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Kei Knight Woodley (会話 | 投稿記録) m 嬴姓趙氏 |
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|公用語 =[[上古音|古代中国語]] |
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|首都 =秦邑([[張家川回族自治県]])<br>[[西犬丘]]([[礼県]])<br>[[汧邑]](西垂([[眉県]])地区)<br>汧渭之会(眉県の北東、汧水・渭水の合流地点)<br>[[平陽県 (陝西省)|平陽]]<br>[[雍城]]<br>[[涇陽]]<br>{{仮リンク|櫟陽|zh|櫟陽}}<br>[[咸陽市|咸陽]] |
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|元首等肩書 =[[封臣|附庸]][[国主]]→[[伯爵]]→[[王]]→[[帝]]→[[皇帝 (中国)|皇帝]] |
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|元首等氏名1 =[[非子]]<ref group="注" name="非子">前905年、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、秦の地に封ぜられた。</ref> |
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|元首等年代始2 =前777年 |
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|元首等氏名3 =[[恵文王 (秦)|恵王]]<ref group="注" name="恵文王">325年([[顕王]]44年)、[[恵文王 (秦)|恵王]]は王となった。</ref> |
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|元首等年代始4 =前306年 |
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|元首等年代終4 =前251年 |
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|元首等年代始5 =前246年 |
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|元首等氏名5 =[[始皇帝]]<ref group="注" name="始皇帝">前221年に[[始皇帝]]は中華を統一して[[大秦帝国]]を創立。</ref> |
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|元首等年代始6 =前207年 |
|元首等年代始6 =前207年 |
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|元首等年代終6 =前207年 |
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|変遷2 =伯国から王国へ |
|変遷2 =伯国から王国へ |
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|変遷4 =[[劉邦]]の咸陽入城により滅亡 |
|変遷4 =[[劉邦]]の咸陽入城により滅亡 |
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|国姓=[[嬴|嬴姓]][[趙 (姓)|趙氏]] |
|国姓=[[嬴|嬴姓]][[趙 (姓)|趙氏]] |
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|爵位=前905年、[[封臣|附庸]]<br>前770年、[[伯爵]]<br>前325年、[[王]]<br>前288年、[[帝]]<br>前221年、[[皇帝 (中国)|皇帝]] 天子位 |
|爵位=前905年、[[封臣|附庸]]<br>前770年、[[伯爵]]<br>前325年、[[王]]<br>前288年、[[帝]]<br>前221年、[[皇帝 (中国)|皇帝]] 天子位 |
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|国都=1.'''秦邑'''<br>2.前776年、'''汧邑'''<br>3.前763年、'''汧渭之会'''<br>4.前714年、'''{{仮リンク|平陽城|label=平陽|zh|平陽城}}'''<br>5.前677年、'''[[雍城|雍]]'''<br>6.前383年、''' |
|国都=1.'''秦邑'''<br>2.前776年、'''汧邑'''<br>3.前763年、'''汧渭之会'''<br>4.前714年、'''{{仮リンク|平陽城|label=平陽|zh|平陽城}}'''<br>5.前677年、'''[[雍城|雍]]'''<br>6.前383年、'''[[櫟陽]]'''<br>7.前350年、'''{{仮リンク|咸陽城|label=咸陽|zh|咸陽城}}''' |
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|分封者=1. [[孝王 (周)|孝王]]<br> 非子が附庸に封じられる<br>2. [[平王 (周)|平王]]<br>襄公が伯爵となり正式に[[諸侯国]]となる |
|分封者=1. [[孝王 (周)|孝王]]<br> 非子が附庸に封じられる<br>2. [[平王 (周)|平王]]<br>襄公が伯爵となり正式に[[諸侯国]]となる |
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|始祖=[[秦非子]](周の[[孝王 (周)|孝王]]により附庸に封される)<br>[[襄公 (秦)|襄公]](周の[[平王 (周)|平王]]により正式に[[諸侯]]となる) |
|始祖=[[秦非子]](周の[[孝王 (周)|孝王]]により附庸に封される)<br>[[襄公 (秦)|襄公]](周の[[平王 (周)|平王]]により正式に[[諸侯]]となる) |
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'''秦'''︵しん、{{拼音|Qín}}、[[紀元前905年]] - [[紀元前206年]]︶は、[[中国]]の[[王朝]]である。[[周]]代・[[春秋時代]]・[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にわたって存在し、[[紀元前221年]]に史上初めて中国全土を統一、[[紀元前206年]]に滅亡した。統一から滅亡までの期間を'''[[秦朝]]'''、'''秦代'''と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて[[天下統一]]を果たした王の |
