P-MODEL
P-MODEL / 核P-MODEL | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル |
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事務所 |
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公式サイト | SUSUMU HIRASAWA |
メンバー | 平沢進(ボーカル・ギター) |
旧メンバー |
「#メンバー」を参照 |
P-MODEL︵ピー・モデル︶は、日本の音楽グループ。1979年結成、2000年より無期限活動休止中。ここでは、2004年より活動している核P-MODELについても扱う。
媒体によっては﹁P-model﹂﹁P-モデル﹂等の表記揺れがあるが、正式な表記は全て大文字の﹁P-MODEL﹂である[要出典]。
概要[編集]
1979年1月1日、前身バンド﹁MANDRAKE﹂が解散。即日P-MODELが結成され、シングル﹃美術館で会った人だろ (ART MANIA)﹄で同年7月にメジャーデビュー[2][3]。ジョージ・オーウェルの小説﹃1984年﹄をコンセプトの下敷きとした1stアルバム﹃IN A MODEL ROOM﹄を発表[4]。 プラスチックス・ヒカシューと共に﹁テクノ御三家﹂とされ、YMOを始めとする80年代のテクノポップブームの一翼を担い、テクノ・ニューウェイブシーンにおける中心的存在となる[5]。メジャーデビュー後にはXTC、ヴァン・ヘイレンなど海外バンドの来日ツアーの前座を務め、日本武道館公演なども経験した[6]。 1981年に発売された3rdアルバム﹃Potpourri﹄で﹁脱・テクノ﹂を宣言。以降はメンバーや音楽性が激しく変遷を重ねた末、1988年12月に﹁凍結﹂(活動休止)を宣言[7]。 1991年、期間限定の活動という前提でP-MODELの﹁解凍﹂を宣言し、同年9月に日比谷野外音楽堂にて行われたライブイベント﹃ERROR OF UNIVERSE﹄にて活動再開。再びテクノポップを全面に打ち出した。時代が進み、デジタルシンセによる音圧の高いサイバー感のあるサウンドに変化を遂げた。また、Amigaを中心とするマルチメディアの活用を行った。 1993年、メンバーチェンジに伴う﹁改訂﹂作業に入る事を発表。同年10月に日比谷野外音楽堂にて行われたライブイベント﹁ERROR OF INFORMATION "待機"﹂を以て、一時的に活動﹁待機﹂(活動休止)となる[8]。 1994年12月、メンバーの﹁改訂﹂を終え再び活動を再開。当時黎明期だったインターネットをキーワードとして様々な活動を行い、その中の一環として楽曲のMP3配信を行った。この事はメジャー出身バンドとして日本国内で初めての試みであった[9]。 2000年12月にP-MODELの解体を発表し、﹁培養﹂期間に入ることを宣言[10]。 アメリカ最大の音楽レビューサイト﹁Rate Your Music﹂ではテクノ・ニュー・ウェイブバンドとして海外の音楽リスナーから強い支持を得ている[11]。核P-MODEL[編集]
2004年からは、中心メンバーだった平沢がP-MODELの作風を継承したプロジェクト﹁核P-MODEL﹂として不定期に活動している[12][注 1]。 なお、当初は平沢のソロバンドとして始まったが、2ndアルバム﹃гипноза﹄にはP-MODELのオリジナルメンバーだった田中靖美、平沢がプロデュースを手掛けたバンドPEVOよりPEVO1号が参加している。 ライブにおいても2014年からはサポートミュージシャンを加えており、2014年に行われたライブ﹁パラレル・コザック﹂と﹁HYBRID PHONON﹂にはサポートメンバーとしてPEVO1号が参加した。その他、﹁パラレル・コザック﹂には福間創扮する﹁謎の毛糸帽の男﹂がスポット出演している。 2018年から2019年に行われたライブ﹁回=回﹂では、正体不明のメンバー﹁会人(EJIN)﹂がサポートメンバーとして参加している。メンバー[編集]
- 個人記事のあるメンバーについてはそちらを参照。
氏名 | パート | 生年月日・出身地 | 在籍期間 | 他の所属グループ |
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現メンバー(P-MODEL / 核P-MODEL) | ||||
平沢 進 (ひらさわ すすむ) |
ボーカル ギター シンセサイザー |
1954年4月1日(70歳) 東京都足立区 |
1979年1月 - | 旬 不幸のプロジェクト |
元メンバー(P-MODEL) | ||||
秋山 勝彦 (あきやま かつひこ) |
ベース キーボード シンセサイザー |
1959年4月11日(65歳) 東京都 |
1979年1月 - 1980年11月 1991年9月 - 1993年10月 |
CROSS 秋山×藤掛Duo |
田中 靖美 (たなか やすみ) |
キーボード シンセサイザー |
1953年12月5日(70歳) 東京都東久留米市 |
1979年1月 - 1983年3月 | |
田井中 貞利 (たいなか さだとし) |
ドラムス | 1953年10月29日(70歳) 福岡県築上郡 |
1979年1月 - 1984年12月 1987年3月 - 1988年12月 |
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菊池 達也 (きくち たつや) |
ベース | 1963年7月30日(60歳) 東京都港区 |
1980年11月 - 1984年8月 | さよなら子供たちオーケストラ |
備考
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三浦 俊一 (みうら しゅんいち) |
キーボード (ギター) |
1964年8月18日(59歳) 東京都江戸川区 |
1983年3月 - 1985年12月 | ケラ&ザ・シンセサイザーズ NESS |
備考
●田中の後任として参加。加入当時はサポートメンバー扱いであり、﹃ANOTHER GAME﹄発売後正規メンバーに昇格。
●脱退後は有頂天にてミュー名義で活動。有頂天脱退後はソロ活動及びほかのバンドでの活動を行うほか、音楽教室の講師としても活動している。
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横川 理彦 (よこがわ ただひこ) |
ベース バイオリン |
1957年1月29日(67歳) 鳥取県鳥取市 |
1984年8月 - 1985年12月 | 4-D mode1 After Dinner メトロファルス |
荒木 康弘 (あらき やすひろ) |
ドラムス パーカッション |
1959年1月22日(65歳) 新潟県柏崎市 |
1984年12月 - 1987年3月 | ALLERGY Chevalf |
備考
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中野 照夫 (なかの てるお) |
ベース キーボード シンセサイザー |
1963年8月12日(60歳) 東京都 |
1986年1月 - 1988年12月 | LONG VACATION Sonic Sky |
高橋 芳一 (たかはし よしかず) |
キーボード Systems |
1961年8月2日(62歳) 東京都 |
1986年1月 - 1987年9月 | CROSS Chevalf |
備考
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ことぶき 光 (ことぶき ひかる) |
キーボード シンセサイザー プログラミング |
1964年3月30日(60歳) 北海道沼田町 |
1987年11月 - 1988年12月 1991年9月 - 1993年10月 |
プノンペンモデル |
藤井 ヤスチカ (ふじい やすちか) |
ドラムス シーケンサー プログラミング |
1967年11月21日(56歳) 広島県福山市 |
1991年9月 - 1993年10月 | THE GROOVERS |
備考
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福間 創 (ふくま はじめ) |
キーボード シンセサイザー System-1 |
1970年11月10日 ~2022年1月1日(51歳没) 大阪府 |
1994年11月 - 2000年12月 | YAPOOS ケラ&ザ・シンセサイザーズ Soyuz Project(ソロ活動) |
小西 健司 (こにし けんじ) |
キーボード System-2 ベース |
1955年10月20日(68歳) 兵庫県西宮市 |
1994年11月 - 2000年12月 | 4-D mode1 不幸のプロジェクト |
上領 亘 (かみりょう わたる) |
ドラムス Algorhythm |
1964年9月3日(59歳) 東京都 |
1994年11月 - 1997年5月 | NeoBallad GRASS VALLEY CROW |
時系列[編集]
その他企画バンド[編集]
- IKARI
- 5thアルバム『ANOTHER GAME』の発売延期に関して、当時のマネージャーである広瀬充がジャパンレコードと揉めて帰ってきたところ、平沢に「その怒りを音で表現するんだ」と言われて結成したバンド[13]。ソノシートを1枚リリースしている他、1983年に“P-MODELの前座”という形で1回ライブを行っている。
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | 備考 | |
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1983年 | 広瀬充 | 平沢進 三浦俊一 |
菊池達也 | (三浦俊一) | 田井中貞利 |
- 此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | 備考 | |
