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松平 成重︵まつだいら なりしげ︶は、江戸時代前期の武将・大名。下野国板橋藩の第2代藩主、三河国西尾藩主、丹波国亀山藩の初代藩主。親清流大給松平家4代当主。
松平一生の長男として誕生した。母は松平忠成の娘。
慶長9年︵1604年︶、父が死去したため、その跡を継いで下野板橋1万石を領した。慶長19年︵1614年︶、大久保忠隣改易の連座で里見忠義が改易されると、その城受け渡しと破却を務めた。同年冬からの大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌年の大坂夏の陣では本戦に参加し、首級を12個挙げたという。
元和3年︵1617年︶、三河西尾2万石に加増移封された。元和7年︵1621年︶、さらに2200石加増され、合計2万2200石として丹波亀山に加増移封された。寛永3年︵1626年︶、徳川秀忠・家光父子の上洛に付き従った。
寛永10年︵1633年︶9月16日、40歳で死去した。家督は次男の忠昭が嗣いだ。法名は見樹院殿覚誉円徹大居士。最初は深川の法禅寺に葬られたが、後に小石川伝通院に改葬されている。
徳川家康の養女︵松平康元の長女椿姫︶を正室として亀山藩主の時に迎えた。逝去は寛永6年︵1629年︶11月21日。建平寺改め久松寺︵現在の京都府亀岡市︶に久松院としてある。成重以来、公儀行事、祝事における三つ葉葵紋の使用を認められる。
父母
●松平一生︵父︶
●松平忠成の娘︵母︶
正室、継室
●椿姫、久松院 ー 徳川家康の養女、松平康元の長女︵正室︶
●安藤重信の娘︵継室︶
子女
●松平勝広︵長男︶生母は継室
●松平忠昭︵次男︶生母は継室
●松平一重︵三男︶生母は継室
●松平重勝︵四男︶
●松平近憲︵五男︶
●本多康長正室後に竹山某室、生母は継室
●皆川秀隆正室、生母は継室
●岡本次正室
●木村成政室
大給松平氏 板橋藩2代藩主(1604年 - 1617年) |
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大給松平家 西尾藩藩主 (1617年 - 1621年) |
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本多家 |
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大給松平家 |
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本多家 |
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1636年から1638年まで幕府領
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太田家 |
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1644年から1645年まで幕府領
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井伊家 |
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増山家 |
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土井家 |
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三浦家 |
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大給松平家 |
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大給松平家 丹波亀山藩初代藩主 (1621年 - 1633年) |
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前田家 |
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岡部家 |
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大給松平家 |
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菅沼家 |
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藤井松平家 |
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久世家 |
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井上家 |
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青山家 |
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形原松平家 |
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