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{{三国志の人物 |
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'''劉封'''(りゅうほう、[[190年]]?-[[220年]])は、[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[蜀 (三国)|蜀漢]]の[[皇族]][[武将]]で[[劉氏]]。子は[[劉林]]。 |
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|名前 = 劉封 |
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|説明 = |
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|王朝 = [[後漢]] |
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|称号・役職 = 副軍将軍 |
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|出生 = 生年不詳 |
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|出身地 = [[荊州]][[長沙郡]][[羅県]]<ref name="Ryuhou">盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈によると、{{SquoteH}}『[[春秋左氏伝]]』[[桓公 (魯)|桓公]]13年に「[[楚 (春秋)|楚]]の屈瑕が羅を伐った」とある。[[杜預|杜注]]は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に[[南郡 (中国)|南郡]][[枝江市|枝江県]]に徙された」という。『[[漢書]]』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。[[応劭]]は「楚の[[文王 (楚)|文王]]が羅子を枝江からここに徙した」という。『[[続漢書]]』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『[[水経注]]』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『水経注』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは[[襄陽郡 (中国)|襄陽(郡)]]宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。[[秦]]が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の[[湖南省|湖南(省)]]長沙府[[湘陰県]]の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。{{仮リンク|趙一清|zh|趙一清}}は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、[[寇恂]]の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。[[沈家本]]は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)[[永和 (漢)|永和]]5年の後のことである。{{SquoteF}}</ref> |
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|死去 = [[建安 (漢)|建安]]25年([[220年]]) |
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|死没地 = |
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|ピン音 = Liú Fēng |
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|字 = |
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|諡号 = |
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|廟号 = |
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|別名 = 寇封 |
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|主君 = [[劉備]] |
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|特記事項 = 養父: 劉備 |
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'''劉 封'''︵りゅう ほう︶は、[[中国]][[後漢]]末期の[[武将]]。字は不明。父は寇氏、母は不明。[[劉備]]の[[養子]]。[[荊州]][[長沙郡]][[羅県]]の人<ref name="Ryuhou"/>。
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== 生涯 == |
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元々は寇氏の子で、[[劉氏長沙国|長沙劉氏]]の甥であった。劉備に実子[[劉禅]]が生まれる[[建安 (漢)|建安]]12年([[207年]])以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。 |
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===その出目・生涯=== |
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正史[[三国志 (歴史書)|三国志]]によると、元々は羅侯の寇氏の末裔で、[[長沙]]の劉氏の甥であり、[[劉備]]が彼の素質を見込んで自分の[[養子|猶子]]として迎えたと記述されている。但し[[後漢書]]'''鄧禹伝'''によると、後漢の[[元勲]]である[[司空]]・高密侯の[[鄧禹]]の後裔だという。父・[[鄧震]]︵鄧禹の長子︶の後を継いだ[[鄧シツ|鄧隲]]︵または鄧騭、鄧禹の孫︶は清廉の人物だった。彼の妹は先代の[[和帝 (漢)|和帝]]の[[皇后]]であ[[外戚]]でもあった。だが、皇后鄧氏の養子の[[安帝 (漢)|安帝]]に謀反を疑われた。鄧隲は[[太尉]]・[[楊震]]と共に天子よって死を賜り、その子の[[鄧鳳]]と共に自邸で自決を遂げた。そのために鄧隲の孫は降格され、鄧氏発祥の地である[[南陽]]付近の羅侯に転封されたとある。そのために、﹃'''寇氏'''﹄︵'''鴻'''と同音とも︶は、“'''鄧氏'''”の誤記ではないかとも言われる。また、[[資治通鑑|通鑑]]︵[[司馬光]]著︶でも、﹁﹁寇姓﹂はあまり聞かない姓で明らかに誤りであり、同音の'''鄧姓'''が正しいであろう﹂と見識な歴史学者である司馬光は述べているという。仮にそうならば、劉封は[[鄧芝]]の遠縁ということになる。
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建安17年([[212年]])、劉備が[[益州]]攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、[[諸葛亮]]・[[張飛]]らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。益州平定後、劉封は副軍[[中郎将]]に任じられた。 |
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彼は継弟の[[劉禅]]とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。そして美男子だったという。[[213年]]に、猶父の劉備の[[益州]]攻略戦に参加して、彼は優れた統率力を発揮して武功を挙げて、'''副軍中郎将'''に昇進した。正史によると、当時の劉封は20余歳だったという(仮にそうならば、劉封は[[曹丕]]・[[曹植]]と同年代ということになる)。翌々年の[[215年]]夏5月に劉備が蜀の都である[[成都]]を平定すると、[[孟達]]と共に[[上庸]]の守備を命じられた。だが、劉封は義理の伯父である[[関羽]]と仲が悪かったこともあり、故意に関羽を見殺しにしたことから孟達と対立した。そのために孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の[[申耽]]・[[申儀]]兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく猶父の劉備の下へ敗走することになった。 |
