高家 (江戸時代)
高家︵こうけ︶は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本︵高家旗本︶を指す。
役職としての高家を﹁高家職﹂と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
高家肝煎︵ ︶とした︵﹁三高﹂と呼ばれた[2]。一部に﹁高家筆頭﹂と書く書もあるが、当時﹁高家筆頭﹂という職や呼び方があったかは疑問である[3]︶。天和3年︵1683年︶に大沢基恒、畠山義里、吉良義央の3名が高家肝煎とされたのがはじまりであるが、高家肝煎となる家は固定されていたわけではない。職務内容的にも、各儀礼の知識と経験値が高いものが選ばれることとなり、若くして抜擢されるようなことはほとんどない。三人のうち一人ずつ宿直し、詰所は寺社奉行・御奏者番の隣で町奉行の上である。席は譜代大名の詰所の雁の間だった。肝煎料は800俵だが、幕末には役料として1500両が月割で支給されるようになった[5]。公式の場における礼儀作法を諸大名に伝授することも職分であり、その際、相応の謝礼を受けることが黙認されていた。諸侯から贈られる金額は相当の額に及び、そのため生活は楽であった[5]。
他方、高家職に就いていない無役の高家旗本は﹁表高家﹂といい、年頭、歳暮、五節句以外では登城しない[5]。
後に高家見習も設けられ、主に高家職の嫡子から選ばれた。一時的であるが、御側高家︵側高家、1709-1716︶、および将軍世子に近侍した西丸高家︵西城高家、西の丸高家。1650-1651年、家綱に近侍︶が設けられているが、その職位は奥高家や表高家とは著しく異なったようである[3]。
なお、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就くことができないのが原則である。高家以外の職に就く場合は、一度高家旗本の格式を離れ、一般の旗本に列してからとなっていた。
創設[編集]
江戸幕府の典礼に関する職制は、開幕後段階的に整備された。慶長8年︵1603年︶、徳川家康の征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿に管掌させたのが、役職としての高家の起源である。ただし、当初は役職として﹁高家﹂の名称はなかった。慶長13年︵1608年︶12月24日、吉良義弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼってこの日を﹁高家﹂制度のはじまりとすることもある[1]。元和2年︵1616年︶には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。﹁高家﹂の名称や慣行が確定したのは、徳川秀忠の元和・寛永年間とみられる。高家の功績として顕著な例としては、正保2年︵1645年︶吉良義弥の義兄弟である今川直房が﹁東照宮﹂の宮号を交渉の末に朝廷より得たことである。 考証家として知られる三田村鳶魚の著書﹃武家の生活﹄には、元和元年︵1615年︶に徳川秀忠が足利一門である石橋家・吉良家・今川家の3家を登用したことを記して﹁高家﹂の始まりとしている。この記述を踏襲する書籍もあるが、石橋家という高家は存在せず、正確ではない。 その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、安永9年︵1780年︶には26家となった。以後、幕末までその数は変わっていない。制度[編集]
役職としての﹁高家職﹂[編集]
幕府の組織制度において高家職は、老中の管轄支配下とされた。 主な職務として伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮、寛永寺、鳳来山東照宮への将軍の代参という将軍の代理としての職務、および幕府から京の朝廷への使者の職務、逆に朝廷からの勅使・院使の接待や、接待に当たる勅院使︵饗応役の大名︶への儀典指導など、朝幕間の諸礼に当たった[2][3][4]。 高家職に就くことができるのは、﹁﹃高家﹄の家格を持つ旗本︵高家旗本︶﹂のみである。高家職に就いている高家旗本を﹁奥高家﹂という。高家職の人員は年代によって異なっており、延宝年間には9人、安政5年︵1858年︶には17人が就いている。さらに、奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している3名を選んで家格としての﹁高家﹂[編集]