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1987年 | KERA | 平沢進 | 秋山勝彦 | 三浦俊一 | 田井中貞利 | |
1990年 | ことぶき光 | 田井中貞利 荒木康弘 |
平沢は曲によってボーカルも担当 ドラムスは曲ごとに交代 |
- 亀有タワーズ / Miburi隊
- ファンクラブ主催のP-MODELコピーバンドコンテスト『Errors of P-MANIA!』にて結成された「P-MODELメンバー本人によるコピーバンド」。全員が本来の担当楽器と異なる楽器を演奏している。『Errors of P-MANIA!』は1993年 - 1995年の3回開催され、93・94年は「亀有タワーズ」名義で、95年は「Miburi隊」名義で出演している。
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | その他のメンバー | 披露した楽曲 | |
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1993年 | 加藤賢崇 | 秋山勝彦 | ことぶき光 藤井ヤスチカ |
横川理彦 | 平沢進 | KERA(マラカス) | 「ミサイル」 |
1994年 | 加藤賢崇 TAKA |
戸川純(カズー) | 「カウボーイとインディアン」 「フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ」 | ||||
1995年 | 福間創 | ― | 平沢進 (Miburi/Syn) |
横川理彦(Miburi/Snare) 中野テルヲ(Miburi/Kick) |
小西健司(タンバリン) | 「HEAVEN」 |
来歴[編集]
1979年 - 1983年:結成~「テクノポップ」からの脱却
●1979年
1月1日 - 前身バンド﹁MANDRAKE﹂が解散、即日P-MODEL結成。同時に所属事務所として﹁MODEL HOUSE﹂が設立される。
●結成メンバーは、平沢進︵Vo・Gt︶、秋山勝彦︵Ba︶、田中靖美︵Key︶、田井中貞利︵Dr︶の4人。
3月16日 - 下北沢LOFTにて初のライブを行う。
7月25日 - 1stシングル﹃美術館で会った人だろ﹄でワーナー・パイオニアよりメジャーデビュー。
8月20日 - XTCの来日公演のフロントアクトを務める︵ - 8月22日︶。
8月25日 - 1stアルバム﹃IN A MODEL ROOM﹄リリース。
9月3日 - VAN HALENの来日ツアー全7公演全てでフロントアクトを担当︵ - 9月13日︶。この中で初の日本武道館公演を経験する。
12月25日 - 2ndシングル﹃KAMEARI POP﹄リリース。1stアルバムからのリカットシングル。
●1980年
1月3日 - 初の自主ツアー﹁P-TRICK PLAN Vol.1﹂開催︵ - 1月11日、全7公演︶。
3月28日 - 自主ツアー﹁P-TRICK PLAN Vol.2﹂開催︵ - 4月13日、全9公演︶。29日の京都公演をたまたま来日していたデヴィッド・ボウイが観ており、平沢は終演後楽屋を訪れたボウイにサインを貰っている[14][15]。
4月7日 - 中野サンプラザホールにてヒカシューとのジョイントライブを開催。このライブでは運営側と両バンドの間でアンコールを巡ってトラブルが発生した。のちに﹁中野サンプラザ事件﹂と称されるようになる[16][17]。
●イベンター側よりライブの演出としてパントマイマーが入る、アンコール演奏は無しという事を直前になって通達され、両バンドとも抗議をしたが話は揺るがなかった[18][17]。当日、イベント終演後に観客がアンコールを求めて会場から帰らず、﹁ひとつのショーとしてステージの上だけで完結してしまうような企画に、自分達が参加することは、観客を裏切ることでしかない﹂と疑問を感じたP-MODELがアンコール演奏を強行した事がきっかけの一つとなっている[17][18]。
●ステージの警備員がアンコールを求める観客に対し暴力を振るい、他の観客やステージ上の平沢が間に割って止めに入る[17]、P-MODELのアンコール演奏の最中に﹁約束が違う﹂とヒカシューの巻上公一やスタッフが演奏の止めに入るなどの騒ぎを起こした[19]。翌日、平沢は巻上から電話で叱責を受け謝罪をしている[18]。また、平沢はこの時楽屋裏にいた近田春夫より﹁テメーをこの業界から消してやる!﹂と激昂される[17][注 2]。しかし、近田はこの事を後悔しており、直接謝罪をしたいと後年語っている[19]。
●後日、新聞に﹁乱闘騒ぎ﹂として取り上げられ、両バンドのフロントマンである平沢・巻上とイベンターの担当者がコメントを発表する事態となった[18][17]。
●当事者だった秋山は後年、自身の力量不足でミスが多発し、メンバー間で挽回しなければという気持ちが強まった結果であり、平沢の語る﹁正義﹂や﹁反体制側﹂としてアンコールを強行した訳では無いと回顧している[20]。
4月25日 - 2ndアルバム﹃LANDSALE﹄リリース。公称10万枚、実売3万枚というセールスを記録した[21]。
5月25日 - 3rdシングル﹃ミサイル﹄リリース。2ndシングルと同じく、アルバムからのリカットシングルとなった。
●この頃から、過熱するテクノブームに危機感を覚えたP-MODELは大幅な路線変更を打ち出す。その為、秋山と他の3人との間でステージパフォーマンスの方向性に食い違いが生じるようになる。
6月15日 - 初の自主企画﹁POP THE HERO﹂開催。
11月3日 - この日の文化服装学院でのライブを以て秋山が脱退。
11月21日 - 秋山の後任として、平沢のシンセサイザー講師時代の教え子である菊池達也︵Ba︶がサポートメンバーとして加入。翌年より正式メンバーとなる。
●1981年
3月25日 - 4thシングル﹃ジャングルベッドⅠ﹄、3rdアルバム﹃Potpourri﹄を同時発売。レコーディング当時まだサポートメンバーだった菊池は制作に参加しておらず、レコーディングに於いてはベースは平沢・田中が演奏していた。
6月5日 - 関西ツアー﹁万物三つこぶらくだの旅﹂開催︵ - 6月9日︶。
10月18日 - シリーズライブ﹁カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキー﹂開催︵ - 11月8日、全3公演︶。11月8日の第3公演では平沢が鳥の餌を観客に撒きつけるなどのパフォーマンスも行われた。のちに平沢は﹁︵観客に︶怒ってほしいと思ってた。でも怒んないと思ってたけど﹂と語っている。
●1982年
3月1日 - レーベルをジャパンレコードに移籍。同日、4thアルバム﹃Perspective﹄及びカセットテープ﹃Perspective II﹄をリリース。
3月26日 - 恵比寿・日仏会館にて自主企画﹁突拍子のためのLesson.1﹂を開催。平沢の自作楽器﹁ヘブナイザー﹂[注 3]の初お披露目となる。
6月21日 - The Jamの来日公演のフロントアクトを務める。
8月22日 - 自主企画﹁突拍子のためのLesson.2﹂を開催。ヘブナイザーを用いた観客参加型のライブも行われた︵通常ライブとの2部構成︶。
●1983年
3月20日 - この日の渋谷・屋根裏でのライブを最後に田中が脱退。理由は﹁音楽的アイデアの枯渇﹂であった。
3月25日 - これまでのボツ曲やデモ曲を集めた編集盤﹃不許可曲集 Vol.1﹄リリース。所属事務所﹁MODEL HOUSE﹂からの直接リリースとなった。
3月27日 - 千葉ダンシングマザースのライブよりサポートメンバーとして三浦俊一︵Key︶が加入。翌年2月のアルバムリリース後より正式メンバーとなる。三浦は元々P-MODELのファンであり、ドラム以外のパートは全てコピーしていた[22]。
10月24日 - 全国22ヶ所をまわるツアー﹁ANOTHER GAME TOUR﹂スタート︵ - 12月27日、全23公演︶。このツアーより、平沢は自身のトレードマークとなるギター﹁TALBO﹂を使用し始めている。
1984年 - 1988年:度重なるメンバーチェンジ~「凍結」まで
●1984年
2月25日 - 3回の延期を経て、5thアルバム﹃ANOTHER GAME﹄がリリースされる。
3月10日 - アルバムリリースツアー﹁ANOTHER GAME TOUR 2nd﹂開催︵ - 3月25日︶。
8月5日 - 新宿LOFT公演を以て菊池が脱退。
8月28日 - 全国ツアー﹁SCUBA TOUR﹂がスタート︵ - 11月3日︶。菊池の後任として横川理彦︵Ba・Violin︶が加入した。横川はバイオリンを弾くこともあった為、その時は平沢がベース、三浦がギターを弾くなどの変則編成もとられた。
10月10日 - カセットブック﹃SCUBA﹄リリース。当時既にジャパンレコードから離脱していたため、JICC出版局からのリリースとなった。
12月16日 - ツアー﹁SCUBA TOUR II﹂開催︵ - 12月23日︶。このツアーの最終公演を以て田井中が脱退。
●ツアーサポートにはパーカッション奏者として、田井中の後任となる荒木康弘︵Dr・Perc︶が参加。翌年より正式メンバーとなる。
●また、このツアー終了を以てP-MODELは一時ライブ活動を休止し、新メンバー体制でのリハーサルと曲作りに注力した。
●1985年
4月19日 - 筑波・29BARにて、新メンバーでの初ライブを行う。
10月25日 - レーベルをアルファレコードに移籍し、6thアルバム﹃KARKADOR﹄を発売。
10月26日 - アルバムのリリースツアー﹁KARKADOR TOUR﹂開催︵ - 12月27日︶。このツアーの最終公演を以て横川と三浦が脱退。
●1986年
1月23日 - この日の天王寺・キャンディホール公演より、中野照夫︵Ba︶、高橋芳一︵Systems︶が加入。
6月25日 - 7thアルバム﹃ONE PATTERN﹄リリース。翌月25日はバンド初のCDでのリリースも行われた。
9月15日 - 全国ツアー﹁ONE PATTERN TOUR﹂開催︵ - 10月25日、全8公演︶。この頃から平沢はMIDIギターを使用し始める。
