大野源一
大野源一 九段 | |
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1939年ごろ | |
名前 | 大野源一 |
生年月日 | 1911年9月1日 |
没年月日 | 1979年1月14日(67歳没) |
プロ入り年月日 | 1929年(17歳)[注 1] |
棋士番号 | 7 |
出身地 | 東京府東京市(現:東京都台東区[注 2]) |
所属 |
日本将棋連盟(関西) →将棋大成会(関西) →日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 木見金治郎 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 大野源一 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 2回 |
順位戦最高クラス | A級(16期) |
2017年8月21日現在 |
大野 源一︵おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日︶は、将棋棋士。棋士番号7[注 3]。東京府東京市︵現‥東京都台東区[注 2]︶出身。A級在籍16期。木見金治郎九段門下。
生涯[編集]
東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。1929年に四段昇段。 戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年︵昭和22年︶に順位戦がスタートした際に、振り飛車を積極的に採用するようになる。それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が﹁持ち時間各7時間の1日制﹂に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がない振り飛車を採用したとされる[3]。この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、﹁振り飛車の神様﹂の異名を持つ。升田の向かい飛車、大山の四間飛車に対して大野は三間飛車を得意とした。彼の戦法は後に大内延介、近藤正和らに受け継がれているといわれる[誰によって?]。 14世名人木村義雄は、当時は角道を止めた上に1手使って飛車を振るため、守勢になることが好ましくないとされていた振り飛車と言う不利な戦法を研究の上で得意戦法としてA級順位戦に返り咲いたことを評価した[4]。大野の振り飛車の捌きは高く評価され、弟弟子の升田幸三も﹁大野さんの捌きは日本一だ﹂と絶賛。大山康晴は﹁受け一方ではなく攻める振り飛車だから恐れられている﹂と評した[5]。また、久保利明も大野の棋風に影響を受けたらしく、将棋年鑑のアンケートの﹁故人を含めて指したい棋士﹂で大野の名前を挙げている。当の大野は、振り飛車について、美濃囲いが他の囲いに比べて固く、左翼を突破されても玉にはすぐには響かないなどの点が、捌きを身上とする自身にとって相応しいと語っていた[6]。 1963年のA級順位戦で塚田正夫と対局した際、塚田が大野の玉に王手をかけたにもかかわらず、大野は構わず塚田の王に王手返しをかけ、塚田に﹁これ、もらっておくね﹂と言われ玉を取られてしまった。将棋の規定では王手をかけられた際に﹁玉を逃す﹂﹁合駒をする﹂﹁王手している駒を取る﹂以外の手を指すのは反則とされているため、大野の反則負け扱いとなっている。 1969年のB級1組順位戦最終局でA級昇級︵復帰︶をかけて米長邦雄と対局する。その勝敗で昇級・降級どちらにも絡まない︵消化試合である︶米長に対し、大野は勝利すれば当時のA級昇級の最年長記録を更新し、往年の大ベテランのA級復帰として世間から注目された大一番であった。しかし、米長は﹁自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす﹂という、いわゆる米長哲学によって本気で臨み、大野は敗局、昇級を逃した︵代わりに中原誠がA級昇進を決めた︶。 タイトル戦では、名人戦の挑戦者決定プレーオフで4度敗退する等、タイトル挑戦に絡むことはなかったが、一般棋戦では1973年の王座戦で決勝トーナメントを勝ち抜き、62歳で挑戦権を獲得。中原誠王座との三番勝負は0勝2敗に終わった。 1975年、関西将棋会館建設に当たって建設委員長に推戴された。 1979年1月14日、踏切をくぐろうとしたところ、電車にはねられ即死。享年67。人物[編集]
五人兄弟の長男であり、末弟は漫才師のあした順子・ひろしのひろしである。 律儀な人で、事務局からの対局通知の返信を必ず出していた。それがあるとき、東京で対局が予定されていたにもかかわらず、朝、姿を見せなかった。事務局で調べてみたら、いつも来ているはずの返信がなかった。そこで郵便事故かもしれないということで、不戦敗にはならなかった[7]。昇段履歴[編集]
- 1925年 入門
- 1931年 四段[要出典]
- 1932年 五段
- 1936年 六段
- 1938年 七段
- 1940年 八段
- 1974年 贈九段(表彰感謝の日表彰)
- 1979年1月14日 逝去(享年67)
優勝履歴[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、大野のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年︵1934年︶に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、﹁初段からが専門棋士﹂だった[1]。その頃、それと並行して奨励会ができた︵東京は昭和3年︵1928年︶、大阪は昭和10年︵1935年︶︶ことをきっかけに、﹁︵奨励会を卒業して︶四段からプロ棋士﹂という制度が確立していった[2]。
(二)^ ab東京都は1943年設置。台東区は1947年に下谷区と浅草区が合併して成立。
(三)^ 1977年4月1日の棋士番号制定時は大野が現役最古参で、当時の現役で唯一の一桁番号付与者であった︵1-6,8,9の棋士番号付与者は引退棋士。10を付与された坂口允彦は当時現役︶。
出典[編集]
(一)^ 東公平﹃升田幸三物語﹄︵日本将棋連盟︶P.36
(二)^ 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸﹃証言・昭和将棋史﹄︵毎日コミュニケーションズ︶P.10、P.215-220
(三)^ 捌く居飛車 - 将棋ペンクラブログ・2015年1月3日
(四)^ 湯川 (2005) p.204 - ﹃将棋世界﹄ 1954年5月号からの孫引き。
(五)^ 湯川 (2005) p.208 - 1954年のこと。
(六)^ 湯川 (2005) p.211 - ﹃将棋世界﹄ 1954年9月号よりの孫引き。
(七)^ “﹁対局場が大阪だと思ったら東京だった﹂﹁起きたら昼前だった﹂将棋界、遅刻不戦敗事件簿︵松本博文︶ - エキスパート”. Yahoo!ニュース. 2024年1月14日閲覧。
参考文献[編集]
- 湯川博士、2005、『振り飛車党列伝』、毎日コミュニケーションズ ISBN 4-8399-1888-0
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
一般棋戦優勝 2回 |
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