「鈴木眞年」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
→著作をめぐる評価と論争: 内容追加。 現在、横大路家には須佐之男命から始り、途中宗像大領秋足の名前がある系図があるが、個人のブログに掲載された系図の画像によるものなので、掲載していい情報か判断できないのでのせなかった。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
内容追加 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
52行目: | 52行目: | ||
[[天智天皇]]裔系図 |
[[天智天皇]]裔系図 |
||
[[佐伯有清]]その著作﹃[[聖宝]]﹄において[[聖宝]]の俗系の[[系図]]を記載するがその出典について﹁この[[系図]]は[[宝賀寿男]]編著﹃古代氏族系譜集成﹄上巻所載の﹁[[天智天皇]]裔氏族﹂[[系図]]を参照し、さらに﹃[[三代実録]]﹄[[仁和]]元年二月十五日辛丑条の記事にみえる富貞王の男七名を加えて作成したものである。﹂と記載している。﹃古代氏族系譜集成﹄該当箇所の出典は﹃百家系図稿﹄巻十﹁[[天智天皇]]御流﹂である。
|
[[佐伯有清]]その著作﹃[[聖宝]]﹄において[[聖宝]]の俗系の[[系図]]を記載するがその出典について﹁この[[系図]]は[[宝賀寿男]]編著﹃古代氏族系譜集成﹄上巻所載の﹁[[天智天皇]]裔氏族﹂[[系図]]を参照し、さらに﹃[[三代実録]]﹄[[仁和]]元年二月十五日辛丑条の記事にみえる富貞王の男七名を加えて作成したものである。﹂と記載している。﹃古代氏族系譜集成﹄該当箇所の出典は﹃百家系図稿﹄巻十﹁[[天智天皇]]御流﹂である。
|
||
長門厚東氏系図 |
|||
鈴木真年編集の『諸氏家牒』(史料編纂所蔵)掲載の「厚東氏系図」は、特徴として、[[物部目]]の子孫として[[巨勢田朝]]と[[物部守屋]]兄弟を掲載し、それとは別に物部麻佐から武忠に至る系図を掲載する点である。同系図な出典として奥書に「以長州厚東郡棚井村東隆寺蔵本・同郡川棚村妙青寺蔵本・及秋吉氏本対校了」とある。これと類似する系図があり、『宇部市史』に、掲載する厚東氏系図(毛利家文庫本)に、「棚井村東隆寺有之異本・川棚村妙青寺有之写本文・川棚村東隆寺有正文。但略本トニ通有之、正文ハ妙青寺ト同シ、依テ二本為本文。」と出典を記し、共に東隆寺本系図と妙青寺本系図を基にした系図とわかるが、毛利家文庫本系図の違いは、物部麻佐から武忠に至る系図の不記載と秋吉氏の系図部分である。また、[[物部目]]の子孫の[[巨勢田朝]]と[[物部守屋]]兄弟部分に、「大系図物部条下曰」とあり、同部分の出典が[[尊卑分脈]]掲載の物部系図とわかる。 |
|||
[[柿本朝臣]]益田系図 |
[[柿本朝臣]]益田系図 |
2022年3月21日 (月) 03:20時点における版
鈴木 真年︵鈴木 眞年、すずき まとし、天保2年︵1831年︶- 明治27年︵1894年︶4月15日︶は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。
初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省・司法省・文部省・陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。
大宅系図 有光友學はその著作﹃戦国史料の世界﹄﹁第四部 系図の世界・大宅氏由比系図﹂で﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の大宅系図と類似する個人蔵の系図を翻刻している。﹃古代氏族系譜集成﹄の該当箇所の出典は鈴木真年著作﹃諸国百家系図﹄である。 久自国造系図 太田亮はその著作﹃姓氏家系大辞典﹄児玉の欄で、中条政恒の論考を引用して、医道系図により児玉党を久自国造の子孫とする説は﹁甚だ傾聴すべき説なるも、唯・医道系図、有道氏の系なるものが、はたして信をおくに足べきか。﹂とし、久自国造の子孫が有道氏であることは証拠もなく想像することも困難と評価している。 ﹃本庄市史﹄通史編 一︵﹁第九章児玉党、児玉党の系譜と系図﹂︶では、児玉党の出自について、藤原伊周子孫説・藤原顕長子孫説・物部氏子孫説︵久自国造流有道氏︶の三説を検討した上で、医道系図の説が無理なく説得力が有るとするが有道維広・維能父子の実在が確認されていない現状では、﹁一応、合理的な系図であるということに留めておく方が無難である。﹂と評価している。 医道系図と類似の系図は、中田憲信編集﹃各家系譜﹄に収録されている。
田口朝臣系図 野口実はその論考﹁十二世紀末における阿波国の武士団の存在形態-いわゆる﹁田口成良﹂の実像を中心に-﹂︵京都女子大学宗教・文化研究所﹃研究紀要﹄第27号︶で、いわゆる田口成良の本姓を田口朝臣とするのを誤りとして本姓を粟田朝臣と考証した上で二次的な史料として粟田氏の動向を考える史料として﹃古代氏族系譜集成﹄を引用するが本系図は田口息継の子孫とする認識で作成されたものとして﹁成良の世代の周辺に関する記事は、諸史料と整合するところが多く、活用するに足ると思われる﹂と評価する。﹃古代氏族系譜集成﹄の該当箇所の出典は、鈴木真年著作の﹃百家系図﹄である。 佐伯有清は、その著作﹃新撰姓氏録の研究﹄﹁考証編第六﹂で、﹃古葉略類聚鈔﹄掲載の姓氏禄の逸文に﹁武内大臣後也推古世在大和国高市郡田口村仍号田口豊島伊多流男光豊島男正五位上益人﹂があることを引用して、田口益人の父が田口豊島であること明らかにしたが、これは、﹃百家系図﹄が田口益人の父を田口筑紫とするのと相違する。 穂積の鈴木系図 御巫清直はその論考﹃鈴木系図剥偽・穂積氏系譜弁断・穂積氏古系譜写﹄で、穂積姓鈴木氏の先祖を一般の系図に流布する﹁千翁命﹂を先祖とする説を誤りとして、栗原信充所蔵の系図により、饒速日命の子孫の穂積真津であると考証した。栗原信充は鈴木真年の系図学の師である。本論考は、百年以上昔の論考であり現在の学問水準では問題があるが当時の研究水準を考える上で参考になる。 惟宗朝臣系図 利光三津夫、松田和晃の両氏は、その論考﹁古代における中級官人層の一系図について東京大学史料編纂所蔵﹁惟宗系図﹂の研究・︵上・下︶﹂︵﹃法学研究﹄第五六巻第一、二号掲載︶惟宗系図の史料評価として﹁挙げられた人物は大部分が他史料によって実在を証し得、またその殆どが生存年代について系図上の位置と矛盾がない﹂また﹁﹃惟宗系図﹄所掲の当該法家惟宗流の系譜については、多少の錯乱も見られるが、偽作の疑いを抱かしめるものは殆ど見出しえない﹂と評価した。伊能秀明その論考﹃明法博士惟宗直本の明法勘文に関する一考察﹄︵明治大学大学院紀要第ニ十ニ集︶で、同論文の評価として、﹁この論文は東京大学史料編纂所蔵﹃惟宗系図﹄に考証を加え、その史料価値を論ずることを目的とした労作である。同系図には総計二四四名におよぶ惟宗氏一族の人名が記されている。利光、松田両氏は六国史ほかの諸書、公卿の日乗および各種文書を渉猟し、さらに出土木簡をも考拠史料に用いて系図の真実性にあたう限りの検討を加えられた。﹂としてその労作を評価している。 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で、同系図が筆跡から鈴木真年の写本であることを指摘した。後に宝賀寿男もこれを追認している。
