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| 妻 = [[正室]]:'''敏姫'''([[松平容敬]]の娘)<br/>[[側室]]:佐久([[田代孫兵衛]]の娘)、名賀([[川村源兵衛]]の娘) |
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| 特記事項 = |
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=== 死後 === |
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[[昭和]]3年︵[[1928年]]・[[明治維新]]から60年目︶、[[秩父宮雍仁親王]]︵[[大正天皇]]第2皇子︶と[[雍仁親王妃勢津子|松平勢津子]]︵容保の六男・[[松平 |
[[昭和]]3年︵[[1928年]]・[[明治維新]]から60年目︶、[[秩父宮雍仁親王]]︵[[大正天皇]]第2皇子︶と[[雍仁親王妃勢津子|松平勢津子]]︵容保の六男・[[松平恆雄|恆雄]]の長女︶の婚礼が執り行われた。[[会津松平家]]と[[皇族]]の結婚は、[[朝敵]][[会津藩]]の復権であると位置づけられているといわれる。
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== 官職および位階等の履歴 == |
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** 三男・(夭折)1874 |
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** 四男・(夭折)1874 |
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** 六男・[[松平 |
** 六男・[[松平恆雄]]([[宮内大臣]]、[[参議院議長]]、[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮勢津子妃]]の実父、[[徳川宗家]]18代[[徳川恒孝]]の祖父 1877-1949) |
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* 養子 |
* 養子 |
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** [[松平喜徳]]([[水戸徳川家]][[徳川斉昭]]十九男、1867年養子縁組、1873年養子縁組を解消) |
** [[松平喜徳]]([[水戸徳川家]][[徳川斉昭]]十九男、1867年養子縁組、1873年養子縁組を解消) |
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Image:Matsudaira_Takeo.jpg|伊佐須美神社宮司・[[松平健雄]] |
Image:Matsudaira_Takeo.jpg|伊佐須美神社宮司・[[松平健雄]] |
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Image:Matsudaira_Hideo.jpg|歩兵中佐・[[山田英夫 (伯爵)|山田英夫]] |
Image:Matsudaira_Hideo.jpg|歩兵中佐・[[山田英夫 (伯爵)|山田英夫]] |
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Image:Tsuneo Matsudaira.jpg|参議院議長・[[松平 |
Image:Tsuneo Matsudaira.jpg|参議院議長・[[松平恆雄]] |
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Image:Morio_Matsudaira.jpg|海軍少将・[[松平保男]] |
Image:Morio_Matsudaira.jpg|海軍少将・[[松平保男]] |
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Image:Princess Chichibu Setsuko.jpg|[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]] |
Image:Princess Chichibu Setsuko.jpg|[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]] |
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* 敏姫の死の翌年、文久2年︵1862年︶10月、容保は[[加賀藩]]主・[[前田慶寧]]の長女・[[榊原禮子|禮姫]]と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年︵1866年︶12月に容保が慶喜の弟の余九麿︵喜徳︶を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年︵1871年︶の廃藩置県を機に正式に婚約を解消した。禮姫は文久2年から明治4年まで[[金沢市|金沢]]に在住していたので、容保と会った可能性は低い。明治6年に[[榊原政敬]]に嫁いでいる。
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* 敏姫の死の翌年、文久2年︵1862年︶10月、容保は[[加賀藩]]主・[[前田慶寧]]の長女・[[榊原禮子|禮姫]]と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年︵1866年︶12月に容保が慶喜の弟の余九麿︵喜徳︶を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年︵1871年︶の廃藩置県を機に正式に婚約を解消した。禮姫は文久2年から明治4年まで[[金沢市|金沢]]に在住していたので、容保と会った可能性は低い。明治6年に[[榊原政敬]]に嫁いでいる。
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* 浦乃局(関山通子)は、[[柴桂子]]『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。 |
* 浦乃局(関山通子)は、[[柴桂子]]『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。 |