高家職に就くことのできる旗本︵高家旗本︶は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる﹁名門﹂︵原義の﹁高家﹂︶の家柄で占められた。 最初期の高家職を務めた大沢基宿は、公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。室町幕府の成立過程から守護大名には足利氏一門が多く、吉良義弥・一色範勝・今川直房らの高家はその末裔である。他には赤松氏や土岐氏などの非一門の室町幕府下の名族・守護大名の家柄も高家となっている。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかったためと思われる。徳川氏が武家の棟梁として﹁旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている﹂という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い。 高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、武家にしては、官位は高かった。奥高家︵高家職︶に就任すると、ただちに従五位下侍従に任じられる。奥高家を務める者の官位・官職は従五位下から従四位下の侍従であることが大半であるが、高家肝煎に就任した者などは最高で従四位上左近衛権少将まで昇った︵制度草創期の大沢基宿は、例外として正四位下左近衛中将に昇っている︶。大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。﹃忠臣蔵﹄︵赤穂事件︶で知られる吉良義央も、わずか4200石取りながらも、従四位上左近衛権少将だった。赤穂藩主浅野長矩は5万3000石を領する大名だが、官位の上では従五位下諸大夫でしかなく[3]、時の幕府の最高権力者側用人で甲府15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上だった。 ただし、非役の高家︵表高家︶は、昇殿する必要がないため、叙任されない。明治以降[編集]
明治維新後、朝臣に転じた高家と交代寄合の各家は、下大夫︵1000石以上の一般旗本︶や上士︵1000石以下100石までの一般旗本︶に列した一般旗本より高い中大夫席を与えられていたが[6]、明治2年︵1869年︶12月に中大夫以下の称が廃止されるに伴い、一般旗本と同様に士族に編入された[7]。高家のうち大沢家のみ﹁高直し﹂で石高を1万石に偽装して堀江藩を立藩することで一時的に華族に列したが、明治4年︵1871年︶に石高偽装が発覚したため華族から士族に降格され、当主基寿は禁固1年に処された[8][9]。 明治17年︵1884年︶7月の華族令施行で華族が五爵制になった際に定められた﹃叙爵内規﹄の前の案である﹃爵位発行順序﹄所収の﹃華族令﹄案の内規︵明治11年・12年ごろ作成︶や﹃授爵規則﹄︵明治12年以降16年ごろ作成︶では、元高家が元交代寄合や各藩の万石以上陪臣家、堂上公家に準ずる扱いだった六位蔵人や伏見宮殿上人などの諸家とともに男爵候補に挙げられているものの、最終的な﹃叙爵内規﹄ではいずれも授爵対象外となったため、士族のままだった[10]。華族編列・授爵をめぐっては華族の体面を保てる財産があるか否かが重視され、明治30年代になると富裕層が多い旧万石以上陪臣家は男爵に叙され始めるが[11]、高家にはその後も叙爵はなかった。高家一覧[編集]
有馬家 村上源氏久我流。公家久我通名の子堀川広益を初代とする。徳川家宣に召し出される。同じ村上源氏の摂津有馬氏から有馬に改姓したと見られる。500石[12]。 一色家 公家唐橋在数︵菅原氏唐橋家︶の次男の末裔であるが、足利将軍家一門の一色氏の養子となり足利義昭に仕えた一色昭孝︵公家名は唐橋在通︶を初代とする。家譜によると次の在種のときに改易されたという。1000石。 今川家 清和源氏足利氏流。駿河の戦国大名だった今川氏真の孫直房を初代とする。吉良家との血縁関係もあって、比較的早く高家として登用された。幕末の範叙は若年寄に登用されている。1000石[13]。 上杉家 藤原北家勧修寺流。関東管領で足利将軍家姻族であった上杉家の末裔。上杉謙信の養子上条上杉政繁の養子で、能登畠山氏の子である畠山︵上杉︶義春の次男上杉長員の系統。後述の高家能登畠山家とは兄弟関係にある。