第二尚氏
尚氏(第二尚氏) | |
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左三巴 | |
本姓 |
尚氏 伝承・天孫氏 伝承・清和源氏(舜天王統・義本末裔)[1] |
家祖 | 尚円王 |
種別 |
琉球王室 日本華族(侯爵) |
出身地 | 琉球王国・伊是名島 |
主な根拠地 |
琉球王国 東京都 沖縄県 |
著名な人物 |
尚円王 尚真王 尚泰王 |
支流、分家 |
御殿 (沖縄) 殿内 廃藩置県後(華族・男爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
歴史[編集]
琉球国王になるまでの動向[編集]
琉球国王として[編集]
第二尚氏の初代国王となった尚円︵在位1470年-1476年︶は、1472年に明の皇帝憲宗が派遣した使者官栄より冊封を受けた[4]。 第3代国王尚真︵在位1477年‐1526年︶は、六色の帕冠制度や[5]、大名・士・百姓の三階級の身分制度を整えるとともに[6]、16世紀前期の頃に地方の按司らを首里に集居せしめることで中央集権体制を確立して琉球列島を統一した[4][7]。また中国、日本、東南アジアと広く交易して王朝の全盛期を築いた[7]。 第7代尚寧︵在位1564年-1620年︶の代の1609年には薩摩藩主島津氏が徳川家康の承諾のもと約3000の兵を送って琉球侵攻を開始[8]。敗戦した琉球は薩摩藩の支配下に置かれた[9]。薩摩軍の捕虜にされた尚寧は江戸に連行されて駿府の徳川家康や江戸の徳川秀忠に謁見させられてから帰国。この一連の参府は琉球王国が事実上幕藩体制に組み込まれたことを意味し、幕府によるキリスト教禁教や鎖国の命令の効果は琉球にも及んでいた[10]。 島津と家康の琉球侵略の狙いは琉球の明への貿易を直接支配することにあったが、対明貿易は宗主国明に属国琉球が進貢するという形式をとっており、明はそれ以外の形式の貿易は認めていなかったので、薩摩藩は琉球を実質的に支配しつつもその実態を中国に隠して琉球王国を形式的に存続させるとともに進貢貿易の維持・拡大を図った[11]。そのため中国から冊封使が琉球に来る際には琉球に駐留する薩摩藩士たちは姿を隠した[12]。 1644年に明は滅亡したが、1663年に清から初めての冊封使張学礼が送られてきて冊封を受けた[13]。 最後の国王尚泰︵在位1848年-1872年︶の代の19世紀半ば以降になると欧米列強諸国の世界進出の波が東アジアにも押し寄せた[14]。1854年にはアメリカ合衆国のペリー艦隊が江戸湾に入港して徳川幕府を武威で屈服せしめて不平等条約日米和親条約を結ばせ、続いて琉球の那覇に入港して琉球王国にも不平等条約琉米修好条約を締結させた[15]。その後他の西洋列強諸国からも不平等条約を迫られて結ばされた[16]。 日本では慶応3年︵1867年︶から明治元年︵1868年︶にかけての明治維新により徳川幕府は滅亡。王政復古とともに成立した日本の新政府は、明治2年︵1869年︶6月に版籍奉還を実施したが、琉球では駐在薩摩藩士たちの役職名が変わったぐらいで相変わらず薩摩藩の支配下に置かれていた。しかし明治4年︵1871年︶7月の廃藩置県で薩摩藩は解体されて鹿児島県となり、その統治者も島津氏ではなく中央から派遣されてきた他県人の役人となった。日本に併合されることを恐れていた琉球政府は、これまでの薩摩藩との関係を鹿児島県との間でも維持したいこと、また清との冊封関係も維持したい願いを出したが、いずれも日本政府の近代化政策の上で許されないことであった[17]。琉球藩王として[編集]
琉球藩廃藩後[編集]
琉球藩王を解任された尚泰は明治12年︵1879年︶5月27日に那覇から航路で東京へ向かった。船中では東京見物ができることを嬉しがっている様子だったという[25]。6月8日に横浜に到着、9日には上京し、17日に長男尚典と次男尚寅、旧藩臣十余名を伴って参内して明治天皇に拝謁し、従三位︵後に従一位まで上る[26]︶に叙されるとともに麝香間祗候に列した[27]。東京居住のため麹町区富士見町に土地と屋敷が与えられ、10月には金禄公債20万円が下賜された[27]。 12月6日には前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントの仲介で琉球をめぐる日清間の会談がもたれたが不調に終わった。しかしその後も清国、特に李鴻章は尚氏の復位と再冊封にこだわり、明治16年︵1883年︶には清国駐日公使黎庶昌が尚家の藩王復位を日本政府に打診、井上馨外務卿は尚泰を沖縄県令に任じることならば出来ないとも限らないと伝えているが、清側は王位と冊封にこだわったので沙汰やみとなった[28]。沖縄県内には清国を頼って清国属国の王国を再建しようという運動もしばらくは存在したものの、日清戦争後には消滅していった[28]。 華族令施行で華族が五爵制になった後の明治18年︵1885年︶5月2日に尚泰は侯爵に叙せられた[27][2]。侯爵であるため、無選挙で貴族院議員となった[29]。2代侯爵となった尚典は式部官を務めている[29]。3代侯爵尚裕の代の昭和前期に尚侯爵家の邸宅は東京市渋谷区南平台町にあった[26]。 王族だった伊江、今帰仁両家も男爵となった[19]。尚泰の次男尚寅と四男尚順も尚侯爵家の分家として男爵に叙せられた[30]。尚氏と向氏[編集]