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* 子供を産んだ側室は[[田代孫兵衛]]の娘の佐久と[[川村源兵衛]]の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年︵1869年︶で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子﹃銀のボンボニェール﹄で節子の父・ |
* 子供を産んだ側室は[[田代孫兵衛]]の娘の佐久と[[川村源兵衛]]の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年︵1869年︶で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子﹃銀のボンボニェール﹄で節子の父・[[松平恆雄]]が﹁︵側室だったので︶母と呼ばせてもらえなかった﹂と回想している。
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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|isbn = 4163730605 |
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* 家臣からの人望は厚く、若松城開城後、江戸︵[[東京]]︶に護送される容保を、家臣たちは断腸の思いで見送ったという。反面、下々には重税を課していたことから領民たちの恨みを買っており<ref group="注">会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした</ref>、見送りにくる領民はほとんどおらず、農民たちに至っては護送されている藩主を見ようともせずに野良仕事をしていたという。当時、従軍医師として、その様子を見た[[ウィリアム・ウィリス]]は﹁松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能だろう﹂と手帳に記している。<ref>中須賀哲朗・訳﹁英国公使館員の維新戦争見聞記﹂より</ref>
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* 家臣からの人望は厚く、若松城開城後、江戸︵[[東京]]︶に護送される容保を、家臣たちは断腸の思いで見送ったという。反面、下々には重税を課していたことから領民たちの恨みを買っており<ref group="注">会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした</ref>、見送りにくる領民はほとんどおらず、農民たちに至っては護送されている藩主を見ようともせずに野良仕事をしていたという。当時、従軍医師として、その様子を見た[[ウィリアム・ウィリス]]は﹁松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能だろう﹂と手帳に記している。<ref>[[中須賀哲朗]]・訳﹁英国公使館員の維新戦争見聞記﹂より</ref>
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* 明治期になって、容保の実兄である旧[[尾張藩]]主・[[徳川慶勝]]から容保に[[尾張徳川家]]相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・[[山川浩]]が容保にその理由を訊ねたところ﹁自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない﹂と答えたと言う<ref>﹃男爵山川先生遺稿﹄﹁14忠誠神君の御逸事﹂</ref>。
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* 明治期になって、容保の実兄である旧[[尾張藩]]主・[[徳川慶勝]]から容保に[[尾張徳川家]]相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・[[山川浩]]が容保にその理由を訊ねたところ﹁自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない﹂と答えたと言う<ref>﹃男爵山川先生遺稿﹄﹁14忠誠神君の御逸事﹂</ref>。
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* 明治26年︵1893年︶、[[孝明天皇]]の妃であった[[英照皇太后|九条夙子]]は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった[[橋本綱常]]を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという<ref>﹃男爵山川先生遺稿﹄﹁15英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと﹂</ref>。
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* 明治26年︵1893年︶、[[孝明天皇]]の妃であった[[英照皇太后|九条夙子]]は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった[[橋本綱常]]を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという<ref>﹃男爵山川先生遺稿﹄﹁15英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと﹂</ref>。
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 相田泰三『松平容保公伝』会津郷土史料研究所 |
* [[相田泰三]]『松平容保公伝』会津郷土史料研究所 |
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* [[渋沢栄一]]編『昔夢会筆記-徳川慶喜公回想談-』平凡社 |
* [[渋沢栄一]]編『昔夢会筆記-徳川慶喜公回想談-』平凡社 |
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* [[綱淵謙錠]]編『松平容保のすべて』新人物往来社 |
* [[綱淵謙錠]]編『松平容保のすべて』新人物往来社 |
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* 日高実業協会『西忠義翁徳行録』(1933年) |
