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すぐ[[憲法評議会]]が設置された。これを[[ローヌ・プーラン]]や[[エッソ]]の重役であったレオン・ノエルが主宰した<ref name=leon>『ドゴール体制と大資本』 26頁</ref>。彼はペタンの死後に政権を継承するよう遺言された7人のうちの1人で、さらにフランス国民連合の指導者の1人でもあった<ref name=leon />。1949年に連合の全国評議会副議長となり、1951年から1958年まで下院議員を務めていた。 |
すぐ[[憲法評議会]]が設置された。これを[[ローヌ・プーラン]]や[[エッソ]]の重役であったレオン・ノエルが主宰した<ref name=leon>『ドゴール体制と大資本』 26頁</ref>。彼はペタンの死後に政権を継承するよう遺言された7人のうちの1人で、さらにフランス国民連合の指導者の1人でもあった<ref name=leon />。1949年に連合の全国評議会副議長となり、1951年から1958年まで下院議員を務めていた。 |
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1958年9月、[[フランス領西アフリカ]]および[[フランス領赤道アフリカ]]の広大なフランス領の植民地に対し、フランス共同体の下での大幅な自治を認める第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だった[[セク・トゥーレ]]率いる[[ギニア]]はこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認した<ref>勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p17</ref>。1959年9月、ド・ゴールはアルジェリア人に[[民族自決]]を認めると発言した。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にアルジェ市でバリケードの1週間と呼ばれる反乱を起こした。1961年4月に[[アンドレ・ゼレール]]、[[ラウル・サラン]]、[[モーリス・シャール]]、[[エドモン・ジュオー]]の4人が反乱し、ド・ゴールが速やかに鎮圧した([[将軍達の反乱]])。[[右翼]]組織[[秘密軍事組織|OAS]]も[[テロ]]によりアルジェリア領有の継続を主張したが、1962年にド・ゴールは独立を[[国家の承認|承認]]した。ド・ゴールはこの間に度々OASのテロと暗殺の標的となった(→''詳細は「[[ジャッカルの日]]」項を参照'')。1962年8月にパリ郊外の[[クラマール|プティ=クラマール]]で、乗っていた自動車がOASにより機関銃で銃撃されたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。 |
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2024年5月18日 (土) 18:40時点における版
シャルル・ド・ゴール Charles de Gaulle | |
1963年7月4日
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任期 | 1959年1月8日 – 1969年4月28日 |
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首相 | ミシェル・ドブレ ジョルジュ・ポンピドゥー モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル |
任期 | 1958年6月1日 – 1959年1月8日 |
大統領 | ルネ・コティ |
任期 | 1944年8月20日 – 1946年1月26日 |
出生 | 1890年11月22日 フランス・ノール県リール |
死去 | 1970年11月9日(79歳没) フランス・オート=マルヌ県 コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ |
政党 | フランス人民連合(RPF) 新共和連合(UNR) 共和民主連合(UDR) |
出身校 | サン・シール陸軍士官学校 |
配偶者 | イヴォンヌ・ヴァンドルー |
子女 | フィリップ・ド・ゴール エリザベート・ド・ボワシュー アンヌ・ド・ゴール |
署名 |
シャルル・ド・ゴール Charles de Gaulle | |
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シャルル・ド・ゴール将軍(1942年) | |
渾名 |
大元帥 大きなアスパラガス |
所属組織 | フランス陸軍 |
軍歴 | 1912年9月 – 1944年6月 |
最終階級 | 旅団将軍(Général de brigade) |
出身校 | サン・シール陸軍士官学校 |
経歴
生い立ち