伊豆国造系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、三島神社神主東太夫矢田部家伝来の﹃伊豆国造伊豆宿禰系譜﹄︵史料編纂所蔵︶と同系別本の系図として﹃百家系図稿﹄﹁伊豆宿禰系図﹂を掲載する。その伝来経緯は﹁この系図はその支族肥田氏に伝わったものか。﹂として伊豆国造の一族肥田氏の伝来の系図と推察する。 また篠川賢はその論考﹃伊豆国造再論﹄︵日本常民文化紀要︶で伊豆国造伊豆直の姓を復姓とみなして﹁益人から宅主まで代々国造の任にあったとする系図の記載を、そのまま事実とみることはできない﹂と評価している。 庵原国造系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、庵原国造の系図として﹃百家系図稿﹄﹁庵原公系図﹂を出典として掲載する。 伊豆伴氏系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、伊豆伴氏の系図として﹃百家系図稿﹄石井系図﹃百家系図稿﹄住友系図︵伊豆肥田氏本︶を出典として掲載する。 富士大宮司和邇部氏系図 富士大宮司系図は﹃浅間文書纂﹄に掲載された﹃富士大宮司系図﹄があり、同系図は﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に富士大宮司系図として転載されている。この系図とは別に伝来した富士大宮司系図があり、太田亮はその著作﹃姓氏系図大辞典﹄の和邇の欄で﹁駿河浅間神社の大宮司家は和邇部姓にして系図を伝ふ。真偽詳かならざれど、参考の為に引用せん。﹂﹁上古の分は偽作なり﹂と掲載する。両系図の違いは、前者系図は古代部分がほぼ直系に対して後者系図は古代部分の記事が豊富かつ詳細であり和邇部豊麿以前の歴代の名前も異なる。 田中卓はその論考﹁不破の関をめぐる古代氏族の動向﹂で本系図を高く評価したが﹁先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽して探して下されたが、遂に見当らなかつた。更に不幸にも太田博士今は亡く、確かめやうもないので、ここには﹃姓氏家系大辞典﹄を基にして私に復原を試みることとした。﹂史料の不備がありながらも論考にした。 佐伯有清はその論考﹁山上憶良と栗田氏の同族﹂︵﹃日本古代氏族の研究﹄︶で尾池誠の著作から中田憲信の著作﹃各家系譜﹄が元系図に近いと突き止めて史料価値の高い系図と評価した。 比護隆界は論考﹁氏族系譜の形成とその信憑性一駿河浅間神社旧蔵﹃和邇氏系図﹄について一﹂︵日本古代史論輯︶で佐伯有清の論考を批判して系図の作成時期を﹁承和四年以降、しかも﹃先代旧事本紀﹄が成立した以降のことであろうということができる。 このことは更に時代が下った比較的に近代に近い時造作をも否定するものではない。﹂近代の作成の余地もあると指摘した。 佐藤雅明氏はその論考﹁古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-﹂︵﹃地方史静岡﹄第24号︶で両系図とも和邇部豊麿以前の系譜は中央豪族の和邇氏の系譜であり駿河和邇部氏の系譜に繫げるのは疑わしいと評価している。 越中石黒系図 佐伯有清はその著作﹃古代氏族の系図﹄︵﹁利波臣氏の系図﹂︶で、越中石黒系図の中に利波評督の記載が有ることや、他にも貴重な記載が多い事とを指摘し同時に継体天皇の時代に利波評が存在することや﹃続日本紀﹄にみえる砺波志留志の名前が不記載などの疑問点も有ることをなどを発表し、石黒系図の存在が広く知られるようになった。 磯貝正義はその著作﹃郡司及び釆女制度の研究﹄︵﹁越中石黒系図﹂を中心として︶で、、﹃越中国官倉穀交替記﹄と石黒系図の記載内容の類似性から史料価値を高く評価した。 米田雄介はその著作﹃古代国家と地方豪族﹄で、磯貝と同じく﹃越中国官倉穀交替記﹄と石黒系図の記載内容の類似性から史料価値を高く評価した。 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で、同系図が筆跡から鈴木真年の写本であることを初めて指摘した。 須原祥二はその論考﹁越中石黒系図﹂と越中国官倉穀交替記─交替記諸写本の検討を通して─﹂ ︵﹃日本歴史﹄六〇一号︶で﹃越中国官倉穀交替記﹄東大総合図書館蔵本︵小中村本︶との記載の類似性を指摘して同系本を用いた鈴木真年による偽作の可能性を指摘した。 宝賀寿男はその著作﹃越と出雲の夜明け﹄︵﹁越中石黒氏の研究﹂︶で須原祥二の偽作説に反論をした。 下鶴隆はその論考﹁利波臣志留志-中央と地方の狭間﹂︵﹃古代の人物3 平城京の落日﹄︶で砺波志留志を石黒系図にみえる諸石を誌石︵しるいし︶の誤記として、同一人物の可能性を指摘した。 大川原竜一はその論考﹁﹃越中石黒系図﹄と利波臣氏﹂︵﹃日本古代の王権と地方﹄︶で鈴木真年が﹃越中国官倉穀交替記﹄の写本作成をおこなっていたことを明らかにして、石黒系図を交替記を基にした鈴木真年の偽作系図と断定した。
熊倉系図 佐伯有清はその著作﹃智証大師伝の研究﹄﹁円仁の家系図﹂ で﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の熊倉系図を引用して、円仁の俗姓系図として一部疑問点もあるが史料価値を高く評価した。 平澤加奈子はその論考﹃いわゆる﹁円仁の系図﹂について──﹁熊倉系図﹂の基礎的考察──﹄︵東京大学史料編纂所研究紀要第二十四︶で﹃百家系図稿﹄と﹃諸系譜﹄掲載の熊倉系図を諸史料と比較した上で奈良君から仲道までの部分の史料価値を疑問としたが、﹁﹁熊倉系図﹂は現存の状況から鈴木真年らによる偽作とは考えられ ず原系図の存在が推定される。﹂と評価した。 車持氏系図 佐伯有清はその論考﹃負名氏族の系図﹄(﹃姓氏と家紋﹄掲載︶で、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の車持氏系図︵出典は﹃百家系図﹄の小池系図︶の内容を検討して、阿萬乃君が﹁磐余栗宮磯城金刺宮為主殿部供奉﹂阿萬乃君の子、国子君が﹁小治田朝岡本朝主殿寮供奉﹂とあることを指摘し、主殿寮負名氏族の車持氏の系図として内容に問題が無いと評価し、国子君が﹃尊卑分脈﹄藤原氏系図に藤原不比等の母として﹁母車持国子君之女与志古娘﹂とみえる人物と同一人物であることも指摘する。 波多門部氏系図 佐伯有清はその論考﹃負名氏族の系図﹄(﹃姓氏と家紋﹄掲載︶で、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の波多門部氏系図︵出典は中田憲信編集の﹃諸系譜﹄︶の内容を検討して、﹁顕宗天皇御宇為門部、供奉故負波多門部造姓﹂記載から、顕宗天皇の時代に波多門部氏が発生したことと波多門部が負名氏族かを検討し、また、波多門部の波多を通説である大和高市郡波多郷由来説に対して、﹁淡路帝時補三原郡司少領為舎人供奉﹂記載を引用して、波多を淡路三原郡幡多︵波多︶郷に由来する可能性を指摘する。 春日山系図 中村友一はその著作﹃日本古代の氏姓制﹄で、山君という特殊な姓を考察し、春日山君を春日の山君とする複式氏名か、春日山の君とする単称の氏名かを検討し上毛野鍬山公と同様に山の名に由来する単称である可能性が高いとして、合わせて春日山君氏系図を検討し﹁春日山氏系図は宝賀寿男編著﹁古代氏族系譜集成﹂(古代氏族研究会、一九六一年)に所収されていたもので、原形を知りえない。﹁古事記﹂の出自記事と同じくするが、後世の付会の可能性も残る。このような理由で、垂仁天皇に出自し、山守部君氏を経て春日山君に至る大筋の成立はそれほど遡れないにしても、具体的注記の見られるようになる春日山君黒万呂以降の内容にはある程度信をおけると思われる。﹂と評価する。
出羽清原氏、吉弥侯部氏系図 野中哲照はその論考﹃出羽山北清原氏の系譜﹄で﹃諸系譜﹄掲載の吉弥侯部氏系図を考察して﹁中世以降の系図改竄者・捏造者が信憑性の演出のために時代考証をおこなって注入したなどとは考えられないものである。﹂と評価している。 また、出羽清原氏の先祖を清原令望とする﹃諸系譜﹄掲載の清原系図も同じく史料価値が高いと評価し系図の伝来として断絶した清原氏吉弥侯部氏の供養のために同時期に作成したと推察している。 これに対して樋口知志はその論考﹃安倍・清原氏の祖先系譜﹄て野中説は従い難いと評価し、佐々木紀一もその論考﹃出羽清原氏と海道平氏︵上︶﹄野中説は従い難いと評価する。 甲斐古屋系図 古屋系図は甲斐一宮浅間神社古屋家の系図であり﹃甲斐国一之宮 浅間神社誌﹄に︵﹁世系略譜・古屋家家譜・降屋家系譜﹂の三編)が掲載されて世に広く知られるようになった。 佐伯有清その著作﹃新撰姓氏録の研究 考証篇第三﹄で、上記﹃古屋家家譜﹄の一部引用して姓氏録の考証に用いた。 田中卓は﹁新史料﹁評﹂を含む﹃古屋家家譜﹄の出現﹂で山梨評の記載がある信頼性の高い系図として評価した。 溝口睦子はその著作﹃古代氏族の系譜﹄で古屋家譜を全体的に検討して ﹁連姓から直姓というのは当時のカバネで見れば明らかに貶姓であって、これが理由もなく実際になされたとは先ず信じがたい。しかも大伴山前連から大伴直という姓氏の変更の動きも変である。﹂として近畿大伴氏の系譜に地方の大伴直の系譜に繫げたと評価した。 古屋家譜と類似の系図は中田憲信編纂の﹃諸系譜﹄に簡略的に掲載されている。また、中田憲信編纂の﹃各家系譜﹄にも人名が大幅に増えた系図が掲載されている。 