「デヴィッド・ボウイ」の版間の差分
Polygonoid (会話 | 投稿記録) m 表記ゆれ案内のフォントサイズを小さく変更 |
Polygonoid (会話 | 投稿記録) 人物への加筆、リンクエラーの修正など |
||
29行目: | 29行目: | ||
| 主な作品 = 『[[地球に落ちて来た男]]』<br />『[[ハンガー (1983年の映画)|ハンガー]]』<br />『[[戦場のメリークリスマス]]』<br />『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』<br />『[[最後の誘惑]]』<br />『[[バスキア]]』<br />『[[プレステージ (映画)|プレステージ]]』 |
| 主な作品 = 『[[地球に落ちて来た男]]』<br />『[[ハンガー (1983年の映画)|ハンガー]]』<br />『[[戦場のメリークリスマス]]』<br />『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』<br />『[[最後の誘惑]]』<br />『[[バスキア]]』<br />『[[プレステージ (映画)|プレステージ]]』 |
||
}} |
}} |
||
'''デヴィッド・ボウイ'''︵{{Lang-en|David Bowie}}、[[1947年]][[1月8日]] - [[2016年]][[1月10日]]<ref>{{Cite web |date=2016-01-10 |url=https://www.facebook.com/davidbowie/posts/10153176666977665 |title=David Bowie - January 10 2016 - David Bowie died peacefully today... |publisher=David Bowie Official |accessdate=2016-01-11}}</ref>︶は、[[イングランド]]出身の[[ロック (音楽)|ロック]][[音楽家|ミュージシャン]]、[[シンガーソングライター]]、[[俳優]]。本名はデヴィッド・ロバート・ジョーンズ︵{{Lang-en|David Robert Jones}}︶。
|
'''デヴィッド・ボウイ'''︵{{Lang-en-short|David Bowie}}、[[1947年]][[1月8日]] - [[2016年]][[1月10日]]<ref>{{Cite web |date=2016-01-10 |url=https://www.facebook.com/davidbowie/posts/10153176666977665 |title=David Bowie - January 10 2016 - David Bowie died peacefully today... |publisher=David Bowie Official |accessdate=2016-01-11}}</ref>︶は、[[イングランド]]出身の[[ロック (音楽)|ロック]][[音楽家|ミュージシャン]]、[[シンガーソングライター]]、[[俳優]]。本名は'''デヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ'''︵{{Lang-en-short|David Robert Haywood Jones}}︶。
|
||
[[グラムロック]]の先駆者として台頭し、[[ポピュラー音楽]]の分野で世界的名声を得た。役者の世界にも進出し、数々の受賞実績を持つ[[マルチタレント|マルチ・アーティスト]]として知られている<ref>{{Cite web|和書|title=プリンスが影響を受けたアーティスト10選!|url=https://tsutaya.tsite.jp/guide/music/playlist/001799.html|website=T-SITE|accessdate=2021-01-20|language=ja}}</ref>。 |
[[グラムロック]]の先駆者として台頭し、[[ポピュラー音楽]]の分野で世界的名声を得た。役者の世界にも進出し、数々の受賞実績を持つ[[マルチタレント|マルチ・アーティスト]]として知られている<ref>{{Cite web|和書|title=プリンスが影響を受けたアーティスト10選!|url=https://tsutaya.tsite.jp/guide/music/playlist/001799.html|website=T-SITE|accessdate=2021-01-20|language=ja}}</ref>。 |
||
[[1996年]] |
[[1996年]]に[[ロックの殿堂]]入りを果たした。[[グラミー賞]]は5回受賞し、19回ノミネートされている<ref>{{Cite web |url=https://www.grammy.com/artists/david-bowie/4819 |title=David Bowie {{!}} Artist {{!}} GRAMMY.com |website=GRAMMY AWARDS |accessdate=2024-05-16}}</ref>。[[ニュー・ミュージカル・エクスプレス|NME]]誌の﹁史上最も影響力のあるアーティスト﹂に選出されている<ref>{{cite news|title=NME poll places Bowie as most influential artist of all-time|url=https://www.nme.com/news/music/david-bowie-343-1306703|work=NME|date=27 November 2000}}</ref><ref>{{Cite web|title=DAVID BOWIE: VOTED MOST INFLUENTIAL ARTIST IN NME POLL OF TODAY’S POPSTARS {{!}} Mitch Schneider Organization|url=http://www.msopr.com/press-releases/david-bowie-voted-most-influential-artist-in-nme-poll-of-todays-popstars/|website=www.msopr.com|accessdate=2021-01-20}}</ref>。
|
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
=== 生い立ちから初ヒット === |
=== 生い立ちから初ヒット === |
||
[[1947年]][[1月8日]]、[[イギリス]]の[[ロンドン]]南部[[ブリクストン]]に[[ケント (イングランド)|ケント]]出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー<small> |
[[1947年]][[1月8日]]、[[イギリス]]の[[ロンドン]]南部[[ブリクストン]]に、[[ケント (イングランド)|ケント]]出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー<small>︵Margaret Mary、[[1913年]] - [[2001年]]︶</small>と、[[ヨークシャー]]出身で子供のためのチャリティー団体{{仮リンク|バーナード・ホームズ|en|Barnardo's Homes|label=}}で広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ<small>︵Haywood Stenton Jones、[[1912年]] - [[1969年]]︶</small><ref>{{Cite web|author=|website=David Bowie|date=2019-08-05|url=https://www.davidbowie.com/blog/2019/8/5/remembering-haywood-stenton-john-jones|title=Remembering Haywood Stenton 'John' Jones|accessdate=2020-12-11|publisher=[[ワーナー・ミュージック・グループ|Warner Music]] UK}}</ref>の間に生まれた。一家は、ブリクストンと{{仮リンク|ストックウェル (ロンドン)|en|Stockwell|label=ストックウェル}}の境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、[[1953年]]に一家は[[ブロムリー]]の郊外に引っ越す。
|
||
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくる[[フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ]]、[[プラターズ]]、[[ファッツ・ドミノ]]、[[リトル・リチャード]]、[[エルヴィス・プレスリー]]などの、[[アメリカ]]のポピュラー・ロック音楽に親しむ{{Sfn|全曲解説シリーズ(7) デヴィッドボウイ|2000|p=21}}<ref>Sandford (1997): pp. 19–20</ref>。 |
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくる[[フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ]]、[[プラターズ]]、[[ファッツ・ドミノ]]、[[リトル・リチャード]]、[[エルヴィス・プレスリー]]などの、[[アメリカ]]のポピュラー・ロック音楽に親しむ{{Sfn|全曲解説シリーズ(7) デヴィッドボウイ|2000|p=21}}<ref>Sandford (1997): pp. 19–20</ref>。異父兄であるテリー・バーンズ<small>︵Terry Burns︶</small>の影響でモダンジャズに関心を持ち、特に[[チャールズ・ミンガス]]や[[ジョン・コルトレーン]]にあこがれた。14歳になった[[1961年]]に、母親からプラスチック製の[[アルト・サックス]]を贈られ、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受ける<ref>Sandford (1997): p. 25</ref>。
|
||
⚫ | [[1962年]]、ボウイは15歳の時に重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人の{{仮リンク|ジョージ・アンダーウッド (アーティスト)|en|George Underwood (artist)|label=ジョージ・アンダーウッド}}が左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった<ref>Evans, Mike (2006). Rock 'n' Roll's Strangest Moments: Extraordinary Tales from Over Fifty Years. Anova Books. p. 57. ISBN 978-1-86105-923-9.</ref>。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、[[先天性]]の[[虹彩異色症]]によるものである。この一件にもかかわらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した<ref>Buckley (2005): p.19</ref>。 |
||
ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズ<small>({{Lang-en|Terry Burns}})</small>の影響でモダンジャズに関心を持ち、特に[[チャールズ・ミンガス]]や[[ジョン・コルトレーン]]にあこがれた。14歳になった1961年に、母親はプラスチック製の[[アルト・サックス]]を贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受ける<ref>Sandford (1997): p. 25</ref>。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | [[1962年]]、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人の{{仮リンク|ジョージ・アンダーウッド (アーティスト)|en|George Underwood (artist)|label=ジョージ・アンダーウッド}}が左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった<ref>Evans, Mike (2006). Rock 'n' Roll's Strangest Moments: Extraordinary Tales from Over Fifty Years. Anova Books. p. 57. ISBN 978-1-86105-923-9.</ref>。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、[[先天性]]の[[虹彩異色症]]によるものである。この一件にもかかわらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した<ref>Buckley (2005): p.19</ref>。 |
||
⚫ |
