利用者:ワーナー成増/キネマ旬報バックナンバー
1973年[編集]
配給会社 | 配給本数 | 年間配給収入 | 前年対比 | 概要 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
新作 | 再映 | 洋画 | ||||
松竹 | 48 | 28億7016万円 | N/A | 製作本数を極端に減らしたことで、製作・配給面で十数年ぶりに黒字になった。前年1971年の『ある愛の詩』や『エルビス・オン・ステージ』のような大ヒット作はなかったが、正月の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』、8月の『男はつらいよ 柴又慕情』、東映から借りた加藤泰監督の『人生劇場』の3番組が記録的大ヒット、そして、リバイバルの「男はつらいよ」シリーズも好稼動。松竹は「男はつらいよ」を4 - 6週間というロングで上映する修正ブロックブッキング体制だが、懸念材料は「男はつらいよ」シリーズ以外にレパートリーがないこと。意欲作『あゝ声なき友』(今井正監督)、『故郷』(山田洋次監督)/『旅の重さ』(斎藤耕一監督)は不発。東京劇場を改築し総合ビルに衣替えすることも話題となった。 | ||
29 | 15 | 4 | ||||
東宝 | 51 | 31億1010万円 | N/A | 自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、東宝の苦しさを露呈している。監督との再契約問題や外部監督起用問題でトラブルも発生。収入源は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配も。 | ||
46 | 5 | - | ||||
東映 | 68 | 62億6253万円 | N/A | 東宝・松竹を大きく引き離してのナンバーワン。3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、後任探しに苦労している。その中で日活から移籍した梶芽衣子主演『女囚701号/さそり』は成功し、新しいシリーズが誕生。高倉健との間で再契約問題があるため、高倉主演作が少なくなり、鶴田浩二作品は興行力が落ちているので、鶴田主演作も減少。 | ||
62 | 6 | - | ||||
日活 | 72 | N/A | N/A | 1年を経過した低予算のロマンポルノは、1月の日活ロマンポルノ事件で世論があおられ、興行成績も尻上がり。映画賞でベストテン入りするような内容の作品も出てきたことで、1972年の学園祭で大モテとなった。しかし、日活の累積赤字が巨額なため、不動産売却益などで、どうにか経営を維持している状態。 | ||
71 | 1 | - |
●東宝 ●自主製作映画がすべて失敗したが、勝プロなどの外部プロとの提携作品がアベレージ以上だったため、まずまずの成績に収まった。製作部門を切り離したが成果は上がらず、未だ苦境の真っ只中。収入は不動産に依るところが大きく、将来の東宝は単なる不動産会社になるのではと要らぬ心配。 ●東映 ●3月に東映の切り札スターだった藤純子が引退したが、未だにポスト藤は育っていない。 ●松竹 ●製作本数を極端に減らしたことで、製作・配給面で十数年ぶりに黒字になった。 ●前年1971年の﹃ある愛の詩﹄や﹃エルビス・オン・ステージ﹄のような大ヒット作はなかったが、﹁男はつらいよ﹂シリーズや﹃人生劇場﹄︵加藤泰監督︶などのヒットが貢献した。 ●東京劇場の改築も話題の一つ。 ●日活 ●不動産売却益などで、どうにか経営を維持。 ●1年を経過したロマン・ポルノは内容・成績も好調。
1974年[編集]
●﹁1973年度日本映画/外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1974年︵昭和49年︶2月決算特別号、キネマ旬報社、1974年、94 - 105頁。1975年[編集]
●﹁1974年度日本映画/外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1975年︵昭和50年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1975年、104 - 117頁。1976年[編集]
●﹁1975年度日本映画/外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1976年︵昭和51年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、111 - 118頁。 ●﹁1975年度日本映画/外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1976年︵昭和51年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、118頁“入場料金は︵中略︶七六年の正月には松竹、東映がそれぞれ百 - 二百円の値上げを行ったが” ●﹁1975年度日本映画/外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1976年︵昭和51年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1976年、111頁。 ●﹃キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011﹄キネマ旬報社︿キネマ旬報ムック﹀、2012年5月。ISBN 978-4873767550。注釈
出典
1977年[編集]
注釈
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1978年[編集]
2月下旬号[編集]
- 「1977年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)2月下旬号、キネマ旬報社、1978年、118 - 125頁。
- 「1977年邦画四社<封切配収>ベスト5」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)2月下旬号、キネマ旬報社、1978年、124頁“全国配収ではありません!!”
