「下田歌子」の版間の差分
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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[[岩村藩]]士の家に生まれる。[[幕末]]に[[勤王]]派の藩士だった父は蟄居謹慎を命じられるが、苦難の中、鉐は祖母から読み書きを習い、5歳で[[俳句]]と[[漢詩]]を詠み、[[和歌]]を作るなど神童ぶりを発揮した。書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。『[[二十四孝]]』という中国の親孝行を書いた書籍に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、それを実際に実行したという。 |
[[岩村藩]]士の家に生まれる<ref>{{Cite book|和書 |title=下田歌子と現代日本 |date=2021-8-25 |publisher=勁草書房 |page=335 |author=広井多鶴子 |isbn=9784326603398}}</ref>。[[幕末]]に[[勤王]]派の藩士だった父は蟄居謹慎を命じられるが、苦難の中、鉐は祖母から読み書きを習い、5歳で[[俳句]]と[[漢詩]]を詠み、[[和歌]]を作るなど神童ぶりを発揮した。書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。﹃[[二十四孝]]﹄という中国の親孝行を書いた書籍に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、それを実際に実行したという。
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元号が[[明治]]になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳<ref>正確には、満16歳と8か月の4月に上京した。</ref>になった鉐も上京した。そのとき、故郷の国境、三国山の峠で﹁綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ﹂という歌を詠んでいる。
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元号が[[明治]]になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳<ref>正確には、満16歳と8か月の4月に上京した。</ref>になった鉐も上京した。そのとき、故郷の国境、三国山の峠で﹁綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ﹂という歌を詠んでいる。
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=== 帰国後 === |
=== 帰国後 === |
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[[File:Utako Shimoda, director of the Gakushuin Girls' Division.jpg|thumb|200px|下田歌子]] |
[[File:Utako Shimoda, director of the Gakushuin Girls' Division.jpg|thumb|200px|下田歌子]] |
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帰国後、1898年11月、歌子らは[[帝国婦人協会]]を設立。当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘した。1899年1月、麹町元岡町に事務所を開設し、3月、会則を発表し、12月、機関誌「日本婦人」創刊<ref>日本婦人 1号</ref>。 |
帰国後、1898年11月、歌子らは[[帝国婦人協会]]を設立。当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、﹁日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。﹂と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘した。1899年1月、麹町元岡町に事務所を開設し、3月、会則を発表し、12月、機関誌﹁日本婦人﹂創刊<ref>日本婦人 1号</ref>。また、この年、[[中流階級]]の婦女子育成を目的として実践女学校および女子技芸学校を創立した<ref>歌人で実践女学園の創立者、死去﹃中外商業新報﹄昭和11年10月10日夕刊︵﹃昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年﹄本編p242 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶</ref>。
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明治35年([[1902年]])、[[大日本通信高等女学校]]の教科書編纂を指導。三段式教授法を用いる。 |
明治35年([[1902年]])、[[大日本通信高等女学校]]の教科書編纂を指導。三段式教授法を用いる。 |
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明治39年([[1906年]])、華族女学校は[[学習院]]に統合され、陸軍大将・[[乃木希典]]が院長に就任。歌子<ref>{{Cite journal|和書|title=下田歌子が学習院女学部長 清水澄は学習院主事 |id={{NDLJP|1920436/1/61 }}|access-date=2024-02-01 |work=国立国会図書館デジタルコレクション |quote=[4・12東朝] 華族女学校を学習院に合併したる結果、昨日左の通り任命せられたり。下田歌子 任学習院教授(二等)兼任学習院女学部長。佐野安 任命学習院教授(三等)。図書属文学博士井上頼圀 兼任学習院教授(四等)。学習院教授法学博士清水澄 兼任学習院主事(五等)。山口造酒 任学習院教授(五等)。東京府師範学校教諭佐藤禮子、原田穂甫、大宮兵馬、三木五百枝 任学習院教授(七等)。野口ゆか、中島俊 任学習院教授(八等)。陸軍教授野矢丈夫、東宮職御用掛小野鋼之助 学習院教課教授業を嘱託す。を委嘱(兼奏任待遇)。左の諸氏は廃官となりたり。華族女学校教授兼幹事浅岡一、同教授土屋弘、鳥山啓、秋山四郎、坂正臣、愛知信臣、田中阿歌麿、木村貞、塚原律子、荒木鐸、羽多野濱、武田貢。 |pages=76-77 }}</ref>は軍人である乃木と方針をめぐって対立する。 |