[[1964年]][[6月5日]]に﹁ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ<small>︵Davie Jones with The King Bees︶</small>﹂名義で最初のシングル﹁リザ・ジェーン<small>︵Liza Jane︶</small>﹂を発表<ref>{{Cite web|author=|website=Discogs|date=|url=https://www.discogs.com/Davie-Jones-With-The-King-Bees-Liza-Jane/master/440042|title=Davie Jones With The King Bees* - Liza Jane|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref>。しばらくはヒットに恵まれず、﹁ザ・マニッシュ・ボーイズ<small>︵The Manish Boys︶</small>﹂﹁ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード<small>︵Davy Jones & The Lower 3rd︶</small>﹂<ref>{{Cite web|author=|website=Discogs|date=|url=https://www.discogs.com/The-Manish-Boys-Davy-Jones-The-Lower-3rd-I-Pity-The-Fool-Take-My-Tip-Youve-Got-A-Habit-Of-Leaving-Ba/master/154204|title=I Pity The Fool / Take My Tip / You've Got A Habit Of Leaving / Baby Loves That Way|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref>などと名を変えたが、[[モンキーズ]]の[[歌手|ボーカリスト]]である[[デイビー・ジョーンズ]]と紛らわしいことから<ref>{{Cite web|和書|title=デヴィッド・ボウイ、幻のアルバム﹃Toy﹄に隠された苦悩と進化 ついに明かされた全貌をブレイク前の変遷から徹底解説 |url=https://realsound.jp/2022/01/post-944778.html |website=Real Sound|リアルサウンド |accessdate=2022-02-13 |language=ja}}</ref>、[[1966年]]4月のシングル﹁Do Anything You Say﹂から使い始めた﹁'''デヴィッド・ボウイ'''﹂が芸名として定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者である[[ジェームズ・ボウイ]]と、彼が愛用していたナイフである[[ボウイナイフ|ボウイ・ナイフ]]から取られた<ref>{{Cite book |author=David Buckley |authorlink= |year=2000 |title=Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story |publisher=London: Virgin |language=英語 |page=33 |id= |isbn=0-7535-0457-X |quote= }}</ref>。
|
||
⚫ | |||
⚫ |
[[1964年]][[6月5日]]に﹁ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ<small> |
||
[[ファイル:David Bowie (1967).png|thumb|right|140px|デビュー当時のボウイ (1967年9月)]] |
[[ファイル:David Bowie (1967).png|thumb|right|140px|デビュー当時のボウイ (1967年9月)]] |
||
[[1967年]]6月、デビューアルバム『[[デヴィッド・ボウイ (アルバム)|'''デヴィッド・ボウイ''']]』を発表。アルバム製作中に[[チベット仏教]]に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『'''{{仮リンク|イメージ (映画)|en|The Image (1969 film)|label=イメージ}}'''』([[1969年]]、イギリス)<ref>{{Cite web|author=|website=[[IMDb]]|date=|url=https://www.imdb.com/title/tt0314196/|title=The Image (1969)|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref>に出演が決定し、その撮影の際に[[リンゼイ・ケンプ]]と出会っている。 |
[[1967年]]6月、デビューアルバム﹃[[デヴィッド・ボウイ (アルバム)|'''デヴィッド・ボウイ''']]﹄を発表。アルバム製作中に[[チベット仏教]]に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画﹃'''{{仮リンク|イメージ (映画)|en|The Image (1969 film)|label=イメージ}}'''﹄︵[[1969年]]、イギリス︶<ref>{{Cite web|author=|website=[[IMDb]]|date=|url=https://www.imdb.com/title/tt0314196/|title=The Image (1969)|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref>に出演が決定し、その撮影の際に[[リンゼイ・ケンプ]]と出会っている。ボウイは{{仮リンク|ロンドン・ダンス・センター|en|The Dance Centre|label=}}でのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下で[[コンメディア・デッラルテ]]などから学んだ[[アバンギャルド]]と[[パントマイム]]によってドラマティックな表現を身につけた。
|
||
ボウイは{{仮リンク|ロンドン・ダンス・センター|en|The Dance Centre|label=}}でのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下で[[コンメディア・デッラルテ]]などから学んだ[[アバンギャルド]]と[[パントマイム]]によってドラマティックな表現を身につけた。 |
|||
[[1969年]]、前年に公開された映画『[[2001年宇宙の旅]]』をモチーフにして、アルバム『'''[[スペイス・オディティ]]'''<ref group="注">後に |
[[1969年]]、前年に公開された映画﹃[[2001年宇宙の旅]]﹄をモチーフにして、アルバム﹃'''[[スペイス・オディティ]]'''<ref group="注">もともと英国で﹃デヴィッド・ボウイ﹄として発売されたが、同名の前作との混乱を引き起こし、後に﹃スペイス・オディティ﹄に改題された。</ref>﹄を制作。[[アポロ11号]]の月面着陸に合わせて、その直前にシングル﹁[[スペイス・オディティ (曲)|スペイス・オディティ]]﹂をリリースした。
|
||
=== グラム・ロック時代 === |
=== グラム・ロック時代 === |
||
60行目: | 56行目: | ||
[[1970年]]、[[ミック・ロンソン]]をサウンド面での盟友に迎え﹃'''[[世界を売った男]]'''﹄をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、[[1971年]]のアルバム﹃'''[[ハンキー・ドリー]]'''﹄でその路線は更に深まり、歌詞にも哲学・美学の要素が強く表れるようになった。
|
[[1970年]]、[[ミック・ロンソン]]をサウンド面での盟友に迎え﹃'''[[世界を売った男]]'''﹄をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、[[1971年]]のアルバム﹃'''[[ハンキー・ドリー]]'''﹄でその路線は更に深まり、歌詞にも哲学・美学の要素が強く表れるようになった。
|
||
ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドの[[モット・ザ・フープル]]は1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「[[すべての若き野郎ども]]」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。 |
ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドの[[モット・ザ・フープル]]は[[1972年]]3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「[[すべての若き野郎ども]]」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。 |
||
[[1972年]]6月、[[コンセプト・アルバム]]『'''[[ジギー・スターダスト]]'''』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装([[山本寛斎]]の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『'''[[アラジン・セイン]]'''』は、 |
[[1972年]]6月、[[コンセプト・アルバム]]﹃'''[[ジギー・スターダスト]]'''﹄をリリース。コンセプトに基づいて[[キャラクター|架空のロックスター]]﹁ジギー・スターダスト<small>︵Ziggy Stardust︶</small>﹂を名乗り、そのバックバンドである﹁スパイダーズ・フロム・マーズ<small>︵The Spiders from Mars︶</small>﹂を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装︵[[山本寛斎]]の衣装も多く取り上げている︶、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された﹃'''[[アラジン・セイン]]'''﹄は、﹁ジギー・スターダスト﹂を演じるボウイというよりは、﹁ジギー・スターダスト﹂というアーティストそのもののアルバムになった。しかし、[[1973年]][[7月3日]]のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター﹁ジギー・スターダスト﹂の終焉を宣言した。この時期、後に歌手としてデビューするチェリー・バニラが、ボウイの広報を担当していた。
|
||
﹁ジギー・スターダスト﹂を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム﹃ピンナップス﹄を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド﹁スパイダーズ・フロム・マーズ |
「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『'''[[ピンナップス]]'''』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。ただ、ロンソンとは決別した後も、連絡を取り合う関係だった。 |
||
=== アメリカ時代 === |
=== アメリカ時代 === |
||
[[ファイル:David Bowie - TopPop 1974 11.png|thumb|right|160px|アメリカ時代 (1974年2月)]] |
[[ファイル:David Bowie - TopPop 1974 11.png|thumb|right|160px|アメリカ時代 (1974年2月)]] |
||
[[1974年]]、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際に[[ウィリアム・バロウズ]]が一躍有名にした﹁[[カットアップ|カット・アップ]]﹂の手法を導入した |
[[1974年]]、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際に[[ウィリアム・バロウズ]]が一躍有名にした﹁[[カットアップ|カット・アップ]]﹂の手法を導入したコンセプト・アルバム﹃'''[[ダイアモンドの犬]]'''﹄を発表する。[[ジョージ・オーウェル]]のSF小説﹃[[1984年 (小説)|1984年]]﹄をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、﹁﹃1984年﹄という言葉を大々的に使用してはならない、﹃1984年﹄の舞台化も許さない﹂という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。
|
||
[[1975年]]、{{仮リンク|カルロス・アロマー|en|Carlos Alomar|label=}}を盟友に迎え、﹃[[ヤング・アメリカンズ (アルバム)|'''ヤング・アメリカンズ''']]﹄を発表する。全米1位を獲得した[[ジョン・レノン]]との共作シングル﹁[[フェイム (曲)|フェイム]]﹂を含むこのアルバムは、[[フィリー・ソウル]]からさらに一歩踏み込み﹁白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか﹂というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画﹃'''[[地球に落ちて来た男]]'''﹄がクランクインした。
|
[[1975年]]、{{仮リンク|カルロス・アロマー|en|Carlos Alomar|label=}}を盟友に迎え、﹃[[ヤング・アメリカンズ (アルバム)|'''ヤング・アメリカンズ''']]﹄を発表する。全米1位を獲得した[[ジョン・レノン]]との共作シングル﹁[[フェイム (曲)|フェイム]]﹂を含むこのアルバムは、[[フィリー・ソウル]]からさらに一歩踏み込み﹁白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか﹂というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画﹃'''[[地球に落ちて来た男]]'''﹄がクランクインした。
|
||
76行目: | 72行目: | ||
=== ベルリン時代 === |
=== ベルリン時代 === |
||
[[ファイル:David bowie 05061978 01 150.jpg|thumb|right|130px|ベルリン時代 (1978年6月)]] |
[[ファイル:David bowie 05061978 01 150.jpg|thumb|right|130px|ベルリン時代 (1978年6月)]] |
||
ボウイは再び架空のキャラクター﹁シン・ホワイト・デューク |
ボウイは再び架空のキャラクター﹁シン・ホワイト・デューク︵<small>Thin White Duke</small>、痩せた青白き公爵︶﹂を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブは[[ナチズム]]を強く意識したステージ構成になった。インタビューでは﹁自分は[[ファシズム]]を信じている﹂﹁[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は最初のロックスター﹂などの擁護発言を行ない、ファンの前で[[ナチス式敬礼|ジークハイル]]を見せた写真が掲載される騒動が起き、メディアから激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多かった<ref> [https://www.snopes.com/fact-check/rock-star-david-bowie/ デヴィッド・ボウイ] 2022年1月11日閲覧</ref>。同じく1970年代後半にエリック・クラプトンが差別発言を行った︵ボウイとクラプトンの発言については、下段の[[デヴィッド・ボウイ#思想欄|思想欄]]を参照︶。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねて[[ベルリン]]に移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。