11月26日 - 水道橋・RNホールで自主企画﹁ゼブラの日﹂開催。この公演で初めて、メンバー全員が揃いの衣装を着用した。
●1987年
1月10日 - グッズセット﹃P-MODEL BOX﹄発売開始。かつて使っていた機材や衣装などを13種類のセットに分けて販売する、というものだった。
2月 - 同年夏のリリースに向けて8thアルバム﹃モンスター﹄の制作に取り掛かるようになるが、スタジオに入った初日にアルファより突然レコーディングの中止を知らされ、再びレコード会社とのトラブルが発生する[23]。
●当時について、平沢・中野によると﹁企画書・デモ・曲目まではレコード会社に通っていた﹂と語っており、当時のプロデューサーであった神尾明朗が間に立ってレコーディングまでは進めてくれたと語っている。ただし、中野は﹁ちょっとバンド側の強行的なレコーディングっぽい感じがあったと思うんですよね。﹂と述懐している。
●同年にはアルファとの契約を解除したが、次のレコード会社との交渉が難航するなどのトラブルが重なった結果、リリースは行われずお蔵入りとなってしまった[23]。収録予定曲の一部は後に平沢と中野がソロ活動にてカバーしている。この時期のライブより﹃モンスター﹄収録予定曲も演奏されており、1988年発売の映像作品﹃三界の人体地図﹄に一部楽曲が収録されている。
3月14日 - 自主企画﹁進化の軌跡 ~ガラパゴス島の待ち伏せ男~﹂開催。この公演を以て荒木が脱退し、初代ドラマーの田井中が﹁Part2﹂と称してメンバーに復帰。荒木の脱退理由は﹁どうしてもガラパゴス島に残りたかったから﹂というものだった[24][注 4]。
5月1日 - KERA︵有頂天︶の主導により、初期P-MODELのコピーバンド﹁此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド﹂結成。渋谷La.mamaで初ライブを行う。
5月8日 - 所属事務所の主催による関東4ヶ所をまわるツアー︵タイトルなし︶を開催︵ - 5月17日、全4公演︶。
7月1日 - 全国ツアー﹁TOUR SENSONICS﹂開催︵ - 7月26日、全10公演︶。
9月5日 - 前進座にて﹁此岸のパラダイス~﹂の2回目のライブを開催。結成からの目標である﹁P-MODELのフロントアクトを務める﹂を達成したことで一旦解散した。
9月27日 - この日の横浜市教育会館でのライブを最後に高橋が脱退。
11月1日 - この日の武蔵大学でのライブより、高橋の後任としてことぶき光︵Key︶が加入。ことぶきは加入当初“羊羹ゑるゑる”という名義を使用していた。12月4日に行われたライブ﹁北から来たオルガン弾き﹂の終了後に改名する。
●1988年
3月3日 - 関西ツアー﹁天国のANAGRAM﹂開催︵ - 3月5日、全3公演︶。
4月29日 - 富士フイルム主催のコンサート﹁FUJI AV LIVE﹂の第27回に出演。お蔵入りとなったアルバム﹃モンスター﹄の収録予定曲もいくつか演奏された。
6月10日 - 新宿LOFTにて2Daysライブを開催。このライブから試験的にAmigaが導入される。
7月1日 - 初の全国流通映像作品﹃三界の人体地図﹄リリース。4月のFUJI AV LIVEの映像と、平沢裕一が制作した立体アニメーションが収録された。
12月28日 - 渋谷・CLUB QUATTROで行われたライブにて平沢はP-MODELの﹁氷河期入り﹂を宣言。これをもって活動﹁凍結﹂︵休止︶となった[25]。
●平沢は当時の心境として﹁バンドの崩壊[26]﹂﹁活動休止では無く解散[26]﹂﹁解散とは言わなかったのは、ドラマティックな終わり方がイヤだったから[27]﹂と語っている。構想の段階では、ライブではアンコールはやらず、ステージ上のシャッターが閉まって終演するという内容であった[27]。
●1988年半ば頃にバンド活動に疲弊していった平沢はP-MODELの解散を考えるようになる。平沢は﹁あまりにも自分ひとりになっている感触があって、これ以上P-MODELという看板をしょって続けていくのは、あまりにも辛かったんです﹂と回顧している[28]。同年6月頃に一度メンバー間で話し合いが行われ、一時的に持ち直したが最終的には活動休止となった[25]。
1989年 - 1993年:凍結中~解凍期
●1989年
1月1日 - ファンクラブ会員限定で映像作品﹃平沢進のCG年賀状﹄を販売。平沢がP-MODEL凍結に至った経緯[注 5]や今後の活動について語るという内容だった。
3月1日 - 所属事務所﹁MODEL HOUSE﹂が﹁オクターブ﹂に改称。
4月4日 - レーベルをポリドールへ移籍。
10月1日 - 所属事務所をアイスリープロモーションへ移す。
●1990年
9月23日 - 日比谷野外音楽堂にて平沢ソロのライブイベント﹁ERROR FORCE﹂が開催。共演者には元メンバーの秋山が率いるバンドHERE IS EDEN、戸川純の他、シークレットゲストとしてヒカシューが参加した。また、当日はP-MODELが﹁此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド﹂のメンバーで、あくまでもシャレとして再結成を果たした。
●1991年
6月21日 - 平沢がソロ活動で﹁ヴァーチュアル・ラビット・ツアー﹂を開催︵ - 6月25日、全3公演︶。全公演で﹁目覚めよP-MODEL﹂と題したチラシが配布された。チラシの内容は﹁同年9月に日比谷でP-MODELは解凍し、活動再開する﹂というものだった。
9月23日 - 日比谷野外音楽堂にて平沢主催のライブイベント﹁ERROR OF UNIVERSE﹂を開催。この公演を以て正式に活動再開した。
●メンバーは当日まで秘密にされ、ライブの出囃子とP-MODELのロゴが回る映像と共に、メンバーの名前がAMIGA2500の声に呼ばれる形で登場した。﹁解凍﹂P-MODELとして、秋山勝彦︵Key・Ba︶、ことぶき光︵Key︶が正規メンバーに復帰。また事務所の後輩にあたるバンド﹁THE GROOVERS﹂から藤井ヤスチカ︵Dr︶をメンバーに迎えた。
●1992年
2月26日 - 前作より6年ぶりとなる8thアルバム﹃P-MODEL﹄リリース。
3月10日 - 東阪ライブ﹁P-MODEL TOUR '92﹂を開催︵ - 3月18日、全2公演︶。
5月11日 - 東名阪ツアー﹁TOUR ON GRID﹂開催︵ - 5月19日、全5公演︶。当初は全6公演の予定だったが、5月13日の大阪2日目の公演は﹁マシントラブル﹂[注 6]により中止。
6月27日 - 日清パワーステーションでのイベント﹁サタデイ・ナイトR&Rショウ﹂に出演。藤井がスケジュールの都合で出席できず、ドラムレス編成の﹁P-MODEL Lo-Res﹂として出演した。この公演ではスタッフの手違いで平沢のギターアンプが故障、共演していたマルコシアス・バンプのアンプを借りることになったが、思っていた様な音が出せず、終演後TALBOを床に叩き付けて破損させている[注 7]。
9月2日 - 映像作品2作目﹃BITMAP 1979-1992﹄リリース。今作では﹁P-MODEL TOUR'92﹂の模様を中心に、結成~解凍までのライブダイジェスト、平沢がAmigaで作成したPVが収録されている。
10月25日 - 日比谷野外音楽堂にて自主企画﹁PLANET ERROR﹂開催。
12月7日 - 東阪ライブ﹁能率の予感﹂を開催︵ - 12月11日、全3公演︶。
●1993年
3月25日 - 9thアルバム﹃big body﹄リリース。
5月26日 - 東名阪ツアー﹁BIG BODY TOUR﹂開催︵ - 6月21日、全3公演︶。
●アルバムジャケットには﹁Nsetn.... Oirao Ivook﹂という暗号が書かれており、同年5月に開催されたライブツアーにて、9thアルバムのジャケットに書かれていた暗号の答え合わせが行われた。暗号の答えとは、﹁kono ato revisION...︵このあとリビジョン、この後改訂︶﹂であり、次の日比谷野外大音楽堂でのライブにて、P-MODELは“改訂作業”︵メンバーチェンジ︶のために活動﹁待機﹂となる事が発表される。
9月22日 - ファンクラブ主催のP-MODELコピーバンドコンテスト﹁Errors of P-MANIA! 1993﹂が開催される。
10月11日 - 日比谷野外音楽堂にて自主企画﹁ERROR OF INFORMATION ''待機''﹂開催。この公演を以て﹁待機﹂状態となった。
●この公演にて、平沢はP-MODELはポリドールとの契約を終了した事を発表し、来年の野音にて新体制でのライブを開催する事を発表した[29]。
1994年 - 2003年:改訂期~「培養」
●1994年
5月25日 - レーベルをディスクユニオンに移籍し、その中に自主レーベル﹁DIW/SYUN﹂を設立。1stライブアルバム﹃PAUSE﹄リリース。
7月23日 - 2ndライブアルバム﹃LIVEの方法﹄リリース。
9月23日 - 日比谷野外音楽堂でこの日に行われる予定だったイベントでP-MODELは改訂作業を完了させる予定だったが、﹁若干のバグが発見された﹂として活動再開が延期された。代替公演として、平沢メインの﹁HIRASAWA ERROR ENGINE 平沢三幕三時間﹂が開催された。なお、この公演には後に改訂期のメンバーとなる小西・上領がサポートメンバーとして参加している。
10月22日 - 平沢・田中がMANDRAKE時代に制作した音源をまとめた編集盤﹃配線上のアリア﹄がリリースされる。名義は﹁平沢進・田中靖美﹂。
11月12日 - 第2回となるコピーバンドコンテスト﹁Errors of P-MANIA! 1994﹂開催。
12月1日 - 所属事務所主催のイベント﹁I3DAYS '94﹂の大阪2日目に出演。この日を以て正式に“改訂作業”を終え活動再開する。
●新メンバーは平沢、福間創︵System-1︶、小西健司︵System-2︶、上領亘︵Algorhythm︶となった。解凍期と同じく、メンバーは当日まで秘密とされ、ライブの出囃子に合わせて登場した。
●福間・小西に与えられた﹁System﹂はシンセサイザーなどの機材や楽曲データの管理を担当し、上領の﹁Algorhythm﹂はビート全般を担当することから付けられた。
