アラビア語の受講をとりやめて、後期から受ける気まづさに5限を新規受入れ・新刊チェックにつひやし、宴會のまうしこみを忘れたのはすべて生活が晝型にかはつたせゐです。次週は公休日……。
18:07
詩語としてマスゴミがでてくるとすれば、確實に、「我ら大量のゴミども」であらうが、googleでマスゴミとマス・コミュニケーションを同時に檢索しても、マスゴミはマスコミの誤りと聞かれもせずに檢索結果の操作がなされてゐるので、マスゴミといふ語が結局どんななのか社會學的に研究したものを見つけるにはどうしたものか。
23:55
さすがに2週間つづいただけあつて咳はなかなか收らず、迷惑を避けて知人コンサートには行かなかつた。病院の時間もあつたので……。
古文版ウィキペディアの設立を目指す方々の書いた古文の添削。しかし、30點を50點にしたくらゐの氣もしないではない。
23:55
なんでよりによつて平成明朝を印刷局は使つてゐるのだらうか。リュウミンが好きなのでもないけれど……。松岡農林水産大臣柳澤厚生勞働大臣など懷かしい名前のならぶこの一年ばかりの官報をみる。法律家のためにIME開發會社がつを小書きにしないオプションを設けたと聞いたことはないけれど、たしかに小書きの「つ」も法律に進出してゐるのをみた。でも平成の小書きつて小書きかどうか確信が持ちにくい。
准教授が準教授でないのは、准將その他に倣つたからとか。準じるの意味としては、准は準の俗字であるさうである(新字源による)。
古文版ウィキペディアに文語版ウィキペディアが對抗意識を持つてゐるらしい。どちらもまだテスト中だしどちらにもまともに書ける人はゐないのだから、なかよく文法や文體の勉強などすればいいのに。形式に拘泥して執筆を躊躇することなかるべし。何ぞ誤謬あらば何人か訂さむ。恐るべからず。
といさましく書きつけるのはよいが、やる氣があればなんでもできる、のかな。そんなものなのかな。
23:55
建築基準法の改正部分をみてゐたら、自己の利益のために使用を盗用に改めた部分があつた。Are they equal?
本屋でふらふらしていく。『名探偵コナン』最新刊は18日、と。フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学』(講談社、講談社現代新書1800、2005.8)を買つた。芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2007.4)は見あたらず。小島義郎ほか編『ルミナス和英辞典』(研究社、2005.10)は迷つたけれど買ふにしても大学生協でといふことで見送る。P.D.ジェイムズ『人類の子供たち』(早川書房、ハヤカワミステリ文庫、1999.7)が、内容はおそらくそのままで、映畫にあはせて書名が改められてゐた。しかたないんだらうか。さういへば、教科書を買はないと。
23:55
道ばたで話し込んでゐる知らないひとが、何語で話し込んでゐようともそれは自由である。だが、そのなかでつかふ言語について、その言語から完全に自由であることはありえない。
以上の前提に立つて、古文版ウィキペディアの現實的な問題點を考へれば、文語を習得言語として通用せしめる優秀な教師の不在である。ならば、研究會でも設けて研究訓練するばかりであるが、文體・文法は假名文にしたがふことにしていいとしても、語の問題は厄介である。文法は訓練さへすればどうにかなるが、語や文體については時代的變遷やセンスの問題が含まれてくる。たとへば、あらたしとさいつごろがひとつのテキストに兩方とも登場することは考へられない。また、いくら傳はるといつても、たべるべからずなどといふのは、センスがない。これをおしへるのは、可能なんだらうか?(可能なら教へてほしい)どこまで外來語を排してしまふのか、だれにもわからない。辭書をつくるのであれば、用例が完全なのがよい――現代語譯と、いつの時代のことばかも添へて。まとまるわけもないのでこれまで。
一週間ぶりに學校にいく。船をこいでしまつた。
23:55
閑居友の翻刻でくの字點が入り用なので以前つくつたデータを掘り出す。掘り出したのはいいものの、設計が甘すぎるので全面的に手を入れたらぐつたりした。集中しすぎ?