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明治39年([[1906年]])、華族女学校は[[学習院]]に統合され、陸軍大将・[[乃木希典]]が院長に就任。歌子は軍人である乃木と方針をめぐって対立する。 |
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明治40年︵1907年︶11月、歌子、学習院女学部長辞任 |
明治40年(1907年)11月、歌子、学習院女学部長辞任{{efn|[[松本清張]]著『[[昭和史発掘]]』の単行本に収録されなかったエピソードとして、[[飯野吉三郎]]との関係が詳細に記されている(『対談 昭和史発掘<ref>{{cite book|和書|author= 松本清張|author2= |
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鶴見俊輔 |title= 対談昭和史発掘 |chapter= 述昭和史発掘 番外篇 政治の妖雲・穏田の行者|publisher= 文藝春秋 |date= 2009-01|series= 文春新書 ; 677|id={{ISBN2|978-4-16-660677-1}}|url= https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010001806|access-date=2024-02-01}}</ref><ref>﹃対談昭和史発掘﹄︵2009年刊︶の改題、再編集。{{cite book|和書|author= 松本清張 |title= 昭和史発掘 |edition= 特別篇 |chapter= 政治の妖怪・穏田の行者|publisher= 文藝春秋 |date= 2019-08|series= 文春学藝ライブラリー‥歴史 ; 36|id={{ISBN2|978-4-16-813082-3}}|url= https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I029813297 |access-date=2024-02-01}}</ref>﹄。なお、本編で引用された[[牧野伸顕]]﹁回顧録﹂によれば、下田が学習院を罷免された理由には、歌子の行状問題があったとされている。}}。翌月、勲四等[[宝冠章]]に叙せられた。
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明治41年(1908年)歌子、実践女学校中等学部に加えて高等専門学部を開設、実践女学校が誕生し、その校長に就任した<ref name="sakurai">{{Cite book|和書 |title=女子教育史 |year=1943 |publisher=増進堂 |author=桜井役 |id=国立国会図書館デジタルコレクション、{{NDLJP|1454075}} |chapter=四 女子中等敎育の発達 |chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1454075/1/82 |pages=146頁(コマ番号82)}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author= 新愛知新聞社東京支社 |title= 新愛知年鑑 : 附・中部日本特輯|year= 1933|volume= 昭和9年|publisher= 新愛知新聞社東京支社|date= 昭和8|id={{NDLJP|1109490}}|chapter= 教育及出版—私立専門学校|pages= 131頁(コマ番号78 0078.jp2)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1109490/1/78 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2024-02-01}}国立国会図書館デジタルコレクション。</ref>。 |
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明治41年(1908年)歌子、実践女学校中等学部に加えて高等専門学部を開設、実践女学校が誕生し、その校長に就任した。 |
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[[大正]]7年([[1918年]])3月、[[板垣退助]]の妻・[[板垣絹子|絹子]]に招聘されて、[[東京]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]の『[[広尾学園中学校・高等学校|順心女学校]]』(現校名: |
[[大正]]7年︵[[1918年]]︶3月、[[板垣退助]]の妻・[[板垣絹子|絹子]]に招聘されて、[[東京]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]の﹃[[広尾学園中学校・高等学校|順心女学校]]﹄︵現校名‥広尾学園中・高、所在地‥[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]︶創設にあたって初代校長となり、女子教育に取り組む<ref>>{{Cite book|和書 |title=婦人年鑑|chapter=下田歌子女史|page=227 |issue=3︵昭和12年版︶|publisher= 日本図書センター|year= 1988}}{{ISBN2|1=4-8205-0751-6|2=4-8205-6636-9}}、東京連合婦人会の1937年発行物︵昭和12年︶の複製。</ref>。
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[[昭和]]11年([[1936年]])[[10月8日]]に[[肺炎]]のため[[赤坂区]][[青山 |
[[昭和]]11年([[1936年]])[[10月8日]]に[[肺炎]]のため[[赤坂区]][[北青山|青山北町]]の自宅<ref>{{Cite web|和書 |title=下田歌子(第4版) |work= 『人事興信録』データベース |url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-12827 |publisher=[[名古屋大学]] |access-date=2024-02-01}}</ref>で死去するまで、生涯を女子教育の振興にささげ、[[学校法人実践女子学園|実践女子学園]]の基礎<ref name="sakurai" />も築いた。享年82。 |
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== 栄典 == |