|
||
[[1977年]]から[[1979年]]にかけて[[ブライアン・イーノ]]とのコラボレーションで制作されたアルバム﹃[[ロウ (アルバム)|'''ロウ''']]﹄ |
[[1977年]]から[[1979年]]にかけて[[ブライアン・イーノ]]とのコラボレーションで制作されたアルバム﹃[[ロウ (アルバム)|'''ロウ''']]﹄﹃[[英雄夢語り (ヒーローズ)|'''英雄夢語り''']]﹄﹃[[ロジャー (間借人)|'''ロジャー''']]﹄は、のちに﹁[[ベルリン三部作]]﹂と呼ばれることになる。[[ロンドン・パンク]]/[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]全盛期の中で、あえて[[プロトパンク|プロト・パンク]]/オールド・ウェイヴを前面に出した。
|
||
=== カルト・スターとの決別 === |
=== カルト・スターとの決別 === |
||
84行目: | 80行目: | ||
[[1980年]]、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『'''[[スケアリー・モンスターズ]]'''』を発表した。初ヒット曲の「スペイス・オディティ」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「{{仮リンク|アッシュズ・トゥ・アッシュズ|en|Ashes to Ashes (David Bowie song)|label=}}」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。 |
[[1980年]]、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『'''[[スケアリー・モンスターズ]]'''』を発表した。初ヒット曲の「スペイス・オディティ」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「{{仮リンク|アッシュズ・トゥ・アッシュズ|en|Ashes to Ashes (David Bowie song)|label=}}」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。 |
||
一転して[[1980年代]]は[[ナイル・ロジャース]]をプロデューサーに起用したアルバム『'''[[レッツ・ダンス]]'''』はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。[[1983年]]の |
一転して[[1980年代]]は[[ナイル・ロジャース]]をプロデューサーに起用したアルバム『'''[[レッツ・ダンス]]'''』はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。[[1983年]]の[[シリアス・ムーンライト・ツアー]]では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルト・ヒーローからメジャー・ロック・スターの座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風から[[ポップ・ロック]]路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この頃のボウイは俳優としての出演も多い。 |
||
=== ティン・マシーン時代 === |
=== ティン・マシーン時代 === |
||
[[ファイル:David Bowie - Zagreb.jpg|thumb|right|130px|ティン・マシーン時代 (1990年9月)]] |
[[ファイル:David Bowie - Zagreb.jpg|thumb|right|130px|ティン・マシーン時代 (1990年9月)]] |
||
[[1989年]]、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージ・チェンジをはかり、シンプルなロックバンド﹁[[ティン・マシーン]]﹂を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースする。その後、過去のベスト・ヒット・メドレー的なコンサートとしては最後と銘打って |
[[1989年]]、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージ・チェンジをはかり、シンプルなロックバンド﹁[[ティン・マシーン]]﹂を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースする。その後、過去のベスト・ヒット・メドレー的なコンサートとしては最後と銘打って[[サウンド+ヴィジョン・ツアー]]を行い、過去の総決算を果たそうとした。
|
||
=== ソロ活動再開 === |
=== ソロ活動再開 === |
||
[[1991年]]に﹃'''[[ティン・マシーンII]]'''﹄を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。
|
[[1991年]]に﹃'''[[ティン・マシーンII]]'''﹄を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。
|
||
[[1993年]]にモデルの[[イマン・アブドゥルマジド]]と再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『'''[[ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ]]'''』を発表、『'''トゥナイト'''』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。[[1995年]]に今度はブライアン・イーノと再び組んで『'''[[アウトサイド]]'''』をリリース。その後、[[1997年]]に『'''[[アースリング]]'''』、[[1999年]]に『'''[[アワーズ…]]'''』をリリースする。 |
[[1993年]]にモデルの[[イマン・アブドゥルマジド]]と再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『'''[[ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ]]'''』を発表、『'''[[トゥナイト (アルバム)|トゥナイト]]'''』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。[[1995年]]に今度はブライアン・イーノと再び組んで『'''[[アウトサイド]]'''』をリリース。その後、[[1997年]]に『'''[[アースリング]]'''』、[[1999年]]に『'''[[アワーズ…]]'''』をリリースする。 |
||
メジャーなロック・スターに珍しく、[[1990年代]]のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入した。 |
メジャーなロック・スターに珍しく、[[1990年代]]のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入した。 |
||
101行目: | 97行目: | ||
[[2000年代]]に入っても創作意欲は衰えず、[[2002年]]に﹃'''[[ヒーザン]]'''﹄、[[2003年]]に﹃[[リアリティ (デヴィッド・ボウイのアルバム)|'''リアリティ''']]﹄と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールド・ツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中に[[ハンブルク]]にて[[動脈瘤]]による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。
|
[[2000年代]]に入っても創作意欲は衰えず、[[2002年]]に﹃'''[[ヒーザン]]'''﹄、[[2003年]]に﹃[[リアリティ (デヴィッド・ボウイのアルバム)|'''リアリティ''']]﹄と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールド・ツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中に[[ハンブルク]]にて[[動脈瘤]]による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。
|
||
この一件以来、ボウイは創作活動に消極的となり、[[2004年]]の「ネヴァー・ゲット・オールド<small> |
この一件以来、ボウイは創作活動に消極的となり、[[2004年]]の「ネヴァー・ゲット・オールド<small>(Never Get Old)</small>」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降リリースが途絶えることになった。公の場に姿を現したのも、[[2006年]]に[[デヴィッド・ギルモア]]や[[アリシア・キーズ]]のライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われなかった。 |
||
親交の深い |
親交の深いブライアン・イーノは[[2010年]]初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語り、同年秋に妻のイマンが近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語った。イマンによれば、現在は自身が蒐集した100個以上の[[オブジェ]]を撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『''Bowie: Object''』を執筆中であり、ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」とした。 |
||
[[2011年]]にボウイの[[伝記]]を手掛けた[[作家]]、{{仮リンク|ポール・トリンカ|en|Paul Trynka|label=}}が「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べた。 |
[[2011年]]にボウイの[[伝記]]を手掛けた[[作家]]、{{仮リンク|ポール・トリンカ|en|Paul Trynka|label=}}が「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べた。 |
||
110行目: | 106行目: | ||
=== 突然の復帰、そして死 === |
=== 突然の復帰、そして死 === |
||
[[2013年]]1月8日、ボウイの66歳となる[[誕生日]]に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『'''[[ザ・ネクスト・デイ]]'''』を3月に発売すると発表。先行シングルの「 |
[[2013年]][[1月8日]]、ボウイの66歳となる[[誕生日]]に突如、新曲「{{仮リンク|ホエア・アー・ウィー・ナウ?|en|Where Are We Now?|label=}}」と10年ぶりとなる新作『'''[[ザ・ネクスト・デイ]]'''』を3月に発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国の[[iTunes Store]]にて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国の[[iTunes]]チャート1位になった<ref>[https://rockinon.com/blog/miyazaki/77053 それにしてもデヴィッド・ボウイの最新ビジュアル・コンセプトがぐもも&続報あれこれ] - [[ロッキング・オン|ro69.jp]] 「宮嵜広司の「明るい洋楽」・2013年1月9日閲覧。</ref>。 |
||
ボウイ重病説を信じた[[エコー&ザ・バニーメン]]のフロントマン、[[イアン・マッカロク]]は、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000089430 エコー&ザ・バニーメンのイアン、デヴィッド・ボウイ重病説を信じトリビュート・ソングを作っていた]、BARKS 「BARKSニュース」・2013年4月17日閲覧。</ref>。 |
ボウイ重病説を信じた[[エコー&ザ・バニーメン]]のフロントマン、[[イアン・マッカロク]]は、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000089430 エコー&ザ・バニーメンのイアン、デヴィッド・ボウイ重病説を信じトリビュート・ソングを作っていた]、BARKS 「BARKSニュース」・2013年4月17日閲覧。</ref>。 |
||
[[2015年]]、自身が[[1976年]]に主演した映画﹃ |
[[2015年]]、自身が[[1976年]]に主演した映画『地球に落ちて来た男』が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表される。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供される<ref name="stage">{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20150411/7/|title=デビッド・ボウイ、「地球に落ちてきた男」をオフブロードウェイで舞台化|publisher=映画.com|date=2015-04-11|accessdate=2015-04-13}}</ref>。 |
||
[[ファイル:Hauptstrasse 155 18.01.2016 10-41-38.jpg|thumb|right|200px|没後、献花されたベルリン時代のアパート (2016年1月)]] |
[[ファイル:Hauptstrasse 155 18.01.2016 10-41-38.jpg|thumb|right|200px|没後、献花されたベルリン時代のアパート (2016年1月)]] |
||
