松村光磨
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松村 光磨 | |
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生誕 |
1894年1月8日 佐賀県西松浦郡有田町 |
死没 |
1970年4月10日(76歳没) 東京都大田区田園調布 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 弁護士、政治家 |
松村 光磨︵まつむら みつま、1894年︵明治27年︶1月8日[1] - 1970年︵昭和45年︶4月10日︶は、戦災復興院次長などを務めた内務官僚で弁護士。名前は、光麿とも表記される。義父は明治・大正・昭和の外交官の本多熊太郎。
略歴[編集]
●1918年︵大正7年︶ - 東京帝国大学法科大学英法科を卒業して、内務省に入る。三重県警部属[2] 途中、長野県理事官、内務部地方課長、内務部社会産業地方課長を務める。 ●1928年︵昭和3年︶ - 長崎県労務部長、同学務部長を務める。 途中、徳島県警察部長、内務省港湾課長を務める。 ●1934年︵昭和9年︶ - 内務省河川課長を務める。 途中、内務省都市計画課長を務める。 ●1936年︵昭和11年︶3月13日 - 1937年︵昭和12年︶9月30日 - 栃木県知事を務める。 ●1937年︵昭和12年︶ - 内務省計画局長となる。 ●1940年︵昭和15年︶4月9日 - 1942年︵昭和17年︶1月9日 - 神奈川県知事を務める。 ●1942年︵昭和17年︶1月9日 - 1943年︵昭和18年︶7月1日 - 東京府知事を務める。 ●1944年︵昭和19年︶8月1日 - 1945年︵昭和20年︶4月21日 - 広島県知事を務める。 ●1945年︵昭和20年︶ - 大日本防空協会会長および戦災復興院次長を務める。 ●1965年︵昭和40年︶11月3日 - 勲二等旭日重光章を賜る。 ●1966年︵昭和41年︶6月15日 - 紺綬褒章を賜る。 ●1970年︵昭和45年︶4月10日 - 東京都大田区田園調布の路上にて交通事故に遭遇して死去[3]。銀杯一組を賜る。 GHQによる公職追放の後、弁護士に転身、第一東京弁護士会所属に所属すると共に、日本弁護士連合会綱紀委員会委員長を務めた[3]。栄典[編集]
●1940年︵昭和15年︶8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[4]著作[編集]
●田部谷忠春編﹃松村光磨先生業績録﹄都市計画協会、1973年。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 東京都公文書館編『東京都職制沿革』東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、1986年
- 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。