1496石[14]。長員の子から高家。二代目の長貞の寛文2年︵1662年︶の死亡は、院宣紛失のために自殺したともされる。 大沢家 藤原北家中御門家頼宗流。持明院基盛を祖とする。主に2家。他に大沢基宿家の分家2家も一時的に高家職に登用された。 (一)大沢基宿は家康の将軍宣下の儀礼を司っており、実質的な高家の始まりとされる。3550石。維新に際して基寿は堀江藩を立藩して華族に列したが、廃藩置県時に石高偽装が発覚して華族から士族へ降格された[15]。一時的に終わったとはいえ高家から華族に列したことがある唯一の家となった。 (二)基宿の次男持明院基定の曾孫大沢基貫を初代とする家。600石。 大友家︵豊後守護家︶ 藤原北家近藤氏流。豊後の戦国大名大友宗麟の孫義乗の子義親が高家として登用された。3,300石。元和5年︵1619年︶に嗣子ないまま死去し、一代で断絶した。 大友家 藤原北家近藤氏流。豊後の戦国大名大友義統の孫義孝を初代とする。明暦3年︵1657年︶に成立。1,000石[16]。 織田家 桓武平氏を称し、織田信長を祖とする3家。 (一)信長の次男信雄の曽孫の信明以降が高家に登用。2700石[17]。 (二)信長の七男信高の曽孫の信門以降が高家登用。2000石[17]。 (三)信長の九男信貞の子の貞置以降が高家に登用。700石[18]。 京極家 宇多源氏佐々木氏流。室町幕府の四職である京極家の、子孫の一系である高国︵宮津藩主のち改易︶の嫡子高規を初代とする。1500石。 吉良家 ︵三河吉良氏︶ 清和源氏足利氏流。大沢家とともに江戸時代初期から高家を勤めた。4200石。元禄14年︵1701年︶4月に殿中において勅使饗応役だった赤穂藩主浅野長矩が、指南役だった同家の当主吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は切腹、赤穂藩は改易となり、その翌年暮れに吉良邸に浅野の遺臣の一団が討ち入り、義央が討ち取られる赤穂事件が起きた。この事件により改易された。1732年︵下記の蒔田氏の吉良への改姓よりも後︶に分家にあたる500石の一般旗本東条義孚が東条から吉良に改姓する形で﹁三河吉良氏が再興﹂されたが高家の地位は認められず、一般の旗本家のまま続いた。 蒔田家→吉良家 ︵武蔵吉良氏︶ 清和源氏足利氏流。三河吉良家とは遠祖を同じくする別系統である。元は吉良姓であったが、三河吉良家に遠慮して蒔田姓に改める︵今川、品川両家の例のように、幕命とも伝わる︶。蒔田義成が高家となり、その息子義俊の代に上記の吉良家の絶家に伴って吉良姓に復する。1425石[19]。 品川家 清和源氏今川家の傍流。今川氏真の次男品川高久を初代とする。正徳3年︵1713年︶、範増の早世により一旦絶家するが、約1ヵ月後に血縁の信方により再興された。ただし1,500石から300石に減知された。 武田家 清和源氏義光流。甲斐の戦国大名武田信玄の次男海野信親の子孫である武田信興を初代とする。徳川綱吉に召し出された。500石[20]。 中条家 藤原北家長良流。公家樋口信孝の次男中条信慶を初代とする。徳川家綱に召し出された。1373石[21]。 土岐家 清和源氏頼光流。2家あり。 (一)美濃の守護大名土岐頼芸の次男頼次の子孫。頼次の子の頼勝から高家。宝永3年︵1706年︶8月18日、頼泰は飲酒による傷害事件により改易された。1千石のち分知して700石。 (二)土岐頼芸の四男頼元の子孫。頼元の子の持益から高家扱いであり、次代の頼長が高家となった。1千石のち分知して700石。 戸田家 村上源氏久我流。公家六条有純の子戸田氏豊を初代とする。徳川家光に召し出された。2000石[22]。 長澤家 藤原北家日野流。公家外山光顕の次男長澤資親を初代とする。徳川綱吉に召し出された。1400石[23]。 畠山家︵河内半国・紀伊守護家︶ 清和源氏足利氏流。室町幕府の三管領である畠山金吾家からの分家。 畠山政国︵畠山政長の曾孫︶の曽孫で旗本の政信の子孫。政信の子の基玄以降が高家になった[24]。5000石。慶応4年︵1868年︶7月、朝臣に転じていた基永は弁事役所に申請して畠山姓を本姓の足利姓に改めている[25]。 畠山家︵能登守護家︶ 清和源氏足利氏流。 上杉謙信の養子上条上杉政繁の養子で、能登畠山氏の子である畠山︵上杉︶義春の三男義真の子孫。前記の高家上杉家とは兄弟関係にある。3120石。義真の子の代から高家。 日野家 藤原北家日野流。家康に近侍した公家の日野輝資の養子資栄を初代とする。徳川家光に召し出された。