[[2016年]]1月10日、18か月の闘病の末、[[肝癌]]により死去したことが公式[[Facebook]]にて公表された<ref>[http://amass.jp/67586/ デヴィッド・ボウイが死去] - amass</ref>。2日前の69歳の誕生日にアルバム﹃[[ブラックスター (デヴィッド・ボウイのアルバム)|'''ブラックスター︵★︶''']]﹄をリリースしたばかりであった。その収録曲﹁{{仮リンク|ラザルス (曲)|en|Lazarus (David Bowie song)|label=ラザルス}}﹂は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーの[[トニー・ヴィスコンティ]]と共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっている<ref>https://www.dailymail.co.uk/news/article-3393599/Look-m-heaven-David-Bowie-s-haunting-lyrics-song-Lazarus-appear-farewell-thoughts-man-knew-dying.html</ref><ref>https://www.youtube.com/watch?v=y-JqH1M4Ya8</ref>。トニー・ヴィスコンティは︽[[モジョ (雑誌)|モジョ]]︾誌のインタビューで﹁彼は最後まで楽天的だった。ずいぶん弱ってきてるけど、新しい治療法を試してみるつもりだとか、新しい曲を書いてて、さらに次のアルバムのレコーディングをどうしようとか、話してた。私たちも皆そうだけど、彼もまた、もっと時間があると思ってたんだろうな﹂と語っている。
|
[[2016年]][[1月10日]]、18か月の闘病の末、[[肝癌]]により死去したことが公式[[Facebook]]にて公表された<ref>[http://amass.jp/67586/ デヴィッド・ボウイが死去] - amass</ref>。2日前の69歳の誕生日にアルバム﹃[[ブラックスター (デヴィッド・ボウイのアルバム)|'''ブラックスター︵★︶''']]﹄をリリースしたばかりであった。その収録曲﹁{{仮リンク|ラザルス (曲)|en|Lazarus (David Bowie song)|label=ラザルス}}﹂は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーの[[トニー・ヴィスコンティ]]と共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっている<ref>https://www.dailymail.co.uk/news/article-3393599/Look-m-heaven-David-Bowie-s-haunting-lyrics-song-Lazarus-appear-farewell-thoughts-man-knew-dying.html</ref><ref>https://www.youtube.com/watch?v=y-JqH1M4Ya8</ref>。トニー・ヴィスコンティは︽[[モジョ (雑誌)|モジョ]]︾誌のインタビューで﹁彼は最後まで楽天的だった。ずいぶん弱ってきてるけど、新しい治療法を試してみるつもりだとか、新しい曲を書いてて、さらに次のアルバムのレコーディングをどうしようとか、話してた。私たちも皆そうだけど、彼もまた、もっと時間があると思ってたんだろうな﹂と語っている。
|
||
アルバムは、自身初の全米チャート([[Billboard 200]])1位を獲得した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000123333 デヴィッド・ボウイ、全米初のNo.1獲得] - BARKS</ref>。 |
アルバムは、自身初の全米チャート([[Billboard 200]])1位を獲得した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000123333 デヴィッド・ボウイ、全米初のNo.1獲得] - BARKS</ref>。 |
||
[[2017年]]、遺作となった作品『 |
[[2017年]]、遺作となった作品『ブラックスター(★)』が、[[グラミー賞]]で最多の5部門を獲得した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000138233 デヴィッド・ボウイ、グラミー5部門を受賞] - BARKS</ref>。 |
||
== 人物 == |
== 人物 == |
||
⚫ | |||
⚫ |
最初の妻は |
||
⚫ | |||
⚫ | File:Duncan Jones and David Bowie at the premiere of Moon.jpg|長男 [[ダンカン・ジョーンズ]](2009年) |
||
⚫ | File:Iman and David Bowie at the premiere of Moon.jpg|後妻 [[イマン・アブドゥルマジド]](2009年) |
||
⚫ | |||
=== 音楽家としてのボウイ === |
=== 音楽家としてのボウイ === |
||
[[ファイル:This marks the location of the cover photograph for the iconic David Bowie album 'The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders From Mars'. Ziggy Stardust 1972.jpg|thumb|right|130px|故郷ロンドンにあるジギー・スターダストの碑標]] |
[[ファイル:This marks the location of the cover photograph for the iconic David Bowie album 'The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders From Mars'. Ziggy Stardust 1972.jpg|thumb|right|130px|故郷ロンドンにあるジギー・スターダストの碑標]] |
||
名声を得たミュージシャンは、自分の音楽性を維持するために保守的になる場合も多いが、ボウイの場合はスタイルを変化させることで、音楽性の変化を繰り返し、それぞれの時期において変容を繰り返した。時代ごとに個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行い、他のジャンルのアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持っていた。音楽メディアから商業主義との批判も受けたが、生涯意欲的な創作を続けた。[[1970年代]]・[[1980年代]]以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも存在する。モット・ザ・フープル、イギー・ポップ、ルー・リード、[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]や[[デヴィッド・バーン]]、[[カルチャー・クラブ]]、[[ヴィサージ (音楽グループ)|ヴィサージ]]、[[スパンダー・バレエ]]、[[デュラン・デュラン]]、[[トレント・レズナー]]らが影響を受けてきた。また、セールス的に成功し、死後のロックスターとしての遺産はきわめて巨額だった。アーティスティックな面と、商業的利益をうまく両立させたミュージシャンとも言える。
|
名声を得たミュージシャンは、自分の音楽性を維持するために保守的になる場合も多いが、ボウイの場合はスタイルを変化させることで、音楽性の変化を繰り返し、それぞれの時期において変容を繰り返した。時代ごとに個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行い、他のジャンルのアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持っていた。音楽メディアから商業主義との批判も受けたが、生涯意欲的な創作を続けた。[[1970年代]]・[[1980年代]]以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも存在する。[[モット・ザ・フープル]]、[[イギー・ポップ]]、[[ルー・リード]]、[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]や、[[デヴィッド・バーン]]、[[カルチャー・クラブ]]、[[ヴィサージ (音楽グループ)|ヴィサージ]]、[[スパンダー・バレエ]]、[[デュラン・デュラン]]、[[トレント・レズナー]]らが影響を受けてきた。また、セールス的に成功し、死後のロックスターとしての遺産はきわめて巨額だった。アーティスティックな面と、商業的利益をうまく両立させたミュージシャンとも言える。
|
||
[[1973年]]に初の日本公演を果たしている。ボウイは[[飛行機恐怖症]]であったことから、来日に際しては[[アメリカ合衆国]]から船で来日し、イギリスへの帰国の時も[[横浜港]]から[[ナホトカ航路]]を経由して[[ウラジオストク]]から[[シベリア鉄道]]に乗車したという逸話もある<ref name="Sponichi">[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/12/kiji/K20160112011841490.html 飛行機嫌いだったデビッド・ボウイさん 初来日公演は船で日本入り] スポーツニッポン 2015年1月12日閲覧</ref>。 |
[[1973年]]に初の日本公演を果たしている。ボウイは[[飛行機恐怖症]]であったことから、来日に際しては[[アメリカ合衆国]]から船で来日し、イギリスへの帰国の時も[[横浜港]]から[[ナホトカ航路]]を経由して[[ウラジオストク]]から[[シベリア鉄道]]に乗車したという逸話もある<ref name="Sponichi">[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/12/kiji/K20160112011841490.html 飛行機嫌いだったデビッド・ボウイさん 初来日公演は船で日本入り] スポーツニッポン 2015年1月12日閲覧</ref>。 |
||
[[2000年]]に[[大英帝国勲章]]コマンダーを、[[2003年]]に大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退している<ref name="Sponichi"/><ref>{{cite news |last=Thompson|first=Jody|title=Sixty things about David Bowie|publisher=(No. 35): BBC News|date=8 January 2007|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6230201.stm|accessdate=4 July 2010}}</ref> |
[[2000年]]に[[大英帝国勲章]]コマンダーを、[[2003年]]に大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退しているが<ref name="Sponichi"/><ref>{{cite news |last=Thompson|first=Jody|title=Sixty things about David Bowie|publisher=(No. 35): BBC News|date=8 January 2007|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6230201.stm|accessdate=4 July 2010}}</ref>、[[1999年]]にフランス政府より授与された[[レジオンドヌール勲章|芸術文化勲章コマンドール]]は受章している<ref name="Sponichi"/>。
|
||
=== 役者としてのボウイ === |
=== 役者としてのボウイ === |
||
146行目: | 134行目: | ||
『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・[[ミュージカル]]『{{仮リンク|ビギナーズ (映画)|en|Absolute Beginners (film)|label=ビギナーズ}}』([[1986年]])は失望と非難の的となった。同年彼は[[ジム・ヘンソン]]監督の『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』で[[ゴブリン]]の王ジャレスを演じた。 |
『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・[[ミュージカル]]『{{仮リンク|ビギナーズ (映画)|en|Absolute Beginners (film)|label=ビギナーズ}}』([[1986年]])は失望と非難の的となった。同年彼は[[ジム・ヘンソン]]監督の『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』で[[ゴブリン]]の王ジャレスを演じた。 |
||
彼は『[[ハンガー (1983年の映画)|ハンガー]]』で[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、[[スーザン・サランドン]]と共演し、『[[バスキア]]』では[[アンディ・ウォーホル]]役を演じた。『[[ツイン・ピークス |
彼は『[[ハンガー (1983年の映画)|ハンガー]]』で[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、[[スーザン・サランドン]]と共演し、『[[バスキア]]』では[[アンディ・ウォーホル]]役を演じた。『[[ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間]]』ではミステリアスな[[連邦捜査局|FBI捜査官]]フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。 |
||
ボウイは[[2002年]]に[[英国放送協会|BBC]]『[[100名の最も偉大な英国人]]』の中で[[デビッド・ベッカム]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、[[ジョン・レノン]]といった人物と並んで選出された。 |
ボウイは[[2002年]]に[[英国放送協会|BBC]]『[[100名の最も偉大な英国人]]』の中で[[デビッド・ベッカム]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、[[ジョン・レノン]]といった人物と並んで選出された。 |