尾張田島氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で宮内庁書陵部所蔵﹃尾治宿祢田島家系譜﹄に、年魚市︵あゆち︶評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 藤本元啓はその著作﹃中世熱田社の構造と展開﹄︵第二章 田島丹波系図︶で﹃尾治宿祢田島家系譜﹄﹃田島家譜﹄﹃田島丹波系図﹄﹃祝師田島家系図﹄などの系図を基に尾治宿祢一族の中世の系譜と動向を検討したが、その中で中世に作成された﹃田島丹波系図﹄に﹁如縁起者稲種公者火明命十二代之孫尾張氏祖也﹂﹁在朱鳥以後二十五代次第﹂の記事を挙げ同系図の特徴として古代部分の省略をあげる。 これは、間接的であるが尾張宿禰一族には、中世に古代世代が省略されていない系図が存在した可能性がある。それが﹃尾治宿祢田島家系譜﹄と同じかは不明である。 また、上記系図類は名称が類似するが、書陵部所蔵系図とは、別系図であり古代部分の相違や古代部分が省略されている。ので混同しないように注意が必要である。 なお﹃神道大系﹄﹁熱田﹂掲載の系図は、名古屋市鶴舞中央図書館写本を底本としており、書陵部本系図とは若干の異同がある。また﹃愛知県史資料編七・古代ニ﹄︵系譜・系図︶は、﹃神道大系﹄掲載系図の転載である。 ﹃尾治宿祢田島家系譜﹄と類似の系図は、中田憲信編集の﹃諸系譜﹄に掲載されている。 諏訪氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で阿蘇大宮司家に伝わる新出の系図を紹介して、異本阿蘇系図とし諏訪評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 これにより、異本阿蘇系図と類似の﹁諏訪評督﹂などの内容をもつ﹃修補諏訪氏系図 正編﹄などの系図が注目されるようになる。 関晃はその論考﹁科野国造の氏姓と氏族的展開﹂︵黒坂周平編﹃信濃の歴史と文化の研究﹄︶で、異本阿蘇系図について、信濃国造の姓氏とその本拠地の勢力範囲などの諸問題とも包括的に取り上げて、一定の史料価値は評価した。 伊藤麟太郎はその論考﹁所謂阿蘇氏系図について﹂︵﹃信濃﹄︶で、初めて偽作説を唱えて、具代的には、飯田武郷が偽系図を作成し中田憲信が阿蘇家と知久家︵諏訪一族︶へ送り付けたと主張した。 村崎真智子はその論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂︵国分直一博士米寿記念論文集﹃ヒト・モノ・コトバの人類学﹄︶で異本阿蘇系図を検討して、阿蘇大宮司家が江戸後期に作成した阿蘇家伝七巻本には異本系の神名人名がなく阿蘇家には元々異本系図は存在しなかったことを指摘し、異本系図は中田憲信が作成し阿蘇家に送り、阿蘇家ではそれを利用して明治初期に阿蘇家伝第八巻を作り、異本系図系を自家の系図として採用したと発表した。 井原今朝男はその論考﹁神社史料の諸問題・諏訪神社関係史料を中心に﹂︵国立歴史民俗博物館研究報告・ 第 148 集 ︶で、それまでの経緯をまとめて、異本阿蘇系図が﹃諏訪史料叢書﹄掲載の﹁諏訪家譜﹂︵中田憲信編集︶と類似することと、﹃修補諏訪氏系図 正編﹄が﹁諏訪家譜﹂︵中田憲信編集︶基に作成されたことを指摘し、これらの系図が中田憲信の偽作であり、神社関係者が時代ごとに縁起を制作していた歴史を述べ﹁こうした系図は偽撰というよりもまさに国学者の研究による編纂物としてみるべきなのかも知れない。﹂と評価している。 現在では大化の改新が評制の始りとされて、それ以前に諏訪評督なる役職があった可能性は低く偽系図とすのが通説である。 井伊氏系図 小和田哲男はその著作﹃争乱の地域史・西遠江を中心に﹄︵第4巻︶で、井伊氏の先祖を藤原良門とする既存の井伊氏系図に疑問を提起し新井白石が井伊氏の出自を藤原南家としたことを指摘し﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の三国真人流井伊系図と藤原南家流井伊氏系図の二つを検討して南家流系図が本来の系図である可能性を指摘した。 三上神主系図 三上神主系図は、﹃続群書類従﹄掲載﹁三上系図﹂︵源義綱子孫流︶が広く知られているが、これとは別系譜が﹃諸系譜﹄に掲載されており、その出自を天津彦根命の子孫の三上祝とする系図である。 ﹃野洲町史﹄に﹁三上系図には盛員が坑飯を進上し頼朝が喜悦した﹂とあり﹃諸系譜﹄掲載系図には同じ記述があるが、﹃続群書類従﹄掲載﹁三上系図﹂には、この記述は無い。 また、宇野宗佑︵政治家︶はその著作﹃庄屋平兵衛獄門記﹄︵郷土史︶で、三上神主系図を閲覧し、三上家は天津彦根命子の天之御影神の子孫であると記している。以上の内容から、三上神主家所蔵の系図と﹃諸系譜﹄が同じ系図と考えられる。 阿蘇氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で阿蘇大宮司家に伝わる新出の系図を異本阿蘇系図と紹介し、阿蘇評督と諏訪評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 村崎真智子はその論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂︵国分直一博士米寿記念論文集﹃ヒト・モノ・コトバの人類学﹄︶で異本阿蘇系図を検討して、阿蘇大宮司家が江戸後期に作成した阿蘇家伝七巻本には異本系の神名人名がなく阿蘇家には元々異本系図は存在しなかったことを指摘し、異本系図は中田憲信が作成し阿蘇家に送り、阿蘇家ではそれを利用して明治初期に阿蘇家伝第八巻を作り、異本系図系を自家の系図として採用したと発表した。 宝賀寿男は自身のホームページで論考﹃村崎真智子氏論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂等を読む﹄を発表し、異本阿蘇系図が中田憲信により阿蘇大宮司家に持ち込まれたことを認めた上で、異本阿蘇系図が坂梨本、蔵原本、甲佐本、宮西本などの複数の系図を基に作成したことを指摘して、現在所在不明の甲佐本、宮西本が異本阿蘇系図の原系図の可能性があるとし、諏訪評督の記載がある諏訪氏部分は信濃知久氏系図を基に書き込まれた可能性を指摘し反論した。
武蔵国造系図 武蔵国造系図は西角井家の系図であり、﹃埼玉叢書﹄第3巻﹁西角井從五位物部忠正家系﹂に掲載されている。その特徴として、武蔵国造氏姓を通説である丈部直でなく大部直とする点がある。 太田亮はその著作﹃日本国誌資料叢書 武蔵﹄で﹁武蔵国造家の系図は氷川神社の旧禰宜西角井家にある。それは全部うそでもないが、全部事実とも言へぬ。種々の伝説を取纏めて編輯したのであらう﹂と評価している。 新野直吉はその論考﹁无邪志︵武蔵︶国造の氏姓﹂︵続日本紀研究207号︶で、西角井家系図と続日本紀の写本の検討から、武蔵国造の氏姓を通説である丈部でなく、大部であるとして、丈部不破麿は、大部不破麿とするべきと主張した。 佐伯有清はその著作﹃日本古代氏族の研究﹄で、西角井家系図の記載が正しい場合、丈部不破麿は大部不破麿となる可能性を指摘した。 森田悌はその著作﹃日本古代の耕地と農民﹄で、新野、佐伯両説を引用しその問題点を指摘し検討した。 西角井家系図と一部類似の系図は﹃諸系譜﹄︵東国諸国国造︶に掲載されている。 布留宿禰の系図 ﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の布留宿禰系図は、鈴木真年編集の﹃百家系図﹄﹃諸国百家系図﹄の二系図を基にした系図であり、両系図には、人名や親子関係の異同かなりある。星野恒の論考﹁七枝刀考﹂によると石上神宮から﹁七支刀﹂の模写図が鈴木真年に贈られたとあり。当時、鈴木真年と石上神宮には何らかの関係があったようだ。︵上記、論考を引用した、一部書籍は、鈴木真年を石上神宮宮司とするが経歴上明らかな誤り。︶また、石上神宮には、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の布留宿禰系図と同一かは不明だが、﹃神主布留宿禰系譜﹄があり、佐伯有清はその著作﹃日本古代氏族の研究﹄で﹃大和史料﹄に引用されている﹃石上振神宮略抄﹄所載の﹃神主布留宿禰系譜﹄に﹁三十六代皇極天皇御世二、大臣蘇我蝦夷宿禰︿俗云武蔵大臣﹀母太媛ト申ス、物部弓削大連妹也。弓削大連滅亡之後二太媛祭首二補ス。蝦夷大臣ノ次男敏傍宿禰ヲ物部大臣ト号シ、祖母、時依テ威ヲ世ニ取リシヨリ、物部族、神主家等モ蘇我々家ノ僕トナル。﹂記述を検討して﹁神主布留宿禰系譜﹂の所伝は、﹃日本書紀﹄﹃新撰姓氏録﹄﹃紀氏家牒﹄の三者を合体させた文書と結論づける。なお関連するので﹃紀氏家牒﹄の史料評価として、田中卓はその論考﹃紀氏家牒について﹄で、新撰姓氏録の布留宿禰条の﹁斉明天皇御世宗我蝦夷大臣号武蔵臣物部首并神主首﹂を文意の難解な文章として、これを解読する一案として﹃紀氏家牒﹄の﹁紀氏家牒曰、馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰豊浦大臣。