* 日高実業協会『西忠義翁徳行録』(1933年) |
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* 高木俊朗『戦死 <small>インパール牽制作戦</small>』文春文庫 |
* [[高木俊朗]]『戦死 <small>インパール牽制作戦</small>』文春文庫 |
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* 飯沼関弥『會津松平家譜』国書刊行会 |
* [[飯沼関弥]]『會津松平家譜』国書刊行会 |
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*『加賀藩史料 編外備考』侯爵前田家編輯部 |
*『加賀藩史料 編外備考』侯爵前田家編輯部 |
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* [{{NDLDC|1171002}} ﹃京都守護職始末﹄] ※[[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー、旧字体旧かなづかい。容保の死後、[[宸翰]]と[[御製]]の存在が明らかになったので、旧藩士の[[山川浩|山川浩︵山川大蔵︶]]らの手により、公表されたもの。
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* [{{NDLDC|1171002}} ﹃京都守護職始末﹄] ※[[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー、旧字体旧かなづかい。容保の死後、[[宸翰]]と[[御製]]の存在が明らかになったので、旧藩士の[[山川浩|山川浩︵山川大蔵︶]]らの手により、公表されたもの。
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2016年1月26日 (火) 14:14時点における版
松平 容保 | |
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![]() 京都守護職時代の容保 | |
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
生誕 | 天保6年12月29日(1836年2月15日) |
死没 | 明治26年(1893年)12月5日 |
改名 | 銈之丞(幼名)→容保 |
別名 | 祐堂、芳山(法号)、会津侯 |
神号 | 忠誠霊神 |
墓所 |
福島県会津若松市東山町の松平家院内御廟 東京都新宿区の正受院 |
官位 | 従四位下、侍従、若狭守、肥後守、左近衛権少将、左近衛権中将、正四位下、参議 |
幕府 | 江戸幕府京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後) |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜 |
藩 | 陸奥会津藩主 |
氏族 | 高須松平家→会津松平家 |
父母 |
父:松平義建、母:古森氏 養父:松平容敬 |
兄弟 | 徳川慶勝、武成、徳川茂徳、容保、定敬、義勇、義姉:照姫 |
妻 |
正室:敏姫(松平容敬の娘) 側室:佐久(田代孫兵衛の娘)、名賀(川村源兵衛の娘) |
子 |
容大、健雄、英夫、恆雄、保男 養子:喜徳 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6d/Matudaira_Katamor_Syouzougai.jpg/200px-Matudaira_Katamor_Syouzougai.jpg)
生涯
会津藩主就任
天保6年︵1836年2月15日︶に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年︵1846年︶に叔父の会津藩第8代藩主・容敬︵高須松平家出身︶の養子となり、嘉永5年︵1852年︶に家督を継ぐ。安政7年︵1860年︶に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。京都守護職就任
文久2年閏8月1日︵1862年9月24日︶に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した﹃会津家訓十五箇条﹄の第一条﹁会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である﹂を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。 京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰︵天皇直筆の手紙︶と御製︵天皇の和歌︶を内密に下賜された︵詳細は後述︶。容保はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。 慶応3年︵1867年︶に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発して旧幕府軍が敗北すると、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、弟の桑名藩主・松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。 鳥羽・伏見の戦いにより朝廷は、旧幕府を朝敵とした。慶喜が新政府に対して恭順の姿勢を示すと、旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。会津戦争
容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎した。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。 容保は新政府に恭順の姿勢を示したが、会津藩内は主戦派が占めており、それを察知していた新政府軍も会津の恭順姿勢を信用していなかった。会津藩に同情的な仙台藩、米沢藩は、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に会津藩赦免を求め、一方で会津藩に対しても新政府に対する謝罪を求めるも容保はこれを拒否。さらには鎮撫使として派遣された世良修蔵が仙台藩士によって殺害されたことにより、新政府軍と奥羽越列藩同盟の衝突は決定的となった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Katamori_Matsudaira_3.jpg/200px-Katamori_Matsudaira_3.jpg)
