「鎮守府将軍」の版間の差分
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=== 多賀 === |
=== 多賀 === |
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鎮守将軍<ref name="fu">なお、本来は'''鎮守将軍'''︵あるいは'''陸奥鎮守将軍'''︶が用いられ、﹁鎮守府将軍﹂とはいわなかった。坂上田村麻呂の頃に鎮守府が移動して陸奥国府と距離ができると﹁府﹂の字を入れ﹁鎮守府将軍﹂と呼ばれるようになったといわれているが、[[正史]]である[[六国史]]では坂上田村麻呂以後も含め﹁鎮守将軍﹂と記されている。</ref>の始まりを直接記した史料はないが、知られる限りでは[[大野東人]]がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている<ref>大野東人以前は、[[和銅]]2年︵[[709年]]︶[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]に陸奥鎮東将軍に任じられた[[巨勢麻呂]]、同日征越後蝦夷将軍に任じられた[[佐伯石湯]]、[[養老]]4年︵[[720年]]︶[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]に持節征夷将軍に任じられた[[多治比縣守]]、同日持節[[鎮狄将軍]]に任じられた[[阿倍駿河]]など[[蝦夷征討]]の将軍の記録がある︵[[続日本紀]]︶。</ref>。司令部ははじめ﹁鎮所﹂、のちに﹁[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]﹂と呼ばれた。[[神亀]]元年︵[[724年]]︶に多賀︵[[多賀城]]︶に[[城柵]]が築かれてからは、その地に置かれたと推定される |
鎮守将軍<ref name="fu">なお、本来は'''鎮守将軍'''︵あるいは'''陸奥鎮守将軍'''︶が用いられ、﹁鎮守府将軍﹂とはいわなかった。坂上田村麻呂の頃に鎮守府が移動して陸奥国府と距離ができると﹁府﹂の字を入れ﹁鎮守府将軍﹂と呼ばれるようになったといわれているが、[[正史]]である[[六国史]]では坂上田村麻呂以後も含め﹁鎮守将軍﹂と記されている。</ref>の始まりを直接記した史料はないが、知られる限りでは[[大野東人]]がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている<ref>大野東人以前は、[[和銅]]2年︵[[709年]]︶[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]に陸奥鎮東将軍に任じられた[[巨勢麻呂]]、同日征越後蝦夷将軍に任じられた[[佐伯石湯]]、[[養老]]4年︵[[720年]]︶[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]に持節征夷将軍に任じられた[[多治比縣守]]、同日持節[[鎮狄将軍]]に任じられた[[阿倍駿河]]など[[蝦夷征討]]の将軍の記録がある︵[[続日本紀]]︶。</ref>。司令部ははじめ﹁鎮所﹂、のちに﹁[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]﹂と呼ばれた。[[神亀]]元年︵[[724年]]︶に多賀︵[[多賀城]]︶に[[城柵]]が築かれてからは、その地に置かれたと推定される。
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'''天平九年四月十四日''' [続紀] 737年 |
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遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂言、二月十九日、至陸奥国多賀柵<sub>一</sub>。与<sub>二</sub>鎮守将軍従四位上大野朝臣東人<sub>一</sub>、共平章。且追<sub>二</sub>常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野等六国騎兵惣一千人<sub>一</sub>。聞、山海両道夷狄等、咸懐<sub>二</sub>疑懼<sub>一</sub>。仍差<sub>二</sub>田夷遠田郡領外従七位遠田君雄人<sub>一</sub>遣<sub>二</sub>海道<sub>一</sub>、差<sub>二</sub>帰服狄和我君計安塁<sub>一</sub>遣<sub>二</sub>山道<sub>一</sub>、並以<sub>二</sub>使旨<sub>一</sub>慰喩、鎮撫之。仍抽<sub>二</sub>勇健一百九十六人<sub>一</sub>、委<sub>二</sub>将軍東人<sub>一</sub>。四百五十九人分<sub>二</sub>配玉造等五柵<sub>一</sub>。