'''秦'''(しん、{{拼音|Qín}}、[[紀元前905年]] - [[紀元前206年]])は、[[中国]]の[[王朝]]である。[[周]]代・[[春秋時代]]・[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にわたって存在し、[[紀元前221年]]に史上初めて中国全土を統一、[[紀元前206年]]に滅亡した。統一から滅亡までの期間を'''[[秦朝]]'''、'''秦代'''と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて[[天下統一]]を果たした王の姓は{{読み仮名|'''[[嬴]]'''|えい}}、氏は'''[[趙 (姓)|趙]]'''<ref group = "注">この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。<br>{{仮リンク|女防|zh|女防}}生{{仮リンク|旁皋|zh|旁皋}},旁皋生{{仮リンク|太幾|zh|太几}},太幾生[[大駱]],大駱生[[非子]]。'''以{{仮リンク|造父|zh|造父 (赵氏先祖)}}之寵,皆蒙趙城,姓趙氏'''。<br>秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。'''然秦以其先造父封趙城,為趙氏。'''([[司馬遷]]『[[史記]]』秦本紀)</ref>。統一時の首都は[[咸陽市|咸陽]]。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[紀元前905年]]に、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた[[非子]]が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、[[大夫]]となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の[[甘粛省]][[張家川回族自治県]])であったという。 |
[[紀元前905年]]に、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた[[非子]]が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、[[大夫]]となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の[[甘粛省]][[張家川回族自治県]])であったという。 |
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伝説上では嬴姓は[[舜]]の臣の[[益 (中国神話)|伯益]]が賜ったとされている。それ以前の |
伝説上では嬴姓は[[舜]]の臣の[[益 (中国神話)|伯益]]が賜ったとされている。それ以前の趙氏は魯に居住していたとされる。 |
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周朝の属国として、その後秦人と[[西戎]]は長くて残酷な戦いをした。[[紀元前822年]]に[[荘公 (秦)|荘公]]の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の[[陝西省]][[眉県]])の大夫になった。 |
周朝の属国として、その後秦人と[[西戎]]は長くて残酷な戦いをした。[[紀元前822年]]に[[荘公 (秦)|荘公]]の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の[[陝西省]][[眉県]])の大夫になった。 |
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その後、孝公の子の[[恵文王 (秦)|恵文王]]が[[紀元前324年]]に'''王'''を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・[[燕 (春秋)|燕]]・[[楚 (春秋)|楚]]の五カ国連合軍が攻めて来たが、[[樗里疾]]がこれを破った([[函谷関の戦い (紀元前318年)|函谷関の戦い]])。[[紀元前316年]]に恵文王は{{仮リンク|巴蜀 (歴史)|zh|巴蜀|label=巴蜀}}(現在の[[四川省]])を占領し({{仮リンク|秦滅巴蜀の戦い|zh|秦滅巴蜀之戰}})、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、[[長江]]の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた[[張儀]]を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し([[藍田の戦い]])、楚の[[懐王]]を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の[[武王 (秦)|武王]]との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。 |
その後、孝公の子の[[恵文王 (秦)|恵文王]]が[[紀元前324年]]に'''王'''を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・[[燕 (春秋)|燕]]・[[楚 (春秋)|楚]]の五カ国連合軍が攻めて来たが、[[樗里疾]]がこれを破った([[函谷関の戦い (紀元前318年)|函谷関の戦い]])。[[紀元前316年]]に恵文王は{{仮リンク|巴蜀 (歴史)|zh|巴蜀|label=巴蜀}}(現在の[[四川省]])を占領し({{仮リンク|秦滅巴蜀の戦い|zh|秦滅巴蜀之戰}})、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、[[長江]]の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた[[張儀]]を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し([[藍田の戦い]])、楚の[[懐王]]を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の[[武王 (秦)|武王]]との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。 |
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[[紀元前298年]]、斉の宰相の[[孟嘗君]]が韓・魏との連合軍を組織し、[[匡章]]を統帥として秦に侵攻した︵ |
[[紀元前298年]]、斉の宰相の[[孟嘗君]]が韓・魏との連合軍を組織し、[[匡章]]を統帥として秦に侵攻した︵[[函谷関の戦い (紀元前298年)]]︶。秦が函谷関に追いつめられると趙・[[宋 (春秋)|宋]]も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。[[紀元前288年]]には斉の[[湣王]]が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の[[楽毅]]が指揮する五国連合軍により、都の[[臨淄]]が陥落︵[[済西の戦い]]︶。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。