晩年
明治4年︵1871年︶、会津松平家は容保嫡男の容大が新たに陸奥国内で3万石を与えられ、斗南藩として家名存続を許された。 容保は明治5年︵1872年︶に蟄居を許され、明治13年︵1880年︶には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年︵1893年︶12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。享年59。死後
昭和3年︵1928年・明治維新から60年目︶、秩父宮雍仁親王︵大正天皇第2皇子︶と松平勢津子︵容保の六男・恆雄の長女︶の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。官職および位階等の履歴
※日付は明治4年までは旧暦![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/KatamoriGrave.jpg/250px-KatamoriGrave.jpg)
栄典
●1887年︵明治20年︶12月26日 - 従三位[1]家系
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/52/Takasu_quartet.jpg/250px-Takasu_quartet.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/Nogi_and_Stessel.jpg/250px-Nogi_and_Stessel.jpg)
正室・婚約者︵継室︶・側室など
●正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年︵1843年︶に会津若松城で生まれ、9歳で江戸に出府。安政3年︵1856年︶14歳で22歳の容保の正室となるが、文久元年︵1861年︶10月に19歳で死去した。先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組が予定されていたと考えられる。 ●敏姫の死の翌年、文久2年︵1862年︶10月、容保は加賀藩主・前田慶寧の長女・禮姫と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年︵1866年︶12月に容保が慶喜の弟の余九麿︵喜徳︶を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年︵1871年︶の廃藩置県を機に正式に婚約を解消した。禮姫は文久2年から明治4年まで金沢に在住していたので、容保と会った可能性は低い。明治6年に榊原政敬に嫁いでいる。 ●浦乃局︵関山通子︶は、柴桂子﹃会津藩の女たち﹄で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。 ●子供を産んだ側室は田代孫兵衛の娘の佐久と川村源兵衛の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年︵1869年︶で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子﹃銀のボンボニェール﹄で節子の父・松平恆雄が﹁︵側室だったので︶母と呼ばせてもらえなかった﹂と回想している。逸話
●細面の貴公子然とした風貌で、京都守護職の容保が宮中に参内すると女官たちがそわそわした、という逸話も残っている。 ●京都見廻組は京都守護職だった容保の支配下にあったので、近江屋事件について磯田道史は﹁︵見廻組与頭︶佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させた﹂と、手代木が記した書を元に指摘している[3]。 ●家臣からの人望は厚く、若松城開城後、江戸︵東京︶に護送される容保を、家臣たちは断腸の思いで見送ったという。反面、下々には重税を課していたことから領民たちの恨みを買っており[注 3]、見送りにくる領民はほとんどおらず、農民たちに至っては護送されている藩主を見ようともせずに野良仕事をしていたという。当時、従軍医師として、その様子を見たウィリアム・ウィリスは﹁松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能だろう﹂と手帳に記している。[4] ●明治期になって、容保の実兄である旧尾張藩主・徳川慶勝から容保に尾張徳川家相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・山川浩が容保にその理由を訊ねたところ﹁自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない﹂と答えたと言う[5]。 ●明治26年︵1893年︶、孝明天皇の妃であった九条夙子は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった橋本綱常を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという[6]。 ●会津松平家は容保の長男・容大が子爵となったものの、山川健次郎の奔走が実るまで財政は苦しかった。旧臣たちは収入から幾許かを献上し、旧主家を支え続けた。 ●磐梯山が噴火した際、旧領の猪苗代、裏磐梯地域は大きな被害を受けた。旧臣の西忠義から事態の連絡を受けた容保は現地に急行し、被災者を見舞っている。被災者は旧領主の訪問を喜んだ[7]。孝明天皇下賜の宸翰・御製
- 御製
- たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる
- 和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)の まつの落葉のあらす栄へむ
- 武士と こゝろあはしていはほをも つらぬきてまし世々のおもひて
関連作品
小説
テレビドラマ
- 勝海舟(NHK大河ドラマ、1974年):児玉泰次
- 獅子の時代(NHK大河ドラマ、1980年):片岡秀太郎
- 白虎隊(日本テレビ系、1986年):風間杜夫
- 翔ぶが如く(NHK大河ドラマ、1990年):若松武
- 徳川慶喜(NHK大河ドラマ、1998年):畠中洋
- 新選組!(NHK大河ドラマ、2004年):筒井道隆
- 白虎隊(テレビ朝日系、2007年):東山紀之
- 篤姫(NHK大河ドラマ、2008年):志村東吾
- 龍馬伝(NHK大河ドラマ、2010年):長谷川朝晴
- 白虎隊〜敗れざる者たち(テレビ東京、2013年):伊藤英明
- 八重の桜(NHK大河ドラマ、2013年):綾野剛