亦家多貯兵器、俗云武蔵大臣。母物部守屋大連 亦曰弓削大連。之妹、名云太媛也。守屋大連家亡之後、太媛為石上神宮斎神之頭。於是、蝦夷大臣以物部族神主家等為僕、謂物部首。亦云神主首。﹂文章から、﹁号武蔵臣﹂四字を﹁宗我蝦夷大臣﹂の割注とみなせる可能性を指摘し、その作成時期を﹁奈良時代末より平安時代初期﹂としているが、前田晴人はその論考﹃物部氏関係伝承の再検討﹄︵﹃纒向学研究﹄第5号掲載︶で、上記、﹃紀氏家牒﹄の文章を新撰姓氏録の布留宿禰条の﹁四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世、宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首、因茲失臣姓為物部首。男正五位上日向、天武天皇御世、依社地名改布瑠宿禰姓、日向三世孫邑智等也。﹂﹁四世孫額田臣・武蔵臣は、斉明天皇の御世に、宗我蝦夷大臣、武蔵臣を物部首幷びに神主首と号け、玆に因りて臣姓を失い物部首と為る。男正五位上日向は、天武天皇の御世に、社地名に依りて布瑠宿祢姓に改む。日向の三世孫邑智等なり。﹂の誤読として成立時期も︵新撰姓氏録が作成された︶平安時代初頭以後としている。なお、﹃神道大系﹄﹁神社編十ニ・大神・石上﹂では、﹃石上布留神宮略抄上・下 ﹄を享保五年︵1720︶ 今出川一友の著作としており、引用されている﹃神主布留宿禰系譜﹄がこれ以前の作成とわかる。なお、向村九音はその著作﹃創られた由緒﹄で今出河一友が、石上神宮をはじめとする大和の諸神社の縁起を作成したと述べて、今出河一友の縁起は﹁創られた由緒﹂であると評価している。
松野連系図 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で﹃諸系譜﹄掲載の松野連系図に、倭の五王とその子孫が欽明天皇の時代に降伏したなどの内容が有ること評価した。その内容から主に九州王朝説論者が評価している。 阿波忌部系図 小杉榲邨は﹃安房国忌部家系﹄︵国立国会図書館蔵︶で、斎部宿禰本系帳の来歴を記し、知り合いである鈴木真年が栗原信充と同じ偽作系図の作成者と批判している。
人物・生涯
年譜
●1831年︵天保2年︶、江戸神田鎌倉河岸[1]に煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門︵今井惟岳︶の嫡子として生まれる。 ●1847年︵弘化4年︶17歳、病弱の故に紀州熊野本宮に入り静養する。翌年には竹亭と号す。この頃、﹁古代来朝人考﹂[2]・﹁御三卿系譜﹂の草稿を書き上げる。 ●1849年︵嘉永2年︶19歳、静養を終えて江戸に戻り旗本家臣の娘と結婚するが旬日[3]で離婚となる。父の許しを受け、家督を次弟の廣吉に譲り上野国奥山[4]にて薙髪し出家する。号・不存。 ●1858年︵安政5年︶28歳、父甚右衛門死去につき、仏門修行を止めて還俗し源牟知良と改名、新田愛氏と号す[5]。しかしまた御嶽教に入門する。 ●1860年︵万延元年︶30歳、上総国久留里藩の藩医安西一方の娘信子と結婚。この年、御嶽教の権大教正中教教監に任命される。 ●1861年︵文久元年︶31歳、栗原信充に師事して系譜学を学ぶ。 ●1865年︵慶応元年︶35歳、紀州和歌山藩に招かれ藩士となり、同藩の系譜編集事業を任される。住居を熊野本宮に定めたために、紀州熊野大社の関係事業にも関与した。これより、明治維新までの4年間に織田家系草稿を初め、諸系譜草稿・諸家譜草稿を相次いで書き上げる。 ●1869年︵明治2年︶39歳、この年7月に新政府の弾正台が設置されたため、紀州和歌山藩を辞してこれに奉職︵月俸50圓、弾正大疏︶。 ●1871年︵明治4年︶41歳、11月8日宮内省に異動し内舎人になる。俳号・松柏を称す。 以後、1891年︵明治24年︶61歳で東京帝国大学を退官するまで約20年間を政府官吏を勤務しながら、幾多の諸系譜の編纂事業と東京帝国大学・交詢社等の教鞭を取った。退官後は国学校の設立を計画し、その設立運動を展開した。また、熊野大社の復興にも尽力した。 ●1894年︵明治27年︶64歳、4月15日大阪市南区東清水町[6]397番地の住居で胃弱のため死去。東京の雑司ヶ谷墓地に葬られた。法名、松柏院頼譽天鏡眞空居士。編・著作
記号︻傳︼を付したものは、後掲の参考文献 ﹃鈴木眞年傳﹄に収載されているもの。 ●1871年︵明治3年︶、﹁百家系図︵64冊︶﹂。 ●1872年︵明治4年︶、﹁諸氏家牒・武家大系図︵眞年校︶﹂。 ●1875年︵明治7年︶、﹁諸家系譜︵26冊︶﹂。 ●1877年︵明治9年︶、﹁古家系図︵眞年校︶﹂。 ●1878年︵明治10年︶、﹁明治新版姓氏録︵2冊︶﹂、﹁苗字盡明解︵2冊︶﹂/玉養堂︻傳︼、﹁名乗字盡略解﹂、﹁諸家系図取調所﹂。 ●1879年︵明治11年︶、﹁史略名称訓義︵版本・2冊︶﹂︻傳︼。 ●1880年︵明治12年︶、﹁華族諸家傳︵3巻︶﹂︻傳︼。 ●1881年︵明治13年︶、﹁三才雑録﹂。 ●1885年︵明治17年︶、﹁日本事物原始・第一集﹂/古香館︻傳︼、﹁皇族明鑑︵2冊︶﹂/博公書院。 ●1888年︵明治20年︶、﹁古事記正義︵1巻︶﹂︻傳︼。 ●1889年︵明治21年︶、﹁皇族明鑑︵版本・2冊︶﹂。 ●1891年︵明治23年︶、﹁新田族譜﹂︻傳︼。 ●1892年︵明治24年︶、﹁裾野狩衣﹂を大阪朝日新聞に連載。 ●1893年︵明治25年︶、﹁裾野狩衣﹂を大阪積善館から出版。著作をめぐる評価と論争
鈴木真年とその弟子中田憲信が編纂採取した系図史料は近年まで、その存在を一部を除き忘れ去られていたが、鈴木真年と中田憲信の系図資料を全面的に採用した宝賀寿男編の﹃古代氏族系譜集成﹄の発表により世に広く知られるようになった。以降、その史料の正当性をめぐり様々なかたちで現在進行系の論争がおこなわれている。 その史料の正当性について、鈴木真年の著作であるから、全面的に信頼できる。鈴木真年の著作であるから、全面的に信頼できない。という二者択一な考え方におちいるべきでなく個別の史料批判が必要である。 以下、鈴木真年の系図資料を引用するさいの注意点として、佐伯有清、近藤安太郎両氏の見解を引用する。 佐伯有清は﹁1986年の歴史学界 回顧と展望 ﹂︵﹃ 史学雑誌 ﹄ 第九十六篇第五号 ︶で﹃古代氏族系譜集成﹄の評価として﹁注目すべき系図が数多く集められているが、古代氏族研究に利用するのには、十分な史料批判の手つづきをふむ必要があろう。﹂とし、また近藤安太郎はその著作﹃系図研究の基礎知識﹄第一巻﹁序章﹂で、系図はその作成時から先祖を誇示することを目的とした作為をもつ史料であり、さらに作成後もその子孫によって次々に書き加えられ、修正が行われていく﹁二次史料﹂であることを忘れてはならない。と述べている。 賀陽国造系図 賀陽国造の系図は、﹃古代氏族系譜集成﹄に、﹃諸系譜﹄掲載の系図︵内題、賀陽氏家牒略写︶を底本として掲載するが、﹃諸系譜﹄掲載の系図と類似の系図があり、岡山県立図書館蔵の﹃備中国吉備津神社賀陽氏家牒﹄︵内題、賀陽氏家牒略写︶は、﹁自貞依至貞足中間十九世略之﹂という記載内容と内題の一致から、﹃諸系譜﹄掲載の賀陽系図と同本ないし、類本と考えられる。これに対して、岡山県立図書館所蔵の﹃吉備津彦神社書上及絵図﹄掲載の﹁賀陽氏本系略﹂は、前者系図の﹁中間十九世略之﹂の省略箇所が記載されている。この他、﹃岡山県通史﹄︵上編︶には、前記系図類とは、別系図を掲載しており、栄西の位置付けや、注記等に差異がある。藤井駿はその論考﹃賀陽国造の系譜と賀陽氏﹄(﹁吉備地方史の研究﹂掲載︶で、﹁賀陽家には数種の系図、系譜がある。現存のものはみな江戸期に書かれたものであるが、加夜国造の裔なりとしている。﹂と述べている。 飛騨三枝氏系図 飛騨三枝氏系図は、中田憲信編集﹃諸系譜﹄に掲載されているが、類似の内容の系図があり。芳賀登はその著作﹃維新の精神豪農古橋暉兒の生涯﹄で、古橋家の先祖を垂仁天皇の子孫の飛騨三枝氏として承久の乱で、京都方として美濃国で討死し、その子孫が三河に移り住み古橋暉皃の先祖であると記すが、その家伝の由来が、明治三十三年に﹁飛騨国より出た古橋姓は三枝姓がある﹂という中田憲信の示唆によると指摘する。 宗像氏一族の横大路家系図 ﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の宗像氏一族の横大路家系図は、鈴木真年編集の﹃百家系図稿﹄を基にした系図である。