名前を忘れたが、商品學的文學論だかいふ本で、その筆者が、清水義範(だつけ? パスティーシュ(だつけ?)とかをもしろくても理科とか(待て))の料理の小説を取り上げて、自分は前は料理の本の編輯者もやつてゐたのでかういふレシピのやりくちもあつたのか驚きだ云々といふ文章で、なんとなく、「かういふ雜文書きになる前は編輯者をしてゐた」とか書いてゐたらをもしろかつかなあなどと意味もなく夢想する。
21:25
やたら多い。今日だけで5回くらゐ搖れてゐない?
15:11
過去が残らないことを嘆く必要はないのだ。も
し過去がそっくり形を保ったとしたら、われわれはその厖大な量に押し
つぶされ、生きている死者たちに遠慮して暮らさなくてはならない。…
…といふのがある。さうだ、といふ外なからう。が、しかし、と云はう。しかし、それで良いのだらうか。 白川靜のいふことは、成程殷の世を自由に行き交つて得られたものかもしれない……それこそ吉田健一のいふやうに過去の記録からその記録者以上にその時代に自由だつた賜物だと。しかし、漢字はそれだけではなかつた。生きた文字として突如として産聲をあげた彼の昔からずつと自在だつた。今でも淺はかな現代人が︿正字﹀を求めて右往左往するのをからかつてゐるのではないかとさへ感じる。それは右往左往するのに極つてゐる。︿生きて﹀ゐる時間が違ひすぎる。誰だつて深奧にはたどりつけまい。幼兒期がやうやくあの異才によつて傳記が書かれただけなのだ。漢字の過去がすべて解明されるといふことを想像してみる。それで、われわれは何を書くといふのか? この無意味な想像は、しかし冒頭に掲げた引用に囘歸するのにも極つてゐて、それで再びこの語句を檢討する。それで
死者に遠慮するといふのは巧いレトリックであるかもしれないと考へる。彼らが生きてゐたままを保つて︿死なない﹀といふことが死者が︿生きる﹀といふことになる。もちろんそれは我々の妄想に過ぎないのでだからわれわれは忘れる。死者からすればよくもしやあしやあと、と云ひたくなるほどに。だから忘れないやうにイメージを喚起させるものを用意する。上に掲げた引用を書いてから30年も経た池澤が書くやうに――
歴史には過去を現在に、現
在を未来につなぐ義務がある。/記念碑とはそのための装置だ。結局は、一人のひとに戻つてくる。過去は絶えずその人を離れないだらう。日々失はれる分よりつけ加へられるはうが多い過去はうまく付合ふのにとてつもないバイタリティを要するのかもしれない。あなたの隣人をあなたが知らなくともそのひとにも過去はつけ加へられる。そしてそれがそのひとを︿そのひと﹀にしてゐる。その人を知るかは結局はあなた次第で、知つていがみあひもし和しもするし、互ひに知つてゐることだけで皮相な話をしもする。そしてその互ひに知るものこそは記念碑がつなぎとめた過去に外ならず、またそれが︿常識﹀である。﹁ソクラテスの死んだ日に吹いた風﹂どころか、﹁晝間聞いた小鳥﹂の行く末さへ知りやうがない。それは記念碑に書けないからである。書けない以上一人一人の記憶は、誰の邪魔をすることもなく消えて行き記念碑に書かれたものだけが世の中で力を振るふ。そこから﹁ソクラテスの死んだ日に吹いた風﹂を
できないことを承知で想像するかどうか、それは、その人にかかつてゐる。 22:20
ハプスブルクの當主が、『20世紀の100人』(朝日新聞社)で特集を組まれてゐたときにまだ帝位を主張してゐるとかうんたらといふのを見たのだが、 Wikipediaを見ると繼承權を捨ててEU議員になつたとかあるのでをかしいなあと思つたのだが、そのWikipediaのジャコバイトの項目によればいまジャコバイトの系譜を引き繼いでイギリス王と目されてゐるのはバイエルン公なのであるらしい。最後のバイエルン王國の王の息子。父は王位を退位したといふのに……。そのジャコバイトの項目をみて、「女王陛下萬歳」の由來についての説明に合點が行つた(ちなみにその項目には拙譯が醜態をさらしてゐるのだが直される氣配がない。文語體は敬遠されるのだらうか)。それで、ジャコバイトへの防衞から生まれたのだといふのが正しいならば、スコットランド人がこれを穩やかに聞いてゐられるのだらうかなどと思ふが6番を哥はなければよいことになつてゐるやうである。妥協といふのか屈服といふのか。
21:45
このまへAntiVirのアップデートをかけたら本體のバージョンがあがりそれだけならば自動アップデートにしてから勝手にアップデートなどしてくれるのでどうといふことがないのだがメジャーアップデートでそれがAdmin權限をインストールに要求するxp對應型になつてゐてそれだけでも不斷Adminをつかはないので迷惑なのだが前のバージョンのいつからかアップデートをするたびに廣告が出るやうになつてゐてそれが7になつて毎日自動アップデートをするやうになつて6のときのファイルのバージョン對比がなくなつてなにやつてゐるのか判りにくいわウインドウが右上に固定されて邪魔だわ毎日廣告が定時に出てさらに邪魔であるわと碌でもないアップデートだと思ふ。
18:16
100枡計算のFlashがあつたのでやつてゐるのだが、3段くらゐやつたころにはなにをやつてゐるのかわからなくなつて頓珍漢な囘答(1*0=1とするやうな)をしてどうして違ふのかわからなくなつたりする。キャパシティの低い頭腦であることだ。やつてゐるのに附屬してゐる案内によると1:30をきるべしとある。やり始めは2:00さへままならなかつたが、いまはなんとか1:30のあたりでおちついてゐる。
21:35