1890年11月22日、ノール県リールにて、イエズス会学院の校長として歴史科を教えていた父アンリ・ド・ゴールと、母ジャンヌ・マヨーの間に生まれた。当時は露仏同盟の時代であった。 ジャンヌはノール県の名門実業家と姻戚関係にある︵Les Maillot-Drouers, les Kolb-Bernard[注釈 1], les Gustave de Corbie︶。ジャンヌから5親等辿ったところに、ソジェンからインドシナ銀行重役として派遣されたオクタヴ・オンベルグ・パパがいる[2][注釈 2]。その子であるオクタヴ・オンベルグ・ジュニアは世界恐慌の時にラザードとフランス植民地金融社を創業した。ロレーヌ地方の金融勢力はド・ゴールの政治生命に関わる存在でありつづけた。 父のアンリは医学博士・理学博士・文学博士の3つの博士号を持っていた。また、アンリは普仏戦争に騎兵中尉として参戦して負傷し、祖国の敗戦を経験している。幼少のド・ゴールを度々戦跡に連れて行くなどの軍人教育を行った。祖父のジュリアンは著名な歴史学者だったという。曽祖父はルイ16世の法律顧問で、フランス革命時に投獄された。 ド・ゴールはフットボールと文学が好きな少年であり、16歳の時には﹁悪しき出会い﹂と題された戯曲(1930年にドイツ軍がフランスを侵略するという、いわば仮想戦記)がコンクールで一等に入賞した。25フランの賞金は自書の出版に用いられた。軍歴
第一次世界大戦まで
幼い頃より歴史に関心を持ち、コレージュ・スタニスラスを経て、1909年9月にサン・シール陸軍士官学校に入学した[3]。卒業後は1912年9月に歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属されたが[4]、歩兵第33連隊はのちのヴィシー政権の指導者となるフィリップ・ペタンの連隊だった。第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年にはヴェルダン戦で部隊を指揮した[注釈 3]。ド・ゴールは最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄﹁天女の宿﹂で生活しており、戦中5回脱獄を図ったものの全て失敗した[注釈 4]。1916年3月2日にヴェルダンのドゥオーモン要塞付近で捕虜となったド・ゴールはインゴルシュタット第9要塞捕虜収容所、ドイツ中部クローナハのローゼンベルク捕虜収容所、インゴルシュタットとニュルンベルクの中間にあるヴァイセンブルク近郊のヴュルツブルク捕虜収容所などを転々とし、この間に5回もド・ゴールは脱走しているが、その度に連れ戻されてようやく休戦を迎えた。ポーランドから中東へ
戦後はポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都のワルシャワまで迫られていた︵ポーランド・ソビエト戦争︶[注釈 5]。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、﹁ポーランド軍少佐﹂の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。1921年にド・ゴールは帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた。同年4月7日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚した[注釈 6]。この年に弟のピエール・ド・ゴールがユニオン・パリジェンヌへ入行した[5]。 1922年11月、フランス陸軍大学校入学。1924年10月、陸大卒業。そして数年の間ペタンに買われ軍事教育を担い、﹁戦闘行為と指揮官﹂という特別講演も行った[注釈 7]。1926年にレイモン・ポアンカレ内閣が預金供託金庫と別個の独立償却金庫を廃して﹁国防証券管理・たばこ産業経営・公債償却のための独立金庫﹂を創設し、旧オスマン帝国領から莫大な財源を得た。1929年11月にド・ゴールがベイルート・キャンプで軍事情報を管理した。1931年11月にパリの軍事最高会議事務局に入る。1932年12月にド・ゴールは中佐となり、軍事最高会議事務長に就任した。1934年に﹃機甲化軍にむけて﹄、1938年に﹃フランスとその軍隊﹄を執筆した。アドルフ・ヒトラーはド・ゴールの著書である﹃職業的軍隊を目指して﹄を読んで感銘を受けたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いしていた[6]。前後して1934年にエルヴェ・アルファンがオスマン債務管理局の廃止されたトルコに派遣されている。1937年12月に大佐となった。電撃作戦の推進
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いののち、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まった。﹁マジノ線﹂をドイツ軍は機動力のある装甲部隊で迂回し、フランス軍はわずか1か月間で敗北した。開戦直後の5月15日に﹁モーター大佐﹂のド・ゴールは新編の第4機甲師団長に任命されており、そこで戦車の集中運用を行った。ソンム県アブヴィル近辺の反撃では、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返した。その後間もなくド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れた。自由フランスと制憲議会