注釈
出典
9月上旬号[編集]
- 冷泉さとし「「野性の証明」アメリカ・ロケ 体験ルポ」『キネマ旬報』1978年(昭和53年)9月上旬号、キネマ旬報社、1978年、102 - 105頁。
- アメリカ合衆国カリフォルニア州パソ・ロブレス
- 米軍演習場キャンプ・ロバーツ、連日40度超炎天下
- 1978年7月18日、19日にラストシーンの撮影
- 日本側スタッフ16名+アメリカ側スタッフ40名
- 戦車9台、ジェットヘリ5台、本物の銃火器
- 特殊工作隊員役の20名
野性軍団[編集]
キャンプ・ロバーツ[編集]
注釈
1979年[編集]
- 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、118 - 125頁。
- 「1978年邦画四社<封切配収ベスト5>」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、124頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト4」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、123頁“註・〔1978年〕12月末現在。最終配収ではありません。”
(前略)値上げムードも「スター・ウォーズ」の一五〇〇円で静かに進んでおり、(後略)
— 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、118頁。
これまで、入場者数の減少をカバーしてきた入場料金は六月に公開された「スター・ウォーズ」の一、五〇〇円を唯一の例外として、(後略) — 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1979年(昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社、1979年、124頁。
注釈
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1980年[編集]
- 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、118 - 125頁。
- 「1979年邦画四社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、124頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、123頁“註・〔1979年〕12月末現在。最終配収ではありません。”
他動的要素として、七九年上半期に吹き荒れた"インベーダー・ゲーム"に、映画、出版、音楽といった産業がダメージを受けたといわれているが、(後略)
ここ数年の傾向として、映画にアカデミックな要素を求めることを大衆がしなくなり、ジャーナリスティックな話題性を持つ作品だけが大きくクローズ・アップされている。 — 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、118頁。
一九七七年に角川映画「犬神家の一族」のヒットにより本格的にスタートを切った一本立大作路線も三年目を迎えて、(中略)これに伴い興行、配給形態の変化が一気に表面化してきた。
— 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1980年(昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社、1980年、119頁。
注釈
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1981年[編集]
2月下旬号[編集]
- 「1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、112 - 119頁。
- 「1980年邦画四社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、118頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト10作品」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、117頁“註・〔1980年〕12月末現在。最終配収ではありません。”
︵前略︶夏には、これ︹百恵・友和シリーズ︺にかわって﹁翔んだカップル﹂﹁まことちゃん﹂が公開され、”百恵・友和”シリーズには及ばなかったものの善戦した。 — ﹁1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1981年︵昭和56年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、116頁。 ︵前略︶七七年に角川映画﹁犬神家の一族﹂で本格的なスタートを切った一本立大作路線がごく普通の興行システムになり、観客からみれば当時の物珍しさが完全に払拭されたこともあって、1本立イコール大作というイメージがまったく無くなったということである。 — ﹁1980年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1981年︵昭和56年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、113頁。
注釈
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10月下旬号[編集]
●八森稔﹁﹁セーラー服と機関銃﹂撮影現場訪問記﹂﹃キネマ旬報﹄1981年︵昭和56年︶10月下旬号、キネマ旬報社、1981年、139 - 143頁。田中陽造[編集]
楽しんでやれた仕事です。︵中略︶一人の少女が社会にむかって一歩をすすめていくひと月あまりの話ということを基本に置いて、喜劇だがシリアス・ドラマの考えでやりました。シリアスにしないと笑いがでませんから。少女も、周りのヤクザも全員必死だけど世界感は違う。そこが笑いになれば上等なものになるんじゃないでしょうか。…… — 田中陽造 、八森稔﹁﹁セーラー服と機関銃﹂撮影現場訪問記﹂﹃キネマ旬報﹄1981年︵昭和56年︶10月下旬号、キネマ旬報社、1981年、139 - 140頁。注釈
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1982年[編集]
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
上旬号 | ○ | ○ | ○ | ○ | ● | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
下旬号 | ○ | ● | ○ | ● | ● | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
2月下旬号[編集]
●﹁1981年邦画4社<封切配収ベスト作品>﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、124頁。 ●﹁邦画フリーブッキング配収ベスト9作品﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、123頁。 ●﹁1981年度日本映画・外国映画業界総決算 外国映画﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、130頁。 ●﹁1981年映画物故人リスト﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、115頁。 ●﹁81年映画界10大ニュース選出﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、116 - 117頁。 ●入場者数1億4945万人[1] - 1億5000万人を下回るワースト記録[2]。︹ただし、1987年にはワースト記録を更新する。︺ キネマ旬報は、レジャーの多様化や慢性化する構造不況、また、一般大衆が映画に対する興味を失い、映画の観客が若者中心となったことを原因に挙げている[2]。 出典:﹁1981年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、118 - 125頁。4月下旬号[編集]
●﹁興行価値 日本映画 成功するか大作2本立﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶4月下旬号、キネマ旬報社、1982年、180 - 181頁。5月上旬号[編集]
●﹁(広告)ATG創立20周年記念新作2本立て特別上映﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶5月上旬号、キネマ旬報社、1982年、3 - 4頁。5月下旬号[編集]
●﹁映画界の動き ﹃典子は、今﹄にグランプリ﹂﹃キネマ旬報﹄1982年︵昭和57年︶5月下旬号、キネマ旬報社、1982年、178頁。注釈
出典
1983年[編集]
1984年[編集]
- 「1983年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、116頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、115頁。
- 「1983年 映画物故人リスト」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、210 - 211頁。
注釈
出典
1985年[編集]
- 「1984年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、120頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、119頁。
注釈
出典
1986年[編集]
- 「1985年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、128頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、127頁。