麻呂等、帥<sub>二</sub>所<sub>レ</sub>餘三百卌五人<sub>一</sub>、鎮<sub>二</sub>多賀柵<sub>一</sub>。遣<sub>二</sub>副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐<sub>一</sub>鎮<sub>二</sub>玉造柵<sub>一</sub>。判官正六位上大伴宿禰美濃麻呂鎮<sub>二</sub>新田柵<sub>一</sub>。国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮<sub>二</sub>牡鹿柵<sub>一</sub>。自餘諸柵、依<sub>レ</sub>旧鎮守。
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四月四日、軍屯<sub>二</sub>賊地比羅保許山<sub>一</sub>。先<sub>レ</sub>是、田辺難波偁、雄勝村俘長等三人来降。 |
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拝首云、承聞、官軍欲<sub>レ</sub>入<sub>二</sub>我村<sub>一</sub>、不<sub>レ</sub>勝<sub>二</sub>危懼<sub>一</sub>。故来請<sub>レ</sub>降者。
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東人曰、夫狄俘者、甚多<sub>二</sub>姧謀<sub>一</sub>。其言無<sub>レ</sub>恒。不<sub>レ</sub>可<sub>二</sub>輙信<sub>一</sub>。而重有<sub>二</sub>帰順之語<sub>一</sub>、 |
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仍共平章。難破議曰、発<sub>レ</sub>軍入<sub>二</sub>賊地<sub>一</sub>者、為<sub>下</sub>教<sub>二</sub>喩狄俘<sub>一</sub>、築<sub>レ</sub>城居<sub>上レ</sub>民。 |
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非<sub>三</sub>必窮<sub>レ</sub>兵残<sub>二</sub>害順服<sub>一</sub>。若不<sub>レ</sub>許<sub>二</sub>其請<sub>一</sub>、淩圧直進者、俘等懼怨、遁<sub>二</sub>走山野<sub>一</sub>。
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労多功少。恐非<sub>二</sub>上策<sub>一</sub>。不<sub>レ</sub>如。示<sub>二</sub>官軍之威<sub>一</sub>、従<sub>二</sub>此地<sub>一</sub>而返。然後、難破、 |
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訓以<sub>二</sub>福順<sub>一</sub>、懐以<sub>二</sub>寛恩<sub>一</sub>。然則、城郭易<sub>レ</sub>守、人民永安者也、東人以為<sub>レ</sub>然矣。 |
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又東人本計、早入<sub>二</sub>賊地<sub>一</sub>、耕種貯<sub>レ</sub>穀、省<sub>二</sub>運<sub>レ</sub>粮費<sub>一</sub>。而今春大雪、倍<sub>二</sub>於常年<sub>一</sub>。
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由<sub>レ</sub>是、不<sub>レ</sub>得<sub>三</sub>早入<sub>二</sub>耕種<sub>一</sub>。天時如<sub>レ</sub>此。已違<sub>二</sub>元意<sub>一</sub>。其唯営<sub>二</sub>造城郭<sub>一</sub>、一朝可<sub>レ</sub>成。
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而守<sub>レ</sub>城以<sub>レ</sub>人、存<sub>レ</sub>人以<sub>レ</sub>食。耕種失<sub>レ</sub>候、将何取給。且夫兵者、見<sub>レ</sub>利則為、
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無<sub>レ</sub>利則止。所以、引<sub>レ</sub>軍而施、方待<sub>二</sub>後年<sub>一</sub>、始作<sub>二</sub>城郭<sub>一</sub>、但為<sub>三</sub>東人自入<sub>二</sub>賊地<sub>一</sub>、