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建安24年([[219年]])、[[宜都市|宜都]]太守の[[孟達]]は劉備に命じられ、[[房県|房陵]]を攻略し、諸葛亮の姉の夫である房陵太守の蒯祺を殺した<ref>『[[襄陽記]]』</ref>。孟達は続いて[[上庸郡|上庸]]に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を[[漢中郡|漢中]]から派遣して上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。劉封と孟達は[[申耽]]を降伏させ、劉封は副軍将軍に昇進した。 |
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だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に[[諸葛亮]]は劉封の勇猛さを恐れていたという。いずれは自分が劉封によって禍に遭うと判断し、劉備に上奏して﹁わが君のご逝去後に、跡を継がれる太子禅さまでは継兄である封君︵劉封︶を統率されるのは極めて困難でありましょう。この機会に封君に死を賜りまするよう…これは前例である[[袁紹]]、[[劉表]]、[[曹操]]の息子達の家督争いの二の舞にしないための教訓ですよ﹂とはっきりと進言した。また、劉備自身も劉封の勇猛さでは支え切れない太子の劉禅の将来性を考慮した末に、決断を下して自決用の剣を劉封に渡し、こうして彼は非業の自決を遂げたという。
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同年に[[樊城]]で[[曹仁]]を包囲した[[関羽]]から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された[[曹操]]が派遣した[[徐晃]]と[[趙儼]]と、[[孫権]]が派遣した[[呂蒙]]の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に[[潘璋]]配下の[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]に捕らわれて処刑された。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。 |
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建安25年([[220年]])7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は[[魏 (三国)|魏]]に出奔。魏は孟達を建武将軍・[[新城郡 (湖北省)|新城]]太守に任じ、[[夏侯尚]]・徐晃と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す手紙を送ったが、劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の[[申儀]]などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、[[成都]]への敗走を余儀なくされた。 |
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===演義などでの劉封=== |
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[[三国志演義|演義]]での劉封は、[[樊城]]の[[県令]]の'''劉泌'''の甥で、彼の器量に惚れた劉備の養子となった。それから、諸葛亮の指揮下で関羽の養子の[[関平]]︵実際は関羽の庶長子︶と共に大活躍していることになっている。同時に関羽が劉封が劉備の養子になったと聞いた時に﹁何故、寇封を養子とされたのですか?わが君には阿斗︵劉禅︶君がいるではありませんか﹂と不平を洩らしたという。後年に劉封はその関羽を孟達の進言で見殺しにした。そのことに怒った劉備が、劉封の処刑を部下に命じる。それ以前に、劉封は、魏に降った孟達から︵身の安全のため︶魏への投降を勧められていたが、怒って投降を勧めた使者を斬り、信書を破り捨てていた。そのことを知った諸葛亮らが、処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されていた。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ病に倒れたとされる。この時に劉封は﹁孟達の投降に従っておれば…﹂と洩らしたという。
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劉備は、劉封が孟達を魏に奔らせたこと、関羽を救わなかったことを責めた。諸葛亮はこれに乗じて、劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。かくして劉封は[[賜死|死を賜る]]事になった。自決の際、劉封は﹁ああ、孟達の言葉に従わなかったばかりに…﹂と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
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また俗説では、[[呂布]]に追われた劉備がある邸宅に厄介になった。その時にその主人である劉備と同姓の'''劉安'''は、もてなす食料が無いことに気づき、そこで奥の厨房に行って、自分の妻を殺して、その肉をご馳走として劉備に差し出したといわれる。事の成り行きを知った劉備はさすがに驚愕したという。そこまで自分ために尽くした劉安の恩義に報いるために、その褒賞として劉安の息子である劉封を自分の養子に迎えた、とある。
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⚫ | 子の[[劉林 (三国)|劉林]]は誅殺されず牙門将に任命され、[[蜀漢]]滅亡後の[[咸熙]]元年([[264年]])、[[河東郡 (中国)|河東郡]]に移住した。 |
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===劉封処刑の謎=== |
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劉封の処刑は意外と謎に包まれている。正史三国志と演義では孟達と魏の軍勢に大敗し、成都に逃げ戻った劉封は劉備の怒りを買い処刑されるわけだが、正史と演義では劉封の処刑理由の内容にかなり相違がある。前者では諸葛亮が劉備に太子の劉禅では兄に当たる劉封が臣下に甘んじないので死を賜るように進言しているし、後者では逆に諸葛亮は劉封は孟達から送られた降服を勧める手紙を破り捨てていることを知り、劉封の助命を乞いている。この両者で共通しているのは劉備が劉封の刑死を聞いた時に嘆いたと記されている。 |
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『三国志』の撰者[[陳寿]]の評では、「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と強く批判している。 |
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しかし、後漢書と通鑑と或いは蜀の地方史書である﹃[[華陽国志]]﹄︵[[常據]]著︶と﹃[[三国志集解]]﹄では、正史同様に諸葛亮が意欲的に劉封を粛清するように上奏しているし、劉備自身も自ら主導して劉封の処刑を命じているのである。これは前述の通りに袁紹・劉表・曹操の諸子達の家督争いの前例があった。当時のお家争いは後漢末から三国時代の特徴である。群雄のお家争いを見ていた劉備は当然のように、自分の後継者である劉封と劉禅の家督争いを懸念したことは想像に難しくない。その証拠に219年に劉備が漢中王と称した時に、劉備は真っ先に劉禅を世子に定めている。その翌年に魏に大敗して逃げ戻った劉封を即刻処刑しているのである。また劉封は劉禅よりも素質が優れていたのは事実のようであり、或いは劉封は関羽を見殺ししたように、劉備の意向に逆らう傾向があったようである。劉封が関羽との仲が険悪だったこともその事由の一つであろう。