注釈
出典
1987年[編集]
- 「1986年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、130頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、129頁。
注釈
出典
1988年[編集]
●﹁1987年邦画4社<封切配収ベスト作品>﹂﹃キネマ旬報﹄1988年︵昭和63年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、192頁。 ●﹁邦画フリーブッキング配収ベスト作品﹂﹃キネマ旬報﹄1988年︵昭和63年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、191頁。 ●入場者数1億4394万人[1] - 1981年︵昭和56年︶の1億4945万人を下回る︹1988年までの︺ワースト記録[2]。レンタルを含むビデオソフトの影響が、特にヤング層の劇場離れを生じさせたとキネマ旬報は分析している[2]。 ●ハチ公物語 ●ドラえもん のび太と竜の騎士 ●竹取物語 ●男はつらいよ 知床慕情など ●マルサの女 ●次郎物語 ●男はつらいよ 幸福の青い鳥など ●ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲など 出典:﹁1987年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1988年︵昭和63年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、186 - 192頁。注釈
出典
1989年[編集]
- 「1988年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1989年(平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、172頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1989年(平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、171頁。
注釈
1990年[編集]
●﹁1989年邦画3社<封切配収ベスト作品>﹂﹃キネマ旬報﹄1990年︵平成2年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、176頁。 ●﹁邦画フリーブッキング配収ベスト作品﹂﹃キネマ旬報﹄1990年︵平成2年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、175頁。 ●入場者数1億4357万人[1] - 1987年︵昭和62年︶の1億4393万人を下回る︹1990年までの︺ワースト記録[2]。レンタルビデオの影響が大きく、また、前年からの昭和天皇のご闘病での自粛ムード、消費税導入など、映画が一般の話題になる余地がなかった[2]。ただし、入場料金の値上げがあったため興行収入は約3パーセントのアップ[2]。注釈
出典
1991年[編集]
- 「1990年邦画3社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1991年(平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、144頁。
- 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1991年(平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、143頁。
1992年[編集]
- 「1991年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。
- 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、143頁。
一九九一年の年間入場者数は一億三八三三万〇千人で、過去史上最低であった八九年の一億四三五七万三千人をわずかに下回った。 — ﹁1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1992年︵平成4年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。 1989年の年間入場者数︵1億4357万人︶を下回る戦後最低記録となった[1]。︹ただし、翌1992年にワースト記録を更新する。︺キネマ旬報によれば、洋画が配給収入を大きく減少させたことが原因で、米国映画興行が低調だったことと連動していると分析している[2]。米国内のメディアの多様化と米映画界が大作連打主義から低予算映画へ転換したことを理由として挙げている[2]。注釈
出典
1993年[編集]
- 「1992年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、148頁。
- 「日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147頁。
- 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147 - 148頁。
一般料金で一八〇〇円の劇場が初めて登場し、その数は四七館である。 — ﹁1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1993年︵平成5年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、147 - 148頁。 ︵前略︶、年間入場者数が一億二五六○万人と史上最低だった。前年を更に下回る成績で、一億三八三三万人より二七三万人、パーセンテージにして九・二%の下降で戦後最低を記録した。 — ﹁1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1993年︵平成5年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、143頁。 戦後最低を記録した前年︵1億3833万人︶よりも273万人減︵9.2%減︶となり、2年連続戦後最低となった[1]。︹ただし、1994年にワースト記録を更新する。︺邦画が281億3400万円と前年比1.1%増の配給収入となったのに対し、洋画は前年比11.5%減の342億2700万円となった[1]。洋画の中で大きなシェアを持つ米国映画が、高騰する製作費を抑えるために大作連打主義から低予算映画中心の製作体制に変更したことが影響している[1]。注釈
- 7月1日
注釈
1995年[編集]
- 「1994年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1995年(平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、156頁。
- 「1994年日本映画フリーブッキング作品配給収入」『キネマ旬報』1995年(平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、155頁。
1992年︵平成4年︶の1億2560万人を下回るワースト記録。︹ただし、1996年にはワースト記録を更新する。︺ 出典:﹁日本映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1995年︵平成7年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、154 - 156頁。1996年[編集]
●﹁1995年邦画作品配給収入﹂﹃キネマ旬報﹄1996年︵平成8年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1996年、161頁。 出典:﹁日本映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1996年︵平成8年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1996年、159 - 160頁。1997年[編集]
●﹁1996年邦画作品配給収入﹂﹃キネマ旬報﹄1997年︵平成9年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、157頁。 1994年︵平成6年︶の1億2299万人を下回るワースト記録。 出典: ﹁日本映画業界決算﹂﹃キネマ旬報﹄1997年︵平成9年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、155 - 157頁。 ︵前略︶、年間入場人員が一億一九五七万五千人で、前年より、七四七万人、パーセンテージにして九四・一%のダウンとなった。 これは過去最低であった九四年を三四二万人下回り、最低記録を更新した。 — ﹁日本映画業界決算﹂﹃キネマ旬報﹄1997年︵平成9年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、157頁。 ●入場者数1億1958万人[1] - 1994年の年間入場者数︵1億2299万人︶を下回る戦後最低記録となった[2]。減少した入場者数に反比例するように、映画館数は、外資も含めたシネマコンプレックスの展開に伴い、前年比52館増となった[3]。 ●興行収入 1488億7000万円[1] 九五年は邦画がアニメーションの凋落によりダウンしたものの、洋画に﹁ダイ・ハード3﹂﹁スピード﹂といった配収五十億円に迫るビッグヒット作品があり︵中略︶ — ﹁1996年度日本映画・外国映画業界総決算﹂﹃キネマ旬報﹄1997年︵平成9年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1997年、151頁。
注釈
出典
1998年[編集]
1999年[編集]
2000年[編集]
2001年[編集]
- 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、150頁。