== 栄典 == |
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* [[1901年]](明治34年)[[12月26日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第5547号「叙任及辞令」1901年12月27日。</ref> |
* [[1901年]](明治34年)[[12月26日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第5547号「叙任及辞令」1901年12月27日。</ref> |
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* [[1906年]](明治39年)[[12月27日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。</ref> |
* [[1906年]](明治39年)[[12月27日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。</ref> |
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[[従三位]]勳三等と伝わったことがある<ref>{{Cite web|和書 |title=下田歌子(第4版)|date= 1915年( 大正4年1月)|work= 『人事興信録』データベース |url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-12827 |website=jahis.law.nagoya-u.ac.jp |access-date=2024-02-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=下田歌子(第8版)|quote= 位階・勲等・功級=從三位、勳三等|work= 『人事興信録』データベース |url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-11066 |website=jahis.law.nagoya-u.ac.jp |publisher=名古屋大学 |date= 1928年(昭和3年)7月|access-date=2024-02-01}}</ref>{{efn|[[明治神宮御鎮座祭]]記念発刊冊子「神伝護身術」([[愛國神武會]] 1920年)の表紙には“[[従三位]]下田歌子先生題字”という記載あり<ref>{{cite book|和書|author= 中沢蘇伯 |title= 神伝護身術 : 心身鍛錬気合応用 |publisher= 愛国神武会|date= 大正9年|year= |chapter=表紙|url= https://dl.ndl.go.jp/pid/909580/1/1 |access-date= 2024-02-01 |doi= 10.11501/909580}}[[近代デジタルライブラリー]]。</ref>。}}。 |
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※[[明治神宮御鎮座祭]]記念発刊冊子「神伝護身術」([[愛國神武會]] 1920年)の表紙には “[[従三位]]下田歌子先生題字”という記載あり<ref>近代デジタルライブラリー - 神伝護身術 - 心身鍛錬気合応用</ref> |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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容姿と才能に恵まれ、「明治の[[紫式部]]」ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に[[平民新聞]]は『妖婦下田歌子』と題した特集を連載するまでに至った。特に「日本の[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]」とまで言われた祈祷師・[[飯野吉三郎]]の権力拡大のため尽力したとされ、のちの[[幸徳事件]]は飯野の差し金であるとの説もある。 |
容姿と才能に恵まれ、「明治の[[紫式部]]」ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に[[平民新聞]]は『妖婦下田歌子』と題した特集を連載するまでに至った。特に「日本の[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]」とまで言われた祈祷師・[[飯野吉三郎]]の権力拡大のため尽力したとされ、のちの[[幸徳事件]]は飯野の差し金であるとの説もある。 |
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== 主な著作 == |
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=== 全集 === |
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* 『新編下田歌子著作集』<ref>{{Cite book|和書|author=下田歌子|title=新編 下田歌子著作集|publisher=三元社|date=2016-2020|page=|isbn=}}</ref>(三元社、2016年 - 2020年) |
* 『新編下田歌子著作集』<ref>{{Cite book|和書|author=下田歌子|title=新編 下田歌子著作集|publisher=三元社|date=2016-2020|page=|isbn=}}</ref>(三元社、2016年 - 2020年) |
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*# 婦人常識訓 |
*# 婦人常識訓 |
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*# 結婚要訣 |
*# 結婚要訣 |
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*# 良妻と賢母 |
*# 良妻と賢母 |
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=== 単著 === |
