「藤原道綱母」の版間の差分
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{{基礎情報 公家 |
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| 氏名 = 藤原道綱母 |
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| 画像 = Hyakuninisshu 053.jpg |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = 藤原道綱母([[百人一首]]より)<!-- 画像の説明文 --> |
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| 時代 = [[平安時代]]中期 |
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| 生誕 = [[承平 (日本)|承平]]6年([[936年]])? |
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| 死没 = [[長徳]]元年[[5月2日_(旧暦)|5月2日]]([[995年]][[6月2日]]) |
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| 別名 = 道綱母、傅大納言母、傅殿母 |
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| 氏族 = [[藤原北家]] |
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| 父母 = 父:[[藤原倫寧]]<br/>母:藤原春道の娘? |
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| 兄弟 = 藤原理能、'''藤原道綱母'''、[[藤原長能]]、[[藤原為雅]]室、[[菅原孝標]]室 |
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| 夫 = [[藤原兼家]] |
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| 子 = [[藤原道綱]] |
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| 特記事項 = 『[[蜻蛉日記]]』作者 |
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}} |
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'''藤原道綱母'''︵ふじわらのみちつな の はは︶は、[[平安時代]]中期の[[歌人]]。﹃[[蜻蛉日記]]﹄の作者。[[藤原倫寧]]の娘。[[藤原道綱]]の母。
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[[ファイル:Fujiwara no Michitsuna no Haha.png|サムネイル|藤原道綱母([[柳々居辰斎]]画)]] |
[[ファイル:Fujiwara no Michitsuna no Haha.png|サムネイル|藤原道綱母([[柳々居辰斎]]画)]] |
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===出生=== |
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[[ファイル:Hyakuninisshu 053.jpg|thumb|藤原道綱母([[百人一首]]より)]] |
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[[藤原倫寧]]の娘として、[[936年]]ごろに誕生したと推定される<ref>{{Citation| author =[[川瀬一馬]]| title =蜻蛉日記︵上︶| publisher =講談社| edition =eBook| date =2019-8-1| pages =193}}</ref>。彼女の母について諸説ある。道綱母集の勘物では源認の娘︵[[藤原長能]]の母︶とされるが、蜻蛉日記中で描かれる彼女の母の死︵[[964年]]︶は﹃長能集﹄から推定される源認女の死亡時期と一致しない。日記から彼女は同母兄弟を持つと推察されること、また﹃[[尊卑分脈]]﹄から倫寧の男子に藤原理能・長能の2人が確認できることから、彼女の母は理能と同じ藤原春道︵[[主殿寮#職員|主殿頭]]︶の娘と推測されている{{sfn|﹃蜻蛉日記の研究﹄|p=299-301}}。
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'''藤原 道綱母'''︵ふじわらの みちつなのはは、[[承平 (日本)|承平]]6年︿[[936年]]﹀? - [[長徳]]元年[[5月2日_(旧暦)|5月2日]]︿[[995年]][[6月2日]]﹀︶は、[[平安時代]]中期の[[歌人]]。[[藤原倫寧]]の娘。[[藤原為雅]]室、[[菅原孝標]]室、藤原理能、[[藤原長能]]は姉妹兄弟にあたる。
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===兼家との結婚生活=== |
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[[天暦]]8年︵[[954年]]︶に[[藤原兼家]]の妻の一人になり、天暦9年︵[[955年]]︶に[[藤原道綱|道綱]]を儲けた。[[安和]]元年︵[[968年]]︶の初めごろに東宮︵後の[[円融天皇]]︶の親代わりであった[[藤原登子]]と交流し<ref>{{Citation| author =川瀬一馬| title =蜻蛉日記︵上︶| publisher =講談社| edition =eBook| date =2019-8-1}}</ref>、安和2年︵[[969年]]︶に[[安和の変]]で[[太宰権帥]]に左遷された[[源高明]]の北の方[[愛宮]]に[[長歌]]を贈った。[[天禄]]元年︵[[970年]]︶1月ごろに兼家は[[東三条殿]]に移り住み、同年4月から道綱母家への来訪が激減する。翌年2月ごろ、故[[藤原実頼]]の[[召人]]であった近江︵[[藤原国章]]の娘、後の[[対御方]]︶が兼家の妻の一人となる<ref>{{Citation| author =川瀬一馬| title =蜻蛉日記︵中︶| publisher =講談社| edition =eBook| date =2019-8-1}}</ref>。[[天禄]]3年︵[[972年]]︶に兼家の旧妻である[[源兼忠]]女の娘を引き取り養女にし、同4年の8月末に中川に転居した。同5年に兼家の異母弟の[[藤原遠度]]が養女に求婚するも結婚には至らなかった<ref>{{Citation| author =川瀬一馬| title =蜻蛉日記︵下︶| publisher =講談社| edition =eBook| date =2019-8-1}}</ref>。天暦8年から天禄5年︵[[974年]]︶までの二十年間の兼家との結婚生活の様子などを﹃[[蜻蛉日記]]﹄につづった。﹃蜻蛉日記﹄は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