- 「映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、221- 131頁。
- 「2000年 映画界物故人」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、232 - 233頁。
大店立地法[編集]
2000年の303という増数は、これまで最も大きく、この背景には、2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法︵大店立地法︶が、2001年1月末までに開業すると、この対象とならないということがある。 — ﹁2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2001年︵平成13年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、143頁。 2001年1月末までの開業なら適用外となるのでショッピング・センターやスーパーマーケットの駆け込み出店が相次ぎ、併設のシネマコンプレックスも急増した[1]。前年比303スクリーン増加は新記録[1]。興行収入[編集]
日本においては、1999年までは映画の興行成績発表には配給収入が使われていたが、2000年から興行収入の発表に切り替えられた[2]。配給収入と興行収入を誤解しているケースが多かったこと、映画産業データが分かりやすくなること、配給収入での発表は日本映画界の閉鎖性と不透明さの象徴だったこと、また、世界の映画界では興行収入でデータ発表をしていることを関係者は変更理由に挙げている[2]。大ヒットの基準である配給収入10億円以上の作品の発表も廃止された[2]。 キネマ旬報によれば、1999年までは配給収入10億円以上が大ヒットの基準だった[3]。できごと[編集]
●1月 - 米メジャー5社、東宝東和、日本ヘラルド映画、ギャガ・コミュニケーションズ、松竹が配給収入発表から興行収入発表に切り換える[4]。 ●1月9日 - 第5回東宝シンデレラ決戦大会が開かれ、長澤まさみがグランプリ、審査員特別賞に大塚ちひろ[5]。 ●3月11日 - 日劇プラザで封切られた﹃トイ・ストーリー2﹄が日本初のDLPプロジェクターによるデジタルシネマとして上映[6]。 ●3月24日 - 松竹の経営再建3か年計画の一環で行われた希望退職募集に80名が応募[4]。 ●4月22日 - 都内初のシネマコンプレックス﹁シネマ・メディアージュ﹂がオープン[7]。 ●5月16日 - 東映が﹁ティ・ジョイ﹂の設立を発表する[7]。 ●6月30日 - 64年の歴史を持つ松竹大船撮影所が閉鎖[8][9]。 ●9月 - 東宝、東映も興行収入発表に切り換える[4]。 ●9月20日 - 中国を舞台にした﹃未完の対局﹄・﹃敦煌﹄や﹃風の谷のナウシカ﹄から﹃もののけ姫﹄までのジブリ作品の製作総指揮、また、東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務めた徳間康快︵78歳︶が肝不全で死去[10][11]。 ●9月22日 - 第7回平壌国際映画祭に﹃十五才 学校IV﹄で特別招待された山田洋次監督が帰国報告会見[11]。 ●9月27日 - 正月映画に予定されていた﹃チキン・チキン・ラン・ラン﹄の日本配給権が、公開予定していたUIPではなく韓国のCJエンターテイメントにあることが判明し、﹃チキン・チキン・ラン・ラン﹄は﹃チキンラン﹄に改名され、CJエンターテイメント、シネカノン、アミューズ・ピクチャーズの共同配給で2001年春に公開されると発表[11]。 ●10月5日 - 10月7日から公開予定だった﹃エクソシスト <ディレクターズ・カット版>﹄が観客に見せるクオリティに達していないとのウィリアム・フリードキン監督の意向で公開延期になる[12]。ついに11月23日に封切られ正月シーズンまで続くロングランヒットとなる[13]。 ●11月17日 - 衆議院文教委員会で民主党の石井紘基により﹃バトル・ロワイアル﹄︵小説・映画︶の暴力描写が青少年に与える影響を懸念する問題提起がなされる[14]。その後、政治家や大臣、深作欣二監督、東映、映倫を巻き込んだ論争となり、映画﹃バトル・ロワイアル﹄は大ヒットする[14]。参考文献[編集]
●﹁2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2001年︵平成13年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。 ●﹁コラムでふりかえる2000年映画界10大ニュース﹂﹃キネマ旬報﹄2001年︵平成13年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。 ●﹁2000年映画界の出来事﹂﹃キネマ旬報﹄2001年︵平成13年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2001年。注釈
出典
- ^ a b 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、143頁。
- ^ a b c 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。
- ^ 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、144頁。
- ^ a b c 業界総決算 2001, p. 144.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 222.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 224.
- ^ a b 映画界の出来事 2001, p. 225.
- ^ 10大ニュース 2001, p. 222.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 226.
- ^ 10大ニュース 2001, p. 226.
- ^ a b c 映画界の出来事 2001, p. 228.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 229.
- ^ 映画界の出来事 2001, p. 231.
- ^ a b 10大ニュース 2001, p. 228.
2002年[編集]
●﹁2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、138頁。 ●﹁2001年 映画界物故人﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、188 - 189頁。 出典:﹁2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、137 - 138頁。できごと[編集]
●3月31日 - 大阪市にテーマパークのユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープン[1]。 ●6月26日 - 映倫は再審要求が出ていたフランス映画﹃ロマンスX﹄を配給するプレノンアッシュに対し、改めて性行為や出産シーンに修正を加えることを要求[2]。 ●7月20日 - ﹃千と千尋の神隠し﹄が全国336館で封切られ、オープニングの週末成績は﹃もののけ姫﹄の184%[3]。 ●9月9日 - 相米慎二監督︵53歳︶が肺がんのため死去、遺作は1月公開の﹃風花﹄[4][5]。 ●9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件が発生[6]。 ●事件を連想させる内容のため公開が延期されたり︵﹃コラテラル・ダメージ﹄・﹃ビッグ・トラブル﹄・﹃ブラックホーク・ダウン﹄︶、ニューヨークで撮影中だったため日米で公開延期︵﹃ギャング・オブ・ニューヨーク﹄︶、世界貿易センタービルが見えるシーンがカットされたり︵﹃ズーランダー﹄など︶、撮影が延期され内容の見直しが行われた映画もあった[6][7]。 ●ハリウッド映画人の来日中止が相次ぐ[7]。 ●米国の空港閉鎖のため、﹃トゥームレイダー﹄の宣伝で初来日したアンジェリーナ・ジョリーが日本に足止めになる[8]。 ●9月21日 - ﹃太陽を盗んだ男﹄︵長谷川和彦監督、1979年︶のDVDが発売される[7]。 ●9月26日 - マイカルが民事再生法の適用申請したことについて、ワーナー・マイカル・シネマズが自社の業務継続に何の支障もないと声明発表[7]。 ●10月1日 - 三鷹市にスタジオジブリの﹁三鷹の森ジブリ美術館﹂がオープン[7]。 ●11月10日 - ﹃千と千尋の神隠し﹄が﹃タイタニック﹄の260億円を抜いて興行収入新記録を達成[9]。 ●12月1日 - 全国645館で﹃ハリー・ポッターと賢者の石﹄が封切られ、﹃A.I.﹄の週末2日間の観客動員記録と﹃スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス﹄の週末2日間の興行収入記録を抜いて新記録を達成[10]。周年[編集]
●創業10周年 ●ワーナー・マイカル・シネマズ - 入場料金を1,000円とする﹁CINEMA EXPO10﹂を開催[1]。カリオストロの城[編集]
東京ロケーションボックス[編集]
●4月20日 - 映画・テレビドラマ等の都内での円滑なロケ撮影をサポートする﹁東京ロケーションボックス﹂が都庁内に開設される[13]。外国映画の利用第1号はリュック・ベッソン監督の﹃WASABI﹄[3]。参考文献[編集]
●﹁2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。 ●﹁コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。 ●﹁2001年映画界の出来事﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年。注釈
出典
- ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 179.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 182.