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*『日本の女性』実業之日本社<ref>{{harvnb|『大正期婦人問題文献集成』|loc= 19巻|(1月)1998|page= 153}}</ref><ref name="nihon_tosho">{{cite book|和書|title=大正期婦人問題文献集成|publisher=日本図書センター |year= 1998|ref={{harvid|『大正期婦人問題文献集成』|1998}}|date= 1998-02||url= https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003034820|access-date=2024-02-01|id={{ISBN2|4-8205-4396-2}}}}国立国会図書館編・所蔵 : マイクロフィルム版。マイクロ資料。</ref> |
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*下田歌子 講述『礼法 婦人修養十講』家政研究会 筆記、東京国民書院<ref>{{harvnb|『大正期婦人問題文献集成』|loc=104巻(11月) |1998|page= 184}}</ref> |
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*下田歌子『家庭』実業之日本社<ref>{{harvnb|『大正期婦人問題文献集成』|loc= 110巻(2月)|1998|page= 179}}</ref> |
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*下田歌子『女子の礼法』国民書院<ref>{{harvnb|『大正期婦人問題文献集成』|loc= 151巻(4月)|1998|page= 196}}</ref> |
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== その他 == |
== その他 == |
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[[岩村城]]跡にある城跡公園に勉学所、顕彰碑、銅像が建てられている<ref>{{Cite web|和書|title=城跡公園︵太鼓櫓・下田歌子勉学所・知新館・菖蒲園︶|publisher= 一般社団法人恵那市観光協会|url=https://www.kankou-ena.jp/457.php|website= え~な恵那︻岐阜県恵那市観光サイト︼|accessdate=2021-09-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/sidou/map/attach/pdf/index-6.pdf|title=岩村城跡案内図|accessdate=2021-9-10|publisher=[[農林水産省]]中部森林管理局|format= pdf}}</ref>。
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* [[平成]]16年([[2004年]])の生誕150年を迎えるに当たり、平成15年([[2003年]])よりふるさとの旧岩村町(現在の恵那市岩村町)が岐阜県、実践女子学園とPHP研究所の協力を得て、エッセイ・短歌の公募賞を設けた<ref>{{Cite web|url=https://www.city.ena.lg.jp/syougaigakushu_sports/rekishi_bunka/kakushubunkagyoji/shimodautakosho/3089.html|title=下田歌子賞|accessdate=2021-9-10|publisher=恵那市}}</ref><ref>{{Cite web|title=下田歌子賞|url=http://www.jissen.ac.jp/society/area/ena/renkei/shimoda.html|website=実践女子大学/実践女子大学短期大学部|accessdate=2021-09-10|language=ja|last=実践女子大学/実践女子大学短期大学部}}</ref>。 |
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下田歌子賞は、[[随筆|エッセイ]]・短歌の公募賞、平成15年([[2003年]])設立。生誕150年の[[平成]]16年([[2004年]])を控え、下田のふるさとの旧岩村町が主催し(現・恵那市岩村町)、岐阜県、実践女子学園とPHP研究所の協力を得た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ena.lg.jp/syougaigakushu_sports/rekishi_bunka/kakushubunkagyoji/shimodautakosho/3089.html|title=下田歌子賞|accessdate=2021-9-10|publisher= 恵那市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=下田歌子賞|url=http://www.jissen.ac.jp/society/area/ena/renkei/shimoda.html|publisher= 実践女子大学/実践女子大学短期大学部|accessdate=2021-09-10|language=ja}}</ref>。恵那市は先人顕彰事業「下田歌子賞」として同実行委員会の選んだ受賞作品集を発刊し、2023年に20周年を迎えた{{efn|恵那市「下田歌子賞」の受賞作品集には『受賞の思い出:下田歌子賞10周年を記念して』<ref>『受賞の思い出:下田歌子賞10周年を記念して』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会、2013年。<KH17-L30>。</ref>20周年記念の『夢』<ref>『夢』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集:下田歌子賞20周年記念〉2023年。<KH17-M207>。</ref>ほかがある<ref>『先人に学ぶ』2012年。[https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I024376818 第9回]受賞作品集。<KH17-L31>。</ref><ref>『ふるさとの先人に学ぶ』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈第7回下田歌子賞受賞作品集〉、2010年。{{NCID|BB03213097}}。</ref><ref>『ふるさと』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第11回〉2014年。<KH17-L142>。</ref><ref>『志』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第18回〉2021年。<KH17-M112>。</ref><ref>『志:今、伝えたいこと』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第19回〉2022年。<KH17-M157>。</ref>。}}。 |