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奏<sub>三</sub>請将軍鎮<sub>二</sub>多賀柵<sub>一</sub>。今新道既通、地形親視。至<sub>二</sub>後年<sub>一</sub>、雖<sub>レ</sub>不<sub>二</sub>自入<sub>一</sub>、
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可<sub>二</sub>以成<sub>一レ</sub>事者。臣麻呂等愚昧、不<sub>レ</sub>明<sub>二</sub>事機<sub>一</sub>。但東人久将<sub>二</sub>辺要<sub>一</sub>、尠<sub>二</sub>謀不<sub>一レ</sub>中。
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加以、親臨<sub>二</sub>賊境<sub>一</sub>、察<sub>二</sub>其形勢<sub>一</sub>、深思遠慮、量定如<sub>レ</sub>此。謹録<sub>二</sub>事状<sub>一</sub>、伏聴<sub>二</sub>勅栽<sub>一</sub>。
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但今間無<sub>レ</sub>事、時属<sub>二</sub>農作<sub>一</sub>。所<sub>レ</sub>発軍士、且放且奏。 |
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鎮守将軍は、[[陸奥国]]と[[出羽国]]の両国に駐屯する[[兵士]]<ref>当時の[[朝廷]]の支配する地域から派遣された兵士が駐屯した。多くは[[上総国]][[下総国]]を中心とする[[東国]]の出身であった。</ref>を指揮し、平時におけるただ一人の[[将軍]]として両国の北方にいた[[蝦夷]]と対峙し両国の防衛を統括した<ref>蝦夷征討︵征夷︶の際には臨時の将軍が任じられたが、大伴家持や坂上田村麻呂の場合は自身に[[節刀]]が授けられ征東将軍や征夷大将軍として征討軍を率い、陸奥按察使の[[文室綿麻呂]]が征夷将軍に任ぜられた際には、鎮守将軍だった佐伯耳麻呂は征夷副将軍になった。</ref>。管轄地域を同じくする陸奥守や陸奥[[按察使]]が鎮守将軍を兼ね、政軍両権を併せることもしばしばあった<ref>臨時の将軍の例として他に、[[征東大将軍]]の[[紀古佐美]]︵﹃続日本紀﹄延暦7年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]条︶や、征夷大将軍の[[大伴弟麻呂]]︵﹃[[日本紀略]]﹄延暦13年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]条︶があり、征東大将軍や征夷大将軍の初見とされている。これら蝦夷征討の将軍には天皇より節刀が授けられ全権を委任されていた。</ref>。
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鎮守将軍は、[[陸奥国]]と[[出羽国]]の両国に駐屯する[[兵士]]<ref>当時の[[朝廷]]の支配する地域から派遣された兵士が駐屯した。多くは[[上総国]][[下総国]]を中心とする[[東国]]の出身であった。</ref>を指揮し、平時におけるただ一人の[[将軍]]として両国の北方にいた[[蝦夷]]と対峙し両国の防衛を統括した<ref>蝦夷征討︵征夷︶の際には臨時の将軍が任じられたが、大伴家持や坂上田村麻呂の場合は自身に[[節刀]]が授けられ征東将軍や征夷大将軍として征討軍を率い、陸奥按察使の[[文室綿麻呂]]が征夷将軍に任ぜられた際には、鎮守将軍だった佐伯耳麻呂は征夷副将軍になった。</ref>。管轄地域を同じくする陸奥守や陸奥[[按察使]]が鎮守将軍を兼ね、政軍両権を併せることもしばしばあった<ref>臨時の将軍の例として他に、[[征東大将軍]]の[[紀古佐美]]︵﹃続日本紀﹄延暦7年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]条︶や、征夷大将軍の[[大伴弟麻呂]]︵﹃[[日本紀略]]﹄延暦13年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]条︶があり、征東大将軍や征夷大将軍の初見とされている。これら蝦夷征討の将軍には天皇より節刀が授けられ全権を委任されていた。</ref>。
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2017年4月22日 (土) 00:49時点における版
鎮守府将軍︵ちんじゅふしょうぐん︶は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。