- ^ a b 映画界の出来事 2002, p. 183.
- ^ 10大ニュース 2002, pp. 179–180.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 184.
- ^ a b 10大ニュース 2002, pp. 176–177.
- ^ a b c d e 映画界の出来事 2002, p. 185.
- ^ 映画界の出来事 2002, pp. 184–185.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 186.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 187.
- ^ a b 「コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース」『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、181頁。
- ^ 業界総決算 2002, p. 131.
- ^ 映画界の出来事 2002, p. 180.
2003年[編集]
●﹁2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2003年︵平成15年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、140頁。 修正前 2002年の﹃ロード・オブ・ザ・リング﹄に抜かれるまで松竹の興行成績の記録を保持していた[1]。修正後 2002年の﹃ロード・オブ・ザ・リング﹄に抜かれるまで松竹の歴代興行収入︵配給収入︶1位だった[1][2]。 出典:﹁2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2003年︵平成15年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、139 - 140頁。 ●﹁映画界10大ニュース﹂﹃キネマ旬報﹄2003年︵平成15年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、179 - 189頁。 ●4月30日 - 新宿昭和館が70年の歴史の幕を閉じた[3]。 ●5月 - 東宝は高井英幸、東映は岡田祐介が社長に就任する[4]。 ●9月 - 大映が角川書店に買収され、角川大映映画として再出発することになった[5]。注釈
出典
2004年[編集]
2005年[編集]
興行成績[編集]
ALWAYS[編集]
﹃リターナー2﹄をやろうかなんて話もあったんですが、いろいろ企画を考えていく中で、ROBOTの阿部︵秀司︶社長が﹃昭和物がやりたい﹄とずっとおっしゃっていたんです。︵中略︶ある日、﹃三丁目の夕日﹄を切り口に昭和ものをやるのはどうかというアイディアを聞かされて、それはいいんじゃないかと思ったんです。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 西岸良平さんの原作コミックは大好きで、それなら普通に人情物ができるんじゃないか、と。人情物をいつかやってみたいという思いは以前からあったんですけど、現代で人情物をやろうとすると、どうしてもどこかで照れちゃうじゃないですか。それが昭和30年代という話の中でなら普通にできそうだから、﹃それはいいかもしれないですね﹄と返事をしたんですけど、その時は﹁俺がやる!﹂というほどの力では言ってなかったはずなんですよ︵笑︶。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 それは不安でしたよ。僕は昭和33年を知らないのに、時代劇と違って、その時代を知っている人たちはたくさんいるわけですからね。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55頁。 最初はロケで撮れるなと思って場所を探したんですけど、映画で使えるほどの広い範囲で当時の雰囲気が残っているところは、日本中探してもないんです。セットとCGで再現するしかない。基本的にはちょっとした街角で起きる人情話なのに、ものすごく予算がかかるわけで、それがエンターテイメントとして成立するかというところで、かなり悩みました。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、55 - 56頁。 でも﹁よく僕に撮らせようと思ったな﹂とは思いますけどね︵笑︶。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 ●“昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。 西岸良平の人気コミック﹁三丁目の夕日﹂︵小学館・週刊ビッグコミックオリジナルにて連載中︶が﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂として映画化される事が決定。12月2日、撮影が進む東宝スタジオ︵東京・成城︶にて会見が開かれ︵後略︶ — “昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。 会見終了後に、主人公たちが暮らす街並のセットが公開されたが、総工費4億円をかけて建築されたという精巧ぶりに、詰め掛けたマスコミから感嘆の声が上がった。 — “昭和30年代を完全再現!あの人気コミックが映画化”. 映画.com (2004年12月7日). 2017年3月27日閲覧。 素晴らしいセットができ上がってきて、監督としての僕はすごく嬉しかったんですけど、その反面、CGチームの一員でもある僕は、恐怖も感じました。というのは、この見事なセットに見合うだけの街並みのロングショットを、僕らはCGで作らなきゃいけない。美術部の努力を僕らが無駄にするわけにはいかないので、﹃大変なことになったな﹄と。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 最初はほとんどのお芝居をスタジオの中のセットで撮ることに抵抗もあったんです。嘘っぽくなっちゃうんじゃないか、と。ところが、照明部がものすごく頑張ってくれて、たとえば、夏のシーンなんか、モニターを覗いていると、夏の真っ昼間に外で撮っている画面にしか見えないんですよ。スタジオの天井が写っていると、天井のほうが偽物みたいな感じがする。映画の魔法を体験できました。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、56頁。 ︵前略︶カメラはどんな撮り方をしてもいい、という前提でやっていたんです。︵中略︶スタッフ全員が昭和33年にタイムトラベルして、現地でロケしているというつもりだった。だから、カメラが路地の向こうに出て行こうが、クレーンで動いてセットの奥がバレようが、天井が写り込もうが、それも全部OK。﹃マズいところは、あとでなんとかしますから﹄と言って、一切制約を作らなかった。