||
=== 思想 === |
=== 思想 === |
||
過去の︽バウンス︾誌によれば、ボウイは[[1960年代|60年代]]の[[ヒッピー]]に激怒したことがある。ボウイはヨーロッパの芸術、[[貴族#ヨーロッパ|貴族]]への憧憬を持ち続けた。それがエスカレートしたのか、[[1970年代|70年代]]に[[ファシズム]]支持発言をしている。[[1974年]]にボウイは﹁イギリスは |
過去の︽バウンス︾誌によれば、ボウイは[[1960年代|60年代]]の[[ヒッピー]]に激怒したことがある。ボウイはヨーロッパの芸術、[[貴族#ヨーロッパ|貴族]]への憧憬を持ち続けた。それがエスカレートしたのか、[[1970年代|70年代]]に[[ファシズム]]支持発言をしている。[[1974年]]にボウイは﹁イギリスはファシズムのリーダーになる用意がある<ref name="#2">https://flashbak.com/1976-david-bowies-nazi-salute-and-eric-clapton</ref>﹂との問題発言をおこなった。後にファシズムへの傾倒は﹁浮気﹂だったこと等を、明かしている。[[1976年]]の︽[[プレイボーイ (雑誌)|プレイボーイ]]︾誌のインタビューでは﹁ロック・スターは皆、ファシスト﹂﹁[[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]はロック・スターだった<ref name="#2"/>﹂と再度の問題発言をしている。同時期に、[[エリック・クラプトン]]も[[人種差別]]的な発言をしており{{Refnest|group="注"|[[エリック・クラプトン]]は[[黒人]]のブルースや[[ボブ・マーリー]]︵[[ジャマイカ]]︶の﹁{{仮リンク|アイ・ショット・ザ・シェリフ|en|I Shot the Sheriff|label=}}﹂をカバーしていることは有名である︶で財産をきずいたにもかかわらず、ライブのステージ上で、﹁キープ・イングランド・ホワイト﹂、{{仮リンク|イノック・パウエル|en|Enoch Powell|label=}}︵排外主義でレイシストの右派政治家︶の﹁血の河演説﹂への支持の表明を含む発言をおこなっている<ref>[https://ultimateclassicrock.com/eric-clapton-rant-rock-against-racism/ クラプトン 1976年発言] 2021-1-12閲覧</ref><ref>{{Cite web|author=|website=InsideHook|date=2018-06-05|url=https://www.insidehook.com/article/music/eric-clapton-racism|title=Remembering Eric Clapton's "Roseanne" Moment|accessdate=2020-12-11|publisher=|last=Sommer|first=Tim}}</ref><ref>{{Cite web|author=|website=[[Newsweek]]|date=2020-11-27|url=https://www.newsweek.com/clapton-morrison-lockdown-single-1550863|title=Eric Clapton's Past Racist Comments Surface After Announcement of 'Anti-Lockdown' Single|accessdate=2020-12-11|publisher=|last=Jackson|first=Jon}}</ref>︵ボウイが[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の業績を評価したことや、パウエルを支持したこと、公の場で人種差別発言をしたことは確認されていない︶。}}、そうしたクラプトンやボウイの問題発言に激しく反発した若者を中心とする人々は、﹁{{仮リンク|ロック・アゲインスト・レイシズム|en|Rock Against Racism|label=}}﹂の運動を実施した<ref>{{Cite web|author=|website=[[大英博物館|British Museum]]|date=|url=https://www.britishmuseum.org/collection/term/BIOG168262|title=Rock Against Racism Campaign|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref>。
|
||
1980年代以降、ボウイは反人種差別と反ファシズムに急激にシフトした。1983年、MTVのアンカーマークグッドマンとのインタビュー<ref>{{Cite web|和書|title=デヴィッド・ボウイが黒人差別を訴える、MTVインタビューを回想﹁放送局は公正であるべき﹂ {{!}} Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン︶ |url=https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34041 |website=Rolling Stone Japan |date=2020-06-15 |access-date=2022-05-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=David Bowie Criticizes MTV for Not Playing Videos by Black Artists {{!}} MTV News - YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=XZGiVzIr8Qg |website=www.youtube.com |access-date=2022-05-14}}</ref> |
1980年代以降、ボウイは反人種差別と反ファシズムに急激にシフトした。1983年、[[MTV]]のアンカー{{仮リンク|マーク・グッドマン|en|Mark Goodman|label=}}とのインタビューで<ref>{{Cite web|和書|title=デヴィッド・ボウイが黒人差別を訴える、MTVインタビューを回想﹁放送局は公正であるべき﹂ {{!}} Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン︶ |url=https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34041 |website=Rolling Stone Japan |date=2020-06-15 |access-date=2022-05-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=David Bowie Criticizes MTV for Not Playing Videos by Black Artists {{!}} MTV News - YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=XZGiVzIr8Qg |website=www.youtube.com |access-date=2022-05-14}}</ref>、ボウイはMTVが黒人ミュージシャンのミュージックビデオをゴールデンタイムに全くオンエアしないことを批判し、グッドマンが理由の1つとして﹁アメリカ中西部の市民にはTVに黒人が映るとびっくりする人たちがいるため配慮している﹂と述べた際に目に見えて不快になった。﹃[[チャイナ・ガール (曲)|チャイナ・ガール]]﹄と﹃[[レッツ・ダンス (曲)|レッツ・ダンス]]﹄のミュージックビデオは、ボウイによって人種差別に対する﹁非常に単純で非常に直接的な﹂意見の表現だとされた。
|
||
=== 親日家 === |
=== 親日家 === |
||
159行目: | 147行目: | ||
デヴィッド・ボウイが大の[[日本]]好きであったことはよく知られている<ref name="BBC_Bowie_and_Japan">{{cite web|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-35278488|title=David Bowie's love affair with Japanese style|author=Tessa Wong|author2=Anna Jones|author3=Yuko Kato|publisher=BBC|date=2016-01-12|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref name="nikkei20160113">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO96042470T10C16A1MM8000/|publisher=日本経済新聞社|title=日経新聞コラム春秋 2016/1/13付|date=2016-01-13|accessdate=2016-01-15}}</ref>。
|
デヴィッド・ボウイが大の[[日本]]好きであったことはよく知られている<ref name="BBC_Bowie_and_Japan">{{cite web|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-35278488|title=David Bowie's love affair with Japanese style|author=Tessa Wong|author2=Anna Jones|author3=Yuko Kato|publisher=BBC|date=2016-01-12|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref name="nikkei20160113">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO96042470T10C16A1MM8000/|publisher=日本経済新聞社|title=日経新聞コラム春秋 2016/1/13付|date=2016-01-13|accessdate=2016-01-15}}</ref>。
|
||
⚫ |
ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、[[1960年代]]に舞踊家[[リンゼイ・ケンプ]]のダンス・スクールに通っていた時であった<ref name="Thian2013">{{cite web |url=https://www.japantimes.co.jp/life/2013/06/11/style/for-david-bowie-japanese-style-was-more-than-just-fashion/#.VpdWslLwBpi |title=For David Bowie, Japanese style was more than just fashion |author=Helene M. Thian |date=2013-06-11 |accessdate=2016-01-14}}</ref>。[[衣笠貞之助]]の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに[[武満徹]]を聴かせ、共に[[日本の伝統芸能]]、[[能]]や[[歌舞伎]]を研究した<ref name="Thian2013" />。[[1967年]]に[[チベット仏教]]の[[僧侶]]になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、[[黙想]]に生きる僧侶とは正反対の、[[ロックスター|ロック・スター]]という派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった<ref name="Thian2013" />。ボウイが北米市場で成功しようともがいていた[[1970年代]]に大きな助けとなったのが[[ファッションデザイナー|服飾デザイナー]]、[[山本寛斎]]との出会いであった<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" /><ref name="Thian2013" />。山本は[[1973年]]のジギーや[[1976年]]の﹃アラジン・セイン﹄の衣装をデザインした<ref name="Thian2013" />。
|
||
⚫ |
一時期[[京都市]]に |
||
⚫ |
彼のステージ・パフォーマンスは[[日本文化]]の要素がいくつも取り入れられていた<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" /><ref name="Thian2013" />。このことを示す事例は、[[異星人]]という設定の﹁ジギー・スターダスト﹂や﹁ジェローム・ニュートン﹂のコスチュームなど、枚挙にいとまがない<ref name="Thian2013" />。ボウイは特に、[[歌舞伎]]の様式美や[[女形]]という要素に大きな影響を受けた<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" /><ref name="Thian2013" />。[[坂東玉三郎 (5代目)|五代坂東玉三郎]]に女形の化粧のやり方を教わることすらしたが、女形の化粧をそのまま真似することはせず、むしろ女形に[[両性具有]]的魅力を見出し、ステージへの応用ができるかを模索した<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" />。[[洋服の歴史|服飾史]]研究者ヘレン・サイアン<small>︵Helene Thian︶</small>によると、ボウイは歌舞伎の﹁[[早替わり]]﹂の要素をステージパフォーマンスに取り入れた最初の欧米人であるという<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" />。ボウイは﹁スペース・サムライ﹂と名付けた日本の[[袴]]にインスパイアされた衣装や、[[着物]]にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客を魅了した<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" />。
|
||