同系図の特徴として、宗像大社の初代大宮司とされる宗形清氏以前に横大路家が分岐したとする点である。具体的には、宗像滋光の弟成光の子孫を横大路家とするものである。﹃日本農書全集﹄︵第三十一巻︶によると、明治二十五年、筑前国粕屋郡上府村(現福岡県粕屋郡新宮町上府)の横大路家は、東京帝国大学元出仕和歌山県士族鈴木真年に家譜作成を依頼したとある。なお横大路家住宅は現在、文化財に指定されている。 天智天皇裔系図 佐伯有清その著作﹃聖宝﹄において聖宝の俗系の系図を記載するがその出典について﹁この系図は宝賀寿男編著﹃古代氏族系譜集成﹄上巻所載の﹁天智天皇裔氏族﹂系図を参照し、さらに﹃三代実録﹄仁和元年二月十五日辛丑条の記事にみえる富貞王の男七名を加えて作成したものである。﹂と記載している。﹃古代氏族系譜集成﹄該当箇所の出典は﹃百家系図稿﹄巻十﹁天智天皇御流﹂である。 長門厚東氏系図 鈴木真年編集の﹃諸氏家牒﹄︵史料編纂所蔵︶掲載の﹁厚東氏系図﹂は、特徴として、物部目の子孫として巨勢田朝と物部守屋兄弟を掲載し、それとは別に物部麻佐から武忠に至る系図を掲載する点である。同系図な出典として奥書に﹁以長州厚東郡棚井村東隆寺蔵本・同郡川棚村妙青寺蔵本・及秋吉氏本対校了﹂とある。これと類似する系図があり、﹃宇部市史﹄に、掲載する厚東氏系図︵毛利家文庫本︶に、﹁棚井村東隆寺有之異本・川棚村妙青寺有之写本文・川棚村東隆寺有正文。但略本トニ通有之、正文ハ妙青寺ト同シ、依テ二本為本文。﹂と出典を記し、共に東隆寺本系図と妙青寺本系図を基にした系図とわかるが、毛利家文庫本系図の違いは、物部麻佐から武忠に至る系図の不記載と秋吉氏の系図部分である。また、物部目の子孫の巨勢田朝と物部守屋兄弟部分に、﹁大系図物部条下曰﹂とあり、同部分の出典が尊卑分脈掲載の物部系図とわかる。 柿本朝臣益田系図 原慶三はその論考﹁益田氏系図の研究─中世前期益田氏の実像を求めて﹂︵東京大学史料編纂所研究紀要 第二十三号︶において、現存する益田氏系図を系統ごとに分類した上で、鈴木真年著作﹃諸氏家牒﹄﹁石州益田家系図 柿本朝臣﹂を古態を残す竜雲寺蔵本﹁御神本三隅氏系図﹂と記載の類似を指摘して﹁その最大の特徴は益田氏が柿本氏の子孫であるとする点である。﹂と評価している。 大神氏系図 鈴木正信はその著作﹃日本古代の氏族と系譜伝承﹄︵﹃大神朝臣本系牒略﹄の編纂と原資料︶で﹃百家系図稿﹄﹃諸系譜﹄掲載の﹁大神朝臣本系牒略﹂が﹃三輪叢書﹄掲載の﹁三輪高宮家系﹂より古態を残していることを明らかにし大神朝臣本系牒の残欠や﹃類聚三代格﹄などの古代史料を基に作成された可能性を指摘し、その作成時期を江戸時代と推定している。 鷲津系図 ﹃愛知県史資料編七・古代ニ﹄︵系譜・系図︶に、鈴木真年編︵ママ︶﹃諸系譜﹂(国立国会図書館所藏)出典として鷲津系図を掲載する。 賀茂伊予朝臣系図 中田憲信編集の﹃諸系譜﹄掲載の賀茂伊予朝臣系図は賀茂伊予朝臣の出自を景行天皇の子武国凝別命の子孫の三村別の子孫として、伊予和気系図に見られる足国の子孫とするが、和気系図は、景行天皇から足国までを記すがその子孫を記さず。足国以下は、﹃諸系譜﹄の独自記事になる。﹃伊曽乃神社志﹄︵第十八章・神職︶に、大宮司賀茂百十︵元の名前は野間茂庭︶が西条藩に提出した伊曽乃大社本記によると、景行天皇の子武国凝別命の子孫として賀茂伊予馬主その子佐久良尾以下、四十三代以下の名前を列記して四十五世通慶に及ぶとして、歴史の古い事を記すが、伊曽乃神社が中世の兵乱により古文書等が失われことから疑問を提起し、京都鴨脚家文書の﹃新撰姓氏録﹄逸文に、より賀茂伊予朝臣が賀茂朝臣の子孫であることと指摘し景行天皇の子武国凝別命の子孫三村別の子孫とするのは根拠の無い事を指摘した。佐伯有清は﹃新撰姓氏錄の研究﹄︵ 考証篇第 一 巻︶で、鴨脚家所蔵姓氏録残簡の賀茂朝臣本系の真贋を検討して真正の姓氏録の逸文と結論した。︵但し﹃諸系譜﹄は馬主の子を伊多麻呂としており厳密には、内容の類似する別系図である。︶ 土方氏系図 土方久元の伝記﹃土方伯﹄に記載された系図。土方久元は鈴木真年の友人である。太田亮の著作﹃姓氏系図大辞典﹄の土方︵ヒヂカタ︶の欄に部分的に引用されて﹁その真偽を知らず。﹂と評価している。 田中卓はその論考﹁﹁郡﹂・﹁評﹂論争私考﹂︵律令制の諸問題︶で﹃土方伯﹄︵飯田瑞穂の教示による︶に城飼評督の記載があることを一部内容に疑問もあるが郡評論争の関係史料として発表した。 なお﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶掲載の土方系図は、土方家蔵の系図であり﹃土方伯﹄掲載の系図と若干異なる。 森公章は自身の論考において﹃古代氏族系譜集成﹄を参考史料に用いる。 森公章はその著作﹃古代郡司制度の研究﹄で評の一覧表の中で参考資料として﹃古代氏族系譜集成﹄にみえる評を記すが、その中で﹁石川評造﹂﹁印波評督﹂等を挙げる。 森公章はその著作﹃古代郡司制度の研究﹄で十世紀の郡司の一覧表の中で参考資料として﹃古代氏族系譜集成﹄にみえる郡司を記すが、その中で﹁日奉氏﹂﹁粟田氏﹂等を挙げる。 森公章はその著作﹃古代豪族と武士の誕生﹄﹁神護の後裔―エピローグ﹂で﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の﹁日奉氏系図﹂を引用して武蔵七党の一つ西党が海上国造他田日奉神護の子孫の可能性を指摘する。 田使難波氏系図 日下力はその著作﹃平治物語の成立と展開﹄で、﹃平治物語﹄にあらわれる難波経房の系譜として﹁吉備津彦神社の神職の家系で、﹁古代氏族系譜集成﹂の﹁田使首系図﹂によれば、経房らの八代前の諸主の時に備前国津高駅家郷(岡山市辛川、大窪、一宮あたり)難波に住し、祖父親信が長治二年(一一〇五)に備前国目代となり﹂として、親信の子四郎大夫経信の三男が経房とする。また、﹁なお、吉備津彦神社には、﹁田使難波系図﹂﹁三野臣系図﹂﹁難波大森系図﹂の三本が伝存するよしであるが、右のものとは別種らしい(﹁吉備津彦神社御田植祭県指定無形民俗文化財記録保存事業報告﹂一九七九刊︶﹂と別本の系図の存在を指摘する。 ﹃吉備津彦神社御田植祭県指定無形民俗文化財記録保存事業報告﹄には、﹁田使難波の系図は、三代実録の仁和元年備前国津高郡人、田使首良男が山城国愛宕郡に貫附しその氏族備前一宮神官たりとし、その先は不明であるが、﹂としてその子孫から吉備津彦神社神主があらわれたと記す。 三野国造の系図 三野国造系図は﹃古代氏族系譜集成﹄に、中田憲信編集の﹃諸系譜﹄第一冊︵三野臣、大藤内)と﹃諸系譜﹄第二十八冊︵備前国一品吉備津大明神神主略系︶のニ系図を基にした系図が掲載されているが、吉備津彦神社にも三野系図があり﹃吉備津彦神社御田植祭県指定無形民俗文化財記録保存事業報告﹄によると、吉備津彦神社には、田使難波系図、三野臣系図、難波大森系図の三本の系図あるがその伝来経緯として、﹁吉備津宮神主の系図 神主系図は、江戸時代末期大藤内家によばれていた平賀元義が編集記録したものが神社に残っており、郷土の歴史家、水原岩太郎氏と中山音治氏が吉備津彦神社社家系譜とし、奉納してあるが、これによれば、三本の系図がある。﹂としてそれぞれ内容は﹁難波大森系図には、駿河国大森二郎右衛門(藤原経頼入道の二男)光頼が、鎌倉将軍家から備前国津高郡駅家郷下肥田の地頭職鳥取太夫房源盛の遺領を賜り下向したとあり﹂その子孫が﹁足利高氏が入洛の際、備前吉備津宮へ願書をこめられたとき先達をした大森筑前阿梨正秀であるとしている。﹂とある。﹁三野臣系図では、弟彦命一吉備根一速野別と続き11代盛臣から本帳の破れを示し﹂その後、時名、師定をへて、下肥田にいた大森光頼をもって継ぎ、光頼子無く師定の弟乙丸を嗣子とし、その子が大森隆盛とする。﹃諸系譜﹄第二十八冊︵備前国一品吉備津大明神神主略系︶は、三野臣系図と同じく途中で破れを示してあるが、11代盛臣に当る部分が完全に欠損している。その後、時名、師定をへて、下肥田にいた大森光頼︵改名是道︶をもって継ぎ、光頼子無く師定の弟乙丸を嗣子とし、その子が大森隆盛とする、おおよその流は一致している。これに対して﹃諸系譜﹄第一冊︵三野臣、大藤内)、11代盛臣に当る部分の名を植継とするなどの相違点がある。 波多野佐伯系図 湯山学はその著作﹃波多野氏と波多野庄―興亡の歴史をたどる﹄において藤原姓波多野氏の先祖の佐伯経範が藤原姓でなく佐伯姓を名乗る矛盾を指摘して、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の佐伯系図を新発見の系図として紹介し、佐伯経範は源頼信に仕えた佐伯経資の子で、相模守藤原公光の婿となって藤原に改姓したとあることを紹介し、この系図に従えば波多野氏の先祖が佐伯姓を名乗った矛盾が氷解することを指摘した 。