︵後略︶ — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 昭和30年代の映画は、参考にしようと思ってたくさん見ましたね。その頃の映画の匂いを可能な範囲で写し取りたいという気持ちはありました。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 原作の﹃三丁目の夕日﹄自体は、短いエピソードの積み重ねじゃないですか。そのままだと﹃ひとつひとつの話は面白いけど、ブツ切れだね﹄と言われちゃうと思うんですよね。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 ﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂と。︵中略︶﹁スタッフもこの時代を知らない世代がほとんどだったので、みんなそんなふうに思って頑張っていたとおもいますよ。﹂ — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。 オールラッシュの時だったんですけど、この当時を知っている製作委員会の人たちが、見終わってから﹁あの頃は、ああでこうで……﹂という話を延々としているんですよ。映画の感想じゃなくて︵笑︶。完全に記憶再生装置になっていて、もし日本中の映画館でそういう光景が繰り広げられるとしたら、すごく幸せだな、と。 — 山崎貴﹁自分の親に見てもらいたい映画を作ろうと思った﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、57頁。注釈
出典
映画評論家[編集]
よくまあこれほど念入りに昭和33年らしさを再現したものだと感心した。CGの活用の仕方の、ひとつの里程標となる作品だといっていい。 — 佐藤忠男﹁CGの使い方のひとつの里程標となる作品﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、58頁。 ともあれ、あの時期、つまり高度経済成長の時期を大きな区切りとして日本の人情風俗は大きく変化したし、それがいちいち正確に描けているかどうか、これほど気になる映画というのも珍しい。それというのも風俗の描写がそれだけ緻密でよく出来ているからである。 — 佐藤忠男﹁CGの使い方のひとつの里程標となる作品﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、58頁。 ●佐藤忠男﹁CGの使い方のひとつの里程標となる作品﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、58頁。 むろん、ただ再現しただけでは当時の作品に敵わない。昭和33年を舞台にした﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂の特徴は、子供の視点から再現していることだろう。 昭和33年だって問題が山積みしていたに相違ない。しかし、こどもの視点に立ったこの映画では、大人なら見える汚い部分は捨象され、すべてが夢と希望に満ちている。当時の子供とは、言うまでもなく現代の大人である。 — 石飛徳樹﹁﹃時間の経過﹄というスパイスが引き起こす魔術﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 当時の私たちは、不治の病や記憶喪失がなくても、感動の涙を流すことが出来た。皮肉たっぷりのパロディーでなくても、腹の底から笑うことが出来た。この映画が本当に再現しているのは、人々のそんな素朴な心の動きなのだ。 — 石飛徳樹﹁﹃時間の経過﹄というスパイスが引き起こす魔術﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 観客を笑わせるために、あるいは泣かせるために、この映画がやっているのは極めて単純なことだ。原因と結果の間に時間を置く、それだけだ。しかし、それだけで、ただの﹁原因﹂が高度な﹁伏線﹂に変わる。 — 石飛徳樹﹁﹃時間の経過﹄というスパイスが引き起こす魔術﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。 ●石飛徳樹﹁﹃時間の経過﹄というスパイスが引き起こす魔術﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶11月下旬号、キネマ旬報社、2005年、59頁。封切[編集]
●掛尾良夫﹁BOX OFFICE REPORT 日本 ﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂という野心的作品の成功﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、172 - 173頁。 ●掛尾良夫﹁BOX OFFICE REPORT 日本﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶1月上旬号、キネマ旬報社、2005年、174頁。 ●“吉岡、小雪も大感激! D-51が目前でライブ︻第18回東京国際映画祭︼”. シネマトゥデイ (2005年10月25日). 2017年3月27日閲覧。 ●“国内映画ランキング(2005年11月5日〜2005年11月6日)”. 映画.com (2017年11月8日). 2017年3月27日閲覧。 ●“国内映画ランキング(2005年11月12日〜2005年11月13日)”. 映画.com (2017年11月15日). 2017年3月27日閲覧。 ●“国内映画ランキング(2005年11月19日〜2005年11月20日)”. 映画.com (2017年11月22日). 2017年3月27日閲覧。 泣ける、と評判の﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂が見事首位デビュー。公開2日間の成績は、動員が16万4023人、興収で2億1418万円というもの。東宝のリサーチによると、40代の観客が37%でもっとも多いという。これはちょっとした驚きだ︵以下、50代22%、20代15.6%、30代14.5%︶。 — “国内映画ランキング(2005年11月5日〜2005年11月6日)”. 映画.com (2017年11月8日). 2017年3月27日閲覧。 ﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂が今週も強い。この週末は、2日間で2億1600万円と前週末以上の興収を記録するなど、予想以上のハイ・パフォーマンスを見せている。このまま行けば、1週先に公開された﹁春の雪﹂を上回るのは確実で、最終的に興収20億円に達する可能性も十分ある。 — “国内映画ランキング(2005年11月12日〜2005年11月13日)”. 映画.com (2017年11月15日). 2017年3月27日閲覧。 続映作品では、﹁三丁目の夕日﹂﹁消しゴム﹂﹁ブラザーズ・グリム﹂の上位陣がトップ3の座をキープした。 — “国内映画ランキング(2005年11月19日〜2005年11月20日)”. 映画.com (2017年11月22日). 2017年3月27日閲覧。外部リンク[編集]
