トニー・シェリダン
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トニー・シェリダン | |
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トニー・シェリダン(2004年11月) | |
基本情報 | |
出生名 | アンソニー・エズモンド・シェリダン・マギニティ |
生誕 | |
死没 | |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1958年 - 2013年 |
レーベル | ポリドール・レコード |
共同作業者 | ザ・ビート・ブラザース |
公式サイト | tony-sheridan.de |
アンソニー・エズモンド・シェリダン・マギニティ︵Anthony Esmond Sheridan McGinnity、1940年5月21日 - 2013年2月16日︶は、トニー・シェリダン︵Tony Sheridan︶の名で知られるイングランド出身のロックンロールのシンガーソングライターである。
1960年代はじめのドイツで、無名時代のビートルズをバックに据えて録音したシングル盤を﹁トニー・シェリダンとザ・ビート・ブラザース﹂名義で出したことで知られており、レコードのレーベル上でビートルズと共同でのクレジットを残した2人のうちの1人である︵もう1人はビリー・プレストン︶。
ポール・マッカートニーからは、﹁ティーチャー︵先生︶﹂と呼ばれるなど、ビートルズに音楽面での影響を与えた[2]。
経歴[編集]
トニー・シェリダンは、ノーフォークのノリッジで生まれた。幼い頃は、両親の趣味であったクラシック音楽に影響され、7歳の時にはヴァイオリンを習っていた。やがてギターを弾くようになったシェリダンは、1956年に最初のバンドを結成した。1958年、18歳のときに、BBCテレビの若者向け音楽番組﹃Oh Boy !﹄に、エレクトリックギターの演奏で出演するようになった。やがてシェリダンは、ジェッツ(The Jets)というバンドの一員として、ドイツのハンブルクへ渡った[3]。しかし、ジェッツはハンブルクに長居はせず、やがて他のメンバーは帰国してしまうが、シェリダンはハンブルクに残り、ソロ歌手として活動を続け、ハンブルクの歓楽街レーパーバーンを代表するクラブだったトップ・テン・クラブのステージに立った。 1960年から1963年にかけて、ハンブルクで活動している間、シェリダンはいろいろなバックバンドを雇っていた。1961年に、シェリダンが雇ったバンドのひとつが、1960年に初めてハンブルクへ来た時からシェリダンと面識があったビートルズで、当時のメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの5人だった。ただし、シェリダンとビートルズの関係は、単なるシンガーとバック・バンドというよりも、もっと共生的なもので、ビートルズはシェリダンのバックを務めることもあったが、時にはシェリダンがバックに回り、ギタリストとしてビートルズのステージに参加することもあった。ドイツのポリドール・レコードのエージェントだったベルト・ケンプフェルトは、こうしたシェリダンとビートルズのステージを観て、彼らに一緒にレコードを作ったらどうかと勧めた。こうして行われたのが、いわゆるビートルズのポリドール・セッションである。 1961年に録音され、ドイツで発売された最初のシングル盤﹁My Bonnie/The Saints (聖者の行進)﹂は、5位となるヒットとなり、続けて数枚のシングルがドイツで出された後、1962年には、アメリカ・デッカのブラック・レーベルから﹁My Bonnie﹂のシングル盤が発売され、店頭でのデモンストレーション用のピンク・レーベルでもレコードが出された。現在ではこのレコードは、シングル盤としては最も高価な部類になっており、2007年にはブラック・レーベルの未使用完品に1万5千ドル、ピンク・レーベル盤でも3千ドルの値が付けられた。なお、リンゴ・スターも、1962年の一時期にシェリダンのバック・バンドに参加していた時期がある。彼は、シェリダンがバンドとリハーサルをしないまま歌を実演にかけるのが気に入らず、結局は元のバンドであるロニー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズに戻ってしまい、僅かなタイミングのズレで、シェリダンのアルバム・デビュー作で演奏する機会を失することになった。 1962年、ポリドールはドイツでアルバム﹃My Bonnie﹄をリリースした。このとき﹁ビートルズ﹂というバンド名は、ドイツ語の隠語で男性性器を意味する語の複数形﹁ピーデルス (Pidels)﹂と音が似ていると判断され、演奏者のクレジットは﹁トニー・シェリダンとザ・ビート・ブラザース (Tony Sheridan and The Beat Brothers)﹂とされた。その後、ビートルズが有名になると、このアルバムはイギリスでも発売され、クレジットは﹁トニー・シェリダンとザ・ビートルズ (Tony Sheridan and The Beatles)﹂に変更された。ビートルズのハンブルク時代のスタジオ録音や、当時のライブ音源は、何十年にも渡って何度も形を変えながら再発売されている。 シェリダンの音楽のスタイルは、1960年代半ばに突然大きな変化を遂げ、彼の出発点であり得意としていたロックンロールから、ブルースや、時としてジャズへと転換した。これを支持するファンも一部にはいたが、ロック・ファンには全く受け入れられなかった。これを予告するように、1964年のアルバム﹃Just A Little Bit Of Tony Sheridan﹄のライナーノーツには、シェリダンの音楽嗜好がロックではなく﹁ジャズとクラシック﹂であり、また、シェリダンが﹁直接、オリジナルのニグロ音楽を聴き、大好きなニグロ・ジャズやスピリチュアルを生み出した風土を体験するために﹂合衆国南部へ行ってみたいと望んでいたことが記されている。 