野口実もその著作﹃伝説の将軍藤原秀郷﹄で藤原姓波多野氏の先祖が佐伯経範とする矛盾を指摘した上で、﹁湯山学氏は、宝賀寿男編著﹃古代氏族系譜集成﹄所収の﹁佐伯系図﹂に、経範が源頼信に仕えた佐伯経資の子で、相模守藤原公光の婿となって藤原に改姓したとあることを紹介し、この系図に従えば右の矛盾が氷解することを指摘されている(﹃波多野氏と波多野庄﹄)﹂と評価した。 本郷和人はその著作﹃鎌倉殿と13人の合議制﹄で波多野氏の先祖を佐伯経資としている。 近江建部氏系図 日下力はその著作﹃平治物語の成立と展開﹄で、﹃平治物語﹄の﹁頼朝遠流の事﹂の条に、源頼朝が平治の乱に敗れて京から伊豆国に流される途中で建部大社に参拝した記述から源氏と建部大社が早くから何らかの関係を持った可能性を指摘して、﹃古代氏族系譜集成﹄収録の建部朝臣の系図を引用し、建部社管領の氏継の子息助継に、﹁嘉承三年従六条判官為義、天養元年卒、六十三才﹂と注記し、助継の孫の光政には、﹁鎌倉殿安堵建部庄地頭、御家人役始務﹂記述を引用し、同系図は相当に信頼のおけるものと評価できるが、一部記述には疑問を呈する。この他、建部大社の史料にも源頼朝の記述があることを指摘し﹃本朝世紀﹄久安二年(一一四六)三月十日条に、清和源氏源頼綱流の源経光が﹁武部社々務﹂という記述を引用し、また近江守藤原宗兼が、散在していた神領に代えて神崎郷一円を建部社に寄進したことを指摘して、藤原宗兼が池禅尼宗子の父であることと、池大納言平頼盛と源頼朝の関係から、当時、建部大社が源頼朝と特別な関係があった可能性を指摘する。大宅系図 有光友學はその著作﹃戦国史料の世界﹄﹁第四部 系図の世界・大宅氏由比系図﹂で﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の大宅系図と類似する個人蔵の系図を翻刻している。﹃古代氏族系譜集成﹄の該当箇所の出典は鈴木真年著作﹃諸国百家系図﹄である。 久自国造系図 太田亮はその著作﹃姓氏家系大辞典﹄児玉の欄で、中条政恒の論考を引用して、医道系図により児玉党を久自国造の子孫とする説は﹁甚だ傾聴すべき説なるも、唯・医道系図、有道氏の系なるものが、はたして信をおくに足べきか。﹂とし、久自国造の子孫が有道氏であることは証拠もなく想像することも困難と評価している。 ﹃本庄市史﹄通史編 一︵﹁第九章児玉党、児玉党の系譜と系図﹂︶では、児玉党の出自について、藤原伊周子孫説・藤原顕長子孫説・物部氏子孫説︵久自国造流有道氏︶の三説を検討した上で、医道系図の説が無理なく説得力が有るとするが有道維広・維能父子の実在が確認されていない現状では、﹁一応、合理的な系図であるということに留めておく方が無難である。﹂と評価している。 医道系図と類似の系図は、中田憲信編集﹃各家系譜﹄に収録されている。
田口朝臣系図 野口実はその論考﹁十二世紀末における阿波国の武士団の存在形態-いわゆる﹁田口成良﹂の実像を中心に-﹂︵京都女子大学宗教・文化研究所﹃研究紀要﹄第27号︶で、いわゆる田口成良の本姓を田口朝臣とするのを誤りとして本姓を粟田朝臣と考証した上で二次的な史料として粟田氏の動向を考える史料として﹃古代氏族系譜集成﹄を引用するが本系図は田口息継の子孫とする認識で作成されたものとして﹁成良の世代の周辺に関する記事は、諸史料と整合するところが多く、活用するに足ると思われる﹂と評価する。﹃古代氏族系譜集成﹄の該当箇所の出典は、鈴木真年著作の﹃百家系図﹄である。 佐伯有清は、その著作﹃新撰姓氏録の研究﹄﹁考証編第六﹂で、﹃古葉略類聚鈔﹄掲載の姓氏禄の逸文に﹁武内大臣後也推古世在大和国高市郡田口村仍号田口豊島伊多流男光豊島男正五位上益人﹂があることを引用して、田口益人の父が田口豊島であること明らかにしたが、これは、﹃百家系図﹄が田口益人の父を田口筑紫とするのと相違する。 穂積の鈴木系図 御巫清直はその論考﹃鈴木系図剥偽・穂積氏系譜弁断・穂積氏古系譜写﹄で、穂積姓鈴木氏の先祖を一般の系図に流布する﹁千翁命﹂を先祖とする説を誤りとして、栗原信充所蔵の系図により、饒速日命の子孫の穂積真津であると考証した。栗原信充は鈴木真年の系図学の師である。本論考は、百年以上昔の論考であり現在の学問水準では問題があるが当時の研究水準を考える上で参考になる。 惟宗朝臣系図 利光三津夫、松田和晃の両氏は、その論考﹁古代における中級官人層の一系図について東京大学史料編纂所蔵﹁惟宗系図﹂の研究・︵上・下︶﹂︵﹃法学研究﹄第五六巻第一、二号掲載︶惟宗系図の史料評価として﹁挙げられた人物は大部分が他史料によって実在を証し得、またその殆どが生存年代について系図上の位置と矛盾がない﹂また﹁﹃惟宗系図﹄所掲の当該法家惟宗流の系譜については、多少の錯乱も見られるが、偽作の疑いを抱かしめるものは殆ど見出しえない﹂と評価した。伊能秀明その論考﹃明法博士惟宗直本の明法勘文に関する一考察﹄︵明治大学大学院紀要第ニ十ニ集︶で、同論文の評価として、﹁この論文は東京大学史料編纂所蔵﹃惟宗系図﹄に考証を加え、その史料価値を論ずることを目的とした労作である。同系図には総計二四四名におよぶ惟宗氏一族の人名が記されている。利光、松田両氏は六国史ほかの諸書、公卿の日乗および各種文書を渉猟し、さらに出土木簡をも考拠史料に用いて系図の真実性にあたう限りの検討を加えられた。﹂としてその労作を評価している。 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で、同系図が筆跡から鈴木真年の写本であることを指摘した。後に宝賀寿男もこれを追認している。
伊豆国造系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、三島神社神主東太夫矢田部家伝来の﹃伊豆国造伊豆宿禰系譜﹄︵史料編纂所蔵︶と同系別本の系図として﹃百家系図稿﹄﹁伊豆宿禰系図﹂を掲載する。その伝来経緯は﹁この系図はその支族肥田氏に伝わったものか。﹂として伊豆国造の一族肥田氏の伝来の系図と推察する。 また篠川賢はその論考﹃伊豆国造再論﹄︵日本常民文化紀要︶で伊豆国造伊豆直の姓を復姓とみなして﹁益人から宅主まで代々国造の任にあったとする系図の記載を、そのまま事実とみることはできない﹂と評価している。 庵原国造系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、庵原国造の系図として﹃百家系図稿﹄﹁庵原公系図﹂を出典として掲載する。 伊豆伴氏系図 ﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に、伊豆伴氏の系図として﹃百家系図稿﹄石井系図﹃百家系図稿﹄住友系図︵伊豆肥田氏本︶を出典として掲載する。 富士大宮司和邇部氏系図 富士大宮司系図は﹃浅間文書纂﹄に掲載された﹃富士大宮司系図﹄があり、同系図は﹃静岡県史﹄︵資料編. 4. 古代︶に富士大宮司系図として転載されている。この系図とは別に伝来した富士大宮司系図があり、太田亮はその著作﹃姓氏系図大辞典﹄の和邇の欄で﹁駿河浅間神社の大宮司家は和邇部姓にして系図を伝ふ。真偽詳かならざれど、参考の為に引用せん。﹂﹁上古の分は偽作なり﹂と掲載する。両系図の違いは、前者系図は古代部分がほぼ直系に対して後者系図は古代部分の記事が豊富かつ詳細であり和邇部豊麿以前の歴代の名前も異なる。 田中卓はその論考﹁不破の関をめぐる古代氏族の動向﹂で本系図を高く評価したが﹁先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽して探して下されたが、遂に見当らなかつた。更に不幸にも太田博士今は亡く、確かめやうもないので、ここには﹃姓氏家系大辞典﹄を基にして私に復原を試みることとした。﹂史料の不備がありながらも論考にした。 佐伯有清はその論考﹁山上憶良と栗田氏の同族﹂︵﹃日本古代氏族の研究﹄︶で尾池誠の著作から中田憲信の著作﹃各家系譜﹄が元系図に近いと突き止めて史料価値の高い系図と評価した。 比護隆界は論考﹁氏族系譜の形成とその信憑性一駿河浅間神社旧蔵﹃和邇氏系図﹄について一﹂︵日本古代史論輯︶で佐伯有清の論考を批判して系図の作成時期を﹁承和四年以降、しかも﹃先代旧事本紀﹄が成立した以降のことであろうということができる。 このことは更に時代が下った比較的に近代に近い時造作をも否定するものではない。﹂近代の作成の余地もあると指摘した。 佐藤雅明氏はその論考﹁古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-﹂︵﹃地方史静岡﹄第24号︶で両系図とも和邇部豊麿以前の系譜は中央豪族の和邇氏の系譜であり駿河和邇部氏の系譜に繫げるのは疑わしいと評価している。 