●“﹃ALWAYS 三丁目の夕日﹄特集‥﹃ALWAYS 三丁目の夕日﹄3部作で見る昭和と人情ドラマ”. シネマトゥデイ (2014年5月23日). 2017年3月27日閲覧。できごと[編集]
●3月17日 - 角川ホールディングスが日本ヘラルド映画の完全子会社化を発表する[1]。 ●9月7日 - インデックスが日活を買収することを発表する[2]。 ●12月10日 - 丸の内ルーブルがネーミングライツを久光製薬に売却し、サロンパス ルーブル丸の内に改称された[3]。 ●11月26日 - 大型新人女優発掘オーディション﹁松竹STAR GATE﹂で海老瀬花子がグランプリ[4]。 ●12月4日 - 角川映画とソニー・ミュージックエンタテインメントの共同企画﹁スーパー・ヒロイン・オーディション ミス・フェニックス﹂で蓮佛美沙子がグランプリ[4]。 ●12月9日 - 新藤兼人賞の授賞式が行われた。金賞は﹃真夜中の弥次さん喜多さん﹄の宮藤官九郎[5]。注釈
出典
(一)^ ﹁トピック・ジャーナル﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、168頁。 (二)^ “インデックスが日活を買収”. 日経BP社 (2005年9月7日). 2017年4月1日閲覧。 (三)^ ﹁トピック・ジャーナル﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、186頁。 (四)^ ab﹁WORLD NEWS 日本﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶1月上旬号、キネマ旬報社、2005年、18頁。 (五)^ ﹁WORLD NEWS 日本﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、18頁。2006年[編集]
●掛尾良夫﹁BOX OFFICE REPORT 日本 2006年正月興行、前半戦の状況﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶1月下旬号、キネマ旬報社、2006年、188頁。 ●﹁2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、178頁。 ●﹁コラムでふりかえる2005年映画界10大ニュース﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、215 - 225頁。 ●シネコンを展開するヘラルド・エンタープライズを傘下に収めたことで、角川グループが製作・配給・興行まで行う邦画第4のメジャーとなった[1]。 ●7月24日、豊田利晃監督が覚せい剤取締法違反︵所持︶で現行犯逮捕される[2]。豊田監督の映画﹃空中庭園﹄は公開延期、または、お蔵入りの可能性もあったが、公開を望む声に応えて10月に公開された[2]。 ●東京日比谷の東宝本社ビルの改築のため、下記2館が閉館する。 ●3月31日、みゆき座︵宝塚ビルのスカラ座2が﹁みゆき座﹂と改名することで名称のみ残る︶ ●4月8日、日比谷映画︵旧千代田劇場︶[3] 出典:﹁2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、177 - 178頁。 ●﹁WORLD NEWS 日本﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、19頁。2006年3月、シネマヴェーラ渋谷で﹁女優 薬師丸ひろ子の軌跡﹂と題する特集上映が行われた[4]。 ●安西水丸﹁安西水丸の4コマ映画館 ︵125︶懐しき昭和三十三年の頃 ﹁ALWAYS 三丁目の夕日﹂﹂﹃キネマ旬報﹄2006年︵平成18年︶3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、124頁。 イラストレーターの安西水丸は﹃ホテル・ルワンダ﹄が満員だったので仕方なく鑑賞した[5]。役者達の演技は皆よかったが、鈴木一平役の小清水一輝と母親役の薬師丸ひろ子が印象的だったと書いている[5]。2007年[編集]
●﹁2006年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2007年︵平成19年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2007年、184頁。 出典:﹁2006年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2007年︵平成19年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2007年、185頁。2008年[編集]
●﹁2007年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2008年︵平成20年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2008年、164頁。 出典:﹁2007年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2008年︵平成20年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2008年、164 - 165頁。2009年[編集]
●﹁2008年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2009年︵平成21年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2009年、172頁。 出典:﹁2008年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2009年︵平成21年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2009年、173頁。2010年[編集]
●﹁2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2010年︵平成22年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、173頁。 出典:﹁2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2010年︵平成22年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、172 - 174頁。 ●一般入場料金は18年間据え置かれている[6]。注釈
出典
- ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 217.
- ^ a b 映画界10大ニュース 2005, p. 221.
- ^ 映画界10大ニュース 2005, p. 224.