イワタ明朝體オールドが活字時代のデータをつかつてゐれば私がつくる必要はないのだが……。
23:55
・自由選擇にまはせるやうな單位の餘剩がないことにいまごろ氣がついた。しかし、今學期は普遍をひとつも登録してゐない。來年度と再來年度で10單位程度。
・學部共通があつかひにくい。
・あとはゼミ・專門科目を巧く按排して卒論が書ければ……(どうして最低單位數で卒業しようとするのだ)。
23:55
「國語學」の名稱を排し「日本語學」を是とするひとびとが、意圖的に國學の言語研究の成果を無視してゐると仰つてゐたとき、とたとへば小松英雄とかが頭におありであつたのだらうか。
23:55
眠い目、といふより、なんどもこつくりとしながら讀む。一囘は「あれ、いま自分は寢てゐるのではないか」と氣づいて目が覺めた。
四分律なんど讀んでゐる。單なる思ひつきかもしれないので、あまりかかづらふべきことではないのかもしれない。
23:55
けふ發心集のテキストが家になかつたので(情けなや)、ウェブにないかなと思つたらなかつたのであつた。不便なり。そこでえいやと思つて、私ののちのちの便宜のためにも、どちりいなきりしたんを翻刻するのである(『どちりいなきりしたん(バチカン本)』小島幸枝・亀井孝解説、勉誠社文庫55、勉誠社、1979を底本とする)。手許にないといふ理由により、土井忠生の翻刻は參照しえてゐない。
今囘は序を翻刻するのであるが、讀み進みていくうちに考へがかはるものであるし、コピーペーストが可能なテキストをつくりたいものであるので、凡例はいま定めないことにする。現行の漢字假名にあらためてゐること、再構造化してゐることくらゐは述べておく。また、“」”はページ終りのしるしで、序を第1丁とする現在地點を()に書く。
†どちりいなの序
御主ぜずきりしと御在世の間御弟子達に教へをき玉ふ事の内にとり別教へ玉ふ事は汝等に教へけるごとく一切人間に後生を扶かる道の眞のおきてをひろめよとの御事也是即がく者達の宣ふごとく三の事にきはまる也一には信じ奉るへき事○二にはたのもしくぞんじ奉るへき事○三には身持を以てつとむへき事是也信じ奉るへき事とは†ひいですの善にあたる事也是人間の分別に及はぬ事也是等の事をわきまへずんば後生の道にまよふ事おほかるへし○たのもしくおもふ事とは†ゑすへらんさの善にあたる事也是即きりしたんにでうすより與へ玉ふへしと」(1オ)の御やくそくの事也是等の儀を知らずんばなんぎにあふへき時頼む所なしとおもひて心をうしなふ事もあるへし是又あにまの大なるさはり也○身持を以てつとむへき事とは†かりたあての善にあたる事也是等の事をこゝろえさればでうすの御おきてをそむく事度度あるへしそれによて此三の善にあたる事きりしたんの爲に專なる事也故にがくしやと名を得られたる善人達は是等の儀につゐてあまたの經をかきをき玉ふ者也其内に肝要なる所をゑらびとつてはんにちりばめまよひをてらすかゝみとなすへし然は後生の爲に專なる事をきりしたんにをしへん爲に†こんばにあのつかさより此のちいさき經にそなへ玉ふ」(1ウ)者也名付て†どちりいなきりしたんといふ是即きりしたんの教へといふ心也上下ばんみんにたやすく此むねを知しめんが爲にことばはぞくのみみにちかく儀は天命のそこをきはむる者也○是によてことはりをすみやかにわきまへんが爲に師弟子のもんだうとなしてつらぬる者也されば此†どちりいなは一切のきりしたんの爲にあんしんけつちやうの一道なれば誰しも是をしりわきまへん事專要也 然にをひてはまよひのやみをのがれ眞のひかりにもとつくへし」(2オ)
23:55