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== 三国志演義 == |
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さらに劉封の嗣子の劉林は蜀漢滅亡後、蜀漢の宗室の一員でありながら、劉禅一家に同伴せずに[[洛陽]]の北方の河東郡に移住しているのである。実際に劉封の死は謎に包まれているという。 |
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小説﹃[[三国志演義]]﹄では、樊城[[県令]][[劉泌]]の甥で、劉封の器量に惚れた劉備の養子となり、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられた事になっており、史実とは順序が逆転している。
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それを知った関羽は、「阿斗(劉禅)君がいるのになぜ養子をとるのですか?これでは[[劉表]]の諸子によるお家騒動の二の舞になるのではありませんか?」と不平不満を洩らした。 |
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以降は、主に[[関平]]らと共に軍師[[龐統]]の命で[[劉璋]]配下の[[高沛]]・[[楊懐]]を斬り捨てるなど大いに活躍するようになる。龐統が亡くなると諸葛亮の指揮下で[[黄忠]]と[[厳顔]]の戦いに同伴したり、孟達とともに活躍して徐晃および曹操の子の[[曹彰]]に[[一騎討ち]]で敗れた。 |
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[[de:Liu Feng]] |
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[[en:Liu Feng]] |
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後年に、関羽が麦城で呂蒙の包囲を受けて、[[廖化]]を派遣して、援軍を要請するも孟達の進言で見殺しにしてしまう。翌年に孟達の裏切りで、徐晃・夏侯尚率いる魏軍に大敗を喫し、やむなく成都に逃れる。怒った劉備はたちまち劉封の[[処刑]]を部下に命じるが、劉封が孟達からの魏への投降勧誘を断り、使者を斬って信書を破り捨てていたことを理由に諸葛亮らが処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されてしまう。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ、病に倒れる事になる。 |
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== 三国志平話 == |
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同じく小説﹃[[三国志平話]]﹄では、﹃蜀志﹄劉封伝と同様に羅侯の寇氏の子で、劉備の養子として[[博望坡の戦い]]から登場する<ref>二階堂・中川の翻訳、中巻p79.</ref><ref>ただし、劉備の養子となる場面は記述されてない。</ref>。後年に養父の劉備が漢中王に即位すると、関羽の進言で劉備の後継者から外されて、葭萌関節度使に左遷された<ref>二階堂・中川の翻訳、下巻p130.</ref><ref>ただし、[[藩鎮|節度使]]は[[唐]]の制度であるため、後漢末には存在しない官職である。</ref>。そのために劉備の実子の劉禅を推薦した関羽を恨み、関羽が呂蒙に包囲されて窮地に陥り、援軍を要請しても、孟達とともにこれを無視し続けた<ref>二階堂・中川の翻訳、下巻p132.</ref>。そのために諸葛亮の書状によって、処刑された<ref>二階堂・中川の翻訳、下巻p140.</ref>。
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== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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== 参考資料 == |
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* 『三国志平話』中巻・下巻([[二階堂善弘]]・[[中川諭]](翻訳)、[[コーエー|光栄]]、[[1999年]]) ISBN 978-4877196783(旧:ISBN 4877196781) |
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== 関連項目 == |
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* [[孟達]] |
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* [[申耽]] |
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* [[申儀]] |
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{{三国志立伝人物}} |
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{{DEFAULTSORT:りゆう ほう}} |
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[[Category:劉備軍の人物]] |
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[[Category:3世紀中国の軍人]] |
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[[Category:刑死した中国の人物]] |
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[[Category:劉備]] |
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2024年5月11日 (土) 17:04時点における最新版
劉封 | |
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後漢 副軍将軍 | |
出生 |
生年不詳 荊州長沙郡羅県[1] |
死去 | 建安25年(220年) |
拼音 | Liú Fēng |
別名 | 寇封 |
主君 | 劉備 |
養父: 劉備 |
生涯
[編集]三国志演義
[編集]三国志平話
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈によると、
『春秋左氏伝』桓公13年に「楚の屈瑕が羅を伐った」とある。杜注は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された」という。『漢書』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。応劭は「楚の文王が羅子を枝江からここに徙した」という。『続漢書』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『水経注』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『水経注』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは襄陽(郡)宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。秦が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の湖南(省)長沙府湘陰県の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。趙一清は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、寇恂の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。沈家本は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)永和5年の後のことである。
参考資料
[編集]- 『三国志平話』中巻・下巻(二階堂善弘・中川諭(翻訳)、光栄、1999年) ISBN 978-4877196783(旧:ISBN 4877196781)