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恵文王の子で、武王の異母弟の[[昭襄王]]の時代に宰相の[[魏冄]]と[[白起]]将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた[[范雎]]を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な[[遠交近攻]]策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
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恵文王の子で、武王の異母弟の[[昭襄王]]の時代に宰相の[[魏冄]]と[[白起]]将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた[[范雎]]を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な[[遠交近攻]]策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
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{{main|秦の統一戦争}} |
{{main|秦の統一戦争}} |
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[[File:Hou Xuanxuan The situation map of Qin's war.gif|300px|right|蓁の統一戦争による領土の拡大]] |
[[File:Hou Xuanxuan The situation map of Qin's war.gif|300px|right|蓁の統一戦争による領土の拡大]] |
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[[ファイル:QinShiHuang19century.jpg|thumb|200px|始皇帝]] |
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[[紀元前247年]]、[[始皇帝|秦王政]]が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた[[相国]]呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕<ref group="注">[[s:史記/卷006|『史記』始皇本紀]]では[[衛]]となっている。</ref> の五カ国[[合従連衡|合従軍]]が攻めてきたが、[[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]]で撃退した{{sfn|島崎晋|2019|pp=79–81}}<ref>『[[s:史記/卷006|史記 巻六 秦始皇本紀]]』:([[始皇帝|始皇]])六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。</ref><ref>『[[s:史記/卷043|史記 巻四十三 趙世家]]』:([[悼襄王]])四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。</ref><ref>『[[s:史記/卷040|史記 巻四十 楚世家]]』:([[考烈王]])二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。</ref><ref>『[[s:史記/卷078|史記 巻七十八 春申君列伝]]』:攻秦至函谷関。</ref>。その後も王弟の長安君[[成蟜]]の反乱や母の[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]と愛人の[[嫪アイ|嫪毐]]の反乱が起きた{{sfn|島崎晋|2019|pp=32–34}}。[[紀元前238年]]に[[嫪毐の乱]]に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。 |
[[紀元前247年]]、[[始皇帝|秦王政]]が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた[[相国]]呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕<ref group="注">[[s:史記/卷006|『史記』始皇本紀]]では[[衛]]となっている。</ref> の五カ国[[合従連衡|合従軍]]が攻めてきたが、[[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]]で撃退した{{sfn|島崎晋|2019|pp=79–81}}<ref>『[[s:史記/卷006|史記 巻六 秦始皇本紀]]』:([[始皇帝|始皇]])六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。</ref><ref>『[[s:史記/卷043|史記 巻四十三 趙世家]]』:([[悼襄王]])四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。</ref><ref>『[[s:史記/卷040|史記 巻四十 楚世家]]』:([[考烈王]])二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。</ref><ref>『[[s:史記/卷078|史記 巻七十八 春申君列伝]]』:攻秦至函谷関。</ref>。その後も王弟の長安君[[成蟜]]の反乱や母の[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]と愛人の[[嫪アイ|嫪毐]]の反乱が起きた{{sfn|島崎晋|2019|pp=32–34}}。[[紀元前238年]]に[[嫪毐の乱]]に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。 |
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2024年6月5日 (水) 06:26時点における最新版
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- 秦
-
← 前905年 - 前206年 →
(受命於天 既壽永昌[1])
全国統一時の秦の版図(紀元前210年)-
公用語 古代中国語 首都 秦邑(張家川回族自治県)
西犬丘(礼県)
汧邑(西垂(眉県)地区)
汧渭之会(眉県の北東、汧水・渭水の合流地点)
平陽
雍城
涇陽
櫟陽
咸陽
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先史時代 中石器時代 新石器時代 | |||||||||||
三皇五帝 (古国時代) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
夏 | |||||||||||
殷 | |||||||||||
周(西周) | |||||||||||
周 (東周) |
春秋時代 | ||||||||||
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秦 | |||||||||||
漢(前漢) | |||||||||||
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呉 (孫呉) |
漢 (蜀漢) |
魏 (曹魏) | |||||||||