越中石黒系図 佐伯有清はその著作﹃古代氏族の系図﹄︵﹁利波臣氏の系図﹂︶で、越中石黒系図の中に利波評督の記載が有ることや、他にも貴重な記載が多い事とを指摘し同時に継体天皇の時代に利波評が存在することや﹃続日本紀﹄にみえる砺波志留志の名前が不記載などの疑問点も有ることをなどを発表し、石黒系図の存在が広く知られるようになった。 磯貝正義はその著作﹃郡司及び釆女制度の研究﹄︵﹁越中石黒系図﹂を中心として︶で、、﹃越中国官倉穀交替記﹄と石黒系図の記載内容の類似性から史料価値を高く評価した。 米田雄介はその著作﹃古代国家と地方豪族﹄で、磯貝と同じく﹃越中国官倉穀交替記﹄と石黒系図の記載内容の類似性から史料価値を高く評価した。 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で、同系図が筆跡から鈴木真年の写本であることを初めて指摘した。 須原祥二はその論考﹁越中石黒系図﹂と越中国官倉穀交替記─交替記諸写本の検討を通して─﹂ ︵﹃日本歴史﹄六〇一号︶で﹃越中国官倉穀交替記﹄東大総合図書館蔵本︵小中村本︶との記載の類似性を指摘して同系本を用いた鈴木真年による偽作の可能性を指摘した。 宝賀寿男はその著作﹃越と出雲の夜明け﹄︵﹁越中石黒氏の研究﹂︶で須原祥二の偽作説に反論をした。 下鶴隆はその論考﹁利波臣志留志-中央と地方の狭間﹂︵﹃古代の人物3 平城京の落日﹄︶で砺波志留志を石黒系図にみえる諸石を誌石︵しるいし︶の誤記として、同一人物の可能性を指摘した。 大川原竜一はその論考﹁﹃越中石黒系図﹄と利波臣氏﹂︵﹃日本古代の王権と地方﹄︶で鈴木真年が﹃越中国官倉穀交替記﹄の写本作成をおこなっていたことを明らかにして、石黒系図を交替記を基にした鈴木真年の偽作系図と断定した。
熊倉系図 佐伯有清はその著作﹃智証大師伝の研究﹄﹁円仁の家系図﹂ で﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の熊倉系図を引用して、円仁の俗姓系図として一部疑問点もあるが史料価値を高く評価した。 平澤加奈子はその論考﹃いわゆる﹁円仁の系図﹂について──﹁熊倉系図﹂の基礎的考察──﹄︵東京大学史料編纂所研究紀要第二十四︶で﹃百家系図稿﹄と﹃諸系譜﹄掲載の熊倉系図を諸史料と比較した上で奈良君から仲道までの部分の史料価値を疑問としたが、﹁﹁熊倉系図﹂は現存の状況から鈴木真年らによる偽作とは考えられ ず原系図の存在が推定される。﹂と評価した。 車持氏系図 佐伯有清はその論考﹃負名氏族の系図﹄(﹃姓氏と家紋﹄掲載︶で、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の車持氏系図︵出典は﹃百家系図﹄の小池系図︶の内容を検討して、阿萬乃君が﹁磐余栗宮磯城金刺宮為主殿部供奉﹂阿萬乃君の子、国子君が﹁小治田朝岡本朝主殿寮供奉﹂とあることを指摘し、主殿寮負名氏族の車持氏の系図として内容に問題が無いと評価し、国子君が﹃尊卑分脈﹄藤原氏系図に藤原不比等の母として﹁母車持国子君之女与志古娘﹂とみえる人物と同一人物であることも指摘する。 波多門部氏系図 佐伯有清はその論考﹃負名氏族の系図﹄(﹃姓氏と家紋﹄掲載︶で、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の波多門部氏系図︵出典は中田憲信編集の﹃諸系譜﹄︶の内容を検討して、﹁顕宗天皇御宇為門部、供奉故負波多門部造姓﹂記載から、顕宗天皇の時代に波多門部氏が発生したことと波多門部が負名氏族かを検討し、また、波多門部の波多を通説である大和高市郡波多郷由来説に対して、﹁淡路帝時補三原郡司少領為舎人供奉﹂記載を引用して、波多を淡路三原郡幡多︵波多︶郷に由来する可能性を指摘する。 春日山系図 中村友一はその著作﹃日本古代の氏姓制﹄で、山君という特殊な姓を考察し、春日山君を春日の山君とする複式氏名か、春日山の君とする単称の氏名かを検討し上毛野鍬山公と同様に山の名に由来する単称である可能性が高いとして、合わせて春日山君氏系図を検討し﹁春日山氏系図は宝賀寿男編著﹁古代氏族系譜集成﹂(古代氏族研究会、一九六一年)に所収されていたもので、原形を知りえない。﹁古事記﹂の出自記事と同じくするが、後世の付会の可能性も残る。このような理由で、垂仁天皇に出自し、山守部君氏を経て春日山君に至る大筋の成立はそれほど遡れないにしても、具体的注記の見られるようになる春日山君黒万呂以降の内容にはある程度信をおけると思われる。﹂と評価する。
出羽清原氏、吉弥侯部氏系図 野中哲照はその論考﹃出羽山北清原氏の系譜﹄で﹃諸系譜﹄掲載の吉弥侯部氏系図を考察して﹁中世以降の系図改竄者・捏造者が信憑性の演出のために時代考証をおこなって注入したなどとは考えられないものである。﹂と評価している。 また、出羽清原氏の先祖を清原令望とする﹃諸系譜﹄掲載の清原系図も同じく史料価値が高いと評価し系図の伝来として断絶した清原氏吉弥侯部氏の供養のために同時期に作成したと推察している。 これに対して樋口知志はその論考﹃安倍・清原氏の祖先系譜﹄て野中説は従い難いと評価し、佐々木紀一もその論考﹃出羽清原氏と海道平氏︵上︶﹄野中説は従い難いと評価する。 甲斐古屋系図 古屋系図は甲斐一宮浅間神社古屋家の系図であり﹃甲斐国一之宮 浅間神社誌﹄に︵﹁世系略譜・古屋家家譜・降屋家系譜﹂の三編)が掲載されて世に広く知られるようになった。 佐伯有清その著作﹃新撰姓氏録の研究 考証篇第三﹄で、上記﹃古屋家家譜﹄の一部引用して姓氏録の考証に用いた。 田中卓は﹁新史料﹁評﹂を含む﹃古屋家家譜﹄の出現﹂で山梨評の記載がある信頼性の高い系図として評価した。 溝口睦子はその著作﹃古代氏族の系譜﹄で古屋家譜を全体的に検討して ﹁連姓から直姓というのは当時のカバネで見れば明らかに貶姓であって、これが理由もなく実際になされたとは先ず信じがたい。しかも大伴山前連から大伴直という姓氏の変更の動きも変である。﹂として近畿大伴氏の系譜に地方の大伴直の系譜に繫げたと評価した。 古屋家譜と類似の系図は中田憲信編纂の﹃諸系譜﹄に簡略的に掲載されている。また、中田憲信編纂の﹃各家系譜﹄にも人名が大幅に増えた系図が掲載されている。 尾張田島氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で宮内庁書陵部所蔵﹃尾治宿祢田島家系譜﹄に、年魚市︵あゆち︶評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 藤本元啓はその著作﹃中世熱田社の構造と展開﹄︵第二章 田島丹波系図︶で﹃尾治宿祢田島家系譜﹄﹃田島家譜﹄﹃田島丹波系図﹄﹃祝師田島家系図﹄などの系図を基に尾治宿祢一族の中世の系譜と動向を検討したが、その中で中世に作成された﹃田島丹波系図﹄に﹁如縁起者稲種公者火明命十二代之孫尾張氏祖也﹂﹁在朱鳥以後二十五代次第﹂の記事を挙げ同系図の特徴として古代部分の省略をあげる。 これは、間接的であるが尾張宿禰一族には、中世に古代世代が省略されていない系図が存在した可能性がある。それが﹃尾治宿祢田島家系譜﹄と同じかは不明である。 また、上記系図類は名称が類似するが、書陵部所蔵系図とは、別系図であり古代部分の相違や古代部分が省略されている。ので混同しないように注意が必要である。 なお﹃神道大系﹄﹁熱田﹂掲載の系図は、名古屋市鶴舞中央図書館写本を底本としており、書陵部本系図とは若干の異同がある。また﹃愛知県史資料編七・古代ニ﹄︵系譜・系図︶は、﹃神道大系﹄掲載系図の転載である。 ﹃尾治宿祢田島家系譜﹄と類似の系図は、中田憲信編集の﹃諸系譜﹄に掲載されている。 諏訪氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で阿蘇大宮司家に伝わる新出の系図を紹介して、異本阿蘇系図とし諏訪評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 これにより、異本阿蘇系図と類似の﹁諏訪評督﹂などの内容をもつ﹃修補諏訪氏系図 正編﹄などの系図が注目されるようになる。 関晃はその論考﹁科野国造の氏姓と氏族的展開﹂︵黒坂周平編﹃信濃の歴史と文化の研究﹄︶で、異本阿蘇系図について、信濃国造の姓氏とその本拠地の勢力範囲などの諸問題とも包括的に取り上げて、一定の史料価値は評価した。 