹁青年と学問﹂と題して講演した際に、﹁自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである﹂と述べたことが紹介されている。そして﹁日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである﹂としている。 たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア︵民間伝承、民俗資料︶の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのである。 言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きてそこに存在する、そういう地域共同体として発見した。柳田批判
柳田の日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる。しかしその反面、自身の性格と手法によって切り捨てられた民俗・風習があることも指摘されている。たとえば柳田は、漂泊民、非稲作民、被差別民、同性愛を含む性愛、超国家的民俗などに言及することを意図的に避けている。そしてそれらの解明は、柳田と同時期の歴史学者である宮本常一によって、多くの先駆的研究がなされた。さらに宮本の研究は、網野善彦によって歴史学の分野でも注目を集めた。 一方、柳田を学者としてとらえるならば、その学説は適宜取捨選択されるべきものである。しかし、﹁民俗学﹂ではなく﹁柳田学﹂﹁折口学﹂﹁南方学﹂のような﹁学者学﹂に陥り、個人崇拝となる傾向が顕著である。したがって、あたかも民俗学者を文学者のごとくに捉える現在の学界のあり方も批判されている。[要出典]代表作︵一部︶
●﹃遠野物語﹄ 東北地方の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点。現行版は新潮文庫・角川ソフィア文庫・岩波文庫ほか︵話者‥佐々木喜善、﹃聴耳草紙﹄より、新版・ちくま学芸文庫︶、﹁佐々木喜善全集﹂は遠野市立博物館で編・刊行︵全4巻︶。 ●﹃蝸牛考﹄ 各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論である。言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示したものである。柳田自身は晩年になって、﹁あれはどうも成り立つかどうかわかりません﹂と発言し、方言周圏論に懐疑的になっていたといわれる。しかし、彼の死後6年経って刊行されはじめた国立国語研究所の﹃日本言語地図﹄では﹁牝馬﹂﹁もみがら﹂など、調査した言葉のおよそ27%に周圏分布が見られ、方言周圏論が有効な理論であることが確認された。 ●﹃桃太郎の誕生﹄ 昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され、多くの後継者を生み出した。︵例‥中野美代子﹃孫悟空の誕生﹄ 岩波現代文庫︶全集・文庫
●筑摩書房版﹁全集﹂の刊行一覧 ●﹃定本 柳田國男集 ︵全31巻別巻5︶﹄は、没する寸前に刊行開始され短期間で完結︵※別巻1・2巻は﹁朝日新聞論説集﹂、3巻は﹁故郷七十年[19]、同増補﹂、4巻は﹁炭焼日記・書簡﹂、5巻は﹁総索引、書誌、年譜﹂︶、1970年代前半から半ばには新装版︵函を軽くした︶が刊行。 ●1978-81年に、資料編全5巻︵内容は基本文献の項目を参照︶を加えた愛蔵版︵装丁は新装版と同一︶が刊行。1978-79年に、代表作を現行仮名遣いで読み易くした﹃新編 柳田国男集 ︵全12巻︶﹄も刊行した。 ●1989-91年に、ちくま文庫版﹃柳田国男全集 ︵全32巻、新字+現行仮名遣い︶﹄が刊行、大いに反響を呼んだ。 ●1997年秋より、新たな﹃柳田國男全集﹄を刊行開始︵新字+歴史的仮名遣い、全36巻+別巻2予定︶。著作編は十数年を経てほぼ完結︵2006年6月以降未刊だったが、2010年9月に第22巻、2014年3月に第34巻、2015年6月に第35巻が刊行︶。第36巻︵書簡集︶、別巻︵資料補遺・年譜・書誌+総索引︶が編集中 ●文庫判は、現行は岩波文庫︵一部改版︶、ちくま文庫、講談社学術文庫[20]に多数あり重版されている。2013年より角川ソフィア文庫で改訂版が多数刊行された︵没後半世紀を経て著作権が消滅したため、かつては角川文庫[21]で約20冊が刊行︶。書誌
著作の書誌解説。- 後藤総一郎編 『柳田国男をよむ 日本人のこころを知る』 アテネ書房、1995年 - 入門書
- 田中正明編・解説 『柳田國男書目書影集覧』 岩田書院、1994年
- 田中正明 『柳田國男の書物 書誌的事項を中心として』 岩田書院 2003年 - 各大著
家族・親族
友人
●島崎藤村 ●田山花袋系譜
●松岡家松岡左仲━━小鶴 ┏松岡鼎 ┃ (操と改名) ┃ ┣━━━松岡賢次 ┣松岡俊次 ┃ ┃ ┃ 中川至 ┣━━━╋松岡泰蔵(井上通泰) ┃ ┃ たけ ┣松岡芳江 (尾芝) ┃ ┣松岡友治 ┃ ┣松岡國男(柳田國男) ┃ ┣松岡静雄 ┃ ┗松岡輝夫(松岡映丘)