亡命政権とアフリカ
1940年6月には同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で少将︵旅団将軍︶[注釈 8][7]となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合・亡命的性格の政策・英仏連合︵フランスとイギリスとの政治統合構想︶に奔走した。イギリス側の閣議決定後にフランス政府の避難先のボルドーに向かったが、レノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれた。地中海の政治・経済
1943年1月、フランスの指導者を決める為のカサブランカ会談が開催されたが決着しなかった。5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールをレジスタンスの指導者と決定したが、6月にアルジェリアで結成されたフランス国民解放委員会はド・ゴールとジローを共同代表とした[注釈 10]。この二頭体制は11月にジローが辞職するまで続いた。委員会は翌1944年にフランス共和国臨時政府に改組され、ド・ゴールが代表となった。 1944年6月、連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が成功した。その後ドゴールは祖国に戻って自由フランス軍を率い連合軍と共に戦い、同年8月25日にパリを解放した。翌26日にエトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。 フランス解放後に臨時政府がフランスの統治を行うこととなり、制憲議会は満場一致でド・ゴールを臨時政府の主席に選出した。ド・ゴールは自由フランス時代から第三共和政の議会制度には欠陥があると主張していたため[10]、他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党 (SFIO)・共産党から批判を受けた。ド・ゴールは経済政策としてエメ・ルペルク蔵相を用いた[11][注釈 11]。エメは1923年からシュナイダー家でキャリアを積み東ヨーロッパに確固たる地盤を築いていた[11]。そしてド・ゴールは1945年10月、ミシェル・ドブレのデクレでフランス国立行政学院︵ENA︶を設けてエリート官僚が主導する格差国家としてフランスを運命づけた。社会党が軍備費を20パーセント削減する予算を提案するに及び、ド・ゴールは予算案に反発して1946年1月に突如として首相を辞任した[12][注釈 12]。 制憲議会が制定した草案が否決され、再度行われた制憲議会選挙で人民共和派が躍進した。ド・ゴールは自らの憲法構想を表明するようになった︵1946年6月16日バイユー演説など︶[10]。ド・ゴールは政府と大統領の権限を強化し、政府内部での統一が図られるべきだと主張したが、実際に採択されたフランス第四共和政憲法には反映されなかった[13]。彼はこの信念から1947年にフランス国民連合︵略称RPF︶を結成した[注釈 13]。この前後に渡ってド・ゴールは財政を支配して、1945年にルノーを、1948年にエールフランス航空を国営化した。翌1949年8月4日にシコバンを創設し、この間には閨閥も固めた。1946年に長女のエリザベートが軍人のアラン・ド・ボワシューと結婚した。ボワシュー家はシュナイダー家と姻戚関係にある[15]。ボワシュー家のミシェル︵Michel de Boissieu、1917 - 2009︶はロスチャイルドのペナロヤで専務理事となる[15]。1947年に長男のフィリップがモンタランベール家の娘と結婚[15]。モンタランベール家は1929年4月から既にヴァンデル家と姻戚であった[15]。 ド・ゴールはマーシャル・プランを受け入れ、ジャン・モネが独占資本のさらなる育成計画を立案した︵モネ・プラン、1948年 - 1953年︶。1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。1952年には欧州防衛共同体の批准を拒んだ。1955年にザール独立が住民投票で阻止され、ド・ゴールは﹁公的生活から引退する﹂と宣言した。1956年からはボワシューがアルジェリア戦争で軍を指揮した[注釈 14]。第五共和制大統領
再登板とリュエフ