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晋(東晋) | 十六国 | ||||||||||
宋(劉宋) | 魏(北魏) | ||||||||||
斉(南斉) | |||||||||||
梁 | 魏 (西魏) |
魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
周(武周) | |||||||||||
五代十国 | 契丹 | ||||||||||
宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
遼 | |||||||||
宋 (南宋) |
金 | ||||||||||
元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲 | ||||||||||
中華人民 共和国 |
中華 民国 (台湾) | ||||||||||
国姓 | 嬴姓趙氏 |
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爵位 |
前905年、附庸 前770年、伯爵 前325年、王 前288年、帝 前221年、皇帝 天子位 |
国都 |
1.秦邑 2.前776年、汧邑 3.前763年、汧渭之会 4.前714年、平陽 5.前677年、雍 6.前383年、櫟陽 7.前350年、咸陽 |
分封者 |
1. 孝王 非子が附庸に封じられる 2. 平王 襄公が伯爵となり正式に諸侯国となる |
始祖 |
秦非子(周の孝王により附庸に封される) 襄公(周の平王により正式に諸侯となる) |
滅亡原因 | 秦王子嬰が沛公劉邦に降伏 |
史書の記載 |
『史記』 巻5・秦本紀 巻6・秦始皇本紀 『春秋左氏伝』 始見于桓公四年 |
周朝諸侯国一覧 |
歴史[編集]
周代[編集]
紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑︵現在の甘粛省張家川回族自治県︶であったという。 伝説上では嬴姓は舜の臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の趙氏は魯に居住していたとされる。 周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂︵現在の陝西省眉県︶の大夫になった。春秋・戦国時代[編集]
春秋時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E8%AF%B8%E4%BE%AF%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E7%AE%80%E5%9B%BE.png/300px-%E6%98%A5%E7%A7%8B%E8%AF%B8%E4%BE%AF%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E7%AE%80%E5%9B%BE.png)
襄公の受封[編集]
紀元前770年、周の幽王が申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎に鎬京が荒され、幽王と褒姒、太子の伯服が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘︵現在の甘粛省礼県︶であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。早期の歴史[編集]
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は汧水・渭水の合流地点︵秦︶に行き、﹁昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた﹂と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍︵現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東︶に置いた。覇者[編集]
穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した︵韓原の戦い︶。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった︵殽の戦い、彭衙の戦い︶。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。戦国時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg/300px-ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg)
統一戦争[編集]
![蓁の統一戦争による領土の拡大](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Hou_Xuanxuan_The_situation_map_of_Qin%27s_war.gif/300px-Hou_Xuanxuan_The_situation_map_of_Qin%27s_war.gif)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/QinShiHuang19century.jpg/200px-QinShiHuang19century.jpg)
韓と趙の滅亡[編集]
紀元前236年、趙の鄴を王翦と桓齮・楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 9][11]。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[12][13]。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14]。同年、韓の公子︵君主の子︶である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。 しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[15]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[16][17][18][19]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。 紀元前230年、内史騰が韓を滅ぼした[20][21][22]。 紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]。 紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 10][20][21][22]。燕との戦いと、魏の滅亡[編集]
紀元前227年、燕の太子丹が刺客の荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。 紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]。楚と燕、斉の滅亡[編集]