伊藤麟太郎はその論考﹁所謂阿蘇氏系図について﹂︵﹃信濃﹄︶で、初めて偽作説を唱えて、具代的には、飯田武郷が偽系図を作成し中田憲信が阿蘇家と知久家︵諏訪一族︶へ送り付けたと主張した。 村崎真智子はその論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂︵国分直一博士米寿記念論文集﹃ヒト・モノ・コトバの人類学﹄︶で異本阿蘇系図を検討して、阿蘇大宮司家が江戸後期に作成した阿蘇家伝七巻本には異本系の神名人名がなく阿蘇家には元々異本系図は存在しなかったことを指摘し、異本系図は中田憲信が作成し阿蘇家に送り、阿蘇家ではそれを利用して明治初期に阿蘇家伝第八巻を作り、異本系図系を自家の系図として採用したと発表した。 井原今朝男はその論考﹁神社史料の諸問題・諏訪神社関係史料を中心に﹂︵国立歴史民俗博物館研究報告・ 第 148 集 ︶で、それまでの経緯をまとめて、異本阿蘇系図が﹃諏訪史料叢書﹄掲載の﹁諏訪家譜﹂︵中田憲信編集︶と類似することと、﹃修補諏訪氏系図 正編﹄が﹁諏訪家譜﹂︵中田憲信編集︶基に作成されたことを指摘し、これらの系図が中田憲信の偽作であり、神社関係者が時代ごとに縁起を制作していた歴史を述べ﹁こうした系図は偽撰というよりもまさに国学者の研究による編纂物としてみるべきなのかも知れない。﹂と評価している。 現在では大化の改新が評制の始りとされて、それ以前に諏訪評督なる役職があった可能性は低く偽系図とすのが通説である。 井伊氏系図 小和田哲男はその著作﹃争乱の地域史・西遠江を中心に﹄︵第4巻︶で、井伊氏の先祖を藤原良門とする既存の井伊氏系図に疑問を提起し新井白石が井伊氏の出自を藤原南家としたことを指摘し﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の三国真人流井伊系図と藤原南家流井伊氏系図の二つを検討して南家流系図が本来の系図である可能性を指摘した。 三上神主系図 三上神主系図は、﹃続群書類従﹄掲載﹁三上系図﹂︵源義綱子孫流︶が広く知られているが、これとは別系譜が﹃諸系譜﹄に掲載されており、その出自を天津彦根命の子孫の三上祝とする系図である。 ﹃野洲町史﹄に﹁三上系図には盛員が坑飯を進上し頼朝が喜悦した﹂とあり﹃諸系譜﹄掲載系図には同じ記述があるが、﹃続群書類従﹄掲載﹁三上系図﹂には、この記述は無い。 また、宇野宗佑︵政治家︶はその著作﹃庄屋平兵衛獄門記﹄︵郷土史︶で、三上神主系図を閲覧し、三上家は天津彦根命子の天之御影神の子孫であると記している。以上の内容から、三上神主家所蔵の系図と﹃諸系譜﹄が同じ系図と考えられる。 阿蘇氏系図 田中卓はその論考﹁﹃評︵督︶﹄に関する新史料五点﹂で阿蘇大宮司家に伝わる新出の系図を異本阿蘇系図と紹介し、阿蘇評督と諏訪評督の記載があることを郡評論争の関係史料として発表した。 村崎真智子はその論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂︵国分直一博士米寿記念論文集﹃ヒト・モノ・コトバの人類学﹄︶で異本阿蘇系図を検討して、阿蘇大宮司家が江戸後期に作成した阿蘇家伝七巻本には異本系の神名人名がなく阿蘇家には元々異本系図は存在しなかったことを指摘し、異本系図は中田憲信が作成し阿蘇家に送り、阿蘇家ではそれを利用して明治初期に阿蘇家伝第八巻を作り、異本系図系を自家の系図として採用したと発表した。 宝賀寿男は自身のホームページで論考﹃村崎真智子氏論考﹁異本阿蘇氏系図試論﹂等を読む﹄を発表し、異本阿蘇系図が中田憲信により阿蘇大宮司家に持ち込まれたことを認めた上で、異本阿蘇系図が坂梨本、蔵原本、甲佐本、宮西本などの複数の系図を基に作成したことを指摘して、現在所在不明の甲佐本、宮西本が異本阿蘇系図の原系図の可能性があるとし、諏訪評督の記載がある諏訪氏部分は信濃知久氏系図を基に書き込まれた可能性を指摘し反論した。
武蔵国造系図 武蔵国造系図は西角井家の系図であり、﹃埼玉叢書﹄第3巻﹁西角井從五位物部忠正家系﹂に掲載されている。その特徴として、武蔵国造氏姓を通説である丈部直でなく大部直とする点がある。 太田亮はその著作﹃日本国誌資料叢書 武蔵﹄で﹁武蔵国造家の系図は氷川神社の旧禰宜西角井家にある。それは全部うそでもないが、全部事実とも言へぬ。種々の伝説を取纏めて編輯したのであらう﹂と評価している。 新野直吉はその論考﹁无邪志︵武蔵︶国造の氏姓﹂︵続日本紀研究207号︶で、西角井家系図と続日本紀の写本の検討から、武蔵国造の氏姓を通説である丈部でなく、大部であるとして、丈部不破麿は、大部不破麿とするべきと主張した。 佐伯有清はその著作﹃日本古代氏族の研究﹄で、西角井家系図の記載が正しい場合、丈部不破麿は大部不破麿となる可能性を指摘した。 森田悌はその著作﹃日本古代の耕地と農民﹄で、新野、佐伯両説を引用しその問題点を指摘し検討した。 西角井家系図と一部類似の系図は﹃諸系譜﹄︵東国諸国国造︶に掲載されている。 布留宿禰の系図 ﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の布留宿禰系図は、鈴木真年編集の﹃百家系図﹄﹃諸国百家系図﹄の二系図を基にした系図であり、両系図には、人名や親子関係の異同かなりある。星野恒の論考﹁七枝刀考﹂によると石上神宮から﹁七支刀﹂の模写図が鈴木真年に贈られたとあり。当時、鈴木真年と石上神宮には何らかの関係があったようだ。︵上記、論考を引用した、一部書籍は、鈴木真年を石上神宮宮司とするが経歴上明らかな誤り。︶また、石上神宮には、﹃古代氏族系譜集成﹄掲載の布留宿禰系図と同一かは不明だが、﹃神主布留宿禰系譜﹄があり、佐伯有清はその著作﹃日本古代氏族の研究﹄で﹃大和史料﹄に引用されている﹃石上振神宮略抄﹄所載の﹃神主布留宿禰系譜﹄に﹁三十六代皇極天皇御世二、大臣蘇我蝦夷宿禰︿俗云武蔵大臣﹀母太媛ト申ス、物部弓削大連妹也。弓削大連滅亡之後二太媛祭首二補ス。蝦夷大臣ノ次男敏傍宿禰ヲ物部大臣ト号シ、祖母、時依テ威ヲ世ニ取リシヨリ、物部族、神主家等モ蘇我々家ノ僕トナル。﹂記述を検討して﹁神主布留宿禰系譜﹂の所伝は、﹃日本書紀﹄﹃新撰姓氏録﹄﹃紀氏家牒﹄の三者を合体させた文書と結論づける。なお関連するので﹃紀氏家牒﹄の史料評価として、田中卓はその論考﹃紀氏家牒について﹄で、新撰姓氏録の布留宿禰条の﹁斉明天皇御世宗我蝦夷大臣号武蔵臣物部首并神主首﹂を文意の難解な文章として、これを解読する一案として﹃紀氏家牒﹄の﹁紀氏家牒曰、馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰豊浦大臣。亦家多貯兵器、俗云武蔵大臣。母物部守屋大連 亦曰弓削大連。之妹、名云太媛也。守屋大連家亡之後、太媛為石上神宮斎神之頭。於是、蝦夷大臣以物部族神主家等為僕、謂物部首。亦云神主首。﹂文章から、﹁号武蔵臣﹂四字を﹁宗我蝦夷大臣﹂の割注とみなせる可能性を指摘し、その作成時期を﹁奈良時代末より平安時代初期﹂としているが、前田晴人はその論考﹃物部氏関係伝承の再検討﹄︵﹃纒向学研究﹄第5号掲載︶で、上記、﹃紀氏家牒﹄の文章を新撰姓氏録の布留宿禰条の﹁四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世、宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首、因茲失臣姓為物部首。男正五位上日向、天武天皇御世、依社地名改布瑠宿禰姓、日向三世孫邑智等也。﹂﹁四世孫額田臣・武蔵臣は、斉明天皇の御世に、宗我蝦夷大臣、武蔵臣を物部首幷びに神主首と号け、玆に因りて臣姓を失い物部首と為る。男正五位上日向は、天武天皇の御世に、社地名に依りて布瑠宿祢姓に改む。日向の三世孫邑智等なり。﹂の誤読として成立時期も︵新撰姓氏録が作成された︶平安時代初頭以後としている。なお、﹃神道大系﹄﹁神社編十ニ・大神・石上﹂では、﹃石上布留神宮略抄上・下 ﹄を享保五年︵1720︶ 今出川一友の著作としており、引用されている﹃神主布留宿禰系譜﹄がこれ以前の作成とわかる。なお、向村九音はその著作﹃創られた由緒﹄で今出河一友が、石上神宮をはじめとする大和の諸神社の縁起を作成したと述べて、今出河一友の縁起は﹁創られた由緒﹂であると評価している。
松野連系図 尾池誠はその著作﹃埋もれた古代氏族系図﹄で﹃諸系譜﹄掲載の松野連系図に、倭の五王とその子孫が欽明天皇の時代に降伏したなどの内容が有ること評価した。その内容から主に九州王朝説論者が評価している。 阿波忌部系図 小杉榲邨は﹃安房国忌部家系﹄︵国立国会図書館蔵︶で、斎部宿禰本系帳の来歴を記し、知り合いである鈴木真年が栗原信充と同じ偽作系図の作成者と批判している。