ボウイが京都に滞在していたころに、阪急電車の前でコートを直す姿を写真家[[鋤田正義]]に撮影された写真が有名であり、[[京都河原町駅|河原町駅]](現:京都河原町駅)にて阪急電車の車両、[[阪急京都本線|阪急京都線]]の1世代前の[[特急車両]]「[[阪急6300系|6300系]]」の6番目に作られた編成(6355×8R)大阪方から4両目前の前で撮影された写真は現在も阪急の資料にて残されている<ref>{{Cite web|和書|title=一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流「京都の歩き方」【鋤田氏の写真と語りで巡る】|url=https://www.potel.jp/kyoto/cityguide/feature/david-bowie-kyoto/|website=一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流「京都の歩き方」【鋤田氏の写真と語りで巡る】|accessdate=2021-01-20|language=ja|publisher=ポmagazine}}</ref>。また、ボウイは1979年から活動を開始した[[平沢進]]が率いたテクノポップバンド「[[P-MODEL]]」の京都で行われたライブコンサートに観客の一人として訪れ、ライブ終了後にバンドメンバー達に会いに行き、語り合った<ref>『P News Letter』VOL.2 1980/04/29より</ref>。米国に帰国後、ボウイは米国版PLAYBOY誌にて[[坂本龍一]]と対談している。坂本龍一から日本に気になるアーティストが居たかと聞かれた際、ボウイは[[P-MODEL]]が気になっていると語っている<ref>『PLAYBOY/USA 1980』より</ref>。 |
|||
⚫ | |||
⚫ |
彼のステージ・パフォーマンスは[[日本文化]]の要素がいくつも取り入れられていた<ref name="BBC_Bowie_and_Japan" /><ref name="Thian2013" |
||
⚫ |
一時期、[[京都市]]に邸宅を構えていたとの噂もあるが、実際には[[1980年]]に{{仮リンク|ディヴィッド・キッド|en|David Kidd (writer)}}という同名の東洋美術家の京都市[[山科区]]にある家にしばしば滞在し、その間は京都の各地でボウイが目撃されていたことから噂が膨らんだのではないかとの説も示されている<ref>{{Cite web|author=2017-06-14|website=[[京都新聞|The Kyoto Shimbun News]]|date=|url=https://e.kyoto-np.jp/news/20170614/2770.html|title=David Bowie Sojourns in Kyoto for Commercial and Photo Shoots|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=樺山聡|website=[[AERA|AERA dot.]]|date=2017-11-19|url=https://dot.asahi.com/articles/-/124728?page=1|title=﹁デヴィッド・ボウイは京都に家を所有﹂は嘘だった…スーパースターの真相と謎の師“ディヴィッド・キッド”の正体|accessdate=2020-12-11|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://the.kyoto/article/ec5dce1f-c952-4f2d-9b34-965186fdea76|title=ボウイの秘密 #1 もう一人の DAVIDとの邂逅|accessdate=2020年12月20日|publisher=THE KYOTO|author=樺山聡|date=2020-06-11}}</ref>。
|
||
⚫ | ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、[[1960年代]]に |
||
ボウイが京都に滞在していた頃の姿は、写真家[[鋤田正義]]によって撮影された写真が広く知られている<ref>{{Cite web|和書 |title=一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流﹁京都の歩き方﹂︻鋤田氏の写真と語りで巡る︼ |url=https://www.potel.jp/kyoto/cityguide/feature/david-bowie-kyoto/ |website=一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流﹁京都の歩き方﹂︻鋤田氏の写真と語りで巡る︼ |accessdate=2021-01-20 |language=ja |publisher=ポmagazine}}</ref>。その中には、[[京都河原町駅|河原町駅]]︵現‥京都河原町駅︶にて阪急電車の前でコートを直す姿もあり<ref>{{Cite tweet|user=hankyu_ex|number=687496420882944000|title=デヴィッド・ボウイさんが電車の前に…|date=2016-01-14|access-date=2024-05-16}}</ref>、現在も阪急の資料にて残されている。[[阪急電鉄]]はボウイの訃報を受け、公式[[Twitter]]でその写真と共に追悼メッセージを送った<ref>{{Cite tweet |user=hankyu_ex |number=686478347719827456 |title=デヴィッド・ボウイ様。その姿は… |date=2016-01-11 |access-date=2024-05-16}}</ref>。
|
|||
⚫ | |||
1980年[[3月29日]]に京都のライブハウスにて、[[平沢進]]が率いたテクノポップバンド「[[P-MODEL]]」のライブコンサートに観客の一人として現れた。ライブ終了後には楽屋を訪れ、バンドメンバー達と語り合った<ref>『P News Letter』VOL.2 1980/04/29より</ref>。米国に帰国後、ボウイは《[[プレイボーイ (雑誌)|プレイボーイ]]》誌にて[[坂本龍一]]と対談し、坂本から日本に気になるアーティストが居たかと聞かれた際、ボウイはP-MODELが気になっていると語った<ref>『PLAYBOY/USA 1980』より</ref>。 |
|||
2016年1月10日ボウイの訃報に際し、翌日に[[阪急電鉄]]は公式[[Twitter]]で、[[阪急6300系電車|6300系]]をバックに撮られたボウイの写真と共に、追悼メッセージを送った<ref>https://twitter.com/hankyu_ex/status/686478347719827456</ref>。 |
|||
⚫ | |||
⚫ |
最初の妻はモデル出身の{{仮リンク|アンジー・ボウイ|en|Angie Bowie|label=メアリー・アンジェラ・バーネット}}。[[1970年]]に結婚し、翌年、長男 [[ダンカン・ジョーンズ]]︵現・[[映画監督]]︶を授かる。[[1980年]]に離婚。[[1992年]]に[[スーパーモデル]]、[[イマン・アブドゥルマジド]]と再婚。[[2000年]]に長女 アレクサンドリア・ザーラ・ジョーンズ<small>︵Alexandria Zahra Jones︶</small>が生まれている<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000124177 デヴィッド・ボウイ、亡くなる直前に孫誕生の知らせ] - BARKS</ref>。
|
||
⚫ | |||
⚫ | File:Duncan Jones and David Bowie at the premiere of Moon.jpg|長男 [[ダンカン・ジョーンズ]](2009年) |
||
⚫ | File:Iman and David Bowie at the premiere of Moon.jpg|後妻 [[イマン・アブドゥルマジド]](2009年) |
||
⚫ | |||
== 栄典および受賞等 == |
== 栄典および受賞等 == |
||
179行目: | 175行目: | ||
=== 献名 === |
=== 献名 === |
||
; David Bowie Spider(''[[:en:Heteropoda davidbowie|Heteropoda davidbowie]]'') |
|||
: [[アシダカグモ科]]の[[クモ]]の一種。[[キャメロンハイランド]]から[[マレー半島]]、[[タイ王国|タイ]]、[[シンガポール]]に生息する。2008年にドイツの生物学者ペーター・イェーガーが発見。種小名の﹁''davidbowie﹂''はデヴィッド・ボウイのアルバム﹃ジギー・スターダスト﹄の原題﹃''The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The '''Spiders''' From Mars''﹄にちなんで献名された<ref name="ARKive">{{cite web|url=https://www.arkive.org/david-bowie-spider/heteropoda-davidbowie/|title=David Bowie spider videos, photos and facts - Heteropoda davidbowie|work=[[:en:ARKive]]|accessdate=11 January 2016}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://rocketnews24.com/2009/09/08/%e3%80%8c%e3%83%87%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%83%e3%83%89%e3%83%bb%e3%83%9c%e3%82%a6%e3%82%a4-%e3%80%8d%e3%81%a8%e5%91%bd%e5%90%8d%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%80%8e%e3%82%af%e3%83%a2%e3%80%8f%e3%81%ab/ |title=﹁デヴィッド・ボウイ ﹂と命名された﹃クモ﹄に賛否両論! |website=[[ロケットニュース24]] |date=2009-09-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111206183554/https://rocketnews24.com/2009/09/08/%E3%80%8C%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A6%E3%82%A4-%E3%80%8D%E3%81%A8%E5%91%BD%E5%90%8D%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8E%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%80%8F%E3%81%AB/ |archivedate=2011-12-06 |accessdate=2024-05-16}}</ref>。
|
|||
== 音楽作品 == |
== 音楽作品 == |
||
191行目: | 188行目: | ||
* 1992年1月29日から2月17日までの3週間、[[ティン・マシーン]]で来日公演を行った際、[[テレビ東京]]の『[[タモリの音楽は世界だ]]』、[[日本テレビ]]の『[[鶴ちゃんのプッツン5]]』に出演し、両番組内ともに、[[口パク]]で「Baby Universal」を披露した。 |
* 1992年1月29日から2月17日までの3週間、[[ティン・マシーン]]で来日公演を行った際、[[テレビ東京]]の『[[タモリの音楽は世界だ]]』、[[日本テレビ]]の『[[鶴ちゃんのプッツン5]]』に出演し、両番組内ともに、[[口パク]]で「Baby Universal」を披露した。 |
||
* [[MTV]]、"I want my MTV"・キャンペーン(1983年 - 1985年、アメリカ、楽曲「モダン・ラヴ」) |
* [[MTV]]、"I want my MTV"・キャンペーン(1983年 - 1985年、アメリカ、楽曲「モダン・ラヴ」) |
||
=== 日本のテレビCM === |
|||
* [[宝ホールディングス|宝酒造]]「宝焼酎『純』」(1980年)<ref>{{Cite web |url=https://amass.jp/133012/ |title=デヴィッド・ボウイ出演の宝焼酎『純』CM 新しく復元した映像が話題に |website=amass |date=2020-4-1 |accessdate=2024-05-16}}</ref> |
|||
== 日本公演 == |
== 日本公演 == |
||
209行目: | 209行目: | ||
== ボウイを描いた作品 == |
== ボウイを描いた作品 == |
||
|
; {{仮リンク|スターダスト (2020年の映画)|en|Stardust (2020 film)}} |
||
|
: [[ガブリエル・レンジ]]監督のイギリス・カナダ合作映画。世界的名声を得る直前のボウイに焦点を当て、自らの世界を確立しようともがく彼の苦悩と葛藤に加え、アルバム「[[ジギー・スターダスト]]」の誕生秘話を描いた[[伝記映画]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wowow.co.jp/detail/176369|title=スターダスト|publisher=[[WOWOW]]|accessdate=2022-07-01}}</ref>。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
||
{{Reflist|group=注}} |
{{Reflist|group=注}} |
||
232行目: | 231行目: | ||
* {{Facebook|davidbowie|David Bowie}} |
* {{Facebook|davidbowie|David Bowie}} |
||
* {{MySpace|davidbowie|David Bowie}} |
* {{MySpace|davidbowie|David Bowie}} |
||
* {{YouTube |
* {{YouTube channel|@davidbowie|David Bowie}} |
||
* {{YouTube Music|channel=UCvY1eVE6lTebXsdFbbXUtkQ}} |
* {{YouTube Music|channel=UCvY1eVE6lTebXsdFbbXUtkQ}} |
||
* {{Spotify artist|id=0oSGxfWSnnOXhD2fKuz2Gy}} |
* {{Spotify artist|id=0oSGxfWSnnOXhD2fKuz2Gy}} |
2024年5月16日 (木) 19:16時点における最新版
デヴィッド・ボウイ | |