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===蜻蛉日記後の生活=== |
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[[貞元 (日本)|貞元]]2年︵[[977年]]︶10月に[[近衛大将|右大将]]兼家は[[関白]][[藤原兼通]]に[[治部省|治部卿]]に左遷され、共に道綱も[[土佐国|土佐権守]]に左遷される<ref>﹃[[日本紀略]]﹄円融院 天元二年十月十一日</ref>。その時に兼家は円融天皇に嘆願の[[長歌]]を贈るが<ref>{{Cite web| url =https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i003.html| title = 拾遺集| publisher =国際日本文化研究センター︵日文研︶| accessdate = 2023-12-2}}</ref>その長歌の詠作に道綱母の助力があった可能性が指摘される{{sfn|﹃蜻蛉日記の研究﹄|p=566}}。同3年︵[[978年]]︶に兼家次女の[[藤原詮子|詮子]]が入内したのち、<ref>日本紀略﹄円融院貞元3年8月17日</ref>兼家は[[右大臣]]に任官し<ref>﹃日本紀略﹄円融院貞元3年10月2日</ref>道綱は元の[[衛門府|左衛門佐]]に戻った。[[天元 (日本)|天元]]3年︵[[980年]]︶に[[女御]]詮子が円融天皇の第一皇子の[[一条天皇|懐仁親王]]を産んだ。道綱母の歌集中にある﹃当代の御五十日の祝﹄に猪の置物を贈ったのはこの時だと考えられている<ref name="あ">﹃[[新編国歌大観]]﹁道綱母集﹂﹄</ref><ref>{{Citation| author =内野信子| title =蜻蛉日記﹁巻末歌集﹂を読む‥日記の外周に道綱母を尋ねて| publisher =鶫書房| date =2021| pages =66-69| isbn =9784909603203}}</ref>。[[寛和]]2年︵[[986年]]︶の[[寛和二年内裏歌合]]に道綱の歌を代作する<ref name="あ"/><ref>﹃新編国歌大観﹁内裏歌合 寛和二年﹂﹄</ref>。同年6月23日に起こった[[寛和の変]]では、[[藤原道兼]]が僧の厳久と共に[[花山天皇]]に従い[[元慶寺|花山寺]]に向かう間に、道綱が[[三種の神器]]を[[凝華舎]]にいる[[東宮]]に渡し、東宮が[[践祚]]︵[[一条天皇]]︶した<ref>﹃[[扶桑略記]]﹄花山院</ref>。6月24日に天皇の外祖父の兼家は[[摂政]]となり<ref>﹃[[公卿補任]]﹄寛和二年</ref>7月5日に母の女御詮子は[[皇太后]]となった<ref>﹃扶桑略記﹄一条院寛和二年七月五日</ref>この時に皇太后の[[宣旨 (役職)|宣旨]]となった詮子の異母姉妹が、道綱母の養女だとする説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=諸井彩子 |date=2014-11 |url=https://doi.org/10.32152/chukobungaku.94.0_62 |title=宣旨女房考 |journal=中古文学 |ISSN=02874636 |publisher=中古文学会 |volume=94 |pages=62-79 |doi=10.32152/chukobungaku.94.0_62 |CRID=1390282763115483392 |accessdate =2023-12-2}}</ref>。
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===晩年=== |
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[[百人一首|小倉百人一首]]では'''右大将道綱母'''とされている。 |
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[[正暦]]︵[[993年]]︶4年2月末に病悩した後<ref>[[藤原実資]]﹃[[小右記]]﹄正暦四年二月二十八日</ref>同年5月5日に[[三条天皇|東宮]]の[[帯刀]]陣歌合に右方として出詠した<ref name="あ"/><ref>﹃新編国歌大観﹁帯刀陣歌合 正暦四年﹂﹄</ref>。[[長徳]]元年︵[[995年]]︶ごろに死去したか{{sfn|﹃蜻蛉日記の研究﹄|p=535}}。長徳2年︵[[996年]]︶5月2日に道綱母の[[周忌]]法事が行われた<ref>﹃小右記﹄長徳二年五月二日</ref>{{要出典|晩年は摂政になった夫に省みられることも少なく、寂しい生活を送ったと言われているが詳細は不明。|date=2023年12月}}。
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== 人物 == |
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[[百人一首|小倉百人一首]]では'''右大将道綱母'''とされている。他の名称として、[[歌仙歌合|前十五番歌合]]に「傅殿母上」・金玉集に「傅の殿の母」・深窓秘抄に「傅母氏」(以上三歌集は[[藤原公任]]の私撰集)、玄々集([[能因]]の私撰集)に「傅大納言母」、[[三巻本 (枕草子)]]に「小原の殿の御母上」・[[能因本|能因本(枕草子)]]に「小野殿の母上」などがある{{sfn|『蜻蛉日記の研究』|p=554}}。 |
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== 和歌 == |
== 和歌 == |
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『[[拾遺和歌集]]』以下の勅撰集に36首が採られ、弟・[[藤原長能]]や孫・[[道命阿闍梨]]と共に[[中古三十六歌仙]]に選ばれている。私家集は蜻蛉日記巻末歌集・傅大納言殿母上集・道綱母集の3系統が現存し、いずれも同一本から派生したと推定される |
﹃[[拾遺和歌集]]﹄以下の勅撰集に36首が採られ、弟・[[藤原長能]]や孫・[[道命阿闍梨]]と共に[[中古三十六歌仙]]に選ばれている。大鏡の太政大臣兼家の条では﹁きはめたる和歌の上手﹂とも評された<ref>﹃[[日本古典文学全集]]﹁大鏡﹂﹄百四十一段</ref>。私家集は蜻蛉日記巻末歌集・傅大納言殿母上集・道綱母集の3系統が現存し、いずれも同一本から派生したと推定される<ref>﹃新編国歌大観﹁道綱母集 解題﹂﹄</ref>。
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{{quotation|なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる|『[[拾遺和歌集]]』恋四・912、 [[百人一首|小倉百人一首]]・53番 }} |
{{quotation|なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる|『[[拾遺和歌集]]』恋四・912、 [[百人一首|小倉百人一首]]・53番 }} |
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また、[[清少納言]]らと共に[[女房三十六歌仙]]の1人にも選ばれている。道綱母の兄・ |