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== 補注 == |
== 補注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|colwidth=30em}} |
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|pages=pp.208-211 |
|pages=pp.208-211 |
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|publisher=早稲田大学図書館 |
|publisher=早稲田大学図書館 |
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|url=https://hdl.handle.net/2065/00055144 |
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|ref=harv |
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}} |
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*{{Cite journal|和書 |
*{{Cite journal|和書 |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
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*[[板垣弘子]] 編『資料篇』全9巻(実践女子学園〈'''下田歌子著作集'''〉、1998-2002年) |
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*[[西尾豊作]]『下田歌子伝』咬菜塾 1936 |
*[[西尾豊作]]『下田歌子伝』(咬菜塾 1936年) |
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*[[平尾寿子]]『下田歌子回想録』山陽堂 1942 |
*[[平尾寿子]]『下田歌子回想録』山陽堂 1942年) |
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*『下田歌子先生伝』故下田校長先生伝記編纂所 1943 |
*『下田歌子先生伝』故下田校長先生伝記編纂所 1943年) |
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*[[志茂田景樹]]『花の嵐 明治の女帝・下田歌子の愛と野望』[[PHP研究所]] 1984 |
*[[志茂田景樹]]『花の嵐 明治の女帝・下田歌子の愛と野望』[[PHP研究所]] 1984年) |
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*[[林真理子]]『ミカドの淑女(おんな)』[[新潮社]]、1990 |
*[[林真理子]]『ミカドの淑女(おんな)』[[新潮社]]、1990年)のち文庫 |
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*『妖婦下田歌子 [[平民新聞]]より』[[風媒社]]、1999 |
*『妖婦下田歌子 [[平民新聞]]より』[[風媒社]]、1999年) |
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*[[南條範夫]]『妖傑下田歌子』[[講談社]]、1994 |
*[[南條範夫]]『妖傑下田歌子』[[講談社]]、1994年) |
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*[[松本清張]]『対談 昭和史発掘』([[昭和史発掘]]の単行本に収録されなかった「政治の妖怪・穏田の行者」に、[[飯野吉三郎]]との関係が詳細に記されている。なお、本編で引用している[[牧野伸顕]]「回顧録」によれば、下田歌子が学習院を罷免された理由には、歌子の行状問題があったとされている。) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.kankou-ena.jp/see/shiro/shiroatokouen/ 下田歌子勉学所] |
* [http://www.kankou-ena.jp/see/shiro/shiroatokouen/ 下田歌子勉学所] |
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* [https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E6%AD%8C%E5%AD%90-18285 下田歌子] - [[コトバンク]] |
* [https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E6%AD%8C%E5%AD%90-18285 下田歌子] - [[コトバンク]] |
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* |
* {{Cite journal|和書|author=孫東芳 |date=2017-11 |url=https://hdl.handle.net/10112/11539 |title=女学校の創設と明治国家 : 下田歌子と津田梅子の比較を中心として |journal=文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集 |ISSN=2187-4395 |publisher=関西大学大学院東アジア文化研究科 |volume=7 |pages=217-232 |id={{CRID|1050282677888240256}} |hdl=10112/11539 |ref=harv}} |
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{{End box}} |
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{{学校法人学習院院長|学習院女学部長:1906年 - 1907年)<br />(華族女学校長事務代行:1885年 - 1887年}} |