---|---|
![]() 1983年 キャリア最大ヒットのアルバム『レッツ・ダンス』発表時期のボウイ | |
基本情報 | |
出生名 | デヴィッド・ロバート・ジョーンズ |
別名 |
|
生誕 | 1947年1月8日 |
出身地 |
![]() |
死没 | |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1964年 - 2016年 |
レーベル | |
公式サイト | デヴィッド・ボウイ公式サイト |
デヴィッド・ボウイ | |
---|---|
出身地 |
![]() |
主な作品 | |
『地球に落ちて来た男』 『ハンガー』 『戦場のメリークリスマス』 『ラビリンス/魔王の迷宮』 『最後の誘惑』 『バスキア』 『プレステージ』 |
生涯[編集]
生い立ちから初ヒット[編集]
1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンに、ケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー︵Margaret Mary、1913年 - 2001年︶と、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体バーナード・ホームズで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ︵Haywood Stenton Jones、1912年 - 1969年︶[10]の間に生まれた。一家は、ブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。 子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ[11][12]。異父兄であるテリー・バーンズ︵Terry Burns︶の影響でモダンジャズに関心を持ち、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれた。14歳になった1961年に、母親からプラスチック製のアルト・サックスを贈られ、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受ける[13]。 1962年、ボウイは15歳の時に重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった[14]。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。この一件にもかかわらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した[15]。 同年、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド﹁コンラッズ︵Konrads︶﹂を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た[16]。 1964年6月5日に﹁ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ︵Davie Jones with The King Bees︶﹂名義で最初のシングル﹁リザ・ジェーン︵Liza Jane︶﹂を発表[17]。しばらくはヒットに恵まれず、﹁ザ・マニッシュ・ボーイズ︵The Manish Boys︶﹂﹁ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード︵Davy Jones & The Lower 3rd︶﹂[18]などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから[19]、1966年4月のシングル﹁Do Anything You Say﹂から使い始めた﹁デヴィッド・ボウイ﹂が芸名として定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られた[20]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/98/David_Bowie_%281967%29.png/140px-David_Bowie_%281967%29.png)
グラム・ロック時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/David-Bowie_Early.jpg/140px-David-Bowie_Early.jpg)
アメリカ時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/David_Bowie_-_TopPop_1974_11.png/160px-David_Bowie_-_TopPop_1974_11.png)
ベルリン時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/David_bowie_05061978_01_150.jpg/130px-David_bowie_05061978_01_150.jpg)
カルト・スターとの決別[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/Bowie_1983_serious_moonlight_blu.jpg/200px-Bowie_1983_serious_moonlight_blu.jpg)
ティン・マシーン時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/David_Bowie_-_Zagreb.jpg/130px-David_Bowie_-_Zagreb.jpg)
ソロ活動再開[編集]
1991年に﹃ティン・マシーンII﹄を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。 1993年にモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム﹃ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ﹄を発表、﹃トゥナイト﹄以来9年ぶりに全英1位を獲得する。1995年に今度はブライアン・イーノと再び組んで﹃アウトサイド﹄をリリース。その後、1997年に﹃アースリング﹄、1999年に﹃アワーズ…﹄をリリースする。 メジャーなロック・スターに珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入した。病気療養と引退報道[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e8/David-Bowie_Chicago_2002-08-08_photoby_Adam-Bielawski-cropped.jpg/140px-David-Bowie_Chicago_2002-08-08_photoby_Adam-Bielawski-cropped.jpg)
突然の復帰、そして死[編集]
2013年1月8日、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲﹁ホエア・アー・ウィー・ナウ?﹂と10年ぶりとなる新作﹃ザ・ネクスト・デイ﹄を3月に発売すると発表。先行シングルの﹁ホエア・アー・ウィー・ナウ?﹂は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位になった[24]。 ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい[25]。 2015年、自身が1976年に主演した映画﹃地球に落ちて来た男﹄が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表される。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供される[26]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/Hauptstrasse_155_18.01.2016_10-41-38.jpg/200px-Hauptstrasse_155_18.01.2016_10-41-38.jpg)
人物[編集]
音楽家としてのボウイ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/This_marks_the_location_of_the_cover_photograph_for_the_iconic_David_Bowie_album_%27The_Rise_and_Fall_of_Ziggy_Stardust_and_the_Spiders_From_Mars%27._Ziggy_Stardust_1972.jpg/130px-thumbnail.jpg)
役者としてのボウイ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/62/David_Bowie_holywood.jpg/150px-David_Bowie_holywood.jpg)
思想[編集]
過去の︽バウンス︾誌によれば、ボウイは60年代のヒッピーに激怒したことがある。ボウイはヨーロッパの芸術、貴族への憧憬を持ち続けた。それがエスカレートしたのか、70年代にファシズム支持発言をしている。1974年にボウイは﹁イギリスはファシズムのリーダーになる用意がある[34]﹂との問題発言をおこなった。後にファシズムへの傾倒は﹁浮気﹂だったこと等を、明かしている。1976年の︽プレイボーイ︾誌のインタビューでは﹁ロック・スターは皆、ファシスト﹂﹁ヒットラーはロック・スターだった[34]﹂と再度の問題発言をしている。同時期に、エリック・クラプトンも人種差別的な発言をしており[注 2]、そうしたクラプトンやボウイの問題発言に激しく反発した若者を中心とする人々は、﹁ロック・アゲインスト・レイシズム﹂の運動を実施した[38]。 1980年代以降、ボウイは反人種差別と反ファシズムに急激にシフトした。1983年、MTVのアンカーマーク・グッドマンとのインタビューで[39][40]、ボウイはMTVが黒人ミュージシャンのミュージックビデオをゴールデンタイムに全くオンエアしないことを批判し、グッドマンが理由の1つとして﹁アメリカ中西部の市民にはTVに黒人が映るとびっくりする人たちがいるため配慮している﹂と述べた際に目に見えて不快になった。﹃チャイナ・ガール﹄と﹃レッツ・ダンス﹄のミュージックビデオは、ボウイによって人種差別に対する﹁非常に単純で非常に直接的な﹂意見の表現だとされた。親日家[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/46/David_Bowie%27s_Outfits_-_Rock_and_Roll_Hall_of_Fame_%282014-12-30_13.09.55_by_Sam_Howzit%29.jpg/200px-David_Bowie%27s_Outfits_-_Rock_and_Roll_Hall_of_Fame_%282014-12-30_13.09.55_by_Sam_Howzit%29.jpg)
家族[編集]
最初の妻はモデル出身のメアリー・アンジェラ・バーネット。1970年に結婚し、翌年、長男 ダンカン・ジョーンズ︵現・映画監督︶を授かる。1980年に離婚。1992年にスーパーモデル、イマン・アブドゥルマジドと再婚。2000年に長女 アレクサンドリア・ザーラ・ジョーンズ︵Alexandria Zahra Jones︶が生まれている[52]。-
長男 ダンカン・ジョーンズ(2009年)
-
後妻 イマン・アブドゥルマジド(2009年)
栄典および受賞等[編集]
フランス[編集]
1999年 フランス芸術文化勲章コマンドール[53][54]米国[編集]
1999年 バークリー音楽院名誉音楽博士号[55]献名[編集]
David Bowie Spider︵Heteropoda davidbowie︶ アシダカグモ科のクモの一種。キャメロンハイランドからマレー半島、タイ、シンガポールに生息する。2008年にドイツの生物学者ペーター・イェーガーが発見。種小名の﹁davidbowie﹂はデヴィッド・ボウイのアルバム﹃ジギー・スターダスト﹄の原題﹃The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars﹄にちなんで献名された[56][57]。音楽作品[編集]
詳細は「デヴィッド・ボウイの作品」を参照出演[編集]
映画・ドラマ・舞台への出演については「デヴィッド・ボウイの作品#出演作品」を参照日本のテレビ番組[編集]
●1983年10月の来日公演時に、テレビ朝日の60分の﹃戦メリ﹄ボウイ特番﹃独占!!デヴィッド・ボウイ﹄に、大島渚らと共に出演した。司会は、山本コウタローとジュディ・オングが務めた。 ●1992年1月29日から2月17日までの3週間、ティン・マシーンで来日公演を行った際、テレビ東京の﹃タモリの音楽は世界だ﹄、日本テレビの﹃鶴ちゃんのプッツン5﹄に出演し、両番組内ともに、口パクで﹁Baby Universal﹂を披露した。 ●MTV、"I want my MTV"・キャンペーン︵1983年 - 1985年、アメリカ、楽曲﹁モダン・ラヴ﹂︶日本のテレビCM[編集]
●宝酒造﹁宝焼酎﹃純﹄﹂︵1980年︶[58]日本公演[編集]
●1973年 Ziggy Stardust Tour ●4月8・10・11日‥東京厚生年金会館、12日‥名古屋市公会堂、14日‥広島郵便貯金ホール、16日‥神戸国際会館、17日‥大阪厚生年金会館、18日・20日‥渋谷公会堂 ●1978年 Isolar II Tour ●12月6・7日‥大阪厚生年金会館、9日‥万博記念公園、11日‥日本武道館、12日‥NHKホール ●1983年 Serious Moonlight Tour ●10月20・21・22・24日‥日本武道館、25日‥横浜スタジアム、26・27日‥大阪府立体育会館、29日‥名古屋市国際展示場、30日‥万博記念公園、31日‥京都府立体育館 ●1990年 Sound + Vision Tour ●5月15・16日‥東京ドーム ●1992年 Tin Machine It's My Life Tour ●1月29日‥京都会館、30・31日‥大阪フェスティバルホール、2月2日‥九州厚生年金会館、3日‥メルパルクホール広島、5・6日‥NHKホール、7日‥神奈川県立県民ホール、10・11日‥北海道厚生年金会館、13日‥仙台サンプラザ、14日‥大宮ソニックシティ、17日‥NHKホール ●1996年 Outside Tour ●6月4・5日‥日本武道館、7日‥名古屋センチュリーホール、8日‥広島厚生年金会館、10日‥大阪城ホール、11日‥九州厚生年金会館、13日‥福岡サンパレス ●2004年 A Reality Tour ●3月8・9日‥日本武道館、11日‥大阪城ホールボウイを描いた作品[編集]