同年、李信と蒙恬が楚に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]。 紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]、紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 11][30][22]、紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]。中華統一[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Qin_Dynasty.png/240px-Qin_Dynasty.png)
混乱と滅亡[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/20050410.png/240px-20050410.png)
政治[編集]
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。 秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。官制[編集]
秦の官制は前漢と同じく丞相︵首相︶・太尉︵軍事︶・御史大夫︵監察・あるいは副首相︶の三公を頂点とする三公九卿制である︵詳しくは前漢を参照︶。 地方制度では商鞅の改革時に全国を31︵あるいは41︶の県に細分し、それぞれに令︵長官︶と丞︵副長官︶を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、郡守︵長官︶・丞︵副長官︶・尉︵軍事担当︶・監︵監察官︶をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である︵区別して県令・県丞と呼ばれることもある︶。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。法制[編集]
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。 漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として﹁律九章﹂と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この﹁律九章﹂は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと﹃晋書﹄にはある。しかしこの記載が﹃漢書﹄にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。 そして秦の法律に関する一次資料として﹃睡虎地秦簡﹄と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。経済[編集]
始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。 ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、﹃史記﹄の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。文化[編集]
統一前の秦に関する資料として石鼓文︵せっこぶん︶・詛楚文︵そそぶん︶と呼ばれるものがある。 石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。歴代君主[編集]
伝説時代(趙氏の祖先)[編集]
祖先神話 | 備考 |
---|---|
女脩 | 顓頊の苗裔 |
大業 | |
大費(柏翳) | 帝舜から嬴姓を賜う |
大廉 | 鳥俗氏(鳥洛氏)の始祖 |
*若木 (中国神話) | 費氏の始祖 |
… 嬴爾成 |
|
嬴高 | |
嬴磷 | |
中衍 | |
嬴子豊 | |
嬴謝 | |
戎胥軒 | |
中潏 | |
蜚廉 | 両子:悪来(秦氏・梁氏の始祖)、季勝(趙氏の始祖) |
(ここまでは趙の祖先神話である)
伝説時代[編集]
伝説時代 |
---|
悪来(革) |
女防 |
旁皋 |
太幾 |
大駱 |
(秦は分家であり本家である趙氏の配下として寄寓していた)
秦君[編集]
秦子 | 統治年数 |
---|---|
非子(秦嬴) | 紀元前905年 - 紀元前858年 |
秦侯 | 紀元前857年 - 紀元前848年 |
公伯 | 紀元前847年 - 紀元前845年 |
秦仲 | 紀元前844年 - 紀元前822年 |
荘公 | 紀元前821年 - 紀元前778年 |
秦伯[編集]
秦伯 | 統治年数 |
---|---|
襄公 | 紀元前777年 - 紀元前766年 |
文公 | 紀元前765年 - 紀元前716年 |
憲公 | 紀元前715年 - 紀元前704年 |
出子 | 紀元前703年 - 紀元前698年 |
武公 | 紀元前697年 - 紀元前678年 |
徳公 | 紀元前677年 - 紀元前676年 |
宣公 | 紀元前675年 - 紀元前664年 |
成公 | 紀元前663年 - 紀元前660年 |
穆公 | 紀元前659年 - 紀元前621年 |
康公 | 紀元前620年 - 紀元前609年 |
共公 | 紀元前608年 - 紀元前604年 |
桓公 | 紀元前603年 - 紀元前577年 |
景公 | 紀元前576年 - 紀元前537年 |
哀公 | 紀元前536年 - 紀元前501年 |
恵公 | 紀元前500年 - 紀元前491年 |
悼公 | 紀元前490年 - 紀元前477年 |
厲共公 | 紀元前476年 - 紀元前443年 |
躁公 | 紀元前442年 - 紀元前429年 |
懐公 | 紀元前428年 - 紀元前425年 |
霊公 | 紀元前424年 - 紀元前415年 |
簡公 | 紀元前414年 - 紀元前400年 |
恵公 | 紀元前399年 - 紀元前387年 |
出公 | 紀元前386年 - 紀元前385年 |
献公 | 紀元前384年 - 紀元前361年 |
孝公 | 紀元前361年 - 紀元前338年 |
秦王[編集]
秦王 | 統治年数 |
---|---|
恵王 | 紀元前337年 - 紀元前311年 |
武王 | 紀元前310年 - 紀元前307年 |
昭王 | 紀元前306年 - 紀元前251年 |
孝文王 | 紀元前250年[注 12] |
荘襄王 | 紀元前249年 - 紀元前247年 |
趙政 | 紀元前246年 - 紀元前221年 |
皇帝[編集]
皇帝 | 統治年数 |
---|---|
始皇帝[注 13] | 紀元前221年 - 紀元前210年 |
二世皇帝 | 紀元前209年 - 紀元前207年 |
秦王[編集]
王 | 統治年数 |
---|---|
子嬰[注 6] | 紀元前207年[注 14] |
脚注[編集]
注釈[編集]
参考文献[編集]
参考文献[編集]
●佐藤信弥﹃周-理想化された古代王朝﹄中央公論新社、2016年。ISBN 978-4-12-102396-4。 ●島崎晋﹃春秋戦国の英傑たち﹄双葉社、2019年。ISBN 978-4-575-45788-9。 ●寺田隆信﹃物語 中国の歴史﹄中央公論新社、1997年。ISBN 4-12-101353-0。 ●Li, Bo; Zheng, Yin (2001) (中国語), ︽中华五千年︾ [5000 years of Chinese History], Inner Mongolian People's publishing, ISBN 7-204-04420-7.関連項目[編集]
●支那 ●徐福 ●秦氏 ●秦王国外部リンク[編集]
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