1530石。 前田家 ︵藤原氏︶ 藤原北家閑院流。春日局の義兄三条西実条の子孫で、公家押小路公音の次男前田玄長を初代とする。徳川綱吉に召し出された。安土桃山時代の武将前田玄以との所縁により前田を称した。1400石。 前田家 ︵菅原氏︶ 菅原氏。上記の藤姓前田家とは別系統。公家高辻長量の次男前田長泰を初代とする。徳川綱吉に召し出された。武家の加賀前田家が菅原氏族を名乗り有名だったため、加賀前田家の許可を得て前田を称した。1000石。 宮原家 清和源氏足利氏流。古河公方足利高基の長男で、関東管領の晴直の子孫︵喜連川家とは別系統︶。宮原義久以降、高家。1040石。なお、古河公方家の名跡を継ぐ喜連川藩主の喜連川氏春や足利聡氏は、宮原家から喜連川家に養子入りしている。 最上家 清和源氏足利氏流。斯波家兼の子兼頼を祖とする大崎氏の分家。最上義光の子孫義智が一代限りの高家に登用された。5000石。のちに交代寄合となった。 由良家 清和源氏新田流とする。新田氏の子孫を称したが、実際は上野国新田荘横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏とされる。由良国繁が幕府旗本となり、孫の貞房以降が高家となった。1千石。維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流を巡って交代寄合の岩松家と争ったが、岩松家が嫡流と認められて男爵となった。 横瀬家 由良貞房の次男横瀬貞顕を初代とする。徳川綱吉に召し出された。1000石。 六角家 藤原北家日野流。公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする。徳川家綱に召し出される。2000石。広賢から広治・広豊・広満︵実父は日野資鋪︶・広雄︵実父は大沢定時︶・広孝と続いた。二代目の広治は元禄9年︵1696年︶7月10日、不行跡により表高家を解かれて逼塞を命じられ、元禄10年︵1697年︶4月23日には蟄居隠居となる。遊廓での度重なる失態や乱行が問題視され、将軍綱吉の母桂昌院の一族︵児玉党系本庄氏︶に繋がる縁戚であったため、﹁武士としてあるまじき醜態﹂として処分されたといわれる。﹁英一蝶#島流しに至る経緯﹂の項を参照。高家並一覧︵表高家並一覧︶[編集]
岩松家 新田氏一門。交代寄合の格式も持つ。120石。維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流と認められて男爵となった。 山名家 村岡領主交代寄合山名氏と同流の山名氏。山名豊政の弟の豊義を初代とする。1000石。脚注[編集]
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九十二に記された吉良義弥の経歴など。
- ^ a b 斎藤茂 1975, p. 15.
- ^ a b c d 元禄忠臣蔵の会 1999, p. 86.
- ^ 笹間良彦 1999, p. 165.
- ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 166.
- ^ 落合弘樹 1999, p. 41.
- ^ 松田敬之 2015, p. 67/127/135.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 39.
- ^ 松田敬之 2015, p. 156.
- ^ 松田敬之 2015, p. 12/67/127/135/156.
- ^ 松田敬之 2015, p. 15.
- ^ 松田敬之 2015, p. 67.
- ^ 松田敬之 2015, p. 127.
- ^ 松田敬之 2015, p. 135.
- ^ 松田敬之 2015, p. 155-156.
- ^ 松田敬之 2015, p. 164.
- ^ a b 松田敬之 2015, p. 186.
- ^ 松田敬之 2015, p. 188.
- ^ 松田敬之 2015, p. 255.
- ^ 松田敬之 2015, p. 424.
- ^ 松田敬之 2015, p. 458.
- ^ 松田敬之 2015, p. 495.
- ^ 松田敬之 2015, p. 504.
- ^ ただし基玄は徳川綱吉の側用人に任じられたため、一旦普通の旗本になっている。奏者番をも勤め加増を重ね、家禄は300石から5千石になった。
- ^ 松田敬之 2015, p. 53.