称号 | 品位 | 姓(氏) |
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国王 | 無品 | 尚 |
王子 | 無品 | 尚 |
按司 | 無品 | 向 |
親方 | 正一品~従二品 | 向 |
親雲上 | 正三品以下 | 向 |
系図[編集]
尚稷 |
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1.尚円王 |
| 2.尚宣威王 |
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3.尚真王 |
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尚維衡 |
| 4.尚清王 |
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尚弘業 |
| 5.尚元王 |
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尚懿 |
| 6.尚永王 |
| 尚久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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7.尚寧王 |
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| 8.尚豊王 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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| 9.尚賢王 |
| 10.尚質王 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 11.尚貞王 | |||||||||||||||||||||||||
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| 尚純 | |||||||||||||||||||||||||
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| 12.尚益王 | |||||||||||||||||||||||||
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| 13.尚敬王 | |||||||||||||||||||||||||
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| 14.尚穆王 | |||||||||||||||||||||||||
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| 尚哲 | |||||||||||||||||||||||||
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| 15.尚温王 |
| 17.尚灝王 | |||||||||||||||||||||||
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| 16.尚成王 |
| 18.尚育王 | |||||||||||||||||||||||
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| 19.尚泰王 | |||||||||||||||||||||
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| 尚典 | |||||||||||||||||||||
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| 尚昌 | |||||||||||||||||||||
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| 尚裕 | |||||||||||||||||||||
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| 尚衞 | |||||||||||||||||||||
第二尚氏の祖先[編集]
『中山世譜』など王府史書では、尚円王の父・尚稷は、保元の乱で流罪となった源為朝がその開祖とされる「舜天王統」の第三代王・義本の末裔であるとの説が記されている。また、天孫氏の末裔との説も紹介している。1996年から2003年までに行われた浦添ようどれの発掘調査の際に、尚寧王陵にある4つの石棺の遺骨について母系遺伝子のミトコンドリアDNAを分析した結果、1個体から中国南部から東南アジアに多く見られるハプログループFに分類される遺伝子が得られた。その一方で、英祖王陵の2号石棺から検出された頭蓋骨のひとつからは、中世の日本人の形質が認められた[31]。