また、[[清少納言]]らと共に[[女房三十六歌仙]]の1人にも選ばれている。道綱母の兄・藤原理能は[[清原元輔]]の娘、すなわち清少納言の姉を妻に迎えており、そのこととの関連性は不明ながら﹃[[枕草子]]﹄では道綱母が詠んだ以下の歌が紹介されている<ref>[[日本古典文学大系]]第308段。</ref>。
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{{quotation|たきぎこる ことは昨日に尽きにしを いざ斧の柄は ここに朽たさむ|『拾遺和歌集』哀傷・1339}} |
{{quotation|たきぎこる ことは昨日に尽きにしを いざ斧の柄は ここに朽たさむ|『拾遺和歌集』哀傷・1339}} |
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『 |
『今昔秀歌百撰』では30番に[[蜻蛉日記]]から |
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{{quotation|あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまつそる鷹ぞ悲しかりける|選者:速水博司(元目白大学短期大学部教授)}} |
{{quotation|あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまつそる鷹ぞ悲しかりける|選者:速水博司(元目白大学短期大学部教授)}} |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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<!--[[Wikipedia:関連作品]]より﹁記事の対象が、大きな役割を担っている︵主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役等︶わけではない作品﹂や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
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; 小説 |
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* 『[[かげろうの日記遺文]]』([[室生犀星]]) - 人物名は'''紫苑'''と設定されている。1963年にTBS(演:[[池内淳子]])で、1965年にNHK(演:[[岸田今日子]])でテレビドラマ化。 |
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; テレビドラマ |
; テレビドラマ |
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* 『[[光る君へ]]』(2024年、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[財前直見]]) - 役名は'''藤原 寧子'''(ふじわら の やすこ)となっている<ref>{{Cite news|url=https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=39326|title=【出演者発表 第5弾】紫式部や藤原道長を取り巻く個性豊かな人々|publisher=NHK|date=2023-07-25|accessdate=2023-07-26}}</ref> |
* ﹃[[光る君へ]]﹄︵2024年、NHK[[大河ドラマ]]、演‥[[財前直見]]︶ - 役名は'''藤原 寧子'''︵ふじわら の やすこ︶となっている<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20230831032344/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=39326|title=︻出演者発表 第5弾︼紫式部や藤原道長を取り巻く個性豊かな人々|publisher=NHK|date=2023-07-25|accessdate=2023-07-26}}</ref>。
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; 教養バラエティー番組 |
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* 『[[まんがで読む古典]]』シリーズ中「蜻蛉日記」に「本人」(番組中では「かげろうさん」と呼ばれる)が登場。[[清水ミチコ]] とともに番組を進行、演じたのは[[萩尾みどり]]。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[桶谷秀昭]] 『[[今昔秀歌百撰]]』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN 978-49905312-25 |
* [[桶谷秀昭]] 『[[今昔秀歌百撰]]』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN 978-49905312-25 |
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* {{cite book|和書|author=[[上村悦子]] |title=蜻蛉日記の研究 |publisher=明治書院 |year=1972 |id={{全国書誌番号|75021191}} |doi=10.11501/12453975 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12453975 |ref={{harvid|『蜻蛉日記の研究』}}}} |
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*上村悦子『蜻蛉日記 全訳注』講談社学術文庫、1978年。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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|1=小倉百人一首の歌人 |
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{{DEFAULTSORT:ふしわら の みちつな の はは}} |
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[[Category:藤原道綱母|*]] |
[[Category:藤原道綱母|*]] |
2024年6月9日 (日) 16:49時点における最新版
藤原道綱母 | |
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藤原道綱母(百人一首より) | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 承平6年(936年)? |
死没 | 長徳元年5月2日(995年6月2日) |
別名 | 道綱母、傅大納言母、傅殿母 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 |
父:藤原倫寧 母:藤原春道の娘? |
兄弟 | 藤原理能、藤原道綱母、藤原長能、藤原為雅室、菅原孝標室 |
夫 | 藤原兼家 |
子 | 藤原道綱 |
特記 事項 | 『蜻蛉日記』作者 |