あと一ト月もするともはや學籍が殘るのみ(たしか)でもしかすると4月からのこともだいぶん決つてゐるのかもしれないなあと思ふ今日はどうやら金曜であるらしいといふことは來月も金曜でその明後日わが身を試驗場に運ぶ必要があるかどうかは今日の明後日ではなく再來週の明日である日に決するわけだ。暦と時計がなければどうなるだらう、私がいま氣にしないでゐられる(ほんたうか?)のは周圍のひとたちがそれで動いてゐるからだらうか。
19:32
avast! 4.6 Home Editionといふのを入れてウイルスなんたらのダブルチェックでもするか、とおもつたらいろいろでてくる。とはいへAntiVirでアクセス禁止などの措置をとつたのもあるからAntiVirがわるいとばかりもいへないか。
16:03
池澤夏樹の「新世界へようこそ」のドットブックを讀んで、まへ評判といふか、書評や感想として日記などにのこされたものを檢索エンジンを利用してみた限りでは「感情的」だとかいふ評判もあつたのだけれど、空想にときたま無理が入るだけで立つてゐる場所はとてもたしかであつた。かういふのを讀むとこのひとのファンになつたのはよかつたと思ふ。『タマリンドの木』(1991) は、彼の「女性觀」といふのか、ヒロインが妙に氣になつたのではあつたがそれがだから、日本政府がアフガニスタンの問題、難民の問題に手を貸そうとするのなら、本当にその気があるのなら、まずはボランティアやNGOの意見を聞いてください。現地のことをいちばんよく知っているのは彼らですから。
といはせたのであればあれを書いたことは結局よかつたのだ、といふことになる。
21:53
長岡昇「石油は無尽蔵?」(『窓』朝日新聞(千葉)夕刊3版、朝日新聞社、2006年2月16日、p.2)は「石油起源の無機説」の復古を傳へておきながらその内容を吟味せず「新しい證據などない」とさへいふ。「無機説」が正しいといふ判斷ができるわけではないが、「景氣がいい」だけのはなしでないのはさう主張する學者の論文を見ればわかるはずだ――少なくともロバート・アーリックは『トンデモ科学の見破りかた もしかしたら本当かもしれない9つの奇説』(ロバート・アーリック、垂水雄二・阪本芳久譯、草思社、2004.2)のなかでさう書いてゐた。
21:26
今日は府川さんにさそはれてのこのことまゐりました、上野へ。
さまざまなミスはしでかしつつも東博は込んでゐなかつたのでよしとしよう……電車が遲れたのはシャンディを讀む時間が増えたと思へばよろしい(違)。自身の信仰さへ笑ひの種にしてしまふスタアン畏るべし、ではなくて、豫めずんずん這入つていつて圖録を買つておいて戻つた入口付近の金文は適當に拓本を見ればそれでよかつたが説文(「せつぶん」と云つたら「せつもん」と訂正されました。つくづく勝手な讀み方がおほいことだと反省)は見たかつたけれども入口に近すぎて見れたものではなかつた(あの人だかりに這入る氣はない)。王羲之は掲げてあつたものだけをみて法帖はそれを見る人ごみを眺めて進み、苦筍帖はすでに人ごみがまばらになりはじめてゐたのでその合間から覗いて、とりあへず色と大きさとそのまはりにいろいろついたのを見て離れる(實物をある程度抑へて圖録で鑑賞するのがよいとおもふ。しかしあのまはりの印鑑を押すための紙はなんなんだらうとおもふ)。ほかは……書の濃淡についてみたり狂草(白川靜のいふとほり狂はよいものだ(!?))でなぜか樂しくなつたり良寛はすごいなーとおもつたり。……なにをしにいつたのだ。
といふわけで人ごみでまともに見る氣も失せるので結局2時間くらゐでひきあげて高田馬場で鳥海さんにご馳走になり築地電子活版でお夕食をいただいて歸りました。氣前がいいなあ、といふことで。あんなに長い時間ゐすはつておまけに食事まで饗してくださりかへすがへす御禮まをしあげます。
23:47
かやうな作を讀むには息を詰めて文のテンポにのることが肝要だがあんまり息を止めるのもつらい。場がわざわざ彫つたのか異體字 (p. 15)。
22:00
けふつて21日だつたんですね。
23:36
加藤尚武(丸善、1994)。所詮河合塾の模試に出されたのを讀んだだけではあるが、多數決原理のみで動いてゐる政體だとかの想定、かつ、その多數決を行ふまでは投票者が選擇肢を知らないといふのは極端どころではないのではないか。あれだけでは詭辯にしか見えないが續きもかうであるといやなので讀んでゐない。
17:49
CGIにプロセスを加へて過去の日記にタイトルを表示したり(略)するやうに改造(中)。
22:01
大學入學者選拔大學入試センター試驗を受けながら思つたのだが、といふよりも、過去の問題をやりながら思つてゐたのだけれども、通稱赤本だつたり、豫備校がいま國立大學の二次試驗が終つて解答を速報的に出すのをみたりすると、どこも同じ組版機械を使ひ、2002/03を境に組版機械が入替つてゐるやうなのである。
2002以前は寫研の電算寫植のやうである。2003はどこだかわからぬが兔に角下手な字である。ページをめくつて外國語〈英語〉の問題をみたとき、たいへん憂鬱な思ひがした。寫研の隷屬歐文のぼつてりしたのも嫌ひだつたが、いまの問題につかはれる字もへただし文字同士の感覺は狂つてるしとそれ以上であつたのである。歐文の評價はまだしなれないので避けるが、和文では、「む」にその氣持ち惡さが集約されてゐる氣がするが如何。
23:07
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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