スターダスト (2020年の映画) ガブリエル・レンジ監督のイギリス・カナダ合作映画。世界的名声を得る直前のボウイに焦点を当て、自らの世界を確立しようともがく彼の苦悩と葛藤に加え、アルバム﹁ジギー・スターダスト﹂の誕生秘話を描いた伝記映画[59]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ もともと英国で﹃デヴィッド・ボウイ﹄として発売されたが、同名の前作との混乱を引き起こし、後に﹃スペイス・オディティ﹄に改題された。 (二)^ エリック・クラプトンは黒人のブルースやボブ・マーリー︵ジャマイカ︶の﹁アイ・ショット・ザ・シェリフ﹂をカバーしていることは有名である︶で財産をきずいたにもかかわらず、ライブのステージ上で、﹁キープ・イングランド・ホワイト﹂、イノック・パウエル︵排外主義でレイシストの右派政治家︶の﹁血の河演説﹂への支持の表明を含む発言をおこなっている[35][36][37]︵ボウイがナチ党の業績を評価したことや、パウエルを支持したこと、公の場で人種差別発言をしたことは確認されていない︶。出典[編集]
(一)^ abcdefgErlewine, Stephen Thomas. “David Bowie Biography, Songs, & Albums”. AllMusic. RhythmOne. 2020年10月15日閲覧。 (二)^ abcdStacey, Lee; Henderson, Lol, eds (2014) [1999]. Encyclopedia of Music in the 20th Century. Oxfordshire: Taylor & Francis. p. 82 (三)^ ab“異能の才を振りまいたデヴィッド・ボウイのグラムロック期の名作﹃Aladdin Sane﹄”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク (2014年10月24日). 2023年5月7日閲覧。 (四)^ 中野渉 (2016年1月11日). “デヴィッド・ボウイさん死去、69歳 ﹁グラムロック﹂の大スター”. ハフポスト NEWS. BuzzFeed. 2023年5月7日閲覧。 (五)^ “David Bowie - January 10 2016 - David Bowie died peacefully today...”. David Bowie Official (2016年1月10日). 2016年1月11日閲覧。 (六)^ “プリンスが影響を受けたアーティスト10選!”. T-SITE. 2021年1月20日閲覧。 (七)^ “David Bowie | Artist | GRAMMY.com”. GRAMMY AWARDS. 2024年5月16日閲覧。 (八)^ “NME poll places Bowie as most influential artist of all-time”. NME. (2000年11月27日) (九)^ “DAVID BOWIE: VOTED MOST INFLUENTIAL ARTIST IN NME POLL OF TODAY’S POPSTARS | Mitch Schneider Organization”. www.msopr.com. 2021年1月20日閲覧。 (十)^ “Remembering Haywood Stenton 'John' Jones”. David Bowie. Warner Music UK (2019年8月5日). 2020年12月11日閲覧。 (11)^ 全曲解説シリーズ(7) デヴィッドボウイ 2000, p. 21. (12)^ Sandford (1997): pp. 19–20 (13)^ Sandford (1997): p. 25 (14)^ Evans, Mike (2006). Rock 'n' Roll's Strangest Moments: Extraordinary Tales from Over Fifty Years. Anova Books. p. 57. ISBN 978-1-86105-923-9. (15)^ Buckley (2005): p.19 (16)^ Sandford (1997): p. 28 (17)^ “Davie Jones With The King Bees* - Liza Jane”. Discogs. 2020年12月11日閲覧。 (18)^ “I Pity The Fool / Take My Tip / You've Got A Habit Of Leaving / Baby Loves That Way”. Discogs. 2020年12月11日閲覧。 (19)^ “デヴィッド・ボウイ、幻のアルバム﹃Toy﹄に隠された苦悩と進化 ついに明かされた全貌をブレイク前の変遷から徹底解説”. Real Sound|リアルサウンド. 2022年2月13日閲覧。 (20)^ David Buckley (2000) (英語). Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story. London: Virgin. p. 33. ISBN 0-7535-0457-X (21)^ “The Image (1969)”. IMDb. 2020年12月11日閲覧。 (22)^ Miller, Rob (2019年9月23日). “コンセプト・アルバムのベスト25枚”. uDiscoverMusic | 洋楽についての音楽サイト. 2021年1月20日閲覧。 (23)^ デヴィッド・ボウイ 2022年1月11日閲覧 (24)^ それにしてもデヴィッド・ボウイの最新ビジュアル・コンセプトがぐもも&続報あれこれ - ro69.jp ﹁宮嵜広司の﹁明るい洋楽﹂・2013年1月9日閲覧。 (25)^ エコー&ザ・バニーメンのイアン、デヴィッド・ボウイ重病説を信じトリビュート・ソングを作っていた、BARKS ﹁BARKSニュース﹂・2013年4月17日閲覧。 (26)^ “デビッド・ボウイ、﹁地球に落ちてきた男﹂をオフブロードウェイで舞台化”. 映画.com (2015年4月11日). 2015年4月13日閲覧。 (27)^ デヴィッド・ボウイが死去 - amass (28)^ https://www.dailymail.co.uk/news/article-3393599/Look-m-heaven-David-Bowie-s-haunting-lyrics-song-Lazarus-appear-farewell-thoughts-man-knew-dying.html (29)^ https://www.youtube.com/watch?v=y-JqH1M4Ya8 (30)^ デヴィッド・ボウイ、全米初のNo.1獲得 - BARKS (31)^ デヴィッド・ボウイ、グラミー5部門を受賞 - BARKS (32)^ abc飛行機嫌いだったデビッド・ボウイさん 初来日公演は船で日本入り スポーツニッポン 2015年1月12日閲覧 (33)^ Thompson, Jody (2007年1月8日). “Sixty things about David Bowie”. (No. 35): BBC News 2010年7月4日閲覧。 (34)^ abhttps://flashbak.com/1976-david-bowies-nazi-salute-and-eric-clapton (35)^ クラプトン 1976年発言 2021-1-12閲覧 (36)^ Sommer, Tim (2018年6月5日). “Remembering Eric Clapton's "Roseanne" Moment”. InsideHook. 2020年12月11日閲覧。 (37)^ Jackson, Jon (2020年11月27日). “Eric Clapton's Past Racist Comments Surface After Announcement of 'Anti-Lockdown' Single”. Newsweek. 2020年12月11日閲覧。 (38)^ “Rock Against Racism Campaign”. British Museum. 2020年12月11日閲覧。 (39)^ “デヴィッド・ボウイが黒人差別を訴える、MTVインタビューを回想﹁放送局は公正であるべき﹂ | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン︶”. Rolling Stone Japan (2020年6月15日). 2022年5月14日閲覧。 (40)^ “David Bowie Criticizes MTV for Not Playing Videos by Black Artists | MTV News - YouTube”. www.youtube.com. 2022年5月14日閲覧。 (41)^ abcdefghiTessa Wong (2016年1月12日). “David Bowie's love affair with Japanese style”. BBC. 2016年1月14日閲覧。 (42)^ “日経新聞コラム春秋 2016/1/13付”. 日本経済新聞社 (2016年1月13日). 2016年1月15日閲覧。 (43)^ abcdefghHelene M. Thian (2013年6月11日). “For David Bowie, Japanese style was more than just fashion”. 2016年1月14日閲覧。 (44)^ 2017-06-14. “David Bowie Sojourns in Kyoto for Commercial and Photo Shoots”. The Kyoto Shimbun News. 2020年12月11日閲覧。 (45)^ 樺山聡 (2017年11月19日). “﹁デヴィッド・ボウイは京都に家を所有﹂は嘘だった…スーパースターの真相と謎の師“ディヴィッド・キッド”の正体”. AERA dot.. 2020年12月11日閲覧。 (46)^ 樺山聡 (2020年6月11日). “ボウイの秘密 #1 もう一人の DAVIDとの邂逅”. THE KYOTO. 2020年12月20日閲覧。 (47)^ “一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流﹁京都の歩き方﹂︻鋤田氏の写真と語りで巡る︼”. 一味違っていたらしい、デヴィッド・ボウイ流﹁京都の歩き方﹂︻鋤田氏の写真と語りで巡る︼. ポmagazine. 2021年1月20日閲覧。 (48)^ @hankyu_ex (2016年1月14日). "デヴィッド・ボウイさんが電車の前に…". X︵旧Twitter︶より2024年5月16日閲覧。 (49)^ @hankyu_ex (2016年1月11日). "デヴィッド・ボウイ様。その姿は…". X︵旧Twitter︶より2024年5月16日閲覧。 (50)^ ﹃P News Letter﹄VOL.2 1980/04/29より (51)^ ﹃PLAYBOY/USA 1980﹄より (52)^ デヴィッド・ボウイ、亡くなる直前に孫誕生の知らせ - BARKS (53)^ “Encyclopedia>Ordre des Arts et des Lettres”. SiteMaster.com. 2010年4月5日閲覧。 (54)^ PAYTRESS, MARK (1 April 2003). BOWIE STYLE. TOKYO FM Publishing (55)^ “Honorary Degree Recipients”. Berklee College of Music. 2010年4月5日閲覧。 (56)^ “David Bowie spider videos, photos and facts - Heteropoda davidbowie”. en:ARKive. 2016年1月11日閲覧。 (57)^ “﹁デヴィッド・ボウイ ﹂と命名された﹃クモ﹄に賛否両論!”. ロケットニュース24 (2009年9月8日). 2011年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月16日閲覧。 (58)^ “デヴィッド・ボウイ出演の宝焼酎﹃純﹄CM新しく復元した映像が話題に”. amass (2020年4月1日). 2024年5月16日閲覧。 (59)^ “スターダスト”. WOWOW. 2022年7月1日閲覧。参考文献[編集]
●デヴィッド, ボウイ﹃デヴィッド・ボウイ詩集―スピード・オヴ・ライフ﹄古川貴之︵翻訳︶、シンコーミュージック、2002年。ISBN 978-4401617623。 ●マーク, ペイトレス﹃BOWIE STYLE﹄Yuki Hashimoto︵翻訳︶、TOKYO FM 出版、2003年。ISBN 978-4887450783。 ●﹃アーカイヴ・シリーズ No.12 デヴィッド・ボウイ﹄シンコーミュージック、2004年。ISBN 978-4401618484。 ●スローガン﹃デヴィッド・ボウイ・ファイル﹄シンコーミュージック、2006年。ISBN 978-4401619764。 ●バックレー, デヴィッド﹃全曲解説シリーズ(7) デヴィッドボウイ﹄前むつみ︵翻訳︶、森幸子︵翻訳︶、シンコーミュージック、2006年。ISBN 978-4401630264。 ●吉村栄一﹃評伝デヴィッド・ボウイ 日本に降り立った異星人(スターマン)﹄DU BOOKS、2017年。ISBN 978-4866470085。外部リンク[編集]
- 公式ウェブサイト
- David Bowie (davidbowie) - Facebook
- David Bowie - Myspace
- David Bowie - YouTubeチャンネル
- デヴィッド・ボウイ - YouTube Music チャンネル
- デヴィッド・ボウイ - Spotify
- David Bowie - オールミュージック
- David Bowie - Discogs
- デヴィッド・ボウイ - KINENOTE
- デヴィッド・ボウイ - allcinema
- David Bowie - IMDb(英語)
- デヴィッド・ボウイ
- イングランドのシンガーソングライター
- イングランドのポップ歌手
- イングランドのロック歌手
- イングランドの男優
- 20世紀イングランドの俳優
- ユニバーサル ミュージック グループのアーティスト
- EMIグループのアーティスト
- コロムビア・レコードのアーティスト
- RCAレコードのアーティスト
- デッカ・レコードのアーティスト
- バイセクシュアルの音楽家
- バイセクシュアルの男性
- グラミー賞受賞者
- ブリット・アワード受賞者
- エクスペリメンタル・ポップ・ミュージシャン
- グラムロック
- ディスコ
- ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
- ロックの殿堂入りの人物
- 隻眼の人物
- 在アメリカ合衆国イギリス人
- 肝癌で亡くなった人物
- ランベス区出身の人物
- 1947年生
- 2016年没