1958年5月、アルジェリアのフランス植民者︵コロン︶がアルジェリアの独立運動に対抗するためアルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、﹁ド・ゴール万歳﹂を唱えてフランス本土への侵攻計画を立てた︵アルジェ動乱︶。現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。そこで当時の首相ピエール・フリムランと大統領のルネ・コティは軍に顔の利くド・ゴールに出馬を要請した[注釈 15]。 ﹁現在の極めて困難な情勢の中で行動するために必要な全権﹂を求め[16]、1946年憲法が﹁政党支配制︵Régime des partis︶﹂に他ならず、執行府により大きな安定性と権威とを与えるが、だからといって民主的であることをやめないような新しい政治体制に、座を譲るべきであると確信していた[17]。ド・ゴールは首相指名を受けたあとの6月1日、国民議会に対して6か月間の全権委任を要求し、新憲法草案を提示した。議会はこれを承認してド・ゴールは正式に首相に就任した[18]。この全権は1958年6月3日の憲法的法律によって承認された[18]。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。そして6月4日にアルジェのアルジェリア総督府からド・ゴールが﹁私は諸君を理解した!﹂と叫んだ。 ヨーロッパぐるみの周到な計画によりアルジェリア情勢は落ち着いたが、その全貌は説明しきれない。1958年からジャック・リュエフが動態の基軸をなしていた。レイモン・ポアンカレのときから政府の経済顧問であったが、フランス銀行副総裁の地位をヴィシー政権に追われた彼は、戦後にモンペルラン・ソサイエティーを主導し、1952年から10年もの間ヨーロッパ司法裁判所で判事を、1959年から翌年にかけてモナコ首相を務めた。リュエフ・プランがフランスの対外債務を償却した[注釈 16]。第五共和政の成立
ド・ゴールは正規の形式に従って議会から憲法案を準備する権力の承認を獲得し、その憲法案は人民投票に付託されることになった。ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化して議会の力を抑制する新憲法を立案し、直ちにこれは国民投票に付された。1958年9月に行われた国民投票で、新憲法は投票者の80パーセント近くもの賛成により承認された[17]。同年10月4日にフランス第五共和政憲法が公布・制定され、ド・ゴールは第18代大統領に就任した︵フランス第五共和政の成立︶[注釈 17]。 すぐ憲法評議会が設置された。これをローヌ・プーランやエッソの重役であったレオン・ノエルが主宰した[24]。彼はペタンの死後に政権を継承するよう遺言された7人のうちの1人で、さらにフランス国民連合の指導者の1人でもあった[24]。1949年に連合の全国評議会副議長となり、1951年から1958年まで下院議員を務めていた。 1958年9月、フランス領西アフリカおよびフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、フランス共同体の下での大幅な自治を認める第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認した[25]。1959年9月、ド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認めると発言した。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にアルジェ市でバリケードの1週間と呼ばれる反乱を起こした。1961年4月にアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人が反乱し、ド・ゴールが速やかに鎮圧した︵将軍達の反乱︶。右翼組織OASもテロによりアルジェリア領有の継続を主張したが、1962年にド・ゴールは独立を承認した。ド・ゴールはこの間に度々OASのテロと暗殺の標的となった︵→詳細は﹁ジャッカルの日﹂項を参照︶。1962年8月にパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で銃撃されたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。独自路線
五月革命と金戦争
金戦争︵Gold war︶は新聞が実際に用いた表現である[29]。 世界的な学生運動の高まりと共に1968年5月に五月革命が発生した。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ド・ゴールの政治生命は危機に陥った。そこで5月24日に国民投票を提案した。29日にバーデン=バーデンに赴いて軍と連携し[注釈 22]、翌日ジョルジュ・ポンピドゥー首相の説得で国民投票を翻意して議会解散を表明した。それに呼応したド・ゴール支持の大規模なデモが行われ、またオリヴィエ・ジェルマントマがソルボンヌ大学大講堂でド・ゴール支持の演説を行った[30]。五月革命は急速に力を失い、ド・ゴールは議会選挙でも圧勝して危機を乗り越えた。しかしノール県のBSNはサンゴバンの買収に失敗した[注釈 23]。翌1969年に彼が国民投票に付した上院および地方行政制度の改革案が否決された[注釈 24]。同年3月に金価格が高騰して24時間のゼネストが巻き起こり、4月にド・ゴールは辞任した。 ド・ゴール主義と金価格の関係は、1948年にブレトン・ウッズ協定に対立する形でCFAフランの対ドル相場がフランスフランと乖離し、ド・ゴールを支える金融資本家の経済利権となったことに始まる。1952年と1958年のピネー国債は金価格に応じてスライドするものであった。