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新葉和歌集

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新葉集から転送)

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沿[1]

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後醍醐天皇かくれさせ給て又の年の春、花を見てよませ給ける
新待賢門院

時しらぬなげきのもとにいかにしてかはらぬ色に花の咲らむ

つはもののみだれによりて、吉野の行宮をもあらためられて、次の年の春、塔尾の御陵にまうで給はむとて、かの山にのぼらせ給けるに、蔵王堂をはじめて、さらぬ坊舎どもも、みな煙と成にけれど、御陵の花ばかりは昔にかはらず咲て、よろづ哀におぼえ給ければ、一ふさ御文の中にいれて、たまはせ侍るとて、

みよし野は見しにもあらず荒にけりあだなる花は猶のこれども

— 巻第19・哀傷歌
後醍醐天皇塔尾陵

諸本[編集]


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影響[編集]

  • 南北朝合一後、室町時代の歌人にも読まれて流布したが、公の歌壇では遠慮すべきものであったらしく、記録の上にはほとんど姿を留めない。
  • 南朝を正統とする水戸史学の影響を受けた幕末志士にとって、『神皇正統記』とともに座右の書の一つとされた。坂本龍馬が故郷の姉乙女宛に書いた手紙[2]によれば、龍馬は京都で『新葉集』を探し求めたが手に入らないので、国許土佐にいる吉村三太という男から借りて筆写して送って欲しいと頼んでいる。
  • 戦前・戦中期においては、皇国史観の下に「忠臣愛国」を称揚する古典として研究・批評が急速に進み、多くの単行本や論文が出されたが、その反動からか戦後以降現在に至るまでの研究は乏しい。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 有馬俊一は、中世における「准」「なぞらふ」という語の用例を検討した上で、当時これらの語には「一環に組み入れる」ことを意味する用法があった点を指摘して、『新葉集』が真正の勅撰集として成立したものであると主張している(有馬 「『准勅撰』概念の定立をめぐって」 『和歌文学研究』第57号 和歌文学会、1988年12月)。
  2. ^ 仮名序には、「そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、 おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅撰になぞらふべきよしみことのりをかうむりて、老いのさいはひのぞみにこえ、 よろこびのなみだ、袂にあまれり。これによりて、ところどころあらためなほして、弘和元年十二月三日これを奏す」とある。

出典[編集]

参考文献[編集]


 ︿171937doi:10.11501/1207755NDLJP:1207755https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755 

  1938 - 

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194019922008 ISBN 9784003013915 - 

  19651987 ISBN 9784625474484

  1 1983 ISBN 9784040201122 - 

 1984 ISBN 9784305101815 - 

  492000 ISBN 9784096580493 - 

 20052020 ISBN 9784065187746

 442014 ISBN 9784625424168

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