{{学校法人学習院院長|学習院女学部長:1906年 - 1907年)<br />(華族女学校長事務代行:1885年 - 1887年}} |
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{{デフォルトソート:しもた うたこ}} |
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[[Category:19世紀日本の女性教育者]] |
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[[Category:19世紀日本の女性ノンフィクション作家]] |
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[[Category:20世紀日本の女性ノンフィクション作家]] |
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[[Category:19世紀日本の活動家]] |
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[[Category:20世紀日本の活動家]] |
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[[Category:19世紀の歌人]] |
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[[Category:実践女子大学学長]] |
[[Category:実践女子大学学長]] |
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[[Category:日本の女性歌人]] |
[[Category:日本の女性歌人]] |
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[[Category:日本の女性活動家]] |
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[[Category:愛国婦人会の人物]] |
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[[Category:日中関係史]] |
[[Category:日中関係史]] |
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[[Category:日本の女性教育の歴史]] |
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2024年2月21日 (水) 05:07時点における最新版
しもだ うたこ 下田 歌子 | |
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生誕 |
1854年9月29日 日本 美濃国恵那郡岩村 (現在の岐阜県恵那市) |
死没 |
1936年10月8日(82歳没) 東京市赤坂区青山北町 |
墓地 | 護国寺(東京都文京区)・ 大名墓地 (岐阜県恵那市) |
職業 | 教育者 |
著名な実績 |
帝国婦人協会設立 実践女学校設立 |
略歴[編集]
岩村藩士の家に生まれる[5]。幕末に勤王派の藩士だった父は蟄居謹慎を命じられるが、苦難の中、鉐は祖母から読み書きを習い、5歳で俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮した。書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。﹃二十四孝﹄という中国の親孝行を書いた書籍に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、それを実際に実行したという。 元号が明治になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳[6]になった鉐も上京した。そのとき、故郷の国境、三国山の峠で﹁綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ﹂という歌を詠んでいる。 明治5年︵1872年︶、女官に抜擢され宮中へ出仕する。武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で皇后・美子から寵愛され﹁歌子﹂の名を賜る[7]。 宮廷で和歌を教えるようになる。 明治12年︵1879年︶に剣客の下田猛雄と結婚し宮中出仕を辞する。3年後に夫が病に臥す。看病のかたわら、自宅で﹃桃夭︵とうよう︶女塾﹄を開講。当時の政府高官の殆どがかつての勤王の志士だったため、彼らの妻の多くは芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えた。 明治17年︵1884年︶、夫・猛雄が病死した。同年に塾の実績と皇后の推薦で、創設された華族女学校の教授に迎えられた。翌年には学監に就任。華族の子女のみが学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。欧米教育視察[編集]
明治26年︵1893年︶春、歌子は常宮・周宮両内親王の御養育主任・佐々木高行から皇女教育のため欧米教育視察を拝命した。その目的は皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することだった。初めての海外渡航にあたり、歌子は西洋文化を取捨選択し長所のみを受け入れる態度で臨んだ[8]。 同年9月横浜を発ち、イギリスのブライトンで英語学校に通った後12月にはロンドンへ。そこでビクトリア女王の女官を務めるエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得て、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育と母親たちの生活に触れた[9]。 市井の人々と親しく交わる女王一家と、王女が主婦として家庭を支える姿に下田は強い印象を受けた。やがて先々で出会う女性たちが豊富な知識、意志の強さ、行動力を持ち、それが教育と生活習慣によって培われたことを知る[10]。 明治27年︵1894年︶12月、歌子は皇女教育という目的を超え一般の女学校への視察を始めた[11]。 明治28年︵1895年︶の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジ︵以下CLC︶で校長ドロシア・ビールと面会[12]。 ビールは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に歌子を気遣い、真摯な態度で接した。