- ^ 「WORLD NEWS 日本」『キネマ旬報』2006年(平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、19頁。
- ^ a b 安西水丸「安西水丸の4コマ映画館 (125)懐しき昭和三十三年の頃 「ALWAYS 三丁目の夕日」」『キネマ旬報』2006年(平成18年)3月下旬号、キネマ旬報社、2006年、124頁。
- ^ 「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」『キネマ旬報』2010年(平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、174頁。
2011年[編集]
●﹁2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2011年︵平成23年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2011年、190頁。 出典:﹁2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2011年︵平成23年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2011年、189頁。 ●一般入場料金は19年間据え置かれている[1]。注釈
2012年[編集]
2013年[編集]
2014年[編集]
2015年[編集]
2016年[編集]
- 「2015年 日本映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2016年(平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、44頁。
- 「各社2015年の動向を見る」『キネマ旬報』2016年(平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、70 - 74頁。
2017年[編集]
2月下旬号[編集]
3月下旬号[編集]
- 「2016年日本映画・外国映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2017年(平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、42 - 43頁。
- 「各社2016年の動向を見る」『キネマ旬報』2017年(平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、66 - 70頁。
注釈
出典
2018年[編集]
3月下旬号[編集]
注釈
7月下旬号[編集]
8月上旬号[編集]
8月 - 前年8月に公開された﹃宇宙戦艦ヤマト﹄が ﹃さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち﹄の宣伝を兼ねて、フジテレビ系のゴールデン洋画劇場で放送される[1]。これは、劇場公開から最低でも2年の間隔をあけてからテレビ放送︹地上波放送︺するという業界ルールが無視された形[1]。同様に、10月には角川映画﹃人間の証明﹄が同じゴールデン洋画劇場で放送された[1]。 増當 そういえば映画のTV放送のスパンが最低2年だったのが、1年になるのも78年の事件でした。 三留 邦画だと﹁さらば宇宙戦艦ヤマト﹂公開の前日に﹁宇宙戦艦ヤマト﹂、﹁野性の証明﹂(78)公開前日に﹁人間の証明﹂が、それぞれフジテレビ系のゴールデン洋画劇場で放送されました。 — 宮崎祐治、三留まゆみ、増當竜也﹁70年代日本映画を語る﹂﹃キネマ旬報﹄2018年︵平成30年︶8月上旬特別号、キネマ旬報社、2018年、22頁。注釈
1月上旬号[編集]
●﹁1980年代日本映画ベストテン﹂﹃キネマ旬報﹄2019年︵平成31年︶1月上旬特別号、キネマ旬報社、2018年、8 - 59頁。2019年[編集]
3月下旬号[編集]
●入場者数1億6921万人 ●興行収入 2225億1100万円 - 興行収入発表となった2000年以降では第3位の成績[1]。第1位は2016年、第2位は2017年[1]。︵2019年3月時点︶注釈
2020年[編集]
3月下旬特別号[編集]
- 「2019年映画業界総決算」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、46 - 59頁。
- 「日本映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、48 - 49頁。
- 「外国映画興行収入一覧」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、48頁。
- 「26年ぶりに映画鑑賞料金値上げ、その影響は?」『キネマ旬報』2020年(令和2年)3月下旬特別号、キネマ旬報社、2020年、96頁。
注釈
出典
6月下旬号[編集]
●﹁相米慎二を育てた男 伊地智啓、逝く﹂﹃キネマ旬報﹄2020年︵令和2年︶6月下旬号、キネマ旬報社、2020年、96 - 105頁。周年[編集]
1985年[編集]
●創業90周年 ●松竹[1]1986年[編集]
●開設50周年 ●松竹大船撮影所 ●50周年記念映画﹃キネマの天地﹄を公開[2]。2003年[編集]
●生誕100周年 ●小津安二郎 ●東京国立近代美術館フィルムセンターで回顧上映された。2005年[編集]
●創業110周年 ●松竹創業110周年記念イベント - ﹁松竹110年祭﹂︵2005年11月 - 12月、シネスイッチ銀座︶、﹁松竹映画探索 1960-70年代﹂︵2006年1月 - 3月、東京国立近代美術館フィルムセンター︶で特集上映が行われた[3]。 ●生誕100周年 ●成瀬巳喜男・斎藤寅次郎・野村浩将・豊田四郎・稲垣浩・中川信夫 - 東京国立近代美術館フィルムセンターで回顧上映された[4]。2015年[編集]
●創業120周年 ●松竹 - ﹁松竹120年祭﹂︵2015年10月 - 11月、東京劇場︶で特集上映が行われた[5]。2016年[編集]
●創始40周年 ●角川映画 - 角川シネマ新宿では角川映画祭︵7月30日 - 9月2日︶と銘打たれた特集上映が行われ[6]、東京国立近代美術館フィルムセンターでは展示会﹁角川映画の40年﹂︵2006年7月26日 - 10月30日︶が行われた[7]。2017年[編集]
●創立75周年 ●大映 - 6月に﹁おとなの大映祭﹂、﹁大映男優祭・女優祭﹂が秋から東京・角川シネマ新宿ほかで開催される[8][9]。2019年[編集]
●50周年 ●男はつらいよ50周年プロジェクト - 全作品を4Kデジタル修復し特集上映、全作セットのブルーレイディスクの発売、シリーズ50作目﹃男はつらいよ お帰り 寅さん﹄公開。2020年[編集]
●創業125周年、松竹映画100周年 ●松竹 - 松竹映画100周年記念映画﹃キネマの神様﹄公開予定。注釈
出典
(一)^ ﹁1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1986年︵昭和61年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、123頁“誤算だったのは創業九十周年を迎えた松竹で” (二)^ ﹁1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画﹂﹃キネマ旬報﹄1987年︵昭和62年︶2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、124頁“山田洋次監督﹁キネマの天地﹂を50周年記念映画として公開したが、所期の目標に達せず” (三)^ “松竹創業110周年記念”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 2017年4月3日閲覧。 (四)^ ﹁トピック・ジャーナル﹂﹃キネマ旬報﹄2005年︵平成17年︶12月下旬号、キネマ旬報社、2005年、170頁。 (五)^ “伝統と革新の120年を振り返る特集上映 松竹120周年祭”. 松竹 (2015年8月12日). 2017年4月6日閲覧。 (六)^ “40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?︵前編︶”. シネマズ. 松竹 (2016年7月23日). 2017年4月5日閲覧。 (七)^ “角川映画の40年展で“三人娘”薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の資料を紹介 - 映画ナタリー”. ナタリー (2016年7月24日). 2017年4月5日閲覧。 (八)^ “﹃おとなの大映祭﹄に21作品 若尾文子、京マチ子、関根恵子らの主演作も - 映画・映像ニュース”. CINRA.NET (2017年4月27日). 2017年4月28日閲覧。 (九)^ “大映の名優たちの出演作が目白押し!﹁大映男優祭・女優祭﹂17年秋開催 : 映画ニュース”. 映画.com (2016年12月23日). 2017年4月28日閲覧。