さて、第2囘。ここでは、錯簡たる目録をただしい位置にして、目録から第一までをすすめる。目録は底本では最後に綴ぢられてゐるが、目録末尾に「第一 どちりいな」とあること、どちりいなの章にはこれがないこと、同内容ローマ字本では目録が序の後ろについてゐることが錯簡とされる理由である。しかし、丁數によれば、序から本文へは數字が連續してをり難點である。なほ、目録のところの版心にはただ「目録」とだけある。
〔入力者云、有ヴィニェット。〕
01:09
第3囘。第2を收める。初囘に土井忠生の翻刻があるとしたのはあやまりで、大塚光信・海老澤有道校註本文が『日本思想體系』の「キリシタン書・排耶書」に收められてゐる。むかうのは讀みやすくしてあるので、本翻刻のやうに覺え書きのやうなのではない。よみ・對校・解釋などは同書を據るのがよいであらう。弟を弟と第とに意味で書きわけてゐることについてであるが、うつかりしてしまつたので、草稿のあひだはこれでとほす。第と弟とは通用してゐたとみてゐてよいので、ふつうの校訂であればかき分けられるところであらう。さらにいふ、第2囘において教化としたところは原文教他とあやまるのを見過ごしたものである(山口忠男「初期キリシタン版の國字大字本について 「ばうちずもの授けやう」の印刷面を中心として」『ビブリア』98 (1992)。同論文の漢字假名印字見本にほとんどの難讀部分で頼りにしてゐることをあかしておく)。
22:54
今囘は第三を收める。二の字點を漢字と假名で々とゝと使ひわけてゐるが、原文ではすべて同じ活字である。一部全角スペースを插入してゐる部分があるが、ジャスティフィケーションのために日本イエズス會版ではかやうなスペースがみられる。その特徴をみるためになるたけ入れた。二の字點をまれにつかはずに同字がつづく場合があるが、これは行がかはつたために使はなかつた部分と同種の活字を插入してゐるところとがある。後者はいまのところ一囘しか出てきてをらず、それは「大きにくるすををそれ奉也」(九オ)である。「を」には同形ながら囘轉してゐる活字があるが、それでもなくまつたく同種のものを使用してゐるやうに見うけられる。文節を跨ぐ二の字點は鎌倉以降あまりつかはれなくなるとされるが、ここではふつうに見られる。前囘山口に隨つてゐるとの由書いたが、白井純「キリシタン版前期國字版本の平假名活字について」石塚晴通教授退職記念會編『日本學・敦煌學・漢文訓讀の新展開』汲古書院、2005年5月、836-843を見ると、いくつか誤りがあるやうなので、斗を計に正す(ただし、白井が比を頃とするのはいただけない)。
17:10
今囘は第四を收める。清濁の認定であるが、清濁で字の形が大きく異なるものと濁點つきの字が先にあつてそれから濁點を削つて清音の用に供した活字が知られてゐる。この製法については詳しく知られてゐないが、この場合清音の活字を使つてゐながら、或は濁音の活字を使つてゐながら、本翻刻では逆にしてしまふといふことが考へられる。試みに二十二オ11行目の「か」について述べる。ここで用ゐられてゐる「か」は字母は「加」で、ほとんど同形の「が」がある(同じページの3行目にもある)。また「求めん」に續く以上、「が」が續くのが自然であるのを、なぜ清音と認定したかといへば、寄引き(活字の印字面の枠の中での印字部分のある位置)が「が」とは異なつてゐたからである。この寄引きといふのは微妙で、前々囘に述べた山口論文で指摘されてゐる傾斜活字を生みだす原因となつた嚴密でない母型製造であるが、これは寄引きが母型製造のたびにかはるといふことにも繋がつてゐたやうである。それが證據に、「し」にはいくつか寄引きが異なる同形の活字が存在する。今囘も「が」の寄引きの違ひではないかといふことも十分に考へられるのだが、あまり右に寄つてゐて濁點が入る位置がないやうに判斷されたので、いまのところは、「か」ではないかとしておく。草稿とて再讀・校正を一切してゐないため取り違へは多々あるべしと考へてゐる。
12:53
