久保田政周
久保田 政周︵くぼた きよちか、1871年6月19日︵明治4年5月2日︶[1] - 1925年︵大正14年︶1月22日︶は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
略歴[編集]
●明治4年5月2日︵1871年6月19日︶ - 久保田政擧[2]︵北海道出身︶の長男として東京下谷竹町で生まれる。 ●1895年︵明治28年︶ - 東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。 ●1895年︵明治28年︶11月 - 高等文官試験に合格し、内務省土木局に入る。 内務省書記官、警保局警務課長などを務める。 ●1906年︵明治39年︶8月10日 - 1906年︵明治39年︶12月7日 - 栃木県知事となる。 ●1906年︵明治39年︶ - 南満洲鉄道株式会社設立に伴い、後藤新平総裁に嘱望され、理事に就任。 ●1906年︵明治39年︶12月 - 赴任し、関東都督府参事官を兼務する。 創業時の南満洲鉄道の地方部を統括し、同社付属地の支配取締、教育、勧業、衛生などの基礎を築く。 ●1911年︵明治44年︶9月 - 退任帰国。 ●1911年︵明治44年︶9月4日 ‐ 1912年︵大正元年︶12月22日 - 三重県知事となる。 途中、内務省土木局長、鉄道院理事などを務める。 ●1914年︵大正3年︶4月21日 - 1915年︵大正4年︶7月2日 - 東京府知事となる。 ●1915年︵大正4年︶7月30日 - 第2次大隈内閣の内務次官となる。 ●1916年︵大正5年︶10月9日 - 内務次官を辞し、退官する。 ●1918年︵大正7年︶8月26日 - 1922年︵大正11年︶5月27日 - 横浜市長となる。 ●1924年︵大正13年︶ - 東洋拓殖株式会社総裁。 ●1925年︵大正14年︶1月22日卒去。墓所は染井霊園1-ロ-8-6。栄典[編集]
位階 ●1925年︵大正14年︶1月22日 - 正四位[3] 勲章等 ●1910年︵明治43年︶12月26日 - 勲三等瑞宝章[4] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[5] ●1916年︵大正5年︶1月19日 - 勲二等旭日重光章[6] ●1925年︵大正14年︶1月22日 - 勲一等瑞宝章[3]親族[編集]
●姉 長谷川なか︵長谷川芳之助の妻︶[7] ●甥 長谷川久一︵姉なかの長男、内務官僚︶[7]脚注[編集]
参考文献[編集]
- 東京都公文書館編『東京都職制沿革』東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、1986年
公職 | ||
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先代 下岡忠治 |
内務次官 第20代:1915 - 1916 |
次代 水野錬太郎 |
先代 石塚英蔵 |
東洋拓殖総裁 第4代:1923 - 1925 |
次代 池邊龍一 |