その厚意を歌子は﹁真の親切﹂と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘した。その後、歌子はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ︵The Cambridge Training College for Women Teachers、以下CTC。現ヒューズ・ホール︶を視察[13][14]。 さらに湖水地方やスコットランド、フランス、ドイツ、イタリアなど大陸の女子学校を訪問。その間の5月8日にはヴィクトリア女王との謁見を果たした[15][16]。 これらの視察によって歌子はキリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていることを理解する。それに加え育児、教育学、衛生、生理、看護法に関する知識は実利主義のもと最新の科学が教授されていた。キリスト教に対する評価は変えたものの、自らの信条を保ち下田は同年8月に帰国[17]。 その直後から皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに加わっていくことになる[18]。帰国後[編集]
栄典[編集]
●1896年︵明治29年︶12月21日 - 正五位[28] ●1901年︵明治34年︶12月26日 - 従四位[29] ●1906年︵明治39年︶12月27日 - 正四位[30] 従三位勳三等と伝わったことがある[31][32][注釈 2]。人物[編集]
容姿と才能に恵まれ、﹁明治の紫式部﹂ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に平民新聞は﹃妖婦下田歌子﹄と題した特集を連載するまでに至った。特に﹁日本のラスプーチン﹂とまで言われた祈祷師・飯野吉三郎の権力拡大のため尽力したとされ、のちの幸徳事件は飯野の差し金であるとの説もある。主な著作[編集]
全集[編集]
●﹃新編下田歌子著作集﹄[34]︵三元社、2016年 - 2020年︶ (一)婦人常識訓 (二)女子のつとめ︻現代語訳︼ (三)女子の心得 (四)結婚要訣 (五)良妻と賢母単著[編集]
●﹃日本の女性﹄実業之日本社[35][36] ●下田歌子 講述﹃礼法 婦人修養十講﹄家政研究会 筆記、東京国民書院[37] ●下田歌子﹃家庭﹄実業之日本社[38] ●下田歌子﹃女子の礼法﹄国民書院[39]その他[編集]
岩村城跡にある城跡公園に勉学所、顕彰碑、銅像が建てられている[40][41]。 下田歌子賞は、エッセイ・短歌の公募賞、平成15年︵2003年︶設立。生誕150年の平成16年︵2004年︶を控え、下田のふるさとの旧岩村町が主催し︵現・恵那市岩村町︶、岐阜県、実践女子学園とPHP研究所の協力を得た[42][43]。恵那市は先人顕彰事業﹁下田歌子賞﹂として同実行委員会の選んだ受賞作品集を発刊し、2023年に20周年を迎えた[注釈 3]。補注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
書籍[編集]
●宮内庁臨時帝室編修局編﹃明治天皇紀 第8﹄吉川弘文館、1973年。 ●安在邦夫、望月雅士編﹃佐佐木高行日記 -かざしの桜﹄北泉社、2003年。 ●白井厚、白井堯子﹃オクスフォードから﹄日本経済新聞社、1995年。 ●森睦彦編著﹃ゴルドン夫人と日英文庫﹄森睦彦、1995年。記事[編集]
●大関啓子﹁まよひなき道 -下田歌子 英国女子教育視察の軌跡-﹂﹃実践女子大学文学部紀要﹄第36号、実践女子大学、1994年3月、pp.1-21。 ●中村悦子﹁-講演 校祖下田歌子生誕百五十年記念行事- 下田歌子先生、欧米教育視察の周辺﹂﹃実践教育﹄第25号、実践女子学園中学校高等学校、2006年3月、pp.11-22。 ●中村悦子﹁E・A・ゴルドン夫人の生涯 -早稲田大学図書館100年の歩み-﹂﹃早稲田大学図書館紀要﹄第30号、早稲田大学図書館、1989年3月、pp.208-211。 ●城田秀雄﹁英国よりの手紙 -下田歌子から谷干城へ-﹂﹃実践国文学会誌 りんどう﹄第18号、実践国文学会、1992年7月、pp.76-81。関連項目[編集]
●板垣絹子 ●大山捨松 ●津田梅子 ●税所敦子 ●岐阜県出身の人物一覧#教育者関連書籍[編集]
●板垣弘子 編﹃資料篇﹄全9巻︵実践女子学園︿下田歌子著作集﹀、1998-2002年︶ ●西尾豊作﹃下田歌子伝﹄︵咬菜塾 1936年︶ ●平尾寿子﹃下田歌子回想録﹄山陽堂 1942年︶ ●﹃下田歌子先生伝﹄故下田校長先生伝記編纂所 1943年︶ ●志茂田景樹﹃花の嵐 明治の女帝・下田歌子の愛と野望﹄PHP研究所 1984年︶ ●林真理子﹃ミカドの淑女︵おんな︶﹄新潮社、1990年︶のち文庫 ●﹃妖婦下田歌子 平民新聞より﹄風媒社、1999年︶ ●南條範夫﹃妖傑下田歌子﹄講談社、1994年︶外部リンク[編集]
●下田歌子FAQ|実践女子大学|実践女子大学短期大学部 ●下田歌子電子図書館 ●国立国会図書館デジタルコレクション ●下田歌子勉学所 ●下田歌子 - コトバンク ●孫東芳﹁女学校の創設と明治国家 : 下田歌子と津田梅子の比較を中心として﹂﹃文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集﹄第7巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2017年11月、217-232頁、hdl:10112/11539、ISSN 2187-4395、CRID 1050282677888240256。その他の役職 | ||
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先代 (新設) |
順心高等女学校長 1924年 - 1936年 |
次代 田所美治 |
先代 (新設) |
実践高等女学校長 1932年 - 1936年 |
次代 中村俊秀 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
実践第二高等女学校長 1934年 - 1936年 実践実科高等女学校長 1932年 - 1934年 |
次代 土岐竜雲 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
実践女子専門学校長 1932年 - 1936年 |
次代 辻村鑑 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
財団法人帝国婦人協会実践女学校理事長 1935年 - 1936年 |
次代 平尾寿子 |
先代 (新設) |
淡海高等女学校長 1926年 - 1930年 |
次代 渡辺千治郎 |
先代 浜尾作子 |
愛国婦人会会長 1920年 - 1927年 |
次代 本野久子 |