今囘は第五を收める。
23:02
朝から出かけて神保町の散歩。
水道橋から日本書房のワゴンを見て靖國と白山の交差點にある掘り出し市を見に行き、記憶に據ればまづ新村出『南蠻更紗』(1000圓)と片岡彌吉の新書(300圓)を買ふ。靖國通りの九段下の方角はあらかた見て(といひつつ、まつりの地圖を見るとまだその先にもつづいてゐるのだが)小川町のはうへ歩き、富岡多惠子『湖の南』など買ふ(小宮山書店出店にて、600圓)。このあひだ一誠堂で明月と椿説の活字覆刻本を買つてゐるはず。300圓。ほかにも買つてゐるはずだが記憶にない。川瀬一馬の書誌學系入門書(エディタスクールだつたか)などいろいろあきらめた記憶はあるのだけれどなあ。田村の出店で『日葡辭典』(5500圓)を買つたあとは物欲とほのき、また無料配送券をもらつたので餘裕がでてくる。小宮山を中3階までひととほり見たところで荷物が重いのもあり、ワゴン見物を中斷して東京古書會館の稀書展など見に行く。つまらぬ。吉原細見が5桁なのに感心する。ころあひ13時も半ば、日本書房をゆつくり見なかつた後悔もあつて白山の日本書房手前の居酒屋で定食をとる。
食べ終つて日本書房へ行き、名前しか知らなかつた資料をいろいろと見る。物欲うせぬゆゑ眼福にとどめる。青空に戻り一心堂のあたりから駿河臺に前進す。三省堂の向ひあたりのワゴンで『新村出撰集』1卷を買ふ。物欲少し戻る。そのまま行くと宅急便のサーヴィス地點があつて、頼んでしまふ。これでさらに重いものを買へなくなつたり。さらに見ていくとすずらん通りのブックフェスティバルなんどといふのにひつかかる。各社50%引きなどと甚だ大盤振舞ひに見えて賣物にならぬから安くさるるにて、早川なんど知らぬラノベのサイン本を廉價にしけり。三省堂の廉價品ワゴンはなかなかまともとて『全訳漢辞海』(1400圓)を買ふ。全くの新刊なるが、定價の半値なり。日本エディタスクール、一誠堂のワゴンのまへで嘆息すること限りなし。我が財の乏しきを財をちらすによて却つて痛感するなり。このワゴン群もひととほり見きとて竹橋まで歩いて散歩を終り。書誌のくはしきは後日に委ぬべし。
23:55
帝國の南進政策の
露拂ひと述べる。 戸川吉郎監修、佐藤進・濱口富士雄編﹃漢辞海﹄2版、三省堂、2006.1。 先週の金曜から 滝浦真人﹃日本の敬語論 ポライトネス理論からの再検討﹄大修館書店、2005.6。 を借覽。敬語論の歴史的展開とFTAの復習としてよくまとまつた本であるが、時枝や三上の記述をはじめてまともに讀んだ氣もする。タカマサのきまぐれ時評で山下仁﹁敬語研究におけるイデオロギー批判﹂︵野呂香代子・山下仁編﹃﹁正しさ﹂への問い 批判的社会言語学の試み﹄︵三元社、2001.3︶への言及を缺くのは不當としてある。山下を讀んでゐないのであるが、同氏のウェブサイトを見てゐると、院生にポライトネス理論研究をまとめさせてゐたりするので、本書と強く關係すると考へていいのだらう。菊池康人の言及への批判であるが、結局全否定してゐるわりに美辭が少ないのではないかと思つた。よほど山下で強く批判されてゐたのだらう。いづれにせよ、その人に敬意を示してといふ漠然とした使用基準や人稱のやうな文法的存在ではないことは誰でも學べることであらう。本書の價値はそこではないにしろ︵敬語論史は枕であるわけで、イデオローグ性を攻撃するのでもなければ、III章のほうが重要であらうが、こちらは非常に淡白で、結局、枕のはうが長い︶。 註釋のまねごと。﹁昔の世﹂が前世をいふとあからしむるには? 23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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