シェリダンは、その後もハンブルクのトップ・テン・クラブで長年歌い続けたが、ポリドールとのレコード契約はやがて打ち切りになってしまった。 1967年、シェリダンは、ビートルズとの縁によってもたらされた名声に幻滅していた。ベトナム戦争に関心を持ったシェリダンは、連合軍部隊(米軍のほか、韓国軍などが参戦していた)のために、現地で公演することに同意した。しかし、ベトナムでは、バンドが銃撃を受け、メンバーのひとりが殺された。ロイター通信は、シェリダン自身が死んだという誤報を流した。連合軍を慰問したことに対して、シェリダンはアメリカ陸軍名誉大尉の称号を与えられた。 1970年代はじめ、シェリダンは西ドイツで、ブルースのラジオ番組を運営した。1978年に、かつてビートルズが出演していたことで有名だったハンブルクのスタークラブが再オープンしたときには、エルヴィス・プレスリーのバックを務めていたTCBバンドとともに演奏した。 2002年4月13日、シェリダンはアルバム﹃Vagabond﹄をリリースした。収録曲はほとんどが自作を集めたものだったが、かつて最初のアルバムのために録音した﹁Skinny Minnie﹂のカバーも含まれていた。同年、シェリダンは、アルゼンチンのロック・ミュージシャン、チャーリー・ガルシアのアルバム﹃Influencia﹄に、ギターとヴォーカルで参加した。 晩年シェリダンは、妻のアンナとともに、ハンブルク北郊のゼーシュテルミューヘという村に住んでいた。シェリダンは音楽に加え、紋章学にも関心を持っており、紋章のデザインもしていた。 2013年2月16日、ハンブルクの病院で心臓の手術を受けた後、他界した。72歳没。ディスコグラフィ[編集]
●1961年: My Bonnie with The Beat Brothers/Beatles ●1962年: シングル﹁Ich Lieb' Dich So (Ecstasy)/Der Kiss - Me Song﹂ - ﹁Ecstasy﹂は、フィル・スペクターの作。 ●1964年: Just A Little Bit of Tony Sheridan with The Big Six ●1965年: My Babe with The Big Six ●1966年: Meet The Beat - 10インチ盤(25センチ盤)と12インチ盤(30センチ盤)では、内容が大きく入れ替わっており、共通しているのは2曲しかない。12インチ盤(そしてCD)は、﹁Jailhouse Rock﹂、﹁Fever﹂、﹁Shake, Rattle, And Roll﹂の1966年の録音を収録している。 ●1974年: Live in Berlin '73 ●1976年: On My Mind (自主制作盤) ●1984年: Novus ●1986年: Ich lieb Dich so ●1994年: Here & Now! - ロックの古典的作品﹁Money Honey﹂や、﹁What'd I Say﹂と﹁Skinny Minnie﹂の新録音を含む。 ●1996年: Tony Sheridan & The Beat Brothers Live And Dangerous - バンドは、Howie Casey、Roy Youngら。﹁Good Golly Miss Molly﹂などを収録。 ●2001年: Fab Four Collection with The Beat Brothers -﹁Johnny B. Goode﹂、﹁Money﹂、﹁My Bonnie﹂、﹁Skinny Minnie﹂などの新録音。 ●2002年: Vagabond ●2004年: Chantal Meets Tony Sheridan ●2008年: ...and so it goes - デイヴ・ハンフリーズ(Dave Humphries)のアルバムに客演。11曲中5曲に参加[4]。出典・脚注[編集]
(一)^ abAnkeny, Jason. Tony Sheridan | Biography & History - オールミュージック. 2021年8月12日閲覧。
(二)^ “ビートルズのポリドール・セッション”を行なったトニー・シェリダン、死去
(三)^ ﹃Mersey Beat﹄誌のBill Harryによる﹃The Early Tapes of The Beatles﹄のライナーノーツ(1985年)の記述では、The Jet は当初、Große FreiheitのBruno Koschmieder's Clubで演奏していたという。
(四)^ New CD includes guest appearance from Tony Sheridan
参考文献[編集]
- Thorsten Knublauch und Axel Korinth, Komm, Gib Mir Deine Hand – Die Beatles in Deutschland 1960 – 1970, Books on Demand Gmbh, 2008. ISBN 978-3-8334-8530-5
- Eric Krasker, The Beatles - Fact and Fiction 1960-1962, Paris, Séguier, 2009. ISBN 978-2-84049-523-9
外部リンク[編集]
- 公式サイト - ウェイバックマシン(2011年12月23日アーカイブ分)
- PayBack Productions (2001, 2002) About Tony, retrieved Dec. 28, 2004
- http://www.tony-sheridan.de/start/biography.php?lang=en, retrieved Dec. 28, 2004
- Daniels, Frank (1998, 2000, 2001) The Beatles with Tony Sheridan, retrieved Jan. 1, 2005