ド・ゴールは証券収入について累進課税を適用しなかった。むしろ国債応募者の所得に応じて国債利率を引き上げたうえ、相続税と贈与税を減免した。1957年にセーヌ県で行われた調査によれば、1953年までに亡くなったわずか33人の相続人が、被相続人の購入した1952年国債について10億フランの相続税を免れた。この額はナポレオン戦争ののちに亡命貴族へ支払われた補償金総額に等しいが、デノミされて1000万新フランとなった。リュエフと19世紀以来の大資本が1960年前後にわたりアフリカで新たな利権を手にすると、1963年にド・ゴールが国際通貨制度を金本位制に戻そうと言い出した。そして1965年1月にフランス銀行が公然と財務省へ1億5,000万ドルをつきつけ正金へ交換した。翌月4日の記者会見にド・ゴールが登場し、﹁アメリカは基軸通貨という地位を利用してフランス経済を支配しようとしている﹂などと、疎い者を騙すような説明をした。アメリカ合衆国資本はリュエフ・プランが誘致したものであった。1967年10月にポーランド訪問とシュナイダー・コネクションが実を結び、ローマ教皇とギリシア正教総主教の会見が実現した。11月にはポンド危機に際してド・ゴールが金価格を2倍に引き上げるよう提唱した。翌1968年3月の7か国中央銀行総裁によるストックホルム会議で金の二重価格制が採用された。ユーロダラーのインフレーションはド・ゴール主義の集大成であった。後世
1970年11月にド・ゴールが死去したのちもゴーリスト︵ド・ゴール主義者、ド・ゴール派︶はジョルジュ・ポンピドゥー率いる共和国民主連合に結集して議会内最大会派となり、ヴァレリー・ジスカールデスタンやフランソワ・ミッテランといった非ゴーリズム政権下においても共和国連合として議会に大勢力を維持し続け、ジャック・シラクの下で再び政権を握った。エンジニアのアンブロワーズはド・ゴールの政府でキャリアを積み、アルカテル・ルーセントの前身のCGEを経営しながらフランスの資本主義を動かした。彼の母はサノフィ創設者の1人であった。彼自身も金融家としてパリバやジェネラル・デ・ゾーなどの重役となった[32]。死去
論文・著書
ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人で、その文章は多くの批評家︵評論家︶から評価されている。2014年1月にノーベル財団は1963年度のノーベル文学賞候補80人の中にド・ゴールが含まれていたことを発表した[34]。命名
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
語録
日本語伝記
家族
1921年4月にイボンヌ・ヴェンドルーと結婚した。子供はフィリップ︵1921年12月28日 - 2024年3月13日︶、エリザベート・ド・ボワシュー︵1924年5月15日 - 2013年4月3日︶、アンヌ︵1928年1月1日 - 1948年2月6日︶の1男2女である。脚注
注釈
出典
参考文献
●上杉聡彦 訳 ﹃ドゴール体制と大資本﹄、 産業貿易研究所 1965年 原書 Henri Claude, Gaullisme et grand capital, Éditions Sociales, 1961. ●石井貫太郎﹁シャルル・ド・ゴールの政治哲学﹂﹃目白大学文学・言語学研究﹄第1巻、目白大学、2005年、31-47頁、NAID 110007001020。 ●鳥潟優子﹁冷戦構造とドゴール大統領の﹁中立化﹂構想 : 1960年代・ベトナム戦争をめぐる仏米同盟﹂﹃国際公共政策研究﹄7(2)、大阪大学大学院国際公共政策研究科、2003年、137-158頁、NAID 110007001020。 ●小野善康﹁ドゴールの憲法構想﹂﹃アルテスリベラレス﹄第45巻、岩手大学人文社会科学部科、1989年、161-192頁、NAID 120001120149。 ●Georges Vedel ジョルジュ・ヴデル、1974.4、﹁議院制と大統領制の間のフランス第五共和政 La France entre le régime parlementaire et le régime présidentiel﹂、﹃ジュリスト﹄︵557︶、有斐閣 pp. 99 ●大井孝﹃欧州の国際関係 1919-1946﹄、たちばな出版 2008年 ISBN 978-4813321811 ●大橋尚泰﹁捕虜ド・ゴール大尉の脱走劇﹂、﹃フランス人の第一次世界大戦 - 戦時下の手紙は語る﹄、えにし書房、2018年、393-394頁。関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 ルネ・コティ フランス第四共和政大統領 |
フランス大統領 第18代:1959年1月8日 – 1969年4月28日 |
次代 ジョルジュ・ポンピドゥー |
先代 ピエール・ラヴァル ヴィシー政権首相 |
フランス共和国臨時政府主席 初代:1944年8月20日 - 1946年1月26日 |
次代 フェリックス・グーアン |
先代 ピエール・フリムラン |
フランス閣僚評議会議長 第132代:1958年6月1日 - 1959年1月8日 |
次代 ミシェル・ドブレ フランス第五共和政閣僚評議会議長 |