●また、小西が大阪に在住していた為、メンバー間のミーティングは電子メールなどのインターネット上のやり取りのみで完結し、実際に出会うのはレコーディングやライブを行う際に限られた。
●1995年
9月30日 - 日比谷野外音楽堂にて自主企画﹁ENDING ERROR﹂を開催。同日、リミックスアルバム﹃Corrective Errors〜remix of 舟﹄発売。このアルバムは後の10thアルバムの収録曲をリミックスしたもの。オリジナルアルバムよりリミックスアルバムが先行発売される事に対し、公式サイトによると﹁前代未聞﹂としている[30]。
10月1日 - レーベルを日本コロムビアに移籍。
10月20日 - 第3回となるコピーバンドコンテスト﹁Errors of P-MANIA! 1995﹂開催。
11月30日 - リメイク・アルバム﹃SCUBA RECYCLE﹄リリース。このアルバムは﹃SCUBA﹄の収録曲をリメイクしたもの。
12月10日 - 10thアルバム﹃舟﹄リリース。
●1996年
3月9日 - 全国ツアー﹁電子舟訪日行脚﹂開催︵ - 4月6日、全8公演︶。
8月1日 - 日本コロムビア内に﹁TESLAKITE﹂レーベルを設立。
10月5日 - 日比谷野外音楽堂にて自主企画﹁Branch-O﹂開催。P-MODELメンバーがそれぞれ個別に活動し、最後には集結するというプロジェクト﹁Unfix﹂が開始され、この公演は“Unfix #0”と位置付けられた。
10月19日 - 全国流通シングルとしては5枚目となる﹃Rocket Shoot﹄発売。“Unfix #1”と位置付けられる。同日には“Unfix #2”として、上領のソロアルバム﹃鴉﹄がリリースされている。
11月15日 - 歌舞伎町・LIQUIDROOMで﹁Unfix#3 コミュノ・ハイブリディア﹂開催。メンバー4人が一時集結しそれぞれ自身で組んだユニットで出演する、というものだった。当日、平沢は体調不良[注 8]により出演をキャンセルし、他の3人︵とそれぞれのユニット︶のみが出演する事になった。数日後、平沢は出演をキャンセルした事について﹁私は風邪如きで休むような人間ではない。休んだ本当の理由は言えないが﹂との発言を公式サイト上で行っている。[注 9]
12月24日 - 六本木・ラフォーレミュージアムにおいて﹁Unfix#5 Another Green Nerves﹂が開催予定だったが、平沢の体調不良により中止。
●1997年
5月15日 - 新事務所﹁ケイオスユニオン﹂を設立し、所属事務所をそこへ移す。また同日を以てスケジュールの都合で上領が脱退。これにより“Unfix #7”として予定されていたツアーはお蔵入りとなる。
8月1日 - シングル﹃ASHURA CLOCK﹄発売。“Unfix #8”と位置付けられる。なお、本作より﹁Unfix﹂シリーズは﹁レイヤー・グリーンの危機~議定書︵プロトコル︶を探せ~﹂というストーリー仕立てのプロジェクトに変更された。
8月30日 - “Unfix #9”としてシングル﹃LAYER-GREEN﹄をリリース。同日、渋谷HMVで行われたレコ発イベントに平沢が復帰後初登場する。
10月21日 - 東阪ライブ﹁非局所性LIVE﹂を開催︵ - 10月22日、全2公演︶。田井中をモデルとしたバーチャルドラマー﹁TAINACO﹂がステージデビュー。
11月29日 - 11thアルバム﹃電子悲劇/~ENOLA﹄リリース。
12月6日 - バンコクのセントラル・プラザで開催された﹁ASIA FOR THAILAND﹂に出演。
●1998年
1月21日 - 全国ツアー﹁LIVE 電子悲劇﹂スタート︵ - 2月7日、全8公演︶。赤坂BLITZで行われた最終公演を以て﹁レイヤー・グリーンの危機~議定書を探せ~﹂は完結。なお、1998年は各メンバーがそれぞれの活動に注力していたため、P-MODELとしての活動はこれ以降あまり行われなかった。
●1999年
5月29日 - 結成20周年記念プロジェクトとして﹁音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE﹂がスタート。特設サイト﹁P-PLANT﹂が設置される。また同日日本コロムビアを離脱。これ以降、平沢及びP-MODELの作品は所属事務所であるケイオスユニオンから直接、MP3によってリリースされることになる[注 10]。
6月29日 - 渋谷O-Eastで開催された﹁Future Screen of Tokyo New Wave﹂に出演。解凍期以降半封印状態だった1stアルバムの曲が披露された。
7月6日 - ﹃VIRTUAL LIVE﹄シリーズ第1弾として、﹃VIRTUAL LIVE-1﹄をリリース。﹃VIRTUAL LIVE﹄シリーズは過去アルバムをライブアルバム風に再録したもの。当時1st~10thアルバムが全て廃盤となっており、入手できないリスナーの為の救済措置という形だった。
9月1日 - 12thにして最後のオリジナルアルバムとなる﹃音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE﹄をリリース。
10月4日 - 全国ツアー﹁音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE﹂スタート︵ - 10月28日、全6公演︶。
10月25日 - ﹃VIRTUAL LIVE﹄シリーズ第2弾﹃VIRTUAL LIVE-2﹄リリース。
11月6日 - ﹁音楽産業廃棄物﹂ツアーの追加公演として、渋谷O-Eastで﹁音楽産業廃棄物 取扱技能者総決起集会﹂が開催される。2000年はライブを行わなかったため、これが事実上のP-MODELラストライブとなった。
11月25日 - ﹃VIRTUAL LIVE﹄シリーズ最終弾﹃VIRTUAL LIVE-3﹄リリース。
●2000年
3月1日 - ﹁グローバル・トリビュート大作戦﹂が始動。ネットを介して平沢進・P-MODELのカバー楽曲を制作し海外の人に歌わせる趣旨であった。
4月4日 - 映像作品﹃音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE﹄がMAGNETからの通販限定で販売。7月10日より店頭販売も開始される。
6月1日 - 活動休止前最後の作品となるCD﹃P-PLANT CD Vol.1﹄をリリース。ケイオスユニオン内のWIRELESSレーベルより発売された。
10月6日 - ﹁グローバル・トリビュート大作戦﹂の結果発表。上位5曲は後にCD化された。
12月20日 - 公式ホームページ及びファンクラブ会報にて﹁培養﹂と呼ばれる活動休止期間に入る事と、現メンバー編成の解体が発表される。これ以降、P-MODELとしての活動は行われていない。何人かのメンバーは再結成に意欲を見せているが、平沢は再結成に対して非常に後ろ向きであり事実上の解散とみられている[注 11]。ただし、平沢は﹁私以外の歴代メンバー集まってP-MODEL名乗るの許可します﹂とも発言している。[31]
●2002年
5月10日 - P-MODELのほぼ全音源を収録したボックスセット﹃太陽系亞種音﹄リリース。
2004年 -
:核P-MODEL
●2004年
10月7日 - 平沢が﹁核P-MODEL﹂という名義での活動を開始。1stアルバム﹃ビストロン﹄をリリース。
11月8日 - 新宿・全労済ホールにて4Daysライブ﹁トーキョー・ビストロン﹂を開催︵ - 11月13日、全4公演︶。核P-MODELとしての初ライブとなる。
●2005年
4月1日 - 核P-MODELとして初の映像作品﹃LIVE VISTRON﹄をリリース。ケイオスユニオンからの通販限定で、店頭販売はされなかった。
6月30日 - シングル﹃アンチ・ビストロン [MecanoVersion]﹄発売。東京都中野区にあるCDショップ﹁メカノ﹂のみでの限定販売。
●2008年
5月20日 - シングル﹃Big Brother - 可逆的分離態様﹄リリース。前作と同じく、﹁メカノ﹂のみでの販売となった。
●2009年
9月1日 - P-MODEL結成30周年&平沢ソロ活動20周年記念プロジェクトとして、﹁凝集する過去 還弦主義8760時間﹂がスタート。特設サイトでは結成~培養までのフライヤーや写真が閲覧でき、ライブ音源の一部が視聴可能であった。
●2010年
6月23日 - ﹁還弦主義﹂プロジェクトの一環として、P-MODELの曲をストリングスアレンジ・セルフカバーしたアルバム﹃突弦変異﹄を発売。収録曲の﹁Solid Air﹂は同日より無料配信された。
●2013年
4月26日 - 平沢の兄・裕一がプロデュースするニューウェーブ喫茶﹁Gazio﹂のオープンにあたり、30日までプレオープンイベント﹁Cycle-Z﹂を開催。平沢や元メンバーも来店し、その中で核P-MODELが新譜の制作を開始することが発表された。
11月6日 - 核P-MODELの2ndアルバム﹃гипноза﹄リリース。収録曲の﹁それ行け!Halycon﹂には田中がキーボードで参加しており、脱退以来30年ぶりに平沢と共演した。
●2014年
1月11日 - 赤坂BLITZにおいて4Daysライブ﹁パラレル・コザック﹂を開催︵ - 1月14日、全4公演︶。
10月11日 - 品川ステラボールにて3Daysライブ﹁HYBRID PHONON﹂を開催︵ - 10月13日、全3公演︶。﹁平沢進×核P-MODEL﹂名義で行われ、双方の曲を織り交ぜたセットリストとなった。
●2015年
6月3日 - ケイオスユニオンからの通販限定で映像作品﹁パラレル・コザック﹂が発売される[32]。
6月30日 - メカノの開店10周年記念コンピレーション・アルバム﹃築10年﹄に参加。﹃гипноза﹄収録曲の別バージョンとなる﹁白く巨大でt0t1﹂を収録。
●2017年
4月13日 - ケイオスユニオンからの通販限定で映像作品﹁HYBRID PHONON﹂が発売される[33]。
●2018年
4月3日 - 今敏の漫画を原作とした映画﹁OPUS﹂のテーマ曲を核P-MODEL名義で制作する事が発表される[34]。
9月5日 - 3rdアルバム﹃回=回﹄リリース。
9月14日 - 東阪2Daysツアー﹁回=回︵Kai equal Kai︶﹂開催︵全4公演︶。9月14・15日に大阪で、11月16・17日に東京でライブが行われた。
●2019年
1月14日 - ﹁回=回︵Kai equal Kai︶﹂ツアーの追加公演が豊洲PITで開催。平沢ソロ時代も含め20年ぶりの追加公演となった[35]
7月29日 - 平沢が正体不明のメンバー﹁会人(EJIN)﹂をサポートに携えた﹁平沢進+会人(EJIN)﹂名義でフジロックフェスティバル'19に出演。﹁HYBRID PHONON﹂と同じく、ソロとのハイブリッド形式のセットリストが展開された。
●2020年
1月14日 - 平沢進+会人(EJIN)が Zepp Tokyoにて2daysライブ﹁会然TREK 2K20▲03﹂︵ - 1月15日、全2公演︶開催。平沢ソロとのハイブリッド形式のセットリストが展開された。
4月2日 - 平沢の生誕記念として、核P-MODELの楽曲﹁二重展望3﹂をアレンジした﹁Gift2020 (二重展望2020)﹂が限定配信される[36]。
●2021年
8月22日 - 平沢進+会人(EJIN)がフジロックフェスティバル'21に出演。同じく平沢ソロとのハイブリッド形式のセットリストが展開された。
●2022年
1月1日 - 改訂から培養までのメンバーだった福間がかねてより患っていた脳内の未破裂血栓化大動脈瘤を要因とし51歳で死去。
訃報公表当時の1月7日に平沢の公式サイトで追悼コメントを発表した[2]。
10月24日 - ケイオスユニオンからの通販限定で映像作品﹁LIVE回=回﹂が発売される[37]。
●2023年
9月8日 - グランキューブ大阪・東京国際フォーラムにおいて平沢進+会人(EJIN)によるライブ﹁HYBRID PHONON 2566﹂( - 9月17日、全3公演)が開催された。2014年の﹁HYBRID PHONON﹂以来9年ぶりとなるスタイルであり、前回の平沢進・核P-MODELに合わせて、P-MODELの曲も演奏された。
音楽性[編集]
時期によって激しく変遷しているため、大きく6つに分けて記述する。
初期(1979年 - 1981年頃)
●MANDRAKE後期のパンク、ニューウェーブ的手法を発展させた、リズムボックスやシンセサイザーをラジカルに使ったサウンドで、ヒカシュー、プラスチックスと共に﹁テクノ御三家﹂と俗称され、日本のテクノポップ/ニューウェーブ・ムーブメントの一翼を担った[注 12]。平沢によるとメンバーが影響を受けたバンドは、999やセックス・ピストルズ、Métal Urbain、ジョルジオ・モロダーなどであり、テクノポップで有名なKRAFTWERKやXTCではないと言う[38]。小室等司会の番組﹁パイオニア・ステレオ音楽館﹂︵東京12チャンネル︶に出演したときは、平沢は小室にテクノポップについて聞かれると﹁イエローでマジックな人たちにでも聞けばいいんじゃないですか?﹂と投げやりに答えるなど、枠にはめられることに拒否感を持つような態度をとっていた。平沢は後年、YMOについては﹁フュージョンだと思っていた﹂とも語っている[13]。ライブではこまわり君の動きを採り入れ、跳びはねるなどのパンク・ロック寄りのコミカルなパフォーマンスを行う。音楽は工業製品でしかないという意味を込めて﹁I AM A COKE﹂や﹁YOURYO JIDOU︵優良児童︶﹂と書かれたプレートを服に着けて演奏を行った。
●ポップで明るいビジュアルとは裏腹に、楽曲のテーマがSF小説﹁1984年﹂を題材としたダークなディストピアがコンセプトとなっている。
●基本的に平沢・田中が作詞作曲を務めていたが、1st﹃IN A MODEL ROOM﹄には平沢の実兄である平沢裕一が作詞に参加し、﹃LANDSALE﹄には秋山が楽曲を提供している。また、裕一は凍結までアルバムジャケットやライブフライヤーのデザイン、ライブでの映像演出を担当していた。
●デビュー直後の急激な人気にメンバーは困惑し、ライブハウスには黄色い歓声が飛び交い、町中には﹁ピンクは血の色﹂と車に書かれた暴走族が現れるなど、マンドレイク時代から比べ、﹁機材をピンクに塗っただけでこのザマかと﹂などとシニカルな態度を取っていた[13]。1980年に入ると、演奏中に突然ヤマトノリを絞り出す、ライブイベント出演時には2ndアルバム﹃LANDSALE﹄を流すだけで観客が騒然とするまで演奏を始めないなど、デビュー当時のようなパフォーマンスから離れ始める[13]。
中期(1982年頃 - 1985年頃)
●過熱するテクノポップブームへの危機感から攻撃的、批評的な歌詞やテクノ的な音作りを捨て、奥行きを持たせた音の空間や、独自のリズム解釈、そして意味と音のバランスを作為的に崩した言葉の組み立てによる歌詞など実験的なアプローチへとバンドは大幅な路線変更を打ち出した。1981年の﹃Perspective﹄発売前に新宿ロフトにて行われた2部制シリーズライブ﹁カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキー﹂では、第一部に前作を踏襲する未発表曲を数曲演奏。田井中が唯一作曲した表題曲や﹁LUCKY TIME﹂などが演奏されたが、P-MODELの音源として発売されることは無かった[注 13]
●田中はこの時期を﹁次にどういうふうにやっていくか、模索してた時代﹂﹁︵楽曲制作において︶僕としては非常に閉塞状況を感じてて、ちょっと続けにくかった﹂と回顧しており、平沢は当時の田中について﹁︵Perspective製作時に︶自信が無かったというか、スランプだったかもしれません﹂と語る[13]。その後、﹁アイデアの枯渇﹂を理由に1983年に田中が脱退。以降はメンバー、音楽性の変遷を繰り返し、その中で他バンドの経験者やローディーだった者がメンバーとして採用されるにつれて、次第に平沢のワンマン・バンドとしての要素が強くなっていく。後に平沢はこのことが活動休止の遠因であったと述べている[39]。
●田中の脱退やレコード会社との対立で平沢は徐々に精神が不安定となっていく。シルバ・マインド・コントロール(以下SMC)のレクチャーを受けたことがきっかけとなり、SMCの方法論を取り入れた﹃ANOTHER GAME﹄、ユング心理学を参考にした﹃SCUBA﹄といった作品が発表され[13]、﹁夢﹂﹁無意識﹂を題材としたシュルレアリスム的世界観がコンセプトとなっていく。
●ライブでは﹁ヘヴナイザー﹂などの自作楽器を用いてフレーズ・サンプリングの多用、ドラムサウンドのホワイトノイズ加工が行われた。また、ステージ上から客席に鳥の餌を撒くなどのパフォーマンスで個性的なステージングを展開した。この頃から平沢は現在でも続く直立不動で演奏を行うようになる。
●1984年の横川加入後は、平沢曰く﹁黄金期の感覚を取り戻そうと﹂殺気立ったパフォーマンスを展開。P-MODEL史上最もファンキーとも称されたが、バンド内の衝突も激しく平沢は﹁︵横川と︶傍から見ると険悪に見える事もあるくらいにやりあってた﹂と語り、後年平沢は横川がバンドから来るストレスで脱退したことを明かしている[13]。三浦は後年﹁もうP-MODELに興味が持てなくなっていた﹂と回顧しており[40]、この時期の活動に疑問を感じた三浦と横川が1985年末を以って脱退する事となる。ただし、両者とも平沢と仲が悪くなった訳では無く脱退後も交流は続いている。
凍結前期(1986年頃 - 1988年)
- 7thアルバム『ONE PATTERN』において、封印していたテクノポップへ接近しているが、シーケンサー類が普及し画期的でも無くなった事により再び取り入れる事になった[13]。
- 高橋はシーケンサーやカセットデッキも担当する為、「Systems」とクレジットされた。ただし、ライブではシーケンサーは使用されず、同期を不得手としていた田井中に対する配慮のために全て手弾きしていた。平沢はMIDIギターも導入したが、不調になる事が多く、演奏が中断する事も多かった。
- ライブパフォーマンスにおいては曲と曲との境界が無くなり、ほぼメドレー形式で演奏を行うようになる。
- 1987年に発売される予定だったアルバム「モンスター」には中野と高橋の制作した楽曲が収録される予定となり、ワンマンバンド色は幾分かは薄くなっていった。高橋の制作した楽曲は脱退の為にお蔵入りとなったが、高橋の脱退ライブで一部が演奏された。「モンスター」収録予定だった一部の楽曲は平沢ソロアルバム「時空の水」、中野ソロアルバム「USER UNKNOWN」にてセルフカバーがされている。ボックスセット「太陽系亞種音」、ライブDVD「三界の人体地図」には当時のライブ音源・映像が収録されている。
- ビジュアルの面ではメンバーの衣装が統一されるようになり、ツアー毎にテーマに沿った衣装でライブを行う様になる。メンバーの衣装統一に関しては解凍後にも受け継がれた。
解凍期(1991年 - 1994年頃)
●凍結前は意図的に避けていた﹁テクノポップ﹂を宣言し、よりサイバー感を高めたサウンドや、科学技術、特にコンピューター等をテーマにした歌詞、を展開している。また平沢ソロで培った、メロディやコンピュータのなかにプリミティヴな精神世界を見出す姿勢が貫かれている[41]。
●メンバー選出に対し平沢は、﹁打ち込みができる人︵=ことぶき︶、楽器を弾けてルックスがいい人︵=藤井︶、そして秋山。﹂と語っている。藤井以外は元P-MODELメンバー兼平沢ソロバンド参加者であった。同じく平沢ソロバンドに参加していた砂原良徳にもオファーをしていたが、電気グルーヴ加入の話が先となりこの話は流れた。
●ライブでは、ことぶき光のキーボードセットは﹁砦﹂と呼ばれ、パソコンのキーボード、﹁魂﹂と呼ばれる球体などが飾られており、キーボードやシーケンサーが縦に立て掛けられたまま演奏した[注 14]。また、秋山は半裸でステージを縦横無尽に駆け巡る、常にマラカスを振りながら踊る、キーボードを蹴飛ばすなどのパフォーマンスを行った。
改訂期(1995年頃 - 1999年)
●インターネットを活動のキーワードとしており、P-MODEL加入の理由として小西はインターネットの発達により大阪に居ながら東京の平沢との楽曲制作が可能になったこと、福間はパソコン通信で小西に誘われたことを理由として挙げている[13]。﹃音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE﹄ではインターネット上でのやり取りのみで楽曲制作を行い、インターネット中継による公開ミックスダウンも行われた[9]。また、各メンバーがホームページを開設し、メンバーとリスナー間の直接なやり取りが可能であった。
●﹁サイバー・スペースで出会ったメンバー達が情報宇宙帆船P-MODEL号で旅をする﹂というコンセプトの元、ホームページを活用した観客とのインタラクティブなやりとりや、ライブでのステージングひとつひとつに意味を持たせた独自の世界観を構築していった[42]。この﹁情報宇宙帆船P-MODEL号﹂はアルバムによって﹁Black in White船団﹂﹁回収船P-MODEL号﹂と名称が変わっていった。ステージ上には小西の自作楽器が持ち込まれ、ファミリーコンピュータの周辺機器を改造した﹁データ・グローブ﹂、自作電子ドラム﹁道頓堀一号﹂、観客に向けて鞭を振るうとセンサーが反応して音がなる﹁デジタル折檻﹂などが披露された。また、上領以外の3人がMiburiを装着し横一列になって楽曲を演奏する事もあった[13]。
●凍結以前から続く個性的なパフォーマンスも受け継がれ、平沢はテレビカメラを持ち込み観客を映す、福間はシンセサイザーを抱えながら暴れる﹁シンセサイザーソロ﹂、小西は指揮棒を振り回す、バナナを客席に投げるパフォーマンスを行った。また、バンド結成から平沢はボーカル・ギター担当であったが、上領が脱退した1997年よりボーカル・ギター兼シンセサイザーにパートチェンジした。
●平沢と旧来の付き合いがあり年齢も近かった小西の参加によって、平沢と小西の二頭体制が出来上がった。この時期に発表された楽曲の半数近くは小西のものである。楽曲はメンバーの個人製作が中心となり、﹁Miburi﹂、﹁データ・グローブ﹂などの電子楽器群の比重が高まったため、解凍期から徐々に希薄化していたバンド色がこの時期にはさらに薄れ、ライブでも打ち込み音源がメインとなっていった。
●北欧、東洋的メロディやリズムといった平沢ソロの手法もより積極的に取り入れられ、解凍期とは異なる、アジアンテイストが加わった“アジアン・テクノ”なるサウンドを展開[42]。﹃電子悲劇/~ENOLA﹄ではタイでのレコーディングを行った。
核P-MODEL(2004年 - )
●改訂期と同じくコンセプト・アルバムが中心。2002年に発売されたボックスセット﹃太陽系亞種音﹄で﹁今までのP-MODELの活動はアシュオンと呼ばれる物体の大規模な実験のためだった﹂という内容が綴られ、﹃ビストロン﹄ではその物語の続編として位置付けられた。ライブでは﹁亜種音培養炉﹂と呼ばれる巨大なセットが鎮座している。この﹁培養炉﹂は2011年に起きた東北地方太平洋沖地震により破損し、そこから2ndアルバム﹃гипноза﹄の物語が始まる。その後アシュオンにまつわる話はライブ﹁パラレルコザック﹂、﹁HYBRID PHONON﹂を経て、平沢がプロデュースしたバンドPEVOのライブ﹁NEOZIC﹂で完結し、平沢ソロライブ﹁WORLD CELL 2015﹂へ繋がっていった。
●当初は改訂期の平沢ソロ的手法は幾分抑えられ、解凍期や初期の頃の様なテクノポップサウンドとなっていたが、﹁回=回﹂では中期~改訂期の手法を踏襲した上で、作風をソロに寄せたと明言している[43]。
●当初は平沢のソロプロジェクトであったが、2ndアルバムでは田中靖美とPEVO1号がゲストで参加した。2014年に行われた全てのライブではPEVO1号がサポートメンバーとして、﹁パラレル・コザック﹂では謎の毛糸帽の男︵福間創︶がゲストで登場した。2018年のライブ﹃回=回﹄ではペストマスクを被った正体不明の﹁白会人﹂であるSSHOとTAZZがサポートメンバーになっている。
●ライブではP-MODEL時代の曲も演奏され、﹁トーキョービストロン﹂と﹁回=回﹂で披露されたアレンジは音源化されている。
●2013年時点でシンセサイザー音源は専らSynth1を使用しており、核P-MODELの曲でもメインの音源として多用されている[44]。
その他エピソード[編集]
●MANDRAKE結成時からの﹁パート不問﹂の伝統を受け継いでいる。 ●秋山はもともとキーボード奏者であったが、P-MODEL結成にあたりキーボードの続投を求めた田中の意向により、全く未経験であったベースを担当することになった。 ●﹃Potpourri﹄のレコーディング時には秋山の脱退によりベーシストが不在だった[注 15]ことから、平沢・田中がベースを弾いている。 ●横川の在籍中、彼がバイオリンを演奏する際は平沢がベース、三浦がギターを弾く変則的な編成がとられた。 ●中野はP-MODEL加入にあたり、空席となっていたベース・キーボードのどちらかを選択させられた。また中野と同時期に加入した高橋はもともとベーシストだったものの、既に中野がベーシストとして内定していた事から未経験のキーボードを担当することになった。 ●解凍期以降は正式なベーシストが存在しないが、楽曲によっては秋山や小西がベースを弾くこともあった。 ●活動再開こそ絶望視されているものの、元メンバー同士の関係は現在でも良好である。2000年代以降は楽曲制作やライブ共にほぼ1人で行っていた平沢も、2010年代からはかつて平沢がプロデュースしたShampoo、PEVOのメンバーも交えて共演、共作など盛んに交流が行われている。 ●かきふらいによる漫画﹁けいおん!﹂の主要登場人物の氏名はP-MODELのメンバーに由来するのではないかと双方のファンから指摘されており[45][注 16]、これに対して﹁由来﹂となったメンバーもそれぞれ反応している。 ●平沢はTwitterを開設直後の2009年10月に﹁間違えてないか?私は平沢進だぞ。平沢唯じゃない。﹂とのツイートを行った[46]。この発言によりフォロワー数が一気に増加したが、狙って言ったものではなく﹁本心﹂であるとしている[47]。なお、その後もTwitterで度々平沢唯に言及している。 ●秋山は田井中律モデルのドラムスティックを購入したことをブログで公表しており、ソロ活動やCROSSで使用している。 ●中野は2010年7月、実弟から中野梓フィギュアを差し入れされている。作品[編集]
「P-MODEL/核P-MODELの作品」を参照
平沢進個人の作品については
「平沢進の作品」を参照
ミュージックビデオ[編集]
監督 | 曲名 | 備考 |
---|---|---|
不明 | 偉大なる頭脳(1979年) ASHURA CLOCK(discomuniactor)(1997年) |
「偉大なる頭脳」は21stセンチュリーワンダーランド制作。[48] |
平沢裕一 | アート・ブラインド(1979年) I AM ONLY YOUR MODEL(1980年) different ≠ another(1981年) Potpourri (ポプリ) (2種類)(1981年) ナチュラル(1981年) いまわし電話(1981年) Heaven (2種類)(1982年) Perspective(1982年) のこりギリギリ(1982年) HOKA NO KEIKAKU(1983年) ECHOES (不許可曲集 Ver.)(1983年) ふるへっへっへ (2種類)(1983年) フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ (1984年) ATOM-SIBERIA(1984年) HARM HARMONIZER(1984年) |
「ふるへっへっへ」は『BITMAP』に収録。他作品は一般公開されていないが、近年一部PVが動画共有サイトにアップロードされた。 |
ピーター・カラス | Karkador 3min 1986 Australia(1986年) | 「KARKADOR」をBGMに使った映像作品であり、公式なプロモーションビデオでは無い。 |
神尾明朗 | Another Day(1986年) | ACユニット制作。[48] このPVに納得が出来なかった平沢はAmigaを導入し、自分で制作するようになる。[49] |
平沢進 | 2D or not 2D(1992年) Grid(1992年) Monotone Grid(1994年) http (1996年) |
平沢がAmigaで制作。「http」は当時ライブで流していた映像と同一。「2D or not 2D」「Grid」は『BITMAP』収録。「Monotone Grid」は平沢ソロビデオ『PHOTON-3』、「http」はシングル『Rocket Shoot』に収録。 |
ホッホー石田 | 夢見る力に(1995年) | 全編CGで作成。P-MODELメンバーは写真のみ。 |
大和久マサル | 論理空軍(1999年) | 『音楽産業廃棄物 ~P-MODEL OR DIE』DVD版ではディレクターズ・カット版も収録されている。 |
ライブ・データ[編集]
- 正式なライブタイトルがあるもののみ記載。
ライブ・ツアー[編集]
- 中止になった公演は取消線、振替公演は緑色、追加公演は赤色で表記
日程 | タイトル | 公演スケジュール | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1979年 | 9月3日 - 9月13日 | VAN HALEN来日ツアー | 全公演にOAとして帯同。初の武道館公演 | |
1980年 | 1月3日 - 1月11日 | P-TRICK PLAN Vol.1 | 7ヶ所7公演
|
初の主催ツアー |
3月28日 - 4月13日 | P-TRICK PLAN Vol.2 | 9ヶ所9公演
|
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6月15日 | POP THE HERO | 1ヶ所1公演
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11月21日 | P-MODEL in a “M” room concert | 1ヶ所1公演
|
菊池加入後初のライブ | |
1981年 | 6月5日 - 6月9日 | 万物三つこぶらくだの旅 | 5ヶ所5公演
|
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10月18日 - 11月8日 | カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度 期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキー |
|||
1982年 | 3月8日 - 3月20日 | BAND in Perspective | 7ヶ所7公演
| |
3月26日 | 突拍子のためのLesson.1 | 1ヶ所1公演
| ||
8月22日 | 突拍子のためのLesson.2 | 1ヶ所1公演
| ||
1983年 | 10月2日 | LOOPING OPPOSITION | 1ヶ所1公演
| |
10月24日 - 12月27日 | ANOTHER GAME TOUR | 22ヶ所23公演
| ||
1984年 | 3月16日 - 3月25日 | ANOTHER GAME TOUR 2nd | 8ヶ所8公演
| |
4月15日 | SPECIAL DAY&NIGHT | 1ヶ所1公演
| ||
6月24日 - 8月5日 | 因果律ランダムパーティ | 1ヶ所3公演
|
8月の2公演は「スペシャル公演」として開催 | |
8月28日 - 11月3日 | SCUBA TOUR | |||
12月16日 - 12月23日 | SCUBA TOUR(Ⅱ) | |||
1985年 | 5月26日 - 5月28日 | 10MILES HIGH | 1ヶ所3公演
| |
10月26日 - 12月27日 | KARKADOR TOUR | |||
1986年 | 4月28日 | 埼玉県動説 重力過密地帯 | 1ヶ所1公演
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7月19日 - 9月28日 | ONE PATTERN TOUR | |||
10月19日 - 10月25日 | ONE PATTERN TOUR 2nd | |||
11月26日 | ゼブラの日 | 1ヶ所1公演
| ||
1987年 | 3月14日 | 進化の軌跡 ガラパゴス島の待ち伏せ男 | 1ヶ所1公演
|
田井中の復帰公演 |
4月25日 | 売上税黄金狂時代 | 1ヶ所1公演
|
||
5月8日 - 5月29日 | MODEL HOUSE Presents Tour | |||
6月20日 | Shoot the Monster | 1ヶ所1公演
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7月1日 - 7月26日 | TOUR SENSONICS | |||
9月12日 | 埼玉県動説Ⅱ | 1ヶ所1公演
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9月27日 | グレーテルの一撃? | 1ヶ所1公演
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11月1日 | 逆さパラダイス 恐竜図鑑のたくらみ | 1ヶ所1公演
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羊羹ゑるゑる(ことぶき)加入後初の公演 | |
12月4日 | 北から来たオルガン弾き | 1ヶ所1公演
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1988年 | 3月3日 - 3月5日 | 天国のANAGRAM | 2ヶ所3公演
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3月12日 | BAND in PerspectiveⅡ | 1ヶ所1公演
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バンド名を「Heaven」としたシークレットライブ | |
6月10日 | DAY'S BRAVO! | 1ヶ所1公演
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6月11日 | NIGHT'S BRAVO! | 1ヶ所1公演
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このライブで初めてAMIGAを導入 | |
7月29日 | FEAR'S BRAVO! | 1ヶ所1公演
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12月28日 | 凍結ライブ | 1ヶ所1公演
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1990年 | 9月23日 | ERROR FORCE | 1ヶ所1公演
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P-MODELの再集結はあくまで「シャレ」 |
1991年 | 9月23日 | ERROR OF UNIVERSE | 1ヶ所1公演
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解凍後初のライブ |
1992年 | 3月10日・3月18日 | P-MODEL TOUR '92 | 2ヶ所2公演
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5月11日 - 7月14日 | TOUR ON GRID | 4ヶ所6公演
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初の追加公演を含むツアー 5月13日の心斎橋公演は機材トラブルにより中止 | |
10月25日 | PLANET ERROR | 1ヶ所1公演
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12月7日 - 12月11日 | 能率の予感 | 2ヶ所3公演
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1993年 | 5月26日 - 6月21日 | BIG BODY TOUR | 3ヶ所3公演
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10月11日 | ERROR OF INFORMATION “待機” | 1ヶ所1公演
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解凍期のラストライブ | |
1995年 | 9月30日 | ENDING ERROR | 1ヶ所1公演
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改訂期初の主催ライブ |
1996年 | 3月9日 - 4月6日 | 電子舟訪日行脚 | 5ヶ所8公演
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10月5日 | Unfix #0 “Branch-O” | 1ヶ所1公演
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11月15日 | Unfix #3 “コミュノ・ハイブリディア” | 1ヶ所1公演
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平沢は体調不良のため欠席 | |
12月24日 | Unfix #5 “Another Green Nerves「ススムとケンジ」” |
1ヶ所1公演
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平沢の体調不良のため中止 | |
1997年 | 10月21日・10月22日 | 非局所性LIVE | 2ヶ所2公演
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1998年 | 1月21日 - 2月7日 | LIVE 電子悲劇 | 7ヶ所8公演
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1999年 | 10月4日 - 10月28日 | 音楽産業廃棄物~P-MODEL OR DIE | 5ヶ所6公演
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11月6日 | 音楽産業廃棄物 取扱技能者総決起集会 | 1ヶ所1公演
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2004年 | 11月8日 - 11月13日 | LIVE トーキョー・ビストロン | 1ヶ所4公演
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核P-MODEL初のライブ |
2014年 | 1月11日 - 1月14日 | LIVE パラレル・コザック | 1ヶ所4公演
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10月11日 - 10月13日 | HYBRID PHONON | 1ヶ所3公演
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「平沢進×核P-MODEL」名義でのライブ | |
2018年 | 9月14日 - 1月14日 | LIVE 回=回 | 3ヶ所5公演
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2019年 |
参加イベント[編集]
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脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ P-MODELとは明確に異なるものと定義されている。
(二)^ 平沢側は﹁80年代の業界人﹂として名指しをしていないが、近田はクイックジャパンにて自分である事を明かしている。
(三)^ テープエコーマシーンとキーボードを用いてサンプラーに似たシステムを構築したもの。当時のサンプラーは﹁1戸建ての家が買える﹂と言われた程高価であり、その後の音楽業界に﹁平沢進が宝くじを当てた︵=当選金でサンプラーを導入した︶らしい﹂との噂がしばらく立つ事になった。
(四)^ 実際は一身上の都合で止む無く脱退となったもの。この後荒木は一時音楽活動を休止し、コンピュータプログラマーとして活動することになる。
(五)^ P-MODELを凍結させた理由として、あくまでバンドという形で音楽活動を続けていきたかった平沢であるが、片腕的存在だった田中の脱退により、最終的にバンドが平沢のワンマン状態になってしまった事が主な要因であると語られている。
(六)^ 実際は平沢がパニック障害の発作を起こし出演できなくなったためである。
(七)^ このイベントの模様は後にテレビ放映されたが、TALBOを叩き付けるシーンはカットされている。
(八)^ 公式サイトからは﹁風邪のため﹂と発表された。
(九)^ 実際は﹁殺人的スケジュール﹂によってパニック障害を患っていたものと、後に新事務所設立時のコメントおよびTwitterで語っている。
(十)^ 但し、ネット接続のないリスナーの為にインディーズレーベル﹁MAGNET﹂からCDでのリリースも行われた。
(11)^ 高橋はオファーがあれば参加したい旨を述べている。小西も平沢が﹁︵小西自身が︶好きなだけドイツにいてもいい﹂と認めることを前提条件として述べているが再結成には前向きである。しかし平沢はインタビューやTwitterで再結成を否定している。
(12)^ ﹃音楽産業廃棄物﹄内のインタビューにて、﹃メンバー全員﹁打倒・ピンクレディー﹂で行こうとしていた﹄と語っている。
(13)^ ﹁LUCKY TIME﹂は後にIKARI名義で、ソノシートに収録された。﹁IKARI/NO PERSPECTIVE﹂を参照。
(14)^ ﹃音楽産業廃棄物﹄のインタビューにて、ことぶきはトリガーを押しているだけで大半がパフォーマンスだったと語っている。
(15)^ 後任である菊池は当時サポートメンバー扱いであったため、レコーディングには参加していない。
(16)^ ただし、原作者のかきふらいから名前の由来に関する公式なアナウンスはなされていない。
出典[編集]
(一)^ abcdefgMartin, Ian. P-Model Biography, Songs & Albums - オールミュージック. 2021年12月26日閲覧。
(二)^ ﹃音楽産業廃棄物﹄ 平沢進SIDE﹁卓上のウロボロス ﹂p46
(三)^ “プロフィール| P-MODEL | 日本コロムビアオフィシャルサイト”. 日本コロムビア公式サイト. 2021年11月16日閲覧。
(四)^ ﹃改訂復刻DIGITAL版音楽産業廃棄物﹄P-MODEL SIDE Open Sourse︵Shop Fascination、33/139︵p.33︶︶
(五)^ Inc, Natasha. “平沢進”. 音楽ナタリー. 2021年10月21日閲覧。
(六)^ “高橋かしこによるバイオグラフィー”. 2021年10月25日閲覧。
(七)^ “プロフィール| P-MODEL | 日本コロムビアオフィシャルサイト”. 日本コロムビア公式サイト. 2021年10月24日閲覧。
(八)^ ROCKIN'ON JAPAN Vol.79︵1993年12月号︶
(九)^ ab“MP3音楽配信を開始した﹁P-MODEL﹂の平沢進氏に聞く”. internet.watch.impress.co.jp. 2021年10月24日閲覧。
(十)^ “index” (2001年7月2日). 2001年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月28日閲覧。
(11)^ top albums of all-time (Electropop) https://rateyourmusic.com/charts/top/album/all-time/g:electropop/uloc:-japan/exc:live,archival/
(12)^ “平沢進ディスコグラフィー|平沢進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site”. susumuhirasawa.com. 2021年10月24日閲覧。
(13)^ abcdefghij 改訂復刻版音楽産業廃棄物. ブッキング. (2005)
(14)^ 平沢進のツイート︵2016年1月11日︶2019年11月5日閲覧。
(15)^ 平沢進のツイート︵2016年1月11日︶2019年11月5日閲覧。
(16)^ ﹃音楽産業廃棄物 卓上のウロボロス﹄ p.51
(17)^ abcdefアルバム﹃VIRTUAL LIVE-2﹄内ライナーノーツより。
(18)^ abcdP NEWS LETTER Vol.2︵1980︶より
(19)^ abクイック・ジャパン vol.83﹃近田春夫﹁適当に思い出してます﹂﹄
(20)^ “すべての記事一覧 - 詳細表示 - 秋山勝彦の宅録日記 - Yahoo!ブログ”. web.archive.org (2019年12月12日). 2022年1月2日閲覧。
(21)^ ﹃音楽産業廃棄物 卓上のウロボロス﹄ p.50
(22)^ ﹃音楽産業廃棄物 OPEN SOURCE﹄ p.73
(23)^ ab﹃音楽産業廃棄物 OPEN SOURCE﹄ p.56
(24)^ ボックスセット﹃太陽系亞種音﹄ファンクラブ会員限定特典﹁田井中貞利伝説﹂より。
(25)^ ab﹃音楽産業廃棄物 OPEN SOURCE﹄ p.56
(26)^ abピコエンタテイメント Vol.2 p.128
(27)^ ab﹃音楽産業廃棄物 OPEN SOURCE﹄ p.56
(28)^ ﹃音楽産業廃棄物 OPEN SOURCE﹄ p.56
(29)^ ピコエンタテイメント Vol.2 p.133
(30)^ [1] 平沢進公式サイト 2024年2月17日閲覧。
(31)^ 平沢進のツイート︵2013年10月25日︶2020年3月26日閲覧。
(32)^ “DVD パラレル・コザック | 平沢進公式サイト / Susumu Hirasawa Official Site”. susumuhirasawa.com. 2022年11月7日閲覧。
(33)^ “DVD HYBRID PHONON|平沢進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site”. susumuhirasawa.com. 2022年11月7日閲覧。
(34)^ 平沢進のツイート︵2018年4月3日︶2019年11月9日閲覧。
(35)^ Inc, Natasha. “核P-MODEL﹁回=回﹂ワンマン、豊洲PITで追加公演”. 音楽ナタリー. 2022年11月7日閲覧。
(36)^ “https://twitter.com/hirasawa/status/1245683525199646720”. Twitter. 2022年11月7日閲覧。
(37)^ “核P-MODELのライヴDVD﹃回=回﹄発売決定 ダイジェストムービー公開”. amass. 2022年11月7日閲覧。
(38)^ NHK衛星第2テレビジョン﹁80年代ニューウェーブ特集 P-MODEL﹂、2001年11月28日
(39)^ VHS﹃CG年賀状﹄︵1989年︶
(40)^ キーボードマガジン 2010 AUTUMN No.370. リットーミュージック). (2010)
(41)^ “P-MODELディスコグラフィー・P-MODEL|平沢進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site”. susumuhirasawa.com. 2021年10月24日閲覧。
(42)^ ab“P-MODELディスコグラフィー・舟|平沢進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site”. susumuhirasawa.com. 2021年10月24日閲覧。
(43)^ 平沢進のツイート︵2018年4月15日︶2019年11月10日閲覧。
(44)^ HIRASAWA SUSUMU 激烈インタビュー︵2013年11月13日︶2019年11月10日閲覧。
(45)^ なぜ我々は﹁けいおん!﹂に萌えてしまうのか?ASCII.jp︵2009年6月7日︶2020年12月21日閲覧。
(46)^ 平沢進のツイート︵2009年10月26日︶2020年12月21日閲覧。
(47)^ ASCII. “﹁私は平沢進だぞ。平沢唯じゃない﹂ 本人に聞いてみた (5/6)”. ASCII.jp. 2020年4月13日閲覧。
(48)^ ab﹁P-MODEL BOX﹂目録︵1987年︶
(49)^ ﹃来なかった近未来﹄︵2012年︶
外部リンク[編集]
- P-model official homepage(日本コロンビア時代のHP) - ウェイバックマシン(1997年7月4日アーカイブ分)
- P-MODEL 航海日誌 - ウェイバックマシン(1997年7月4日アーカイブ分)
- P-MODEL(CHAOS UNION) - ウェイバックマシン(2007年5月16日アーカイブ分)
- NO ROOM - The official site of Susumu Hirasawa (P-MODEL) - ウェイバックマシン(2015年12月23日アーカイブ分)
- 平沢進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site
- 平沢進・核P-